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2024年4月12日 (金)

他人の苦痛を、私は知ることはできるのか 中編

前編

中編

後編

2. 緩和ケアを学び、そしてまた限界を知る 2002年から2011年まで

私は内科医としての専門分野を定める頃に、死の臨床研究会(2000年、広島)に参加して自分がさらに深めたい分野を、緩和ケアに決めた。当時手に入る本、テキストブックは限られていたが、貪欲に読んだ。院内の看護師とも自主的な勉強会を始めた。モルヒネを使うことで、きちんと痛みが緩和されることが書かれていた[6]。当時働いていた病院ではモルヒネ末の在庫はあったが、ほとんど使われないままだった。本には使い方が書いてあっても、指導医の誰一人も使ったことがなかった。技術というのは、一人で学べるものではない。当時私は内視鏡の検査、処置がある程度できるようになっていたが、そこに至るまでは指導医が何度も教えてくれて、うまくいかないときには代わってくれて技術を教えてくれることで、やっと習得できたのだ。

本に書いてあるとおりにやれば良いのだが、経験ゼロの自分が患者を実験台にするべきではないと思った。いやモルヒネを使うことがただ怖かった。指導医がいないまま緩和ケアを習得することはできないと考えて、所属していた大学医局を離れて緩和ケア病棟に勤務することを決心した。当時の教授に、緩和ケアの道を進むため、医局を辞めると緊張しながら正直に伝えたところ、不機嫌な表情になり、「どうして敗戦処理をする専門になろうとするのか。患者の病気を治すのが医師の仕事だ」と言われた。自分は反論できないままその言葉を心の隅に留め、ただ頭を下げて大学医局を後にした。まだ緩和ケアは、大学病院でも全く知られていない、死の手伝いをするための特別な場所だけの医療だった。

緩和ケア病棟でみたこと

私は、緩和ケア病棟での勤務を始めた。そこでは日常的に医療用麻薬を使い、モルヒネを使うことにいちいち緊張するような現場ではなかった。最初は指導医に使い方を習いながら、手書きの麻薬伝票を毎日たくさん書き、患者の痛みが驚くほどなくなること、意識が下がるような効き方ではなく、きちんと話ができること、それまでのその人らしさは残ることを知った。それまでにモルヒネを使うことに感じていた躊躇は1週間もしないうちになくなってしまった。またその使い方は、それまでに日夜研鑽した内視鏡処置や、心臓の超音波検査、血管造影の技術に比べれば相当に簡単だった。こんなに簡単に習得できることをどうして自分は前の勤務地で実行できなかったのかと素直に思った。

緩和ケア病棟では、ほとんど人は自分が癌だと知っていた。緩和ケア病棟に来る以前に、癌だと医師から言われているからだ。緩和ケア病棟に来る前の面接でも、「自分が癌だと知らない患者は入院できない」としているから当然だ。自分が、患者や家族と共謀していた頃と違い、何と正々堂々と向き合えるのだろうかと、とても自分の仕事が楽になった。嘘をつく必要がないからだ。あれだけ嘘の打ち合わせをして、患者に病名を秘密にしていたのに、都市部この辺りでは、驚くほどあっさりと癌告知をしていた。自分は誰のために何を守っていたのだろうと愕然とした。

やっと自分が働きたかった場所に来ることができたと最初は喜んでいた。しかしその喜びとは引き換えに自分は相当な「負い目」を感じるようになった。以前の自分の診療していた患者に、もっとできることがあった、もっと救う方法があったと自分の中ではっきりと分かってしまった。目の前の患者と仕事に向き合えば、過去のことは心の中から消すことはできるが、それでも時折以前の病院で診療していた「苦しい、助けて」患者の顔を思い出してしまうのだ。人は「負い目」があることで、本来やるべきことを見出すことができるようにもなる。過去を乗り越えて、自分の技術を磨いても、記憶から過去を追いやることはなかなかできない。過去の返せない借りがずっとある気分になったのは、緩和ケア病棟に来てからだった[7,8]

緩和ケア病棟の限界

その緩和ケア病棟で働いていてしばらくすると、症状緩和の限界を知ることにもなってきた。モルヒネやその他の苦痛を緩和するための薬を駆使すれば、全ての苦痛がなくなると思っていたが、それでは緩和できない苦痛があることにもまた気づき始めていた。一番問題になっている症状が緩和されたと同時に、二番目に問題となっていることが一番になり、二番目の問題の症状が緩和されたと同時に、三番目に問題となっていることが一番になる。そして薬では緩和できない問題が多く現れてくるのだ。

