敗残の兵は何を思うのか
両親は70年代学園紛争の最中、学生運動に参加しながら僕を在学中に産む決断をしました。両親の権力に対抗する考えは、僕の中に確実にインストールされ、いつしか同じような思想を持つようになりました。
「間に合わないかもしれない」自分の活動、生きている間に、自分の望む世界にならないかもしれないという焦燥感から、人はいつしか短気になり、短期の革命を求めます。
医師も例外ではなく、おかしな発言、とんでも発言と言われるものの多くは、世界を二分する思想の革命を起こそうと、私たちに挑みかかって来ます。このコロナ禍に「闇堕ち」と言われた医療者の中にも、革命戦士の敗残を僕は見出します。曖昧さに向き合いすぎると頭の中がぼんやりして、どうしても世界を二分したくなるその気持ちは認知的不協和としてよく知られた人間の心の動きです。僕はこの認知的不協和は、知性や知識の量や質でおこるのではなく、誰でも持っているの脳の思考の癖です。脳が不協和、矛盾した状態に耐えられなくなると、採択しやすい理論に飛びついてしまいます。
今から50年前、僕の生まれた頃、吉野雅邦受刑者がその妻と胎児の殺害に関わりました。その後あさま山荘事件に関わり無期懲役を受けていることは知ってます。しかし同時の裁判長、石丸俊彦さんが「全存在を欠けて償え」と言った背景に、ご自身の経験が含まれていたことは知りませんでした。(NHKクローズアップ現代より)
「私の願いは『平凡な万人の平凡な生』です。そのためにどんな弱者一人たりとも死んではならない、命を奪ってはならないということです。天皇ウルトラ信奉者だった私の願いです。『革命』はいかなるイデオロギー、哲学でもってしても、弱者には無用である。このことを私は先の戦争から学びました」
僕もかつては革命戦士を気取って、過激な革命を夢見た事もあります。しかし、今は何百年も先に達成する革命の、ほんの一歩か二歩進めればと、革命を見届ける夢を諦めています。しかし、「訓練中の革命戦士」のままこの先を生きて行きたいと思ってます。
「社会を変え得るのは、決して人々の“怒り”の行動や“勇気ある少数者の突出した行動”などではなく、声を発し得ない民の心の底からの願いであり、祈りなのではないか(中略)人を変え得るのは、力ではなく、本人への愛情を込めた説諭による他ない、と思えるのです。そうです。石丸先生が、自ら身をもって実践されたように」(吉野雅邦)
(訓練中の革命戦士は、ピンクのハート型のケーキセットを食べながらこの記事を書いてます)
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