ラストドクター(最後の医師) 教師は生徒の、医師は患者の苦痛の耐え難さを認めがたい
必要な患者に鎮静は十分に行われていない
「先生、もうこれ以上のこの苦しさには耐えられそうにないので、そろそろ眠らせて下さい」
診察している患者からもう何回求められただろうか。私は、緩和ケアの治療の一つとして、最後の手段である (last resort) 鎮静を日常行っています。鎮静 (palliative sedation)は、セデーションとも言われ、睡眠薬を注射し続けることで、苦痛を緩和する方法で、患者はある程度時には、周りが呼んでも起きないくらい深く眠ってしまいます。
実際に鎮静が必要になるほど、強い苦痛のまま最後の時間を過ごす患者は、まともな緩和ケアを受けていれば一部です[1]。ではなぜ一部の患者が、鎮静を必要とするような苦しい道に向かってしまうのか、本当のところ自分では今でもよく分かりません[2]。できれば鎮静の助けを必要とすることなく、患者の最期を静かに看取りたいと本心から願っています。でも毎月のように鎮静が必要な患者に出会ってしまいます。
実際、私はぎりぎりまで鎮静を始めるまで悩みます。「他にできることはないのか」、「他の看護師はどう感じているのだろう」、「家族の中に一人でも鎮静に反対する人はいないのだろうか」と頭の中を巡ります。それでも、ひとたび決断したら、直ぐに鎮静を始めています。
自分自身も鎮静については他の治療、例えば医療用麻薬を使った痛みの治療と違い、悩み、迷う様は、先日の自分が出演しているNHKスペシャルの録画を観てよく分かりました[3]。自分が悩みつつも、積極的に鎮静を行うようになったのはなぜか、改めて考えてみました。
鎮静は、患者が耐え難い苦痛があり、他に苦痛を緩和する手段がないときに行われます[4]。しかし、実際には患者は耐え難い苦痛にもなお耐えているのが現状ではないでしょうか。
本人だけでなく家族のためにも鎮静が必要
ある医師が「人間は産まれるときも産道を通るときに苦痛がある。でもそれは一時だ。いずれ苦痛はなくなり解放される。同じように死ぬときにもある程度、一時の苦痛はあるのだ」と、作り話で患者の苦痛を普通のこととする意見を、研究会で発言していました。
私は、苦痛と呼んでいるのは母親の陣痛で、新生児が誕生の苦痛があるのかは分からない。産まれる新生児よりも、産む母親の苦痛を緩和するために無痛分娩だって治療として日常的に行われているではないか。死ぬ前の患者の苦痛は普通のことだとしても、家族の苦痛は普通と言えるだろうか。強い苦痛の果てに、死を迎えた患者を看取った家族には、患者の死後も果てしない心の苦痛(陣痛)が続くのではないかと(心の中で)反論しました。
鎮静は時に本人の耐えがたい苦痛だけではなく、共にその苦痛を体験する家族のために必要なのです。
教師は生徒の、医師は患者の苦痛の耐え難さを認めがたい
患者の耐え難い苦痛を「まだ耐え難いとは言えないのではないか」と主治医が発言する会議に立ち会った事もあります。その時以前に感じた不快感を思い出しました。
私の子供が学校で繰り返し他の生徒から嫌がらせを受け、LINEでも陰湿な言葉を浴びせられた事がありました。クラス内の問題に気づいた担任の教師は、「トラブルの原因は何か」と、背景を双方から聞き取りました。しかし、「喧嘩両成敗」「これはイジメではなくイジり」「もっと自分が強くならないと」と子供に伝え、問題の処理をしようとしました[5]。その結果、さらに事態は悪化し、子供は学校に行くのを嫌がるようになりました。
親としては見るにみかねて、直接学年主任のベテラン教師に伝えると、「それはつらい思いをしましたね。私からも一度お子さんの話をよく聞いてみます」と、まず子供の苦痛に寄り添ってくれました。お陰で子供は、学校へ行く気持ちを取り戻し、他の生徒に話しかける勇気を得て、イジメ、イジメられる関係から脱却する第一歩となりました。
会議で取り上げられた患者も、自分の苦痛の「耐え難さ」を医療チーム全体に認めてもらえず、時に一番頼りにしたい医療者から退けられてしまったのです。「今まだ耐え難い苦痛があるとは言えない」、「まだやれる事があるはず」、「昨日はこれ以上は耐えられないと言っていたが、今日は大丈夫そうだ」と、色んな言葉で患者の耐え難い苦痛を、会議の場で医療者は軽減できてしまいます。その結果、患者は耐え難い苦痛にさらに耐え続けることになるのです。