身体の痛みがあるうちは、その苦痛の影に隠れていた心の苦しみが、症状がなくなったことで一気に現実に表出してくる。「なぜこんな病気になったのだろう」、「なぜこの状況でも生きていかなくてはならないのだろう」と、痛みのなくなった患者は苦しみの吐露するようになった。家族内の葛藤や問題も、患者の死が近づくにつれて明らかになる事も多かった。ついに私は、身体の苦痛を緩和する緩和ケアは、人間を本来の苦しみに向き合うための技術なのかと思うようになってきた。そして、一番問題だったのは、いわゆる終末期せん妄だった。

2002年頃は人が終末期になり不安定な意識の状態になるということを、うまく医学の言葉で解釈することができない頃だった。緩和ケアで使うモルヒネや、睡眠薬といった精神の状態に影響を与える薬が、人が亡くなる前のせん妄の原因だと思っていた。以前のような苛烈な身体の苦しみを薬で緩和すると、その薬のために最期はみな意識の状態に変調を来し、時には暴力的に興奮しケアを拒否し、時には無目的な行動を続け、意味の分からない言葉を言い続けると思い込んでいたのだ。

うまく会話ができなくなった患者の家族と向き合うのがつらくなってきた。「昨日はどんな薬を使ったのですか」、「今日は痛み止めが多いから寝ているのですか」と家族に聞かれる度に、釈明のように治療の説明をするのだが、相手は納得しない表情だった。自分の治療のために患者がせん妄になるということを、当時は心のどこかで認めていたからだ。それは相手にも伝わった。「緩和ケア病棟に来て、痛みはなくなったけど、最後はおかしくなってしまった」と言われたこともあり、私も緩和ケア病棟の看護師達も消耗した。

緩和ケア病棟での鎮静

緩和ケア病棟なら、以前の職場と違い、きちんと苦痛が緩和されるので、鎮静をすることはなくなるのだろうと予想していた。しかし、現実は緩和ケア病棟で治療を受けていても、少数ではあったが意識がしっかり保たれたままで、呼吸困難や痛みのためにもうできる治療がなくなる患者はやはりいた。その時の患者は、以前の緩和ケアを知らなかった私が向き合った患者と全く同じだった。「苦しい、助けて」と汗びっしょりになって言いながら、私に助けを求めていた。しかし、以前と違っていたのは、患者は自分が癌であること、間もなく死ぬであろうことを分かっていたということだ。だから、私が「鎮静という治療があり、これ程に苦しい状況が続くなら、鎮静薬で眠り苦しみから助けることができる」と話すと、患者自身が受ける治療を決め、そして時には自ら家族と別れの言葉を交わしていた。

鎮静に至るまでモルヒネを含めていくらか治療ができるようになったので、前よりも少しはましになったかもしれないと思いながらも、以前働いていた病院と同じやり方で鎮静薬の点滴をしていた。ほとんどの患者は鎮静薬を投与すると間もなく眠り、苦しそうには見えなくなった。家族もその様子を見て安堵して最期の時を過ごすことができた。鎮静の現場は以前の病院と同じ景色だった。緩和ケア病棟でも最後の手段は必要だった。

鎮静の現実

現場では、ガイドラインの手順通り、病状の説明、緩和困難な苦痛の確認、医療者のカンファレンス、本人と家族の同意の確認をしてから、鎮静を始めていた。しかし、ガイドラインには書かれていない鎮静の現実にいつも悩んでいた。日常の緩和ケア病棟の現場で困ることは、鎮静薬が段々と効かなくなることだ。鎮静薬、特にミダゾラムは投与する時間により耐性ができることは知られていたし、投与量をだんだんと増やさないと鎮静が維持できないことがほとんどだった。慎重な話し合いの末に鎮静を始めても、一晩くらいで効き目が弱まって患者は目を覚まし、また苦しみだしてしまう。そして鎮静薬を増やすことがほとんどだった。はっきり言って、効果は今ひとつだった。

現場で私が苦労していたのは、鎮静が直接死に関与したと家族に思わせないことだ。鎮静を始めてから少なくとも数時間は生存するように慎重に投与量を調節した。鎮静の直後に患者が亡くなれば、鎮静と死に因果関係がないと医師として主張することはできても、家族や看護師が、「鎮静のために死んだ、死ぬのが早くなった」と確信してしまえば、事後どうすることもできない。一度鎮静を受けた患者の死後、遺族が病棟に挨拶に来てこう言われたことがある。「あれだけ苦しんでいましたが、最期は先生の手でとどめを刺して下さって本当に感謝しています」と。返す言葉がなかった。いくら鎮静が死期を早めるエビデンスはないと言ったところで、実際の家族の遺恨の感情を慰めることはできない。

鎮静の調節と説明は難しい

さらに、現場で苦労していたのは、ミダゾラムは静脈注射をしないと直ぐに効かない人が多いことだった。血管を確保することが難しい終末期の患者には、持続皮下注射で症状緩和の注射薬を投与することがほとんどだ。しかし、ルートの確保ができないことで何度も鎮静を始められない時があった。薬を持続皮下注射してもなかなか効果が現れず、結局不完全な苦痛緩和になったこともあった。たまたまミダゾラムを筋注してみたところとても速く、また呼吸を乱すことなく安全に鎮静できたこともあった。この投与経路による治療効果の違いは今もまだよく分かっていない。

