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2020年11月

2020年11月 8日 (日)

僕の好きだった彼女「死を憧れていた彼女」

彼女は最初逢ったときから、気になることを言っていた。「人間が死ぬことは自分の意思でどうにでもできることなのよ」と、死に対する憧れを話していた。

「ねえ、この本読んだ?この本の主人公はとっても美しい死に方するわよね。少しずつ身体と魂が透明になっていく感じがいいわ」

いつも彼女は家に帰ろうとしなかった。家には自分の居場所がなく、遅い時間まで広い公園や、自分の通院している名古屋の病院の大きな待合室の片隅に留まっていた。

その日ももう診療時間も終わり、人のいなくなった病院の待合室で、僕と二人並んで座っていた。

ここに来るのはもう何回目だろう、長い時間彼女の横に座ってきた気がする。暗くなった待合室の椅子には色がなく、並んだ椅子の一つ一つには、なんの個性もなくただただ並んでいた。色のない椅子に座り、彼女もいつのまにかその色になじんできてしまったかのように、会う毎に色が抜けていった。

だんだん透明になってきたんだなと、僕は口には出さないけど実感していた。

彼女はこの病院の心療内科に通院していた。僕も何度か診察に付き添ったけど、担当医の診察は立ち会うことができず、その日も長い時間、診察室の外で待っていた。

彼女は両親との関係は健全そうにみえていたのだが、家に帰ると体調が悪くなるし、学校へ行こうとすると、身動きできなくなるほど、家の布団で寝ていても、苦しくなるので、とうとう入院することになったのだ。

入院中の彼女に会いに行った。その日も誰もいない夜の待合室で、いつものセーラー服ではない、パジャマで顔色の悪い彼女の横に座り、僕はいつも通り、背中を弱い力で撫で続けていた。自分の心が何かをもっと求める動機がおきないように、少しでも撫でている手に、意思が込められると彼女は直ぐに察して、すぐに身体を離してしまうのだ。

彼女にただ触れていたい僕は、待合室の暗さにもう一度自分を同化させ、欲望を殺した。そして恐る恐るもう一度手を伸ばすと、彼女は再び僕を受け容れてくれた。

「やっぱり身体って不自由よね。心が自由にならないのはこの身体のせいだと思うわ。ねえ、私ね、今日がちょうど良いと思える日が来たら、そのまま死のうと思っているのよ」と穏やかな表情で、僕の方を向くことなく、自分で一人つぶやくように話した。

僕は、「それは止めておこうよ」と両手で彼女のことを背中から抱きしめると、彼女は嫌がることなく僕に抱かれていた。それでも、彼女は全く僕の動きに応えることなく、身を固めてじっとしていた。

彼女を救うことはできなくても、僕はどんな色でもいいから、自分のできる方法で彼女に少しだけでも色を付けたかった。分からないくらい薄いクリーム色でも良いから。

いつも待合室の時間は残酷だった。僕の心の熱情は、手を通じて、彼女に気持ちを伝えているはずだった。なのに彼女は抱きしめている間、全く心が動かないように、努めている様子だった。 僕の熱情が自分の心に入ってこないように、拒絶しているように感じた。

心に何も伝えられなくても、せめてその心に、一滴の色だけは付けたかった。彼女を死を止めるには、それくらいの方法しか思いつかなかった。

「ねえ、こういうことをしても、不思議よね、全く私の心は温まる感じがないのよ。きっともう随分透明に近くなってきたんだと思う」とどこかうれしそうに話した。

本の主人公の透明な心に憧れ、自分が主人公に同化しようとすることで、今の自分を忘れることができると思ったのだろう。自分の心を透明にしていたら、いつのまにか僕に対する恋心もなくなってきたようだった。

僕はもう彼女にはこれ以上近づけない、心が絡み合うことはもうないと悟った。抱きしめていた手を緩め、彼女から離れようとした。その時だった。彼女は僕の右手首をもち、自分のパジャマの中に導いた。

「あなたは、きっと熱くなっていると思うの。でも私はどうしても冷めたままなの。身体のどこを触っても同じ温度なの。どうして私がこんなに反応しないのか私にも分からないのよ」と言いながら、僕の手を自分の身体に這わせて、自分の身体に反応がないことを僕に知らせていった。最後は下着の中に僕の右手を入れたまま、僕の手を持っていた手の力を緩めた。

