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2023年4月

2023年4月 2日 (日)

お母さんらしく逝かないでほしい 後編

死に逝く母は一体何を求めていたのだろう。同じように死に逝く人たちに言葉を求めても、返事をする力もなくなっていることがほとんどだ。それに、死が近づく相手に、自分が人生において何を求めていたのかと問うには、あまりにも害が大きい。「あなたはどう生きたかったのですか」と問えば、時にはそれまでの相手の生き方をときには否定することにもなりかねない。それでも私は、何を求めているのか知りたいと思い、文学作品に答えを探した。

母の死を巡るある作品がある。母を亡くした息子が、バーチャルリアリティで作成された母と対話する物語だ[2]。死の間際になって、安楽死を求めた母の本心を知ろうと主人公は、バーチャルリアリティとの対話を続けて行く。バーチャルリアリティの母と息子との間では、対話を繰り返しても本心は見えてこない。そして、主人公は、かつて母と関係があった自分以外の人と母のバーチャルリアリティを対話させることで、また母の違う一面を発見していく作品だ。作者は以前から、本当の自分といった一つの個人ではなく、複数の相手との間にそれぞれの分かれた人格が現れるという主張をしている[3]。それぞれの違う個人の集合体が、複合的な一人の人間を創っていると考えているのだ。この作品でも、母の複数の人格を知ることで、母への理解を深めて行く。

数十年前なら、「本当の自分探し」のために旅に出かけ、確固たる自分を見つけるというモデルがあった。私も実際若いころに、本当の自分が何を求めているのか、本当の自分とは一体何者なのか知るために、旅に出たことがある。しかし、旅先では誰とも話すことなく、何も新しい言葉が生まれない孤独な自分との対話に、ますます絶望感を深めた。毎日暮らす日常の中で、出会えない自分に、旅先で出会えるわけがないのだ。一人は淋しい。また孤立からは自我意識を含めて何も生まれない。他人と関わらなくては、自分自身考えていることさえ、分からなくなってしまうのだ。それでも他人は怖い。他人は自分を傷つけることを、誰もが分かっている。どう他人と関わるのか、人間はずっと考え続けている。

複数の人格を自分の中で統合し、生きていくことは、現代ではポジティブに受けとめられるようになった。以前は、そのような生き方を八方美人と揶揄され、時にネガティブに受けとめられた。今やSNSで複数のアカウントを使い分け、リアルな自分とSNSの自分をうまく使い分けられる人たちも増えた。複数の人格をもつことで、積極的に生きるリスクを回避するようになったのだ。画一的な人格だけで生きていくと、行き詰まったときに生きていく力を失い、「生きている価値がない」と思ってしまうのだ。会社人間だった男性が、定年後何もやることを見つけられず、自尊感情を失ってしまうのも、この行き詰まりからなのだ。怖くても、さまざまな他人との関係性の中で、さまざまな人格を育てていくこと、これこそが生き延びていく上で大切になる。引きこもって一人で安全な場所に居るよりも、危険を回避しながら他人と関わらなくては生き延びることができないのだ。この観点から高齢者のデイサービスの役割を考えてみよう。デイサービスに行くと元気になるのは、体操やリハビリで体力が増進することよりも、出会えた他人との間に新たな人格が作られるからなのだ。

在宅療養の場は、病院にいるよりも、統合された多くの人格を豊かにもち生きてきた人たちを、一つの人格に固定してしまう。家族、せいぜい親戚、ほとんどの場合身内しかベッドサイドには居合わせることはなく、友人、知人、仕事仲間、そしてときには親密な関係の内縁関係にある人との関わりは絶たれてしまうのだ。あの方と同じく、家族だけで最期の時間を過ごす人たちが、本当は同時に色んな人たちと交流し、そして色んな自分のそれぞれの人格を終わらせることができないことに、私はやるせなさも感じているのだ。

2)平野啓一郎、本心、文藝春秋、2021

3)平野啓一郎、私とは何か「個人」から「分人」へ、講談社現代新書、2012

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2023年4月 1日 (土)

お母さんらしく逝かないでほしい 前編

終末期医療の現場で見える景色は明らかに変わってきた。いや、景色よりも私がより変わってきたのだ。

「お母さんらしく逝ってしまったね。」自宅で母を看病した娘が最期の日に言ったことだ。以前の私なら、言葉を素直に受けとめて「どんなお母さんでしたか。」とケアのために、話を続けたであろう。でも今の私は、「お母さんらしく」の「らしく」に妙に引っかかってしまうのだ。
この方は、自分が亡くなるその日まで周りを気遣い、家族に迷惑をかけていないかをずっと気にしていた。自分が以前に介護をした経験から、「家族には自分と同じようなつらい目にあわせたくない。迷惑をかけないように時期が来たら入院する。」と話していた。私は何度も「迷惑をかけないように」という言葉を患者から聞く度に、この迷惑というのは一体何だろうと考えてきた。どうやら、病気になり自分が家族を含む多くの人たちのケアを自分が受けることを「迷惑をかける」と思っているようだと分かった。また、この「迷惑をかける」という言い方をするのは、女性に多いということにも気がついた。

幼少期から「男らしく」「女らしく」という言葉を大人から言われ、性規範をインストールされる。いつの間にか「男らしく」外で戦い、「女らしく」家庭でケアするという、男、女の存在意義が、男にも女にも刷り込まれていく。女は「家庭の天使」として家事、介護、そしてケアをする存在であると思いこまされていくのだ。すべては男の目線で、良妻賢母として女がどう振る舞うのかが、女の意志とは関係なくかなり幼少期から決められてしまう。子どもを、男を、ケアし、さらに自己犠牲も加わればさらに優れた存在と認められる。それこそが女の人生の達成であると思わされているのだ。立ち止まって考えれば、ケアすることに男も女も優れた特性があるわけではなく、個人の特性によることは明らかである。ケアに向いている人、ケアが好きな人は、性別とは関係がない。


看護師は、ケア従事者として表面的な笑顔や思いやる仕草ではなく、本物の笑顔や心からの思いやりを求められ、さらに女が病人を看護するという社会の思い込みは、日本の看護師の九割以上が女性であるという事実からもうかがえる[1]。「お母さんらしく」死んだ彼女は、自分が死ぬまで「家庭の天使」として、女としてのケア役割を周囲から期待されて、またその役割を手放さなかったことを家族が実感しているのだとしたら、何だかやり切れない気持ちになる。お母さんらしく、誰にも迷惑をかけないとは、自己犠牲の裏返しなのだ。周囲をケアし続けて、そして、自分の心を抑制して最期の日を迎える。そこに美徳があるとは、今の私はとても思えないのだ(続く)。

1) 小川公代、ケアの倫理とエンパワメント、講談社、2021

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