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2021年10月

2021年10月26日 (火)

反省は長く、謝罪は短い。

ここには書けない事情があり、僕の発案で毎晩、22時45分から15分間(延長5分まで)1週間連続で家族会議をして、その内容をレポートに書くことになりました。今夜が最後の家族会議でした。テーマは、「反省とは何か」でした。反省を知るために、謝罪と何が違うのかも討論しました。
みんなの話をまとめていくと、反省は個人に留まり、また未来から過去を振り返るもの、失敗も成功も等しく検証することと分かりました。
また、謝罪は個人を超え、世代を超え、行動することです。過去の歴史の謝罪を実際に関わっていない自分達がしなくてはならないのです。そして反省は他人に要求されることではありません、謝罪は他人に要求されることでもあります。
謝罪は直ぐにできますが、反省は時に長い時間がかかります。
僕の反省はこういう内容でした。昨日名古屋でオーケストラの練習の途中の休憩で、当時の後輩二人と話しをしている時、過去の自分を含めた活動の反省がやっと言葉になりました。
音楽の楽しさを伝えることなく、かなり長時間練習していました。合宿は志賀高原でしたが、夜中3時近くまで起きて練習し、次の日は8時前に起床でした。夏の高原にいても、ほとんど外出は許されず、ひたすら練習でした。
「あの頃は無茶していたなあ、これもまた良い思い出の一つだ。若気の至り。青春青春」と思っていたのですが、最近になってから、「あれはひどいことをしていた」と過去を反省するに至りました。
ああいった長時間の練習に苦痛を感じなくすることは、いわゆるブラックバイト、ブラック企業を内面化する作用があるのです。苦しみを共有したものが、一番大きな力を発揮するという信念を植え付けて、無意味で効率の悪い、そして楽しむこととはどういうことか分からなくするのです。
僕もブラック大学医局の研修医時代に心身のバランスを乱しそして逃げ出しました。自分自身がこの反省に至るまでに、30年近くかかることを家族に告白しました。また「反省をさせると犯罪者になります」(新潮新書 2013年)の言葉通り、反省を即時求めると、相手に合わせて手触りの良い嘘ばかり言うようになります。
家族会議に臨むまでは、反省とは何か分かっていませんでした。たった20分程度話しただけでも全員が、なるほどと納得できる何かが分かりました。この家族会議で家族それぞれは、反省を重ねた人間の末裔として成長したことを実感したのです。
こんな風に長い話を日常書き投稿することを、高校1年生の頃から続けています。無理矢理読まされていた過去の人たち、そして今のあなたには、直ぐに謝罪をします。お時間を頂き申し訳ありませんでした。しかし、このこと反省にはまだ相当長い時間がかかりそうです。

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2021年10月22日 (金)

医者が諦めたら患者はもう終わり

僕が長く診療している、精神疾患の方がこの1年食事を拒否するようになった。介護している方々が食事を口に運んでも、吐き出したり、食器をひっくり返したりを繰り返していた。僕は勝手に「もう生きることを拒否しているのだから仕方がない」と困る介護者を慰めた。時には諦めることを宣言すること、これが僕の仕事だと思っているからだ。

しかし、僕の話を話半分で聞きながら、介護者の方々はその方の言葉では言えない小さなヒントをケアの力に変えていた。男性が介助したら食べた、菓子パンなら続けて食べた、食べる場所を変えたら食べたと僕の想像を超えたケアを続けていた。うまくいってもまた時間が経つとうまくいかなくなった。

そして、この2週間とうとう食事を完全に拒否した。また僕は「もう生きるのを拒否しているのだから仕方がないよ」と言い続けた。その方の本心はどうしても分からなかった。なので自分で話を作るしかなかった。

ある時偶然、その方の残っていた前歯の一本が抜けてしまった。それから急にこの方はもりもりと食事を始めてカレーうどんを完食した。

生きることを援助することに愚直な、介護者の方々はとても辛抱強くそして賢明だ。ケアを続けるから、前歯が抜け落ちる日を迎えることができたのだ。一方で僕の有り様は死に逝く人たちとその周りに引導を渡すような慰めばかりだ。「医者が諦めたら、患者はもう終わり」という指導医の声が蘇る夜だ。

僕は緩和ケアと終末期ケアに没頭しすぎていたのだ。

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2021年10月17日 (日)

