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2024年4月

2024年4月12日 (金)

「他人の苦痛を、私は知ることはできるのか 後編」

前編

中編

後編

3. 鎮静の新たな解釈 2012年から現在まで

在宅療養中の患者に対する鎮静

10年の緩和ケア病棟での勤務を終えて、自分のプライベートなクリニックで、主に在宅療養をする患者の緩和ケアを続けた。当初は、緩和ケア病棟と違う自宅では、患者や家族はよりよい状態になっていると思っていた。自分の生活していた場に患者がいれば、奇跡的に症状は軽減し特にせん妄はかなり減り、それにつれて鎮静する必要もほとんどなくなるだろうと予想していた。しかし、その予想はまたもや覆され、ほぼせん妄も鎮静も緩和ケア病棟と体感的に同じくらいの頻度だった。鎮静の手順は病棟とは違う相当な困難があった。

まず、医師、看護師の訪問が11-2回程度では、鎮静の深度を調節することは相当困難だった。病棟に鎮静をしていたときよりも尚一層慎重に、特に効きすぎないように投与量は少なめになった。さらに難しいのは増量だった。投与量が調整できるシリンジポンプでは、最大でも10ml、ミダゾラム 50mgまでしか充填できないため、鎮静を維持するには、12回以上の訪問が必要になった。また静脈注射で短時間の間に鎮静するdeep sedationを行うときには、深く眠るまではよいが、1時間足らずの訪問診療の時間では、その後維持するにはどのように鎮静薬を投与したら良いのか、予測するのが相当難しかった。初回投与は自分一人で行っていたが、注射薬の維持投与を行うときには、家族の力は全く借りられず、また看護師と共働しながら薬がなくならないように調節するのは、はっきり言って相当面倒だった。真夜中や日曜日に薬がなくならないように、先を予測して行動するのが大変なのだ。鎮静薬の投与を維持するのがやっとで、投与量を細かく調整することはできそうになかった。

在宅療養では鎮静薬や抗痙攣薬の坐薬を用いて鎮静する理由もよく分かった。医師や看護師だけではなく、家族も坐薬なら直接患者に投与できるため、鎮静の維持に協力を得られるからだ。また注射薬の準備をするために訪問診療の後に一度クリニックに戻りまたその家に行くという時間の手間がかからないのも坐薬の利点だということも、身に染みてよく分かった。苦痛の緩和をするために鎮静薬を投与することが、これほど自宅療養中の患者には手間のかかることだということは想像していなかった。

しかし、私は坐薬を使った鎮静を何度かやってみて、できるだけこの方法は避けた方が良いと思うようになった。その理由は、家族が坐薬を患者に入れると、家族自身が患者の死により加担していると思うようになると気がついたからだ[13]1個坐薬を入れる度に、家族の中には、患者の背中を押して死に向かわせていると感じる人もいた。また経験の浅い看護師も、時に坐薬を入れてから数時間以内に患者が亡くなると、どれだけ関係ないことで、鎮静薬のあるなしに関わらず患者は死んだだろうと慰めても、心に残った傷がその後の遺族の悲嘆に影響することも分かった。

緩和ケアに明るくない医師達の躊躇

クリニックで働くようになってから、地域の大規模病院や、近隣のクリニックの手伝いを複数するようになった。2012年以降は、使用できる医療用麻薬の種類も増え、緩和ケアに関心がある医師は、病院の勤務医であっても、開業医であっても癌の痛みに麻薬を使うのは普通の診療になっていた。色んな医師の診療を観察して一つ分かったことがあった。癌の痛みに医療用麻薬を使い始める、増量する、時には減量し、他の薬に変更する、副作用の対策をするということに関しては、どの医師も同じレベルになってきていたが、苦痛緩和の限界をきちんと判断できる医師はほとんどいなかった。相当に患者が苦しんでいても、医療用麻薬を増量するか、レスキュードーズを頻回に使い対処することがほとんどだった。

また鎮静という治療を知っていても、2000年以前に医療用麻薬を使うことに躊躇していた私と同じように、「使ったことがない薬をうまく使うことができない」という理由で、鎮静を避けていることが分かってきた。また基幹病院の緩和ケアチームの回診を手伝うように分かったのは、医師と患者と家族の信頼関係が構築されていないと、鎮静のような重大な決断を必要とする治療は始められないと言うことだ。私が、これ以上の苦痛は緩和できない、鎮静が必要と判断しても、私の判断で鎮静を始めることはできなかった。私と患者と家族との治療関係が不完全だからだ。

主治医や関わる看護師は鎮静を躊躇していることがほとんどだった。医療用麻薬の使い方を自分が教えてもらったときのように、その主治医と一緒に鎮静の手順を教え、病棟の看護師もその過程を体験しないと、患者や家族が苦痛から救えなかった。ほとんどの医師は、数回一緒に鎮静の場面を共有し、薬の使い方、患者と家族への説明の仕方、さらに周囲の医療者との討論の仕方を教えれば、一度でも一緒に体験すれば、次は一人できるようになっていた。

患者の鎮静に対する意識の変化

鎮静についてのガイドラインが緩和医療学会から発表されたのが、2004年それから相当な時間が経過しているにも関わらず、実際に治療を受ける患者は鎮静という治療を知らないことも気がついていた。患者や家族から「鎮静をして欲しい」と要望されることが一度もなかったからだ。まだ普通の人達に情報が届いていなかった。そんな時、2015年からNHKの密着取材を受けて、自宅療養中の患者に対する鎮静を記録した。当時多くの緩和ケア病棟は取材を拒否して、私の所に来たことを知った。患者のプライバシー保護を主な理由として取材を拒否していたようだが、どこの緩和ケア病棟も懸命に生きる患者の姿や、ボランティアの関わる平穏な活動は取材を受けるのに、何故実際の苦痛緩和の治療の場面や、日常行っている鎮静を隠そうとするのかは、何となく察しが付いた。

「市民は鎮静の治療をテレビで見たら、安楽死と誤解する」複数の医師から苦言を言われた。私はこういう医師の考えこそが、鎮静と安楽死の境界が曖昧である事の証拠であると感じていた。取材に応じ、その様子は放映され[14]、以降も私は積極的にSNSや自分のブログ、複数のメディア(新聞、ネットメディア)に書いた[15]。自分が受ける治療は予め知っておいた方が良いという思いだった。「医療用麻薬できちんと癌の痛みは緩和できる」という内容では繰り返し、市民に啓蒙するのに、「緩和できない苦痛に鎮静を日常的にしている」ことを伝えないのは不誠実だと思った。