まず相手の耐えがたい苦痛に対する対処の方法を知らないとき、対処する方法に慣れていないとき、そして、対処する覚悟がないときに、相手の苦痛の強さを自分の心の中で自分の言葉で軽減することで、その場をやり過ごそうとしてしまいがちです。
決して、教師も医師も相手の苦痛を軽視しているのではありません。相手の苦痛の耐え難さを、自分の働いている場である学校や病院の中で認められないということなのです。ですから、学校の教師は自宅内の家族生活の耐え難い苦痛を、病院の医師は在宅療養中の病気の耐え難い苦痛は、素直に認めやすいものです。家庭教師や、自宅を訪問する医師は、同じ人間でも全く違う心の姿勢で相手に臨むと思うのです。
結局会議で討論されたその患者は、適切な時期に鎮静を受けることができず、やがて死を迎えました。
眠るように苦しまずに死にたい
もう一つ重大な観点を示しておきます。医療者は、耐えがたい苦痛に対して、緩和治療の一つとして鎮静を行うと考えています。しかし、患者を含む一般の方は鎮静を治療としては考えず、死に方の一つとして捉えているようです。日本で安楽死に賛成する一般市民は、死ぬ権利の実現というものではなく、「眠るように苦しまずに死にたい」という、ごく普通の願いとして鎮静を求めていると、私は現場で感じています[6]。
また医療者は、DNR (Do Not Resuscitate) という心肺蘇生を始めないという死に方、いわゆる尊厳死を選ぶかを、日常的に患者や家族に問い続けています。もう日本では、特に高齢者にとっては尊厳死は普通のことです。それなのに、これ以上苦しみに耐えられないとか、眠るように苦しまずに死にたいという患者の願いを引き受け、死に方の一つとして、希望通り鎮静を始めることには、医療者は根本的な疑問を感じて躊躇してしまうのです。
「もうここで、自分が何とかするしかない、相手にとってここは最後の砦 (last stand) で、自分は最後の医師だ (the last doctor)」と、腹を括れるかが、相手を苦痛から救う大切な決断に大きく関わるのです。
文献
1)Caraceni A, Speranza R, Spoldi E, et al. Palliative Sedation in Terminal Cancer Patients Admitted to Hospice or Home Care Programs: Does the Setting Matter? Results From a National Multicenter Observational Study. J Pain Symptom Manage. 2018 Jul;56(1):33-43.
2) van Deijck RH, Hasselaar JG, Verhagen SC, et al. Patient-Related Determinants of the Administration of Continuous Palliative Sedation in Hospices and Palliative Care Units: A Prospective, Multicenter, Observational Study. J Pain Symptom Manage. 2016 May;51(5):882-9.
3) 日本放送協会、NHKスペシャル 患者が"命を終えたい"と言ったとき、2020年 [https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/8V4MJ3ZJ2K/]
3) 日本緩和医療学会、がん患者の治療抵抗性の苦痛と鎮静に関する基本的な考え方の手引き、2018年 [http://www.jspm.ne.jp/guidelines/sedation/2018/index.php]
4) 木村 雅史, 「いじめ」と「いじり」をめぐるドラマツルギー, 社会学年報, 2017, 46 巻, p. 33-43
5) Reich M, Bondenet X, Rambaud L, et al. Refractory psycho-existential distress and continuous deep sedation until death in palliative care: The French perspective. Palliat Support Care. 2020 Aug;18(4):486-494.
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント