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2024年4月12日 (金)

他人の苦痛を、私は知ることはできるのか 前編

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人間は一人では生きていけない。だけど、死は、自分一人で引き受けるしかないと思われている。僕は違うと思います。死こそ、他者と共有されるべきじゃないか。生きている人は、死にゆく人を一人で死なせてはいけない。一緒に死を分かち合うべきです。(平野啓一郎 本心)

私たち人間は、だれも個人としての個人生活をいとなむだけでなく、意識するとしないとにかかわらず、その時代とその時代に生きる人々の生活をも生きるのである。(トーマス・マン 「魔の山」

1. 一人の医師が緩和ケアと鎮静を知るまで 1996年から2001年まで

真実を明らかにしない医師

人は自分の経験を通じて信念を固めていく。どんなに幼い子供であってもわずかな経験から、自分がどう振る舞うかを学習するし、医師も患者の診療の経験を通じて、治療への信念を構築していく。うまくいった感触を得た経験は、信念をより補強していくし、うまくいかなかった苦い経験もまた、信念を修復するなく、さらに補強して強固にしまう [1,2]。凝り固まった信念を変えていくには、本当にそうなのかと検証する機会がの到来が必要だ。例えば私の場合こういうことだ。

私は医師になってから5年、内科医として病院で働いていた。時は2000年を迎える頃だった。その病院では専門分野を定めて仕事ができるほど、医師は多くなかった。内科の疾患ならほとんど全ての患者を診療する必要があった。あらゆる癌患者も当然自分で診療した。まだ当時では癌という病名を本人に伝える前に、家族と相談してから、どう本人に伝えるか打合せをしていた。ほとんどの場合は、嘘の病名を伝えて、医師と看護師と家族は共謀して平静を装い患者に接していた。

ある時自分が診察している肺癌の患者が、呼吸困難のために入院した。私にできたことは、レントゲン写真を繰り返し撮影して、血液検査を繰り返し、そして結果を見てからできそうなことを探すだけだった。

肺の陰影は本人の呼吸困難の原因が胸水であることを教えてくれた。指導医に相談し、直ぐに胸水を抜いた。患者はいくらか楽にはなったが、肺はそれ程膨らまなかった。次に炎症反応を見ると高くなっていた。痰も出ていたので、肺炎もあるのかと抗生物質を注射し始めた。血液検査では数値は良くなっているのに、本人の呼吸困難は変わらなかった。次に酸素の投与もした。つけられた酸素マスクが邪魔で、呼吸困難は楽になるどころか、拘束感でかえって苦しくなるくらいだった。

ここで万策尽きた。本人は肺癌だと知らないまま、「水があるから抜く」「炎症があるから抗生物質を使う」と本当は何がこれ程自分を苦しめているのか全く知らされないままだった。私は苦痛を緩和するという言葉すら知らないまま、家族にも検査の結果と治療の内容だけをただただ報告していた。それで自分の仕事は全てやっていると思っていた。何度も何度もこんな繰り返しを、その時のベストな治療だと思っていた。

内科の治療としてできる治療を全てやって、そこから先は「仕方ない」。病気は苦しいもので、苦しさというのは、原因が治療されない限りは当たり前の事という信念を経験から補強していた。自分が病室を出てしまえば、患者の苦痛や、それを見守る家族の苦痛はないものと同じになった。例えそこに患者の苦痛が存在しても、医師としての自分が関心をもたなければ、苦痛は存在しなくなる。私はそうやって、苦しむ患者に関心をもたないまま、自分の信念をさらに補強していった。その時点での本質は、治療できない病気は「仕方ない」だ。私は苦痛の緩和は自分の仕事だとは思えなかった。

患者はさらに苦しくなりベッドで半身を起こし、昼も夜も大きな息をしてほとんどしゃべれなくなった。私は家族に、「いよいよの時が近づいています。これだけ苦しい状態なので、最期は人工呼吸器をつけず、心臓マッサージもしません」と、本人や家族の意向を聞かないまま、「これ以上苦しむのは可哀想だから何もしないでおこう」と自分なりの患者にできる最後の治療として、「何もしないで命をそして苦しみを長引かせない」ことを提案した。この状況になっても、肺癌である事を知らない患者にはこの事を知らせないまま、看護師と家族とまた共謀して最後の方針を決めた。