「あるはずのものがない」ことが分かる力とは。「未来のきみを変える読書術」(苫野一徳, 筑摩書房, 2021) を読んで。

苫野 一徳 先生が、書かれたちくまQブックス、「未来のきみを変える読書術」を読みました。
ここに書かれている読書の仕方とほぼ同じやり方を僕も続けています。まず一度本を読みます。止まることなく読み切ります。そして、2回目にざっと読んで記憶に残っているところ、付箋紙をつけたところを、将来引用するために書き出していきます。僕は、毎日日記をつけているのですが、MacのDay Oneというアプリでまとめています。メモアプリと良く似たものです。読んだ本、観た映画と日記、そしてビールが好きなので、初めて飲んだビールには自分の感想やキーワードを調べて書いています。
さて、そこに書き留めたフレーズの一つに、
'同じレントゲン写真でも、わたしたちの見るレントゲン写真と、医師の見るそれが全く違っているように、大量の読書経験を積めば、世界の見え方がまるで変わってしまう、と。
「教養を積む」とは、そういうことです。 p9'
という箇所があります。
この箇所は至言です。見方が分からないまま世界に知識のないまま向き合っても何も見えてきません。存在していても見えてこないと言うことです。レントゲン写真に写っている異常が存在しているのに医者には見えて、一般の人には見えないのです。かく言う僕も、脳外科と内科医としてのトレーニングを長く受けたので、脳と胸と腹部のレントゲンは分かりますが、骨のレントゲン写真は時に見落とします。
それでは、どういうトレーニングを受けたら見えるようになってくるか、二つの大事な事があります。
一つはこの本にもあるように、多くのものに触れそして語り検証することです。研修医の時に毎日撮影されている相当量のレントゲンを同僚と読み、記録しそして指導を受けて自分達の精度を一緒に鍛えていきました。「多くの正常を見れば、異常に気がつくようになる」これが基本です。まず浴びるように読み続けるのです。ちなみにレントゲン写真を見ることを「読影」と言います。読むことの本質は本でもレントゲン写真でも同じです。
さらに一段高みに上るためにはもう一つ大事な事があります。それは、見えていないものを読み取ることなのです。推理小説の名探偵のように、本来あるはずのものがそこにないと言うことを読み取らなくてはなりません。
さて、僕は彼の指導で哲学を学んでいますが、「存在論」の理解はとても困難です。「そこにあるものを『ある』とするにはどう考えたら良いのか?」といった深遠な問いにまず立ち止まってしまいます。「そこになるものはあるんだから、あるんでしょ」とおかしな話になり、「え、見えないの?」と言っても対象物によっては見えません。
素人がレントゲン写真が読めないのと同じです。医者である僕には存在が見ていても、素人には見えていないのです。おかしな場所に指を指せば見えるかもしれません。でも、何が見えているのか分からないことでしょう。つまり見えても読めないのです。
しかし、哲学で言うところの「認識論」は、そこに存在しないものを認識することをどのように考えるのでしょうか。例えば乳癌のため片方の乳房を切断された方のレントゲン写真には、どちらかの乳房が映っていません。しかし、素人がぼんやり眺めても、何が映っていないのか分からないことでしょう。
この、「存在するはずのものが、存在しない」ことを読み取る能力ができることが、さらに大切なのです。「あるものがある」ことを指摘する力よりも「あるはずのものがない」ことが分かる力が、世界を俯瞰する上では必要な能力だと思うのです。
彼は '読書は僕たちをグーグルマップにする'と書き出しています。しかし、グーグルマップは鳥からの視点しか与えてくれません。読書を自分の人生経験と照らし合わせていくことで、グーグルマップで見えていないはずの建物の側面、山の稜線が自分の心の中だけで見えてくるようになるはずです。
そうすれば、きっと世界の見え方はさらに広がり、新しい発見が生まれることでしょう。かつて、海王星が周囲の星の観測と、机上の計算から発見されたように、見えそうで見えない場所でいつも存在し発見を待ち続けているのです。