社会には色んな問題があり、医療の中にも問題がある。一つ良くなってもさらに次の問題に直面しまたそれを乗り越える、それが世の中のあらゆる事象に対しての人間の向き合い方だ。鎮静に関しては、特別な誰かしか受けられない治療ではなく、誰でも受けられるかもしれないと知らせたかった。いつでも市民の願いは、「死ぬ前に苦しみたくない」ただその一心で、医療がその願いにどう応えているのかをマスコミも私も伝えようとしていた。安楽死の代替の方法として鎮静が受け止められることのないよう、私はしつこく説明を尽くしたし、相手が喋って欲しそうな単語は使わないようにした。短い言葉で本質を伝えるために言葉を練った。時間と予算とそして社内で力のある誠実な取材者だけを受け容れるようにした。

患者の意識が変わってきたなと現場で感じるのには数年かかった。やがて鎮静は新たな局面を迎えたのだとはっきりと実感することとなった。

患者から鎮静を提案された

自宅療養中でほぼ寝たきりのある患者から、私が以前に書いた鎮静に関するネット記事をスマートフォンで見せられたのだ。そして、自分も恐らく近い将来この治療が必要になると思うので、その時はよろしく頼むと言われたのだ。患者の側から鎮静の話が出てきたのはこの時が初めてだった。さらに時々自分から鎮静を話す患者は現れた。そして、今まで聞いたことのない話をされるようになった。

「自分が望むときから、鎮静を初めて欲しい。本当に苦しむ前に」と。同時期に複数の患者からこういう話をされるようになった頃、NHK2回目の密着取材が始まっていた。取材を同意した患者と家族が、鎮静を将来受けるかどうかは分からないまま、取材者一人でかなり長い時間私の診療を通じて患者や家族に接していた。やがて私も彼らもそのうちカメラを意識することなく、率直なやり取りをするようになった。取材者は空気のような存在だった。優れたジャーナリストは、自分の気配も思想も消して、現場に受け入れられるのを待つ。決して自分から世界に影響を与えないように、ひっそりとそれでも親密に現場にいたのだ。

やがて、「明日の昼から鎮静をして欲しい、家族には自分の苦しむ姿を見せたくない」という患者や、「お正月が過ぎて家族みんなと過ごしたら、もう眠って最期の時を過ごそうと思う」という患者が次々現れた。私が鎮静の話しをしていないのに、患者は鎮静を治療の一つとして先に知っていたし、具体的に考えていた。二人の患者はそれぞれ同時期に予防的な鎮静を思いつき、そして私に求めてきた。鎮静を患者が知れば、当然始めるタイミングも自分で決めるのだと初めて気がついた。今までのように先に医療者がカンファレンスで決めてから、鎮静の説明をするではなく、患者や家族も鎮静を予め知り、鎮静の適否の話し合いに参加すれば、自分から鎮静を求める機会を得ることは、よく考えれば当たり前の事なのだ[16]

医療者は、鎮静の対象となる苦しみが、身体の苦痛なのか精神の苦痛なのか、実存的な苦痛なのかと分類を求める。身体の苦痛であれば鎮静を認め、それ以外では認めない傾向がある。しかし、鎮静が必要な直前の患者は、本人にとっては苦しみの分類は意味がないし、患者自身が耐え難い苦痛を訴えているのに、その耐え難さを医療者が審査することにも意味はない。身体は痛く、夜は眠れず、そして死は怖いし、死ぬまでに苦しむのはもっと怖い。全人的苦痛を強調する緩和ケアの専門家が、鎮静に関してはやけに苦痛の分類にこだわる。予測される苦痛を回避するのも緩和ケアの一つだと思うが、予防的な鎮静に、医療者が忌避感を感じるのは何故だろうか。

鎮静と安楽死の違いはあるのか

誰でも自分が死ぬ前には、苦しみたくないと思っている。まさに安楽な死を迎えたいと思っている。そしてこの数年、様々な国や地域で積極的安楽死が相当な勢いで認められるようになっている。日本国内では、安楽死に賛成する市民は多いが、その心は、海外のような死の権利を認められるべきだと考えているよりも、ただ苦しみたくないという人として当たり前の感覚だ。緩和ケアの中に安楽死は含まないと専門家が表明していても、患者の権利を重視する司法判断や、立法が積極的安楽死や医師による自殺幇助を認めてしまう潮流は止められそうにない。ひとたび安楽死が認められると、患者は安楽死の権利を得て、そして医師は実行する義務を課せられる[17]。そして一人の医師が安楽死には加担しないと自分の信念で患者を退けても、自分の代わりに別の医師が結局安楽死を実行し患者の権利は守られる社会になっていくのだ。

安楽死ができる社会を望むある方から、鎮静と安楽死に関するインタビューを長時間受けたときに、こう言ったことがある。「もしも鎮静を含む緩和ケアを受けてもなお苦しいのであれば、その時に安楽死を受けたらどうだろうか」と。鎮静は患者の苦痛を緩和する最後の手段になるのか、安楽死は治療方法といえるのか、まだ議論の論点を定められないとしても、緩和ケアが失敗したときに安楽死を位置づけておかないと、患者の自殺に医師が加担するような現場には私はいられないと思った。恐らく、国内で積極的安楽死ができるようになると、緩和ケアの素養をもち、患者の苦痛を扱い、倫理的な論点で仕事ができる医療者ほど、「いい加減な安楽死をされるくらいなら、自分がきちんとやりたい」と思うかもしれない。責任感の強い医師が、十分な心理的な支援を受けられないまま、信念を曲げて心を痛めながら、安楽死にあたるようになるのだ[18]。まだ国内でも緩和ケアが十分に受けられない現状では、安楽死と鎮静の境界を、緩和ケアという言葉で明確に区別しておいた方が良いと思っている。

患者は生物としては死を迎えていないが、持続的に深い鎮静を受けることで、社会的には死を迎えているという指摘通り[12]、鎮静が単なる苦痛の緩和だけではなく、死を先んじるという意味も含蓄してしまうことを普通の人達も医療者も直感している[19]。だから、本当は安楽死と鎮静の境界は曖昧なのだ。鎮静の深さや方法で、安楽死と区別できるかもしれないが、普通の人達は同じようなものと考えていると医療者は思っていた方が良い。

鎮静は患者の全てには必要はないが、必要な患者には確実に実行されなくてはならない。その一番の理由は、残された家族や医療者には、患者の残した苦しみの記憶が、いつまでも心の傷として残ってしまうからだ。最期の場面が、その後を生きる人達に及ぼす影響は大きい[20]。鎮静は患者のためなのか、家族のためなのかという問いを見たことがあるが、当然その両方だと私は答えたい。さらには、そこに立ち会う医療者のためでもあるのだ。患者、家族、医療者全ての苦しみの総和を小さくするのが、緩和ケアの本質なのだから。