ミダゾラムは、数時間といった短時間に使う鎮静ならとても効果は良かったが、一晩を超えて使用し続けるには、使いにくい薬だと思うようになった。そのため、フルニトラゼパム(サイレース)を使ったり、スコポラミン臭化水素酸(ハイスコ)とミダゾラムを混合して持続皮下注射を併用したりと工夫をしたが、結局、患者それぞれの個体差が大きく、こういう投与の仕方が標準と言えるような実感が得られないままだった。

緩和ケア病棟で働き出した当初は、「ミダゾラムを点滴静注して、眠れるまで滴下する(投与量は明記せず)。眠ったら投与量を減らす(これもまた投与量を明記せず)。呼吸回数が少なくなったら止める(これもまた回数を明記せず)」という指示を手書きのカルテに書いておけば、ベテランの看護師がそれぞれ投与量を何となく調節していた。

しかし、医療安全の意識の高まりと、電子カルテの導入で、薬剤の投与指示にデジタルな正確さを求められるようになった。投与量を明確に指示し、さらに増やし方、減らし方を細かく指示するようになった。その指示は、条件付きの指示が多くなり、結果として間違いの元になった。「眠ったら投与量を5ml/時減らす、投与量が3ml/時以下になったら一旦中止する。苦痛があるなら、その時点での投与量の1時間量を早送りするが、呼吸回数が8回未満なら早送りしない」など指示は複雑を極めた。

職場でも話し合い、もっと単純な指示にすること、また点滴静注ではルートのキープを確保することができない時間帯もあるため持続皮下注射のみで鎮静薬を投与することと投与方法を限定することとなった。結果としては、鎮静が不十分で、浅い鎮静となる患者が増えた。安全ではあるが苦痛の緩和が不十分になることもあり、どうしたら良いのかと頭を抱えていた。浅い鎮静から段々と深くしていく鎮静が現実になり、鎮静は直ぐには効かない安全な治療とはなった。この方法は今のproportional sedation(調節型鎮静)のようなものになり、曖昧な指示をしていた「眠るまでずっと鎮静薬を急速に投与し維持する」方法は、continuous deep sedation(持続的深い鎮静)になった[9]。治療の選択は患者の苦痛の度合いよりも、現場の管理が優先されるようになってしまった。

根本的に、鎮静の調節が難しい一番の理由は、既に患者の全身状態が不安定になっているためだ。健康者を対象とした内視鏡検査の鎮静であれば、その投与方法は毎回同じで、調節の方法も確立している。しかし、緩和困難な苦痛がある患者は、循環動態も脳のレセプターの反応も健康者とは異なるためか、鎮静薬が全く効かなかったり、効きすぎたり、効き目がなかなかでなかったりした。なので、投与量を厳密に計画して指示しても、投与される患者の個体差、全身状態によりその効果は事前には予測できないのだ。

鎮静の説明の仕方

医師として鎮静をどう患者や家族に説明したら良いのか、現場で試行錯誤をしていた。患者の状態が不安定で一番最悪の状況を想定して説明するのが医師の説明の常なので、「一度使えばもう死ぬまで目は覚めないだろう、話すことはできないだろう」と説明し、さらに家族に「苦しむか話せなくなるかどちらか選んで」と決断をさせていた。頻度の低い合併症リスクを全ての人に説明し安全性よりも危険性を強調すれば、家族は患者の死に責任の一端を感じるに決まっているのにだ。ある遺族に「私が鎮静を決めたために、患者を死なせてしまったのではないか」という後悔を聞いたことも何度もあった。

リスクとベネフィットを説明するのは、治療の説明の原則だが、特に鎮静に関しては、相当なコミュニケーションの工夫を必要とする。治療の目的は、「苦しみが限度を超えたので眠らせましょう」、リスクは「時に鎮静の直後に亡くなる人もいます」と話すようになった。さらに「本来、人は苦しむことなく自然に眠っていき亡くなるのです。しかし、どういう訳か、苦しんでしまう方もいます。そういう方を本来の亡くなる自然な過程に戻すのが、鎮静という治療の役割です」と家族の自責感を軽減するための説明を加えるようにした。また「それ程思ったよりも効果がないことが多いので、鎮静薬も万能ではありません」と言うようにもなった。「ここで自分と同僚が手を尽くしても苦痛が緩和できないときは、患者の予後は3日くらい。危篤状態です」と家族に説明するようになった。

