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2022年3月14日 (月)

ケアの日本語訳は、世話ではありません。配慮です。

昨日は、所属している六甲フィルハーモニー管弦楽団の、定期演奏会でした。2年前に演奏会直前に中止を決めてから2年が経ってました。この間いくつかのオーケストラに参加したのですが、音楽活動や音楽体験の根本的な違いを、知ることになりました。

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音楽活動は、自分の「出番」がきちんとあると思える団体にいないと、自分がそこにいる意味を感じることが出来なくなります。大勢の中の一人として、自分は参加していないけど、自分の楽器と放つ音は確かに参加していると思う状況になります。

終演後も何の感慨もなく、楽屋を出ることになります。仕方がない。自分の「出番」を探せなかったのですから。プレーヤー自身が気持ちを開き、古参のメンバーが、ケアしないとその人の出番は作れません。

長くケアの仕事をしていますが、ケアの日本語訳は、世話ではありません。配慮です。

そして、「出番」を作れると、次に「音楽体験」を味わうことができます。優れた指導者が、音楽の作り出す世界を示し、アイデアを共有し、それぞれのプレーヤーが受け容れることができたとき、新しい音がするのをみんなが同時に体験します。その瞬間、「大きい、小さい」「速い、遅い」「合ってる、合ってない」といった、批評音楽からの脱出ができます。

例えば、新しい服を試着した時に、「明るい、暗い」「青い、赤い」「大きい、小さい」と言われているようなものです。「似合う」「カワイイ」「なんか〇〇みたいでいい」と言われて初めていい気になるものです。自分が音楽のアイデアの一部になっている、大きなコンセプトに自分が巻き込まれている、そういう幸福感が味わいたい、そう思うはずです。決めた音の長さで演奏できた、みんなの息があって、始まりのタイミングが同じだったというのは、本当はくだらない事です。相手の着ている服を「赤い」とか「青い」とか言ってるのと同じです。

自分の出番がある人生は幸運です。さらにそこでの体験の幸福感を、恥ずかしがらずにオープンにできたらと思います。

最近は仕事上でも、自分と同い年とか、さらには年下の方が亡くなりつつある現実に向き合っていると、自分にも可能性という機会が無限にはないことを思い知らされます。昨夜のような、自分の「出番」と、「体験」を得られた時、今までよりもこの感触に深く感謝するようになってきたのです。

あと何回こんな体験ができるのだろうか。

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