4. コロナ禍の壊れた緩和ケアと感傷的なエピローグ

様々葛藤を生じながらも、順調に発展してきた全ての医療、また世界が2020年以降停止し変わってしまった。今、コロナ禍と呼ばれる、新型コロナウイルス感染症に翻弄される世界に私たちはいる。いくつもの緩和ケア病棟は閉鎖され、非流行期にも続く面会制限は、確実に緩和ケアの本質を壊してきた。病院の病室では、患者と家族は最期の時を十分に過ごすことができないまま、死別を迎えている。入院する事がすなわち、先んじた死別になっているのだ。

タブレット端末の面会は、操作と会話が十分できる患者には有益かもしれないが、ないよりましといった程度で、衰弱した患者にはそれ程役に立つものではない[21]。終末期の患者とのやり取りに必要なのは、言葉で情報を交わし合う言語コミュニケーションだけではなく、その身体や手に触れることで、多くの情を伝え合い、そして自然としての体の摂理が迎える終わりを周囲の人達は知るのだ[22]。患者の死を家族は、医療者から与えられる知識だけではなく、自らの体で死に逝くことを感じ取る大切な瞬間を奪われているのだ。

一方、自宅療養は宿命的に、患者の死の過程と苦痛の全てを家族は目撃しなくてはならない。緩和ケアを適切に行っていても、苦痛を全て避けることはできない。自宅療養中の患者を入院させるとき、いつも私が考えているのは、後どれくらい家族は患者の苦痛を見つめ続けることができるだろうかということである。しかし、面会制限のある病院に入院することを決断できなければ、時にいつもより早いタイミングで鎮静を始めるほかない。時期が早めの鎮静で、入院が回避できるならそれも良い方法かと考えてしまっている。

面会制限を続けながらもケアをより良くしていこうと、家族の写真や手紙を病室に置いて、それについて医療者が患者に話しかけるということは相当酷なことと気がついているだろうか。「この写真は息子さんかな、お孫さん可愛いね」などと以前のように話しかける医療者が、その患者がもう子や孫と生涯会えないのかも知れないと想像できているだろうか。会えない家族の話を医療者が患者と交わすのは、時に患者の淋しさ、つらさを深めていくことだってある。

患者に限らず、人間は死を意識することで不安を感じる。そして、何気ない日常的な近親者とのお喋りや、何か別のことに好奇心をもつ、例えば子や孫の様子を話すことで、不安を軽減している。さらには、本当に今現実に起こっていること、不治の病を抱えていることや、死を間近に迎えていることを曖昧にしておくことで安らぎを得ている。死を見つめて最期の日々を過ごすよりも、死を意識しないで過ごすことを大切にしている患者は多い。お喋りや世間話で家族や見舞いの客と臨終の人それぞれが、一時死を忘れることで、不安を鎮静しているのである[7]。病院の面会制限は、こういった薬を使わない心の鎮静の機会を失っている。

また面会制限が行われている病室では、患者の苦痛を家族は代理評価できず、また家族のいない病室では、患者の苦痛はよほど大きいものでなければ、勤務交代が常の医療者に静観されることもあるだろう。また反対に、特にせん妄で興奮のある患者に対しては、鎮静が行われやすい状況にあるかもしれない。そのような鎮静は、身体拘束の一つである薬物拘束(ドラッグロック)だ[23]。患者の苦痛を、医療者が推測し、適切な手順をおって鎮静の適応を判断されても、家族という監視者が不在であれば、物理的な身体拘束(フィジカルロック)ではない、罪悪感の少ない身体拘束として鎮静が始まってしまうかもしれない。

私が医療の現場で患者や家族、そして医療者といつも考えてきた鎮静の現実とその変化について論じてきた。鎮静の薬や使い方は、この25年間ちっとも変わっていない。しかし、人が鎮静の考え方を進歩させてきたことは確かだ。終末期の苦痛緩和を目的としてた鎮静は、まだ不完全な技術で、実行する上で考えるべき様々な知識が医療者には不足している。人が最後まで生き抜き成長するためには、苦しみが耐え難いものにならないように、医師をはじめとするあらゆる医療者は、確実な治療技術の習得と思想の研鑽を続けなくてはならない。苦痛に絶望する患者を救うのは可能性だ[24]。その可能性とはあなた自身のプロフェッショナルな能力に他ならない。常に備えよ[25]、皆さんの前にはまた苦しむ患者が来る。

 

引用文献

  1. 竹田青嗣、自分を知るための哲学入門、東京、ちくま学芸文庫、1993
  2. 苫野一徳、未来のきみを変える読書術、東京、筑摩書房、2021
  3. 山崎章郎、続 病院で死ぬということーそして今、僕はホスピスに、東京、主婦の友社、1993
  4. The AM, Hak T, Koëter G, et al. Collusion in doctor-patient communication about imminent death: an ethnographic study. BMJ. 2000 Dec 2;321(7273):1376-81.
  5. 森田達也, 角田純一, 井上聡, 他:症状緩和のための鎮静における意思決定過程. ターミナルケア 1999;9:65-72
  6. 林章敏、誰でもできる緩和医療(総合診療ブックス)、東京、医学書院、1999
  7. マルティン・ハイデッガー、存在と時間 、東京、筑摩書房、1994
  8. フリードリヒ・ニーチェ、道徳の系譜、東京、岩波書店、1964
  9. 日本緩和医療学会 ガイドライン統括委員会、がん患者の治療抵抗性の苦痛と鎮静に関する基本的な考え方の手引き 2018年版、東京、金原出版、2018
  10. 西研、哲学は対話する プラトン、フッサールの<共通了解をつくる方法>、東京、筑摩書房、2019
  11. Arantzamendi M, Belar A, Payne S, et al. Clinical Aspects of Palliative Sedation in Prospective Studies. A Systematic Review. J Pain Symptom Manage. 2021 Apr;61(4):831-844.
  12. Materstvedt LJ, Bosshard G. Deep and continuous palliative sedation (terminal sedation): clinical-ethical and philosophical aspects. Lancet Oncol. 2009 Jun;10(6):622-7.
  13. 新城 拓也, 石川 朗宏, 五島 正裕, 在宅療養中の終末期がん患者に対する鎮静についての後方視的カルテ調査, Palliative Care Research, 2015, 10 巻, 1 号, p. 141-146
  14. NHKクローズアップ現代、在宅で迎える”最期のとき”終末期鎮静をめぐる葛藤、2016年1月19日放映
  15. 新城拓也、「最期は苦しみますか?」全ての苦痛は緩和できるか、ヨミドクター、読売新聞、2017
  16. NHKスペシャル、患者が”命を終えたい”と言ったとき、2020年12月26日放映
  17. 児玉真美、家族に「殺させる」社会を生きる ― 「大きな絵」の中で「小さな物語」に耳を澄ます In 安藤泰至、島薗進 編 見捨てられる<いのち>を考える、東京、晶文社、2021
  18. Antonacci R, Baxter S, Henderson JD, et al. Hospice Palliative Care (HPC) and Medical Assistance in Dying (MAiD): Results From a Canada-Wide Survey. J Palliat Care. 2021 Jul;36(3):151-156.
  19. Takla A, Savulescu J, Kappes A, Wilkinson DJC. British laypeople's attitudes towards gradual sedation, sedation to unconsciousness and euthanasia at the end of life. PLoS One. 2021 Mar 26;16(3):e0247193.
  20. Bruinsma SM, Brown J, van der Heide A, et al. Making sense of continuous sedation in end-of-life care for cancer patients: an interview study with bereaved relatives in three European countries. Support Care Cancer. 2014 Dec;22(12):3243-52.
  21. Mercadante S, Adile C, Ferrera P, et al. Palliative Care in the Time of COVID-19. J Pain Symptom Manage. 2020 Aug;60(2):e79-e80.
  22. 伊藤亜沙、手の倫理、東京、講談社、2020
  23. 桐山啓一郎、一般病棟での身体拘束の最初化に向けて、看護管理、30(6)、511-517、2020
  24. セーレン・キルケゴール、死に至る病 現代の批判、東京、中央公論新社、2003
  25. 甲南学園 編、新 平生釟三郎のことば、神戸、甲南学園、2005

