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2022年5月

2022年5月18日 (水)

苦い苦いコーヒー

僕は広島に住んでいた祖母の苦い思い出を、今でも忘れることができません。

その思い出は、胃を悪くしていた祖母が好きだったコーヒーを飲ませないように孫として注意していたことです。「ばあちゃん、コーヒーは体に悪いから飲まないで」と言ったとき、祖母は「少しぐらいならええんよ」と苦笑いしながら飲んでいました。僕はまだ幼くその言葉にも力はなく、子どもが覚える原初的な感情であろう「ずるいこと」を祖母はしていると感じたのです。"本当はダメなのにコッソリとずるいことをしている”と。祖母には「ダメ」としか言えない子どもでした。

当時(1980年前後)、まだ胃炎や胃潰瘍を内視鏡で日常検査することは少なく、医者の診察かバリウム検査をしていた頃でしょう。まだ食べ物で胃が悪くなると、医者も患者も誰もが信じていたときです。医者は患者の生活に相当な力で介入し「ああしなさい」「こうしなさい」「これはしてはならぬ」と、威圧的に患者に接し、そして患者の生活を変えて健康にしていくというのが、普通でした。祖母は医者から「コーヒーは胃を悪くします。飲んではダメ」と言われていたのです。

祖母は胃炎、胃潰瘍がヘリコバクター感染症であるという事実を知らないまま、天国に行ってしまいました。僕は墓参りに行く度に、あの日の苦いやり取りを思い出します。世の中は少しずつ良くなって、新しいことが分かってきます。そして自らの過去のいじらしささえも、愚かな苦味とともに、僕の心に何かを残しました。幼かった僕はやがて医者になりました。

今も現場ではその時点での最善を断定的に語る医者たちは、患者に晴れやかな顔でエビデンスを語り続けています。しかし、そのエビデンスが更新されないまま、思い込んだ最善を語り続ける医者もまた多くいるのです。その一人にならないよう、全方位の学びを続けることは必要です。

“厳密に言うと、「卵を極まれにしか食べない人と、毎日2個以上食べる人の血清総コレステロール濃度はあまり変わらなかった」ということが、日本人を対象にした研究で分かったのです[1,2]”。 

卵と疾患の関連でも、この25年間の間に研究は続き、あらゆるエビデンスが集積され、今は、卵は「よい」「わるい」の線引きだけではなく、どういう人にどういう影響があるのか、どの程度食べて良いのか分かってきました。僕が医者になった頃「卵を控えなさい」「高コレステロール血症に関する本を読んでみましょう」と同じことを助言していました。ただ血液検査の値が良くなれば、それで終わり。本当はより良い生活、健康な状態を維持するのが目的なのに、ただ診察後との検査の値を目標にすることしか頭にはありませんでした。

僕も医者としての成長とともにその時代の最善を断定的に語ると同時に、「まあ、ほどほどに」というのが良いのか、「まあ、知らんけど」と不確実に謙虚になるのがいいのか、長く医者を続けていると分からなくなってきました。

昨日診察した患者にこう言いました。「先週はこう言いましたが、やっぱり撤回します。今日はこうした方が良いです」と治療の方向転換を明るく爽やかに伝えました。そうです。僕はその日の最善が次の日もしかしたら、5分後にも悪手になる事を想像して「直ぐに撤回して、そして今日の最善を臆せず、恥ずかしがらず差し出す」ようになろうとある時から決意しました。そう「ブレブレ」で「ころころ」変わる、5分前の自分は他人。そう思ってから幼いときの苦い思い出を乗り越えることができそうです。

”いつも患者への戒めは新しい研究で更新され、過去の恥になること”、そして”楽しむことはずるいこと”、そんな風に思う幼い苦さこそが、僕が捨てるべき苦さだと今は思うのです。今から苦いコーヒーを飲みます。祖母の分も。胃に沁み込むコーヒーは僕らの毎日を少しだけ楽しくしてくれます。もっと祖母の毎日を一緒に楽しめば良かった。

1) 70歳からは超シンプル調理で「栄養がとれる」食事に変える 塩野崎淳子、すばる舎、p45、2022

2) 日本食品科学工学会誌「卵と健康 : コレスロール問題を中心に」2019年、66巻、9号、362-367、菅野道廣 [https://www.jstage.jst.go.jp/article/nskkk/66/9/66_362/_pdf]

