今日は神戸でリアルで対面の講演会に参加した。安楽死をテーマとして作家の先生が講演された。その中で、今こうしている間にも安楽死を本気で望む人がいるのに、いつまでもぐずぐずと議論するなと言われていた。「苦しみの真っ只中にある患者にとって、法制化するかどうかの議論なんて意味がない」「それは火事の中にいて救助の必要な人がいるのに、消防車の作り方を議論しているようなものだ」と発言していた。また聴衆の中の複数のクリスチャンの医師でも安楽死の法制化を望んでいるのには驚いた。
ある医師も、「もしも自分がALSになったら安楽死を望むだろう」と話していた。僕はさらに驚いた。その医師はクリスチャンだったからだ。クリスチャンは自殺を容認しないため、特にカトリックの信仰者は安楽死に反対しているからだ。一度安楽死に関する記事をネットメディアに書いたとき、ベテランのクリスチャンの医師から私個人宛に、メールで抗議をされたこともある。別のクリスチャンで同級生だった医師(友人)から、「人は与えられ、奪われる命を神様のために生きるという謙遜さがキリスト教信仰の根本だ」とメッセージで教えられた。
信仰は職業的な信念よりも上位にあると私は考えていたので、とても混乱した。さらに混乱したのはシンポジウムの討論が進行してからのことだった。
作家の先生もシンポジウムに参加していた別の医師から、「それならもしもあなたがALSの患者の主治医だったとして、安楽死を求められたら本当にするのか」と尋ねられたとき、「自分にはできない」とはっきりと答えていた。正直な方だなと思ったがこういう矛盾した感情も人間らしいなとは思う。以前にNIMBYについて書いたがその心性そのものだ。
NIMBYとは、 "not in my back yard"の略で、簡単に言うと、「別のところでやってよ」と言うことで、他人に求める行動も、自分自身の責任が及ぶ現場ではできないものなのだ。こんなことでは、安楽死を望む人には応えられないし、医師の安楽死が訴追されなくっても、求められても安楽死の手伝いができない人は自分を含めて多いのだろう。他人が安楽死をしたいと思う気持ちは尊重するが、自分は反対だという人もいる。他人の自由な意志を尊重することで、自分の自由な意志を守ることができるのも成熟した考え方だと思う。
年末に放映されたNHKスペシャルの番組のため、僕は密着取材を2年近く受けた。患者自身が終末期に受ける治療を自分で決める様子と、僕とのやりとりの全てを記録した。番組では、患者の求めに応じて鎮静をするという場面があった。病院勤務の時はあくまでも、最終的な判断は医療者の側にあったので、患者と家族から先に鎮静を要請されることには慣れていなかった。
しかし、相手の自宅という場所で診察していると、自分の管理、責任の届く感覚は、病院での仕事の仕方とは全く異なる。相手の自宅で「いい」とか「だめ」と言っても、相手からして見れば、「自宅で自分がどう生きてどう生活して、どう死ぬかは自分の問題だろう?」ということが基礎になるのだ。だから、自宅療養をしている患者と家族から、「安楽死ができないのは分かっているから、最後は苦しまないように鎮静して欲しい」と言われると、やはり「分かりました」としか答えられなくなるのだ。病院に入院中の患者から申し出を受けるのとは全く関係性が違うのだ。
複数の患者から「今でも苦しいけど、この先これ以上苦しくなると耐えられそうにないから、予め鎮静して欲しい」と言われその要望に応えたり、応えることなく亡くなったりする様子を撮影された。その事を、別の同僚の医師に正直に話したところ、「そういうガイドラインを超えた鎮静のやり方は、こっそり見えないようにやって欲しい、テレビの取材を受けることなく個人的な活動としてやって欲しい」と言われ、以降その医師からは共働する場から排除された。
安楽死について、率直に人前で話すことはとてもリスクがあるし、安全、安心な場所で議論するなんていうのは、現実ではなかなか難しいことなのだ。このシンポジウムの場では、やはり僕も自分の意見や考えを率直に話すことはできなかった。でも僕は個人活動家、研究家なのでこれからも率直に意見を残しておこうとこうして書いている。組織や、プロジェクトに関わる人は、言えないことも増えてくる。
僕自身は安楽死に反対だ。本音を言うと、安楽死に自分が関与することに反対だ。自分の行動が、他人の死に直結することが、例え、安楽死を含むあらゆることがその人の寿命、神から与えられた命だったとしても、僕には信仰がなく自分を支える大きな物語がないのだ。自分が安楽死を実行して、目の前で患者が亡くなることに僕は耐えられそうにないと今は思う。
今回のシンポジウムを通じて感じたことがあった。1)安楽死を求めてしかも受けたい人はかなり少数。でもそういうマイノリティの希求に対しても真剣に応えようと議論するようになった、2)安楽死の代わりの方法として、一般の市民、患者は鎮静や、断食をする方法(VSED)を知るようになった。医療者は、耐えがたい苦痛に鎮静をすると考えているが、市民や患者は、死を迎える治療の一つとして鎮静を捉えるようになった、3)医療者の内在する偏見(スティグマ)、固定観念は相変わらず強く、患者の属性(氏、素性、学歴、病歴、家族構成)から、安楽死を求める気持ちを理解しようとする傾向があることは良く分かった。
治療の中止も安楽死を含むあらゆる患者の死に、医療者が納得できるかがやはり医療現場では大きな影響をもつのだ。患者や家族がどのように死を迎えるかと言うことと同じくらい、関わる医療者の納得が、患者の死のあり方を定めてしまう。なので、かつては延命治療の果ての死として、今は普通に病院での蘇生行為を開始しない死として、どちらも根にあるのは関わる医師や医療者の納得いく死なんだと、医療現場では考えているのだ。行為は正反対でも、根は同じところがある。
シンポジウムの中でも作家が話していたが、ALSで身体は不自由であっても、その心は自由だと考える人もいる。そう、自分自身を鎖でつないだとき、人は自由を失うのだ。では自由になるにはどうしたらよいのだろうか。その答えは、アルコールの力を借りてしゃべることでも、内密で率直な会を開いて話すことではない。それは、自分が自由に話す以上、誰もが自由に話して良いどんな考えを持っても良いと、他人の発言の機会や、意見を持つことを認めることから始まるのだ。だから、個々に登場した全ての人たちはそれぞれ思うように思ったら良い。そう思えるようになったからこそ、僕もこうして自由に自分の意見が書けるのだ。ただしこっそりと。