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2020年11月 6日 (金)

フードフォトグラファー新城からのメッセージ「人生最後の晩餐の質問は大嫌い」

フードフォトグラファーの新城です。

いちいち目につく軽い記事に噛みつかなくても良いではないかと思うのだが、どうしても自分が専門分野としている、医療哲学に関わる事には、黙っていられないのが人間の性である。

一般的な事よりも、一つ上の事を言って相手を唸らせたいと思うのもまた、人間の性というより私の承認欲求から生じる煩悩でもあろう。

ここに告白すると、私は「明日が人生最後の日としたら、最後に何を食べますか」という質問が大嫌いなのだ。これを、「最後の晩餐テーゼ」と名付けておこう。

最後の晩餐テーゼには、一つの重大な矛盾がある事をまず私は指摘したい。ある人が、人生最後の晩餐を食す前に、どうして今からまさに食すその晩餐が最後だと自覚できるのであろうか。

私の経験からは、人間は絶えず明日の事を考えており、客観的にはまもなく死を迎えるかもしれないという状況にあっても、なお明日は今日と同じように始まるだろうと思っているものなのだ。

自覚的に、今この時が人生の最後であると言う事に気がつけないのが、人間の性であることはもっと知られて欲しい。この事実は生物としてのヒトには、死を予め認知する事が出来ないという仮説から導かれる、私の経験的な事実である。

賢明な人生賛歌派の活動家はこういうだろう。「今日が人生最後の日と思い、毎日を生きなさい」と。この言は生きる謙虚さと時の有限性を教える、茶道にも通ずる一期一会を、圧倒的な説得力で問いかける。

しかし、ここにももう一つの大きな矛盾が生じることを、私は指摘しておこう。毎夕最後の晩餐として、自らの欲望のままに贅を凝らした食を求める結果は、贅肉の塊、つまり肥満への道なのである。今日が最後の日と思って生きろなどと助言すると、結局は健康を害する結果となるのである。

「今夜が最後、今夜だけは特別」とコンビニスイーツを食し続けた結果、最後の日が3年続き深刻な健康問題を生じた患者をちょうど診察したところである。

違う側面からさらに考えてみよう。「最後の晩餐」はキリストが12人の弟子と食事を共にするという機会である。ダヴィンチの余りにも有名な絵画にも描かれており、この後キリストは弟子の裏切りを予言し、そのまま拘束されてしまう。しかし、その晩餐以降もキリストに夕食を食べる機会は残されていただろうと推測する。つまり、最後の晩餐は、最後の夕食ではなかったのだ。

これが最後と思っていてもやはり、また次の日が来るという真理が導ける。最後の晩餐の次の日の夕食は、どんな食材でどんな料理だったのだろうと推測するのは、人間の自然な知性の働きである。

私が指摘したい、もう一つの最後の晩餐テーゼは、「何を食べるか」ではなく、「誰と食べるか」がこのテーゼの本質であると言う事である。ただ単に最後の夕食と言うことではなく、最後の団欒が本意なのである。

改めて皆に問い直したい。「明日が人生最後の日としたら、最後に誰と何を食べますか」と。しかしこの質問にもほぼ全員が、正しく返答できない問いなのである。

その理路を以下に続けよう。例えば、私の家族は5人、妻と三人の息子がいる。皆の想像する通り、食べ盛りである。食べ物の争いは絶えない。

さらに、争いを深刻にする私の家族にとっての特別な事情を告白しなくてはならない。私の家では、一人一人の偏食を認めている。好き嫌いなく何でも食べるという教えを、私は人権を根本から否定する危険思想と見做しているのである。

どんな思考も嗜好も志向も尊重されなくてはならない。私は、単なる家長という立場ではなく、家族構成員と共に市民的成熟を目指す一員なのである。

この私も特定の大きさと切り方をした玉葱と、特定の味付けをしたラッキョウを一切食すことができない。私に玉葱やラッキョウを食べる事を、他者が強制する事は、即ち私の市民権を剥奪する暴力行為である。

私の家族にとっては、明日の晩餐も保証された日常の晩餐であっても、なかなか家族構成員全員の合意に達する事は困難であると言わざるを得ない。

言い換えれば、家族構成員のいずれかが同意できない食事をするという事は、ドメスティックバイオレンスを、最後の晩餐の成立と同時に伏流することになるのだ。これを、最小共同体に生じる、矯正された強制原理と暫定的に呼ぶことにしよう。

以上、論考を続けてきたが、最後の晩餐テーゼに関する、私の結論を述べる。

最後の晩餐に何を食べるかは、人間は今がまさに最後の晩餐であると認識することが出来ないため、カントが理性の限界を述べたことと同じく、終わりなき最後が続くことになる。

さらに、誰と食べるかについては、晩餐に参加する全ての構成員の合意を得る事は出来ないため、最後の晩餐のテーゼそのものに、暴力の存在を認めることになる。従ってヘーゲルの提唱する自由の相互承認原理から否定される。

最後の晩餐テーゼを二つの根拠で棄却したが、私には新たな提案がある。

「最後の晩餐」ではなく、「午後の抜歯前の昼食」とこのテーゼを置換することだ。

今から一定の時間は、麻酔薬と感染予防のため確実に食事ができず、また抜歯という自分の身体の一部を喪失するという、喪の儀式に備え、今何を食べておくべきなのかについては、万民にとって、共通了解に至る可能性のあるテーゼとなり得る。

さらに、抜歯という喪の作業に臨むにあたっては、独りでその作業に臨む必然性がある。誰も私の抜歯を代理する他者はいないからである。

私がトイレに行き今すぐ用を足さないと、大変な事態になる蓋然性が高い状況にあるとする。しかし、「ねえ、そこのあなた大変申し訳ないけど、私の膀胱は間も無く暴発します。代わりにトイレに行ってくれませんか。どうしてもこの原稿を完成させなくてはならないのです」と、その行為を代理した他者が、私の用を足せないと言うことである。

さらに分かりやすく言い換えると、抜歯前のランチは一人で食えと言うことである。

先日、私が最後の晩餐テーゼを放棄して、抜歯前の昼食として選んだのが、この和牛カルビと牛骨スープの冷麺(生姜麺)である。長年の懸念事項であった、親不知の抜歯を済ませ、麻酔が覚めても何も食べる気持ちが湧かない私を、この冷麺は驚くべき力量で支え続けたのだ。

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翌朝まで食欲という人類最大のコントロールできない自然欲求を緩和することに成功したのだ。

ここまで読んだ、皆は「明日が人生最後の日としたら、最後に何を食べますか」という問われた時は、私の論考を思い出し、「午後の抜歯に備えて、あなたは何を昼食に食べますか」と脳内変換して問い直して欲しい。その瞬間に皆の心は、確実に解放されるはずである。この解放こそが、アウフヘーベン、止揚の本質である。

これは、私から皆への未来の処方箋である。

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