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2022年4月17日 (日)

死を憧れていた彼女

彼女は最初逢ったときから、気になることを言っていた。「人間が死ぬことは自分の意思でどうにでもできることなのよ」と、死に対する憧れを話していた。

「ねえ、この本読んだ?この本の主人公はとっても美しい死に方するわよね。少しずつ身体と魂が透明になっていく感じがいいわ」

いつも彼女は家に帰ろうとしなかった。家には自分の居場所がなく、遅い時間まで広い公園や、自分の通院している名古屋の病院の大きな待合室の片隅に留まっていた。

その日ももう診療時間も終わり、人のいなくなった病院の待合室で、僕と二人並んで座っていた。

ここに来るのはもう何回目だろう、長い時間彼女の横に座ってきた気がする。暗くなった待合室の椅子には色がなく、並んだ椅子の一つ一つには、なんの個性もなくただただ並んでいた。色のない椅子に座り、彼女もいつのまにかその色になじんできてしまったかのように、会う毎に色が抜けていった。

だんだん透明になってきたんだなと、僕は口には出さないけど実感していた。

彼女はこの病院の心療内科に通院していた。僕も何度か診察に付き添ったけど、担当医の診察は立ち会うことができず、その日も長い時間、診察室の外で待っていた。

彼女は両親との関係は健全そうにみえていたのだが、家に帰ると体調が悪くなるし、学校へ行こうとすると、身動きできなくなるほど、家の布団で寝ていても、苦しくなるので、とうとう入院することになったのだ。

入院中の彼女に会いに行った。その日も誰もいない夜の待合室で、いつものセーラー服ではない、パジャマで顔色の悪い彼女の横に座り、僕はいつも通り、背中を弱い力で撫で続けていた。自分の心が何かをもっと求める動機がおきないように、少しでも撫でている手に、意思が込められると彼女は直ぐに察して、すぐに身体を離してしまうのだ。

彼女にただ触れていたい僕は、待合室の暗さにもう一度自分を同化させ、欲望を殺した。そして恐る恐るもう一度手を伸ばすと、彼女は再び僕を受け容れてくれた。

「やっぱり身体って不自由よね。心が自由にならないのはこの身体のせいだと思うわ。ねえ、私ね、今日がちょうど良いと思える日が来たら、そのまま死のうと思っているのよ」と穏やかな表情で、僕の方を向くことなく、自分で一人つぶやくように話した。

僕は、「それは止めておこうよ」と両手で彼女のことを背中から抱きしめると、彼女は嫌がることなく僕に抱かれていた。それでも、彼女は全く僕の動きに応えることなく、身を固めてじっとしていた。

彼女を救うことはできなくても、僕はどんな色でもいいから、自分のできる方法で彼女に少しだけでも色を付けたかった。分からないくらい薄いクリーム色でも良いから。

いつも待合室の時間は残酷だった。僕の心の熱情は、手を通じて、彼女に気持ちを伝えているはずだった。なのに彼女は抱きしめている間、全く心が動かないように、努めている様子だった。 僕の熱情が自分の心に入ってこないように、拒絶しているように感じた。

心に何も伝えられなくても、せめてその心に、一滴の色だけは付けたかった。彼女を死を止めるには、それくらいの方法しか思いつかなかった。

「ねえ、こういうことをしても、不思議よね、全く私の心は温まる感じがないのよ。きっともう随分透明に近くなってきたんだと思う」とどこかうれしそうに話した。

本の主人公の透明な心に憧れ、自分が主人公に同化しようとすることで、今の自分を忘れることができると思ったのだろう。自分の心を透明にしていたら、いつのまにか僕に対する恋心もなくなってきたようだった。

僕はもう彼女にはこれ以上近づけない、心が絡み合うことはもうないと悟った。抱きしめていた手を緩め、彼女から離れようとした。その時だった。彼女は僕の右手首をもち、自分のパジャマの中に導いた。

「あなたは、きっと熱くなっていると思うの。でも私はどうしても冷めたままなの。身体のどこを触っても同じ温度なの。どうして私がこんなに反応しないのか私にも分からないのよ」と言いながら、僕の手を自分の身体に這わせて、自分の身体に反応がないことを僕に知らせていった。最後は下着の中に僕の右手を入れたまま、僕の手を持っていた手の力を緩めた。

僕の手は自由になり、熱さを感じるはずの場所でしばらくじっとしていた。彼女の敏感な場所にしばらく指を当てていても、何ら彼女の熱を感じることなく時間が過ぎていった。まるで木の幹に手を当てている感触だった。

僕はしばらくすると諦めて、彼女の下着から手を戻し、そして彼女に何も言うことなく、待合室をあとにした。僕は彼女に付ける色を持っていないことを、はっきりと知らされ、自分でも分かってしまった。この日が彼女に会った最後の日になった。

その後、病室へ行っても面会を断られた。電話しても出なかった。それから時間が経ち、彼女がよくいた場所を探しても、町で見かけることもなく、彼女の家の近くまで行っても、彼女の気配はなくなった。恐らく本当に彼女は透明になってしまい、熱さのない身体を捨ててしまったのだろうと思った。

彼女と一緒に居ても、いつも安心できず追いかけ追いかけ、そして自分の心が届かないことを、はっきりとこの手に教えられてしまった。

その時の彼女は、自分が憧れていた、温まることも冷めることもない透明さを手に入れていたと思う。僕にとっては残念なことだけど、彼女にとってはよかったのではないかと、今から振り返っても思える。

もう20年も経って、僕も住む町を変え、このような時間も忘れたころ、ある時自分のSNSに見慣れない返信が入っている事が分かった。ハンドルネームはTとだけ書いてあった。返信の内容は、何も書いておらず、最初は間違いなのかと思っていた。それでも、しばらくそんなことが続き、ハンドルネームTは彼女の名前のイニシャルだった。彼女なのかもしれないと、僕はなんとなく思った。

その日から僕は、しばらくの間、夜寝る前になると、午前1時前に「今日もあなたの一日の努力が、周囲の人達の色に溶け込み、そして一体になりますように」とか、「今日という一日に、からだのどこかが熱くなり、透明な心に一色でも新しい色が混ざりますように」とか書くようになった。

僕が発信するメッセージには、10回に1回くらい、Tからメッセージのない返信があった。僕はこんなやり取りを6ヶ月も続けながら、あの時透明になった彼女が、今もどこかで生きていると確信した。

通り過ぎ、止まった時間がもう一度動き出したのかもしれないと思い、ある時空白で透明なコメントにメッセージで返信してみた。

「一度どこかで会いませんか?」と書いてみた。しばらくその返信はなかったが、1ヶ月くらい経ったある日、短い言葉で最初で最後のメッセージが届いた。

「今の私の心には、少しだけ色があるのよ」とだけ書かれていた。

人は色をつけてもらえる誰かに出会うことで、やがて愛を知ることができる。

きっと彼女はあれから、僕ではないたくさんの誰かに、多くの色を付けてもらえたのだろう、その事だけはなんとなく知ることができた。

彼女から返信があってから、僕は彼女に宛てたメッセージを書くのを止めた。僕も再びこの町で色のある世界に戻ることにしたのだ。

彼女は今、どこにいるのか、何をして生きているのか分からない。でもきっとあの町を出て、もしかしたら案外僕の近くで生活しているのかもしれない。

彼女は今になって、短いけれども、分別のあるメッセージで、過去の僕と今の僕を決着してくれた。大人になった今の彼女の心には、きっと白と黒くらいの色はあるのだろう。彼女の作った色が、きっと彼女生きられる場所を作り出すだろう。

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