苦しむ癌末期患者の最期、鎮静の始まり

患者と私は、人間的な関係ではなく治療上の関係だけ、患者が作った病気は患者のもの、最期の苦しみも自分の責任だしできる事は全てやったと当時の私は全く、自分の処置に疑問を感じていなかった。その時の自分にできる患者を苦しみから救うには、延命処置をしないことを家族とだけ決めてしまうことだけだった。

ある休日の午前に病院の看護師から呼び出された。患者の息が弱くなり始めている、一度診察した方がよいと。病室に行くと汗びっしょりで、わずかな声しか出ない、視線は合わないままそれでも確かに「苦しい助けてくれ」と言っているのが分かった。当時の私にできることは酸素の量をもうこれ以上できないくらいに増やすことと、ペンタゾシン(ソセゴン)の注射をすることくらいしか教わっていなかった。看護師も若い私に、「こう言うときはこうしたらよい」と助言はしなかった。そこにいた医療者の全員が「癌の最期はこうして苦しむ。でもわずかな時間耐えたら終わること」と思っていたのだ。

苦しむ患者を見て、家族も穏やかになれるわけがなく、患者の苦痛が伝播して同じくらい苦しそうな顔をしていた。またいつもの声が心の中で聞こえた。「仕方ない」と。この「仕方ない」は信念を検証するチャンスを奪ってしまう。私は緩和ケアのことを学生の頃から本で読んで知ってはいても、その内容はホスピスでの穏やかな時間や、理想的な状況が書かれたものばかりで[3]、自分の目の前の現場とは全く関係のないことなんだと思っていた。

やがて、患者は半身を起こしたまま力尽きた。看護師の詰め所(ナースステーション)で心電図の波が平坦になった頃を見計らって、私は病室に入った。苦痛のための冷や汗が残った顔を見て、表情も変えないまま、死亡確認の診察をして、「ご臨終です」と家族と本人に頭を下げた。数時間後看護師が死後の遺体のケアをして、本人から苦痛の表情がなくなってから、やっと、私は患者の顔を真っ直ぐ見ることができた。

当時の私は、これが癌患者の普通の最期だと思っていた。本人は正確な病名を知らず、そして死に逝くことも知らされていない。いや、恐らく患者達は知っていたと思う。患者と医師との間で確認されていないだけで、患者本人達は「自分はこの治らない病気で死ぬだろう。医師は本当の事を言えないんだ。何故なら治す方法がないからだ」と知っていたに違いない。お互い嘘を付き合っていることを、患者達は情を持って許し合っていたと分かるときがあった。その頃は「自分の診断した患者は最期まで自分が責任を持って診る」と教えられた。休みの日でも夜中でも、自分の診療している患者の状態が悪くなれば、直ぐに駆けつけるのが若い医者の務めだった。それが常識だった良い時代の医師・患者関係があったからこその共謀関係だった[4]。患者は苦痛に耐えさらに、無力な私を許してくれていたのだ。

しかし、そのような真実を明らかにしないまま、この最期の苦痛が限度を超えた局面になると、医師は口をつくんだまま、患者の悲痛な叫びにも向き合えなくなり、病室を出てしまっていた。最後の最後に患者を裏切っていたのだ。死の間際になって、今更病名も状態も正直に話せるはずもなく、この苦痛が生の出口であり、死の入り口である事を口にすることは、この期に及んではできなかった。不自然な平静を保ったまま、患者と目を合わせることもできないままで、家族の前では全てのことは自分の想定の範囲内と余裕のある医師らしく振る舞っていたのだ。

鎮静を知った時

私は、このような患者の看取りを続けていた。そんなある時、自分の知識が不足していたことを痛感する出来事があった。当時「ターミナル・ケア」という誌名だった医学雑誌をたまたま手に取った[5]。そこには「鎮静薬を使い、最期の苦しみを処置する方法」について書かれていた。自分も内科医として、内視鏡検査や血液造影検査をしていた。時に相当な苦痛が伴う処置が必要な患者には、鎮静薬を使い始めた頃だった。