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他人の苦痛を、私は知ることはできるのか 中編

前編

中編

後編

2. 緩和ケアを学び、そしてまた限界を知る 2002年から2011年まで

私は内科医としての専門分野を定める頃に、死の臨床研究会(2000年、広島)に参加して自分がさらに深めたい分野を、緩和ケアに決めた。当時手に入る本、テキストブックは限られていたが、貪欲に読んだ。院内の看護師とも自主的な勉強会を始めた。モルヒネを使うことで、きちんと痛みが緩和されることが書かれていた[6]。当時働いていた病院ではモルヒネ末の在庫はあったが、ほとんど使われないままだった。本には使い方が書いてあっても、指導医の誰一人も使ったことがなかった。技術というのは、一人で学べるものではない。当時私は内視鏡の検査、処置がある程度できるようになっていたが、そこに至るまでは指導医が何度も教えてくれて、うまくいかないときには代わってくれて技術を教えてくれることで、やっと習得できたのだ。

本に書いてあるとおりにやれば良いのだが、経験ゼロの自分が患者を実験台にするべきではないと思った。いやモルヒネを使うことがただ怖かった。指導医がいないまま緩和ケアを習得することはできないと考えて、所属していた大学医局を離れて緩和ケア病棟に勤務することを決心した。当時の教授に、緩和ケアの道を進むため、医局を辞めると緊張しながら正直に伝えたところ、不機嫌な表情になり、「どうして敗戦処理をする専門になろうとするのか。患者の病気を治すのが医師の仕事だ」と言われた。自分は反論できないままその言葉を心の隅に留め、ただ頭を下げて大学医局を後にした。まだ緩和ケアは、大学病院でも全く知られていない、死の手伝いをするための特別な場所だけの医療だった。

緩和ケア病棟でみたこと

私は、緩和ケア病棟での勤務を始めた。そこでは日常的に医療用麻薬を使い、モルヒネを使うことにいちいち緊張するような現場ではなかった。最初は指導医に使い方を習いながら、手書きの麻薬伝票を毎日たくさん書き、患者の痛みが驚くほどなくなること、意識が下がるような効き方ではなく、きちんと話ができること、それまでのその人らしさは残ることを知った。それまでにモルヒネを使うことに感じていた躊躇は1週間もしないうちになくなってしまった。またその使い方は、それまでに日夜研鑽した内視鏡処置や、心臓の超音波検査、血管造影の技術に比べれば相当に簡単だった。こんなに簡単に習得できることをどうして自分は前の勤務地で実行できなかったのかと素直に思った。

緩和ケア病棟では、ほとんど人は自分が癌だと知っていた。緩和ケア病棟に来る以前に、癌だと医師から言われているからだ。緩和ケア病棟に来る前の面接でも、「自分が癌だと知らない患者は入院できない」としているから当然だ。自分が、患者や家族と共謀していた頃と違い、何と正々堂々と向き合えるのだろうかと、とても自分の仕事が楽になった。嘘をつく必要がないからだ。あれだけ嘘の打ち合わせをして、患者に病名を秘密にしていたのに、都市部この辺りでは、驚くほどあっさりと癌告知をしていた。自分は誰のために何を守っていたのだろうと愕然とした。

やっと自分が働きたかった場所に来ることができたと最初は喜んでいた。しかしその喜びとは引き換えに自分は相当な「負い目」を感じるようになった。以前の自分の診療していた患者に、もっとできることがあった、もっと救う方法があったと自分の中ではっきりと分かってしまった。目の前の患者と仕事に向き合えば、過去のことは心の中から消すことはできるが、それでも時折以前の病院で診療していた「苦しい、助けて」患者の顔を思い出してしまうのだ。人は「負い目」があることで、本来やるべきことを見出すことができるようにもなる。過去を乗り越えて、自分の技術を磨いても、記憶から過去を追いやることはなかなかできない。過去の返せない借りがずっとある気分になったのは、緩和ケア病棟に来てからだった[7,8]

緩和ケア病棟の限界

その緩和ケア病棟で働いていてしばらくすると、症状緩和の限界を知ることにもなってきた。モルヒネやその他の苦痛を緩和するための薬を駆使すれば、全ての苦痛がなくなると思っていたが、それでは緩和できない苦痛があることにもまた気づき始めていた。一番問題になっている症状が緩和されたと同時に、二番目に問題となっていることが一番になり、二番目の問題の症状が緩和されたと同時に、三番目に問題となっていることが一番になる。そして薬では緩和できない問題が多く現れてくるのだ。