鎮静の中止にも、決定的な問題を感じていた。ミダゾラムを使う鎮静は、「やめたい」と家族から言われたら投与をやめることもできるしまた、拮抗薬もある事から、直ぐに覚ますこともできる。しかし、投与の中止を患者から言われた事ないし、眠った患者はそもそも言うことができない。鎮静された患者は意思を伝えられないのだ。家族の中には鎮静をし続けているとこのまま続けて良いのだろうかと迷い、家族から中止を求められることがあった。患者はどう思うのだろうと想像しても分からないまま、度々家族の判断に沿って中止していた。すると、患者はまた苦しみ始めることが度々だった。そうでなければ、薬を止めても目が覚めることなく昏睡になっていることが分かり、どちらにしても家族の苦しみは深まった。なので、いつも中止には消極的で「また覚めたら苦しみの世界に戻ってきます」と話していた。家族の自責感を軽減するために、鎮静を家族の判断だけでコントロールできないように心がけていた。

鎮静は患者から治療効果を確認できない

また、鎮静は本当に患者の苦痛を軽減しているのだろうかと、根本的な疑問が今でもある。鎮静は患者の苦痛を緩和するためのものなのに、患者自身から、苦痛の緩和の程度を教えてもらうことができないのだ。既に眠っているか、もしくはぼんやりとした患者に「今の苦痛はどの程度ですか」と尋ねても、治療の評価として信頼できる返答はほとんど得られない。結局苦痛の緩和の程度は、鎮静の深度という二次的な効果でしか評価できない。家族も医療者も眠っていると安心するようになるので、苦痛の程度を確かめることも忘れてしまう。鎮静は苦痛の緩和から、眠らせることが主目的になってしまい、いつしか家族も医療者もどのくらい眠れているかばかり気にするようになる。

また患者が評価できないなら、主介護者である家族が患者の苦しみを代理する方法を、普段の現場では確認しているだろう。難しい評価方法を知らなかったとしても家族が「苦しくなさそうに見える」なら、鎮静は十分と考えていることだろう。しかし、「患者は苦しくなさそうに見えているだけで、本当に患者は苦痛を体験していないのだろうか」という疑念がつきまとう。治療の主体である患者がどのように感じているかは、客体である家族や医療者には分からない。「苦しくなさそうに見える」患者が苦しんでいたり、「苦しそうにみえる」患者が苦しんでいなかったりする。

主観と客観が一致することも、本当の客観の把握というものも、絶対的な価値基準というものも、存在しないことは随分前から分かっている[10]。なので、患者の主観を他人は、どのようにしても分かることも測ることもできない。しかし、私たちは「どういう状態なら患者や家族が苦しんでないと言えるか」という確信する条件を詳細にすることはできる[1,10]。患者がどういう状況だったら、家族がどういう心持ちだったら、医療者がどういう判断をするかという条件を詳細にすることで、「患者が苦しんでいない」という確信できる条件を明らかにすることはできる(表1)。この確信できる条件、すなわち共通了解を探れば、人間の知性と理解の限界を超えられるだろう。

1「患者が苦しんでいない」という確信する条件

尋ねても患者が「苦しい」と言わない

患者から「助けてくれ」と言われない

  • 患者から真剣に繰り返し「死なせて欲しい」と言われない

患者は苦しんでいるときがあったとしても、時に穏やかに微笑んでいる

患者が「苦しい」と言っていても、話す相手によって言うときと言わないときがある

側に付き添う家族が繰り返し「苦しそうだ」と言わない

病室に入ったとき、患者と家族の表情と口調が穏やかだ

関わる医療者が、カンファレンスをしたときに、何かできることが他にもあるはずと納得できない表情をしない

診察やケアをしたときに、自分の心も穏やかになれる

患者を頻回に観察や、見張る必要を感じない

緩和ケア病棟の10年間

鎮静は、私が働いている間に緩和ケア病棟では標準的な治療となってきた。患者の10-20%くらい、亡くなる3-4日前に必要となることが経験として分かってきた[11]。しかし相変わらず現場での鎮静の開始に関しては、いつも医療者優位でカンファレンスで「鎮静をするほかない」と決まってから、患者や家族に説明されることが常だった。鎮静に関しては受ける治療を患者や家族は事前には知らない。苦しく追い詰められた局面で初めて治療を聞かされたとき、きちんと判断できるのだろうかと思うようになってきた[12]。痛みや呼吸困難で苦しい最中に、「鎮静しますかどうしますか」と患者に尋ねるのはフェアじゃないと思った。苦痛に追い込まれていれば、「直ぐに鎮静してくれ、助けてくれ」と返答するのは分かっていたし、せん妄のように意識障害があり言葉のやり取りができない状態で、仕方なく家族と鎮静を決めるといった、以前のような本人不在の形だけのインフォームドコンセントに疑問を感じていた。

その疑問の答えを追求しつつ、私は職場を変えてさらに研究を続けた。

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