その鎮静薬が、最期の苦痛に使われている論文を読み、自分の顔が真っ赤に上気していたのが分かった。自分にとっては全く関係のないと思っていた二つの場面、検査の処置室と、癌の終末期の病室がつながり、どちらの苦痛も同じやり方で取れるのかもしれないと、医師としての知的好奇心が満たされていくのを知った。「ヘウレーカ」そうか、この手があったかと。凝り固まった信念は、偶然書店で検証され、更新され始めた。

早速職場に戻り、以降は「先生助けて欲しい」と最期に言われるほどの苦痛に対しては、それまで意味のない鎮痛薬の処方をするだけではなく、鎮静薬をいつもの検査の時のように少しずつ、いつも使う量よりもずっと少なく使ってみた。うまくいった。「助けて」と言っていた患者が、鎮静薬を使ってから数分もしないうちに、眠ってしまい、苦痛がなさそうに見えた。これで自分も患者の最期まで家族と目を合わせて病室にいることができる。救われた気持ちになったのは、患者だけではなく、医師としての自分もそうだった。

気がついた鎮静の問題点

鎮静後に患者の苦痛がないと分かると、見守る家族も安堵した表情になるので、この病室の中では、患者と家族、そして自分を含む医療者の苦痛は関わり合っていて、誰かの苦痛を軽減するのは残りの全ての苦痛を軽減することなのだと悟った。しかし、病名も死に逝くことも伝えていない患者には「苦しい、助けて」と言われても、鎮静という治療については説明できなかった。死の直前になってから、「あなたは死ぬ」という話しはとてもできなかった。だから、家族だけに本当に苦しい局面になってから、鎮静という治療があると説明をしていた。時には患者自身が「苦しい、助けて」というのではなく、家族が「もう楽にしてやって下さい」とか、看護師の「もうこれ以上は看ていられません」と周りが患者の苦痛に耐えられなくなった言葉が、鎮静の始まりとなった。

患者が苦しんでいれば、そばに居る家族もその様子を長時間見ていれば、だんだん苦しくなる。だから患者の苦しみと家族の苦しみは、合わさり二倍になる。やがて、鎮静は患者を苦痛から救い出すと同時に、家族を苦痛の場面から救い出すのが鎮静なのだと思うようになった。また情をもって患者、家族にある程度長い時間接していた看護師にとって、患者の死というケアの到達点が、混乱した意識で患者がベッドから落ち、何度もトイレに行きはベッドに戻る、意味のない言葉を発する、眠れない夜を過ごし付き添う家族が疲労する姿を見続けるのでは、余りにも残酷だと思った。自分は、鎮静という治療で、全ての人を苦痛から救っていると思うと同時に、死の場面をきれいにしている、浄化しているとも思うようになった。

周囲の同僚や指導医であっても、癌患者の診療を避けているところがあった。患者、家族、そして看護師の苦痛の連関と無力感に向き合えなくなるからだ。私もそうだった。入院中の患者の回診の順番が後回しになったり、癌患者と目を合わせて話せなかったり、相手から質問されると憂鬱な気分になった。癌患者に冷たくなっている自分に気がついた。同僚や指導医が癌患者の診療を避ける気持ちが良く分かった。

一番自分にとってつらかったのは、診療を続けてきて信頼関係のできた患者との別れが普通の会話ではなく、悲痛な声になることだった。もっと穏やかに普通にはなしをしながら最期が迎えられないのだろうか。もっと患者と話したいこともある、家族とも何気ない話をする時間も与えてあげたい。患者を苦痛から救う最後の手段は手に入れた。しかし、手を尽くしてからの最後の手段ではないことも気づいていた。治せない病気のほとんどは、治療ができなくなると、もう最後の手段しか知らなかった。

鎮静の前にできる治療は何だろうと改めて思うようになった。

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