身体の痛みがあるうちは、その苦痛の影に隠れていた心の苦しみが、症状がなくなったことで一気に現実に表出してくる。「なぜこんな病気になったのだろう」、「なぜこの状況でも生きていかなくてはならないのだろう」と、痛みのなくなった患者は苦しみの吐露するようになった。家族内の葛藤や問題も、患者の死が近づくにつれて明らかになる事も多かった。ついに私は、身体の苦痛を緩和する緩和ケアは、人間を本来の苦しみに向き合うための技術なのかと思うようになってきた。そして、一番問題だったのは、いわゆる終末期せん妄だった。

2002年頃は人が終末期になり不安定な意識の状態になるということを、うまく医学の言葉で解釈することができない頃だった。緩和ケアで使うモルヒネや、睡眠薬といった精神の状態に影響を与える薬が、人が亡くなる前のせん妄の原因だと思っていた。以前のような苛烈な身体の苦しみを薬で緩和すると、その薬のために最期はみな意識の状態に変調を来し、時には暴力的に興奮しケアを拒否し、時には無目的な行動を続け、意味の分からない言葉を言い続けると思い込んでいたのだ。

うまく会話ができなくなった患者の家族と向き合うのがつらくなってきた。「昨日はどんな薬を使ったのですか」、「今日は痛み止めが多いから寝ているのですか」と家族に聞かれる度に、釈明のように治療の説明をするのだが、相手は納得しない表情だった。自分の治療のために患者がせん妄になるということを、当時は心のどこかで認めていたからだ。それは相手にも伝わった。「緩和ケア病棟に来て、痛みはなくなったけど、最後はおかしくなってしまった」と言われたこともあり、私も緩和ケア病棟の看護師達も消耗した。

緩和ケア病棟での鎮静

緩和ケア病棟なら、以前の職場と違い、きちんと苦痛が緩和されるので、鎮静をすることはなくなるのだろうと予想していた。しかし、現実は緩和ケア病棟で治療を受けていても、少数ではあったが意識がしっかり保たれたままで、呼吸困難や痛みのためにもうできる治療がなくなる患者はやはりいた。その時の患者は、以前の緩和ケアを知らなかった私が向き合った患者と全く同じだった。「苦しい、助けて」と汗びっしょりになって言いながら、私に助けを求めていた。しかし、以前と違っていたのは、患者は自分が癌であること、間もなく死ぬであろうことを分かっていたということだ。だから、私が「鎮静という治療があり、これ程に苦しい状況が続くなら、鎮静薬で眠り苦しみから助けることができる」と話すと、患者自身が受ける治療を決め、そして時には自ら家族と別れの言葉を交わしていた。

鎮静に至るまでモルヒネを含めていくらか治療ができるようになったので、前よりも少しはましになったかもしれないと思いながらも、以前働いていた病院と同じやり方で鎮静薬の点滴をしていた。ほとんどの患者は鎮静薬を投与すると間もなく眠り、苦しそうには見えなくなった。家族もその様子を見て安堵して最期の時を過ごすことができた。鎮静の現場は以前の病院と同じ景色だった。緩和ケア病棟でも最後の手段は必要だった。

鎮静の現実

現場では、ガイドラインの手順通り、病状の説明、緩和困難な苦痛の確認、医療者のカンファレンス、本人と家族の同意の確認をしてから、鎮静を始めていた。しかし、ガイドラインには書かれていない鎮静の現実にいつも悩んでいた。日常の緩和ケア病棟の現場で困ることは、鎮静薬が段々と効かなくなることだ。鎮静薬、特にミダゾラムは投与する時間により耐性ができることは知られていたし、投与量をだんだんと増やさないと鎮静が維持できないことがほとんどだった。慎重な話し合いの末に鎮静を始めても、一晩くらいで効き目が弱まって患者は目を覚まし、また苦しみだしてしまう。そして鎮静薬を増やすことがほとんどだった。はっきり言って、効果は今ひとつだった。

現場で私が苦労していたのは、鎮静が直接死に関与したと家族に思わせないことだ。鎮静を始めてから少なくとも数時間は生存するように慎重に投与量を調節した。鎮静の直後に患者が亡くなれば、鎮静と死に因果関係がないと医師として主張することはできても、家族や看護師が、「鎮静のために死んだ、死ぬのが早くなった」と確信してしまえば、事後どうすることもできない。一度鎮静を受けた患者の死後、遺族が病棟に挨拶に来てこう言われたことがある。「あれだけ苦しんでいましたが、最期は先生の手でとどめを刺して下さって本当に感謝しています」と。返す言葉がなかった。いくら鎮静が死期を早めるエビデンスはないと言ったところで、実際の家族の遺恨の感情を慰めることはできない。

鎮静の調節と説明は難しい

さらに、現場で苦労していたのは、ミダゾラムは静脈注射をしないと直ぐに効かない人が多いことだった。血管を確保することが難しい終末期の患者には、持続皮下注射で症状緩和の注射薬を投与することがほとんどだ。しかし、ルートの確保ができないことで何度も鎮静を始められない時があった。薬を持続皮下注射してもなかなか効果が現れず、結局不完全な苦痛緩和になったこともあった。たまたまミダゾラムを筋注してみたところとても速く、また呼吸を乱すことなく安全に鎮静できたこともあった。この投与経路による治療効果の違いは今もまだよく分かっていない。

ミダゾラムは、数時間といった短時間に使う鎮静ならとても効果は良かったが、一晩を超えて使用し続けるには、使いにくい薬だと思うようになった。そのため、フルニトラゼパム(サイレース)を使ったり、スコポラミン臭化水素酸(ハイスコ)とミダゾラムを混合して持続皮下注射を併用したりと工夫をしたが、結局、患者それぞれの個体差が大きく、こういう投与の仕方が標準と言えるような実感が得られないままだった。

緩和ケア病棟で働き出した当初は、「ミダゾラムを点滴静注して、眠れるまで滴下する(投与量は明記せず)。眠ったら投与量を減らす(これもまた投与量を明記せず)。呼吸回数が少なくなったら止める(これもまた回数を明記せず)」という指示を手書きのカルテに書いておけば、ベテランの看護師がそれぞれ投与量を何となく調節していた。

しかし、医療安全の意識の高まりと、電子カルテの導入で、薬剤の投与指示にデジタルな正確さを求められるようになった。投与量を明確に指示し、さらに増やし方、減らし方を細かく指示するようになった。その指示は、条件付きの指示が多くなり、結果として間違いの元になった。「眠ったら投与量を5ml/時減らす、投与量が3ml/時以下になったら一旦中止する。苦痛があるなら、その時点での投与量の1時間量を早送りするが、呼吸回数が8回未満なら早送りしない」など指示は複雑を極めた。

