お母さんらしく逝かないでほしい 後編
死に逝く母は一体何を求めていたのだろう。同じように死に逝く人たちに言葉を求めても、返事をする力もなくなっていることがほとんどだ。それに、死が近づく相手に、自分が人生において何を求めていたのかと問うには、あまりにも害が大きい。「あなたはどう生きたかったのですか」と問えば、時にはそれまでの相手の生き方をときには否定することにもなりかねない。それでも私は、何を求めているのか知りたいと思い、文学作品に答えを探した。
母の死を巡るある作品がある。母を亡くした息子が、バーチャルリアリティで作成された母と対話する物語だ[2]。死の間際になって、安楽死を求めた母の本心を知ろうと主人公は、バーチャルリアリティとの対話を続けて行く。バーチャルリアリティの母と息子との間では、対話を繰り返しても本心は見えてこない。そして、主人公は、かつて母と関係があった自分以外の人と母のバーチャルリアリティを対話させることで、また母の違う一面を発見していく作品だ。作者は以前から、本当の自分といった一つの個人ではなく、複数の相手との間にそれぞれの分かれた人格が現れるという主張をしている[3]。それぞれの違う個人の集合体が、複合的な一人の人間を創っていると考えているのだ。この作品でも、母の複数の人格を知ることで、母への理解を深めて行く。
数十年前なら、「本当の自分探し」のために旅に出かけ、確固たる自分を見つけるというモデルがあった。私も実際若いころに、本当の自分が何を求めているのか、本当の自分とは一体何者なのか知るために、旅に出たことがある。しかし、旅先では誰とも話すことなく、何も新しい言葉が生まれない孤独な自分との対話に、ますます絶望感を深めた。毎日暮らす日常の中で、出会えない自分に、旅先で出会えるわけがないのだ。一人は淋しい。また孤立からは自我意識を含めて何も生まれない。他人と関わらなくては、自分自身考えていることさえ、分からなくなってしまうのだ。それでも他人は怖い。他人は自分を傷つけることを、誰もが分かっている。どう他人と関わるのか、人間はずっと考え続けている。
複数の人格を自分の中で統合し、生きていくことは、現代ではポジティブに受けとめられるようになった。以前は、そのような生き方を八方美人と揶揄され、時にネガティブに受けとめられた。今やSNSで複数のアカウントを使い分け、リアルな自分とSNSの自分をうまく使い分けられる人たちも増えた。複数の人格をもつことで、積極的に生きるリスクを回避するようになったのだ。画一的な人格だけで生きていくと、行き詰まったときに生きていく力を失い、「生きている価値がない」と思ってしまうのだ。会社人間だった男性が、定年後何もやることを見つけられず、自尊感情を失ってしまうのも、この行き詰まりからなのだ。怖くても、さまざまな他人との関係性の中で、さまざまな人格を育てていくこと、これこそが生き延びていく上で大切になる。引きこもって一人で安全な場所に居るよりも、危険を回避しながら他人と関わらなくては生き延びることができないのだ。この観点から高齢者のデイサービスの役割を考えてみよう。デイサービスに行くと元気になるのは、体操やリハビリで体力が増進することよりも、出会えた他人との間に新たな人格が作られるからなのだ。
在宅療養の場は、病院にいるよりも、統合された多くの人格を豊かにもち生きてきた人たちを、一つの人格に固定してしまう。家族、せいぜい親戚、ほとんどの場合身内しかベッドサイドには居合わせることはなく、友人、知人、仕事仲間、そしてときには親密な関係の内縁関係にある人との関わりは絶たれてしまうのだ。あの方と同じく、家族だけで最期の時間を過ごす人たちが、本当は同時に色んな人たちと交流し、そして色んな自分のそれぞれの人格を終わらせることができないことに、私はやるせなさも感じているのだ。
2)平野啓一郎、本心、文藝春秋、2021
3)平野啓一郎、私とは何か「個人」から「分人」へ、講談社現代新書、2012