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2022年5月14日 (土)

消える原稿

今までに幾度となく人前で講演してきました。話すことを準備をし、予め調べてそして内容が固まってきたその時、ファイルが消えてどうにもならなかった事が何度かあります。

2000年前後のMacは気まぐれにフリーズしその瞬間作っていた文書が全て消えるというのは、当たり前の事で、「保存」「保存」と一行書く毎にショートカットキーを押していました。今でも手が自然に物書きやプレゼンをしているときに、一呼吸おく度に「保存」している自分に気がつきます。

しかし、作られたプレゼンの資料を次の日に見返し、そして折角保存されているのに何度も消したくなり、もう講演の直前までいじりつづけ結局ぶっつけ本番になることも増えてきました。この10年は「Presentaton Zen」(ガー・レイノルズ)も流行り写真だけ見せて、話はその時考えるという、即興紙芝居のようなこともして、話す内容は未来の自分に聞けとヒリヒリした緊張感で臨むことも増えてきました。手汗びっしょりで、うまく話せていたのかも分からなくなって来ました。

歌人の岡野大嗣さんは、”それでも十代のうちは「自分は特別になれる」という思いが胸のなかでくすぶり続ける。そのくすぶりの火種が熾るたびに詩を書こうとしたが、結果はいつも同じだった。書いている瞬間は「自分は特別だ」という気になれてしまうのに、一夜明けて読み返せば自分の平凡を突き付けられる。いつしか、表現という営みはあらかじめ選ばれたものだけに許された、聖域のものだと思いこむようになった。詩に対して、アレルギーを持つようになった。" 

今日は誰にも愛されたかった

谷川俊太郎、岡野大嗣(だいじ)、木下龍也、ナナロク社、2019, p160

と自分の若き日の自意識と表現を正直に書かれています。僕も講演、書籍、投稿原稿、そしてブログの文章を次の日の朝に全てしててしまいたくなる、そんな衝動と向き合ってきました。

しかし、救いもあります。

最近、調べものをするためにネット検索したところ、「なるほど、わかりやすい。この人はよく考えてるなあ。今の僕には、すとんと落ちる内容だ。やるな。」と感心して読んでいたました。最後の一行に書いてあったのは、自分の名前。そうです、忘れていましたが、随分前に自分が書いたものでした。

翌朝消したくなる原稿も、自分も忘れることで生きていけるのです。

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2022年5月 2日 (月)

自分の指を見張る。僕のポリコレ。

昨年、遠い親戚のある方を、僕が医者として最期を看取りました。親戚なので、僕も通夜に参列しました。その時、集まったその方の家族に、何故死に至ったのか、医者として誠実に説明しました。

その時、自分では全く気がついていませんでしたが、息子からこう言われたのです。

「人に説明するとき人を指さす癖は止めた方がいい」と。僕は驚きました。自分がそんなことをしているのに気がついていなかったんです。それ以来、自分の指を見張りながら毎日を過ごしてみると、一つのことに気がつきました。

確かに人を指差しているのです。しかも医者の顔、親の顔をしているときには、その癖が出てくるのです。

相手との力関係の中で、自分が優位になっていると、無自覚であっても感じたときにその癖は出てくるのです。僕は息子に指摘されるまで、そんな無自覚な自分の素振りに気がついてなかったのです。

僕はその日から、自分の指を見張り続けています。僕にとってのポリコレとはこんなプライベートな事ですが、きっとこれが社会に繋がると思ったんです。

「The personal is political ー 個人的なことは政治的なこと」*

実感した最近の僕でした。「言葉を見張り、指を見張る」窮屈かもしれませんが、戒めて納めた指先に何か見えると僕は信じられるようになりました。そして息子達の世代はきっと僕が窮屈に感じることを乗り越える力を持っていると、素直に感心したのです。

*フェミニズムのスローガン。男女関係や夫婦関係と行った個人の抱える悩みや苦しみは、男性社会の中で政治的に押しつけられたものである、とする。政治を、個人のパーソナルな関係における非対称な権力関係と見なす見方(上野千鶴子、2020)。

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