職場でも話し合い、もっと単純な指示にすること、また点滴静注ではルートのキープを確保することができない時間帯もあるため持続皮下注射のみで鎮静薬を投与することと投与方法を限定することとなった。結果としては、鎮静が不十分で、浅い鎮静となる患者が増えた。安全ではあるが苦痛の緩和が不十分になることもあり、どうしたら良いのかと頭を抱えていた。浅い鎮静から段々と深くしていく鎮静が現実になり、鎮静は直ぐには効かない安全な治療とはなった。この方法は今のproportional sedation(調節型鎮静)のようなものになり、曖昧な指示をしていた「眠るまでずっと鎮静薬を急速に投与し維持する」方法は、continuous deep sedation(持続的深い鎮静)になった[9]。治療の選択は患者の苦痛の度合いよりも、現場の管理が優先されるようになってしまった。

根本的に、鎮静の調節が難しい一番の理由は、既に患者の全身状態が不安定になっているためだ。健康者を対象とした内視鏡検査の鎮静であれば、その投与方法は毎回同じで、調節の方法も確立している。しかし、緩和困難な苦痛がある患者は、循環動態も脳のレセプターの反応も健康者とは異なるためか、鎮静薬が全く効かなかったり、効きすぎたり、効き目がなかなかでなかったりした。なので、投与量を厳密に計画して指示しても、投与される患者の個体差、全身状態によりその効果は事前には予測できないのだ。

鎮静の説明の仕方

医師として鎮静をどう患者や家族に説明したら良いのか、現場で試行錯誤をしていた。患者の状態が不安定で一番最悪の状況を想定して説明するのが医師の説明の常なので、「一度使えばもう死ぬまで目は覚めないだろう、話すことはできないだろう」と説明し、さらに家族に「苦しむか話せなくなるかどちらか選んで」と決断をさせていた。頻度の低い合併症リスクを全ての人に説明し安全性よりも危険性を強調すれば、家族は患者の死に責任の一端を感じるに決まっているのにだ。ある遺族に「私が鎮静を決めたために、患者を死なせてしまったのではないか」という後悔を聞いたことも何度もあった。

リスクとベネフィットを説明するのは、治療の説明の原則だが、特に鎮静に関しては、相当なコミュニケーションの工夫を必要とする。治療の目的は、「苦しみが限度を超えたので眠らせましょう」、リスクは「時に鎮静の直後に亡くなる人もいます」と話すようになった。さらに「本来、人は苦しむことなく自然に眠っていき亡くなるのです。しかし、どういう訳か、苦しんでしまう方もいます。そういう方を本来の亡くなる自然な過程に戻すのが、鎮静という治療の役割です」と家族の自責感を軽減するための説明を加えるようにした。また「それ程思ったよりも効果がないことが多いので、鎮静薬も万能ではありません」と言うようにもなった。「ここで自分と同僚が手を尽くしても苦痛が緩和できないときは、患者の予後は3日くらい。危篤状態です」と家族に説明するようになった。

鎮静の中止にも、決定的な問題を感じていた。ミダゾラムを使う鎮静は、「やめたい」と家族から言われたら投与をやめることもできるしまた、拮抗薬もある事から、直ぐに覚ますこともできる。しかし、投与の中止を患者から言われた事ないし、眠った患者はそもそも言うことができない。鎮静された患者は意思を伝えられないのだ。家族の中には鎮静をし続けているとこのまま続けて良いのだろうかと迷い、家族から中止を求められることがあった。患者はどう思うのだろうと想像しても分からないまま、度々家族の判断に沿って中止していた。すると、患者はまた苦しみ始めることが度々だった。そうでなければ、薬を止めても目が覚めることなく昏睡になっていることが分かり、どちらにしても家族の苦しみは深まった。なので、いつも中止には消極的で「また覚めたら苦しみの世界に戻ってきます」と話していた。家族の自責感を軽減するために、鎮静を家族の判断だけでコントロールできないように心がけていた。

鎮静は患者から治療効果を確認できない

また、鎮静は本当に患者の苦痛を軽減しているのだろうかと、根本的な疑問が今でもある。鎮静は患者の苦痛を緩和するためのものなのに、患者自身から、苦痛の緩和の程度を教えてもらうことができないのだ。既に眠っているか、もしくはぼんやりとした患者に「今の苦痛はどの程度ですか」と尋ねても、治療の評価として信頼できる返答はほとんど得られない。結局苦痛の緩和の程度は、鎮静の深度という二次的な効果でしか評価できない。家族も医療者も眠っていると安心するようになるので、苦痛の程度を確かめることも忘れてしまう。鎮静は苦痛の緩和から、眠らせることが主目的になってしまい、いつしか家族も医療者もどのくらい眠れているかばかり気にするようになる。

また患者が評価できないなら、主介護者である家族が患者の苦しみを代理する方法を、普段の現場では確認しているだろう。難しい評価方法を知らなかったとしても家族が「苦しくなさそうに見える」なら、鎮静は十分と考えていることだろう。しかし、「患者は苦しくなさそうに見えているだけで、本当に患者は苦痛を体験していないのだろうか」という疑念がつきまとう。治療の主体である患者がどのように感じているかは、客体である家族や医療者には分からない。「苦しくなさそうに見える」患者が苦しんでいたり、「苦しそうにみえる」患者が苦しんでいなかったりする。

主観と客観が一致することも、本当の客観の把握というものも、絶対的な価値基準というものも、存在しないことは随分前から分かっている[10]。なので、患者の主観を他人は、どのようにしても分かることも測ることもできない。しかし、私たちは「どういう状態なら患者や家族が苦しんでないと言えるか」という確信する条件を詳細にすることはできる[1,10]。患者がどういう状況だったら、家族がどういう心持ちだったら、医療者がどういう判断をするかという条件を詳細にすることで、「患者が苦しんでいない」という確信できる条件を明らかにすることはできる(表1)。この確信できる条件、すなわち共通了解を探れば、人間の知性と理解の限界を超えられるだろう。