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人を仕事に駆り立てるもの。仕事の原動力とは何か。

先日、ビデオ講演会で同僚の講演を聞きました。
彼とは年も近く、長い付き合いで、地元でクリニックの運営をしている者同士です。
2002年に神戸に来てからしばらくは、勤務先の病院の給与では、節制しないと家族全員を十分に養えないため、職場には黙ってこっそりアルバイトの当直に行っていました。まだ僕が30代元気だった頃です。
そこの病院で彼は働いていました。
僕は、所属していた大学医局と赴任先にある意味恵まれ、一人当直(多くの入院患者、多くの救急外来に来る患者に対して、夜にその病院で医者は一人という過酷な状況)は医者になってから10年はやっていました。どんな疾患でもまず最初だけは一人で診療する仕事に慣れていました。アルバイト先の病院はかなりキツいまた、夕食もかなり不味い、患者層も何かと怒っている人が多いブラックな仕事でしたが、高い給与ほしさに頑張っていました。
彼はある朝、僕からの申し送りを聞くために、当直室に現れました。テンポ良く話しを聞き、そして少し話せば多くのことを理解される方と直ぐに分かりました。大抵アルバイトの当直で、そこの医者と話すと、相手のやる気のなさというか、「あんた、本当に大丈夫?」という方も多いなか、彼は違いました。
直ぐに悟り、察して、そして責任を引き受け、場をきちんと支配できるかだと分かりました。場末にもきちんと良識のある方はいるものだと思いました。
その時から、随分と時間がたちました。
僕が開業したのがもう10年前、彼も地元の緩和ケアに関する研究会に来て、良くまたプライベートでもお酒を飲む仲間となっていました。しかし、仕事の話は直接することなく、テンポの良い会話だけを楽しむ相手でした。
しかし、何度か患者の診療に関するやり取りや、管理の仕方や連携の意見の交換で、「あれ、この方とは考えは合わないのかもしれない」と、思うことが数回ありました。 色々と患者のことを相談しても、「きちんと仕組みを作らないと」「それは〇〇のやるべき仕事だから」と素っ気なく返事することがありました。
僕は以前から、目の前の患者ただ一人に役立てば良いと「一回性のケア」を大切にしています。色んな洗練されたケアも、ある一人の患者でうまくいけば、もうそれは終わり。また、人を極力雇わず自分一代で終わり、後輩に一通りの指導はするが、弟子はとらないと今まで仕事をして来ました。彼は一昨日の講演で「自分はスモールビジネス」と話していましたが、彼の1/10くらい僕はスモールです。僕からみれば彼は10倍ビックです。
先日の彼の講演を聞いてから、こんな信念の僕には、自分と彼との違い、そして信念の違いを思い知りました。彼は医療だけでなく、社会や、公共をそして、世代継承をとても大切にしているのだと分かりました。どう言う世界を理想にしているのかが分かり、やっと彼に対して「あれ?」と思った意見の基になる信念を知ることができました。
究極の名人芸としての医師の高みを目指す僕とは違い、彼は医師としての自分の存在を社会の中に取り込む公共的な高みを目指しているのです。凄い方が近くにいるものだと感服しました。
さて、彼は講演中「仕事嫌いなんで」といつもの調子で受け応えしていました。そこは僕も負けないくらい昔から仕事嫌いで、最近は毎日17時になると「あー今日も1時間残業してるわ」とか、朝起きる時間が8時より早いと「明日は早起きだ」と半分真剣、半分冗談でぼやいています。
しかし、彼はきっともっと働いています。自称「仕事嫌い」が仕事に打ち込む時、必ず自分の周りの世界で、理想の高みの美しさを追求します。人脈を温め、好奇心を開き、毎日を上機嫌で過ごします。彼もきっとそうなのでしょう。自分の理想の高みを目指すとはすなわち、美しさを求めると言うことです。
それでは、なぜ相変わらず持久力に課題を残す僕は、仕事はそこそこなのに、彼は馬車馬のように働き続けているのでしょうか。彼はこの講演で、クリニック、団地の保健室、研修医教育、私的な研究会とスーパーマルチで、ハイパーアクティブパフォーマーとして働いている自分を惜しげもなくひけらかして、1時間を超える講演を、鼻息荒く終えていました。僕の10倍の鼻息でした。
僕は、負けたと思いました。同じ「仕事嫌い」であっても、彼があれほどに働き続けることができる理由を、僕は今日まで考えていました。そして、講演内容のいくつかを思いだしおぼろげにわかりました。
多くの男達が、自分の肉体と精神に逆らって仕事をし続けるとき、その燃料はいつも借金です。もしかしたら、彼の原動力は借金なのかもしれない、そう思ったとき、僕はさらに自分が成長し、発展するには何が必要なのか、一瞬で理解したのです。

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