「半分こ」したお好み焼き
僕の故郷には、お好み焼き屋が多い。2つ年上の従兄が暮らす町内にも、馴染みの店があった。従兄とその店へわずかな小銭を握りしめて行き、いつも一番安い豚玉を1枚、二人で食べるために注文していた。
焼けるのを待っている間、お店のおばちゃんは色々と話しかけてくる。「いくつになったんや」(8歳です)「あんたはどっからきたんや」(名古屋から時々来ます)「そうか、この子の弟のようなもんやな。悪い遊びを教えたらいけんよ」と話しかけてくる。従兄も僕も話半分で聞きながら、誰かがこぼしたソースが付いた漫画雑誌を熱心に読んでいた。従兄も僕も食べ盛り。半分こでは足りないけど、小銭を手元に残したかった。
小遣いの少ない僕らのためにおばちゃんは、安い「イカ天」をおまけにお好み焼きに入れてくれた。少しでもお腹がふくれるように、ソースをやたらとかけ、ソースで真っ黒にしたお好み焼きが僕も従兄も好きだった。ソースはいくらかけても、ただだったから。
「ごちそうさま」とお店を出ていつも行ったのは、町のゲームセンターだった。1980年頃の僕らが喜んでいく場所というのは、ゲームセンターだった。上手くなれば長い時間楽しめるが、僕らはまだ下手で直ぐにやることがなくなってしまった。ゲームのコツがなかなか分からなかった。「どうやったら、先にいけるんかのお」従兄と僕でああでもない、こうでもないと必勝法を考えいくらでも話は続いた。
時は流れて、僕らは中年になった。時々会っても、ゲームセンターに行くことは無く、話しは長く続かなくなった。従兄は一人暮らしをしていたが、ある日急死した。葬儀の後に、僕はお好み焼きを一人食べに行った。僕は死んだ従兄と一緒に食べていると思いながら食べてみることにした。
昔のように豚玉のお好み焼きに、イカ天をトッピングしたものを一枚頼み、従兄と半分ずつ分けている気持ちになって食べてみた。半分はお好み焼きを減る事はなかったから、結局僕が全部食べた。無口だった死ぬ直前の従兄ではなく、子どもの頃、饒舌にゲームの必勝法を語る従兄と僕は向かい合って食べてみた。その日はあの時よりお腹いっぱいになった。
この店には時々仕事で立ち寄るが、従兄の墓参りの帰りは、いつもより生ビールが美味しくなる。きっと、僕の向かいに従兄が座っているからだろう。
私たちは死者とともに食べている。死者はきっと私たちと食べている、と信じて食べている。そうしなければ、どうして人間は親しい人の死に耐えられようか。
死者の無念とともに、死者のこの世への未練とともに、死者のあの世でのうらやましいくらいの幸福とともに、私たちは毎日食べる[1]。
死者と一緒に食事をすることはできるはず。いつまでも。
1) 孤食と共食のあいだ 縁食論 藤原辰史、ミシマ社、p112-3、2020
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