1「患者が苦しんでいない」という確信する条件

尋ねても患者が「苦しい」と言わない

患者から「助けてくれ」と言われない

  • 患者から真剣に繰り返し「死なせて欲しい」と言われない

患者は苦しんでいるときがあったとしても、時に穏やかに微笑んでいる

患者が「苦しい」と言っていても、話す相手によって言うときと言わないときがある

側に付き添う家族が繰り返し「苦しそうだ」と言わない

病室に入ったとき、患者と家族の表情と口調が穏やかだ

関わる医療者が、カンファレンスをしたときに、何かできることが他にもあるはずと納得できない表情をしない

診察やケアをしたときに、自分の心も穏やかになれる

患者を頻回に観察や、見張る必要を感じない

緩和ケア病棟の10年間

鎮静は、私が働いている間に緩和ケア病棟では標準的な治療となってきた。患者の10-20%くらい、亡くなる3-4日前に必要となることが経験として分かってきた[11]。しかし相変わらず現場での鎮静の開始に関しては、いつも医療者優位でカンファレンスで「鎮静をするほかない」と決まってから、患者や家族に説明されることが常だった。鎮静に関しては受ける治療を患者や家族は事前には知らない。苦しく追い詰められた局面で初めて治療を聞かされたとき、きちんと判断できるのだろうかと思うようになってきた[12]。痛みや呼吸困難で苦しい最中に、「鎮静しますかどうしますか」と患者に尋ねるのはフェアじゃないと思った。苦痛に追い込まれていれば、「直ぐに鎮静してくれ、助けてくれ」と返答するのは分かっていたし、せん妄のように意識障害があり言葉のやり取りができない状態で、仕方なく家族と鎮静を決めるといった、以前のような本人不在の形だけのインフォームドコンセントに疑問を感じていた。

その疑問の答えを追求しつつ、私は職場を変えてさらに研究を続けた。

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他人の苦痛を、私は知ることはできるのか 前編

前編

中編

後編

 

人間は一人では生きていけない。だけど、死は、自分一人で引き受けるしかないと思われている。僕は違うと思います。死こそ、他者と共有されるべきじゃないか。生きている人は、死にゆく人を一人で死なせてはいけない。一緒に死を分かち合うべきです。(平野啓一郎 本心)

私たち人間は、だれも個人としての個人生活をいとなむだけでなく、意識するとしないとにかかわらず、その時代とその時代に生きる人々の生活をも生きるのである。(トーマス・マン 「魔の山」

1. 一人の医師が緩和ケアと鎮静を知るまで 1996年から2001年まで

真実を明らかにしない医師

人は自分の経験を通じて信念を固めていく。どんなに幼い子供であってもわずかな経験から、自分がどう振る舞うかを学習するし、医師も患者の診療の経験を通じて、治療への信念を構築していく。うまくいった感触を得た経験は、信念をより補強していくし、うまくいかなかった苦い経験もまた、信念を修復するなく、さらに補強して強固にしまう [1,2]。凝り固まった信念を変えていくには、本当にそうなのかと検証する機会がの到来が必要だ。例えば私の場合こういうことだ。

私は医師になってから5年、内科医として病院で働いていた。時は2000年を迎える頃だった。その病院では専門分野を定めて仕事ができるほど、医師は多くなかった。内科の疾患ならほとんど全ての患者を診療する必要があった。あらゆる癌患者も当然自分で診療した。まだ当時では癌という病名を本人に伝える前に、家族と相談してから、どう本人に伝えるか打合せをしていた。ほとんどの場合は、嘘の病名を伝えて、医師と看護師と家族は共謀して平静を装い患者に接していた。

ある時自分が診察している肺癌の患者が、呼吸困難のために入院した。私にできたことは、レントゲン写真を繰り返し撮影して、血液検査を繰り返し、そして結果を見てからできそうなことを探すだけだった。

肺の陰影は本人の呼吸困難の原因が胸水であることを教えてくれた。指導医に相談し、直ぐに胸水を抜いた。患者はいくらか楽にはなったが、肺はそれ程膨らまなかった。次に炎症反応を見ると高くなっていた。痰も出ていたので、肺炎もあるのかと抗生物質を注射し始めた。血液検査では数値は良くなっているのに、本人の呼吸困難は変わらなかった。次に酸素の投与もした。つけられた酸素マスクが邪魔で、呼吸困難は楽になるどころか、拘束感でかえって苦しくなるくらいだった。

ここで万策尽きた。本人は肺癌だと知らないまま、「水があるから抜く」「炎症があるから抗生物質を使う」と本当は何がこれ程自分を苦しめているのか全く知らされないままだった。私は苦痛を緩和するという言葉すら知らないまま、家族にも検査の結果と治療の内容だけをただただ報告していた。それで自分の仕事は全てやっていると思っていた。何度も何度もこんな繰り返しを、その時のベストな治療だと思っていた。

内科の治療としてできる治療を全てやって、そこから先は「仕方ない」。病気は苦しいもので、苦しさというのは、原因が治療されない限りは当たり前の事という信念を経験から補強していた。自分が病室を出てしまえば、患者の苦痛や、それを見守る家族の苦痛はないものと同じになった。例えそこに患者の苦痛が存在しても、医師としての自分が関心をもたなければ、苦痛は存在しなくなる。私はそうやって、苦しむ患者に関心をもたないまま、自分の信念をさらに補強していった。その時点での本質は、治療できない病気は「仕方ない」だ。私は苦痛の緩和は自分の仕事だとは思えなかった。

患者はさらに苦しくなりベッドで半身を起こし、昼も夜も大きな息をしてほとんどしゃべれなくなった。私は家族に、「いよいよの時が近づいています。これだけ苦しい状態なので、最期は人工呼吸器をつけず、心臓マッサージもしません」と、本人や家族の意向を聞かないまま、「これ以上苦しむのは可哀想だから何もしないでおこう」と自分なりの患者にできる最後の治療として、「何もしないで命をそして苦しみを長引かせない」ことを提案した。この状況になっても、肺癌である事を知らない患者にはこの事を知らせないまま、看護師と家族とまた共謀して最後の方針を決めた。

苦しむ癌末期患者の最期、鎮静の始まり

患者と私は、人間的な関係ではなく治療上の関係だけ、患者が作った病気は患者のもの、最期の苦しみも自分の責任だしできる事は全てやったと当時の私は全く、自分の処置に疑問を感じていなかった。その時の自分にできる患者を苦しみから救うには、延命処置をしないことを家族とだけ決めてしまうことだけだった。

ある休日の午前に病院の看護師から呼び出された。患者の息が弱くなり始めている、一度診察した方がよいと。病室に行くと汗びっしょりで、わずかな声しか出ない、視線は合わないままそれでも確かに「苦しい助けてくれ」と言っているのが分かった。当時の私にできることは酸素の量をもうこれ以上できないくらいに増やすことと、ペンタゾシン(ソセゴン)の注射をすることくらいしか教わっていなかった。看護師も若い私に、「こう言うときはこうしたらよい」と助言はしなかった。そこにいた医療者の全員が「癌の最期はこうして苦しむ。でもわずかな時間耐えたら終わること」と思っていたのだ。

苦しむ患者を見て、家族も穏やかになれるわけがなく、患者の苦痛が伝播して同じくらい苦しそうな顔をしていた。またいつもの声が心の中で聞こえた。「仕方ない」と。この「仕方ない」は信念を検証するチャンスを奪ってしまう。私は緩和ケアのことを学生の頃から本で読んで知ってはいても、その内容はホスピスでの穏やかな時間や、理想的な状況が書かれたものばかりで[3]、自分の目の前の現場とは全く関係のないことなんだと思っていた。

やがて、患者は半身を起こしたまま力尽きた。看護師の詰め所(ナースステーション)で心電図の波が平坦になった頃を見計らって、私は病室に入った。苦痛のための冷や汗が残った顔を見て、表情も変えないまま、死亡確認の診察をして、「ご臨終です」と家族と本人に頭を下げた。数時間後看護師が死後の遺体のケアをして、本人から苦痛の表情がなくなってから、やっと、私は患者の顔を真っ直ぐ見ることができた。

当時の私は、これが癌患者の普通の最期だと思っていた。本人は正確な病名を知らず、そして死に逝くことも知らされていない。いや、恐らく患者達は知っていたと思う。患者と医師との間で確認されていないだけで、患者本人達は「自分はこの治らない病気で死ぬだろう。医師は本当の事を言えないんだ。何故なら治す方法がないからだ」と知っていたに違いない。お互い嘘を付き合っていることを、患者達は情を持って許し合っていたと分かるときがあった。その頃は「自分の診断した患者は最期まで自分が責任を持って診る」と教えられた。休みの日でも夜中でも、自分の診療している患者の状態が悪くなれば、直ぐに駆けつけるのが若い医者の務めだった。それが常識だった良い時代の医師・患者関係があったからこその共謀関係だった[4]。患者は苦痛に耐えさらに、無力な私を許してくれていたのだ。

しかし、そのような真実を明らかにしないまま、この最期の苦痛が限度を超えた局面になると、医師は口をつくんだまま、患者の悲痛な叫びにも向き合えなくなり、病室を出てしまっていた。最後の最後に患者を裏切っていたのだ。死の間際になって、今更病名も状態も正直に話せるはずもなく、この苦痛が生の出口であり、死の入り口である事を口にすることは、この期に及んではできなかった。不自然な平静を保ったまま、患者と目を合わせることもできないままで、家族の前では全てのことは自分の想定の範囲内と余裕のある医師らしく振る舞っていたのだ。

鎮静を知った時

私は、このような患者の看取りを続けていた。そんなある時、自分の知識が不足していたことを痛感する出来事があった。当時「ターミナル・ケア」という誌名だった医学雑誌をたまたま手に取った[5]。そこには「鎮静薬を使い、最期の苦しみを処置する方法」について書かれていた。自分も内科医として、内視鏡検査や血液造影検査をしていた。時に相当な苦痛が伴う処置が必要な患者には、鎮静薬を使い始めた頃だった。

その鎮静薬が、最期の苦痛に使われている論文を読み、自分の顔が真っ赤に上気していたのが分かった。自分にとっては全く関係のないと思っていた二つの場面、検査の処置室と、癌の終末期の病室がつながり、どちらの苦痛も同じやり方で取れるのかもしれないと、医師としての知的好奇心が満たされていくのを知った。「ヘウレーカ」そうか、この手があったかと。凝り固まった信念は、偶然書店で検証され、更新され始めた。

早速職場に戻り、以降は「先生助けて欲しい」と最期に言われるほどの苦痛に対しては、それまで意味のない鎮痛薬の処方をするだけではなく、鎮静薬をいつもの検査の時のように少しずつ、いつも使う量よりもずっと少なく使ってみた。うまくいった。「助けて」と言っていた患者が、鎮静薬を使ってから数分もしないうちに、眠ってしまい、苦痛がなさそうに見えた。これで自分も患者の最期まで家族と目を合わせて病室にいることができる。救われた気持ちになったのは、患者だけではなく、医師としての自分もそうだった。

気がついた鎮静の問題点

鎮静後に患者の苦痛がないと分かると、見守る家族も安堵した表情になるので、この病室の中では、患者と家族、そして自分を含む医療者の苦痛は関わり合っていて、誰かの苦痛を軽減するのは残りの全ての苦痛を軽減することなのだと悟った。しかし、病名も死に逝くことも伝えていない患者には「苦しい、助けて」と言われても、鎮静という治療については説明できなかった。死の直前になってから、「あなたは死ぬ」という話しはとてもできなかった。だから、家族だけに本当に苦しい局面になってから、鎮静という治療があると説明をしていた。時には患者自身が「苦しい、助けて」というのではなく、家族が「もう楽にしてやって下さい」とか、看護師の「もうこれ以上は看ていられません」と周りが患者の苦痛に耐えられなくなった言葉が、鎮静の始まりとなった。

患者が苦しんでいれば、そばに居る家族もその様子を長時間見ていれば、だんだん苦しくなる。だから患者の苦しみと家族の苦しみは、合わさり二倍になる。やがて、鎮静は患者を苦痛から救い出すと同時に、家族を苦痛の場面から救い出すのが鎮静なのだと思うようになった。また情をもって患者、家族にある程度長い時間接していた看護師にとって、患者の死というケアの到達点が、混乱した意識で患者がベッドから落ち、何度もトイレに行きはベッドに戻る、意味のない言葉を発する、眠れない夜を過ごし付き添う家族が疲労する姿を見続けるのでは、余りにも残酷だと思った。自分は、鎮静という治療で、全ての人を苦痛から救っていると思うと同時に、死の場面をきれいにしている、浄化しているとも思うようになった。

周囲の同僚や指導医であっても、癌患者の診療を避けているところがあった。患者、家族、そして看護師の苦痛の連関と無力感に向き合えなくなるからだ。私もそうだった。入院中の患者の回診の順番が後回しになったり、癌患者と目を合わせて話せなかったり、相手から質問されると憂鬱な気分になった。癌患者に冷たくなっている自分に気がついた。同僚や指導医が癌患者の診療を避ける気持ちが良く分かった。

一番自分にとってつらかったのは、診療を続けてきて信頼関係のできた患者との別れが普通の会話ではなく、悲痛な声になることだった。もっと穏やかに普通にはなしをしながら最期が迎えられないのだろうか。もっと患者と話したいこともある、家族とも何気ない話をする時間も与えてあげたい。患者を苦痛から救う最後の手段は手に入れた。しかし、手を尽くしてからの最後の手段ではないことも気づいていた。治せない病気のほとんどは、治療ができなくなると、もう最後の手段しか知らなかった。

鎮静の前にできる治療は何だろうと改めて思うようになった。

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