僕の手は自由になり、熱さを感じるはずの場所でしばらくじっとしていた。彼女の敏感な場所にしばらく指を当てていても、何ら彼女の熱を感じることなく時間が過ぎていった。まるで木の幹に手を当てている感触だった。

僕はしばらくすると諦めて、彼女の下着から手を戻し、そして彼女に何も言うことなく、待合室をあとにした。僕は彼女に付ける色を持っていないことを、はっきりと知らされ、自分でも分かってしまった。この日が彼女に会った最後の日になった。

その後、病室へ行っても面会を断られた。電話しても出なかった。それから時間が経ち、彼女がよくいた場所を探しても、町で見かけることもなく、彼女の家の近くまで行っても、彼女の気配はなくなった。恐らく本当に彼女は透明になってしまい、熱さのない身体を捨ててしまったのだろうと思った。

彼女と一緒に居ても、いつも安心できず追いかけ追いかけ、そして自分の心が届かないことを、はっきりとこの手に教えられてしまった。

その時の彼女は、自分が憧れていた、温まることも冷めることもない透明さを手に入れていたと思う。僕にとっては残念なことだけど、彼女にとってはよかったのではないかと、今から振り返っても思える。

もう20年も経って、僕も住む町を変え、このような時間も忘れたころ、ある時自分のSNSに見慣れない返信が入っている事が分かった。ハンドルネームはTとだけ書いてあった。返信の内容は、何も書いておらず、最初は間違いなのかと思っていた。それでも、しばらくそんなことが続き、ハンドルネームTは彼女の名前のイニシャルだった。彼女なのかもしれないと、僕はなんとなく思った。

その日から僕は、しばらくの間、夜寝る前になると、午前1時前に「今日もあなたの一日の努力が、周囲の人達の色に溶け込み、そして一体になりますように」とか、「今日という一日に、からだのどこかが熱くなり、透明な心に一色でも新しい色が混ざりますように」とか書くようになった。

僕が発信するメッセージには、10回に1回くらい、Tからメッセージのない返信があった。僕はこんなやり取りを6ヶ月も続けながら、あの時透明になった彼女が、今もどこかで生きていると確信した。

通り過ぎ、止まった時間がもう一度動き出したのかもしれないと思い、ある時空白で透明なコメントにメッセージで返信してみた。

「一度どこかで会いませんか?」と書いてみた。しばらくその返信はなかったが、1ヶ月くらい経ったある日、短い言葉で最初で最後のメッセージが届いた。

「今の私の心には、少しだけ色があるのよ」とだけ書かれていた。

人は色をつけてもらえる誰かに出会うことで、やがて愛を知ることができる。

きっと彼女はあれから、僕ではないたくさんの誰かに、多くの色を付けてもらえたのだろう、その事だけはなんとなく知ることができた。

彼女から返信があってから、僕は彼女に宛てたメッセージを書くのを止めた。僕も再びこの町で色のある世界に戻ることにしたのだ。

彼女は今、どこにいるのか、何をして生きているのか分からない。でもきっとあの町を出て、もしかしたら案外僕の近くで生活しているのかもしれない。

彼女は今になって、短いけれども、分別のあるメッセージで、過去の僕と今の僕を決着してくれた。大人になった今の彼女の心には、きっと白と黒くらいの色はあるのだろう。彼女の作った色が、きっと彼女生きられる場所を作り出すだろう。

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フードフォトグラファー新城からのメッセージ「時間を超えること」

皆さんこんにちはフードジャーナリストの新城拓也です。前回よりしばらくの内観の時間をいただき、さらに食と写真についての構想を練っておりました。ここにまた皆さんにお伝えしたい事があります。

さて、一部で私の文章の展開が長すぎて、一度流したら水が止まらない、壊れた水洗トイレのようだという指摘を頂きました。それには反論したいと思います。何故なら、やまない雨はない、止まらない水洗トイレはないと言う、物理学的な真理があるからなのです。第一種、第二種永久機関は存在しないことは、既に証明されており、永久に思えるような、言葉の連鎖もいずれ終わりを迎えます。

終わりというのはいつも事前に決まっているものではありません。終わりはいつも表現者によって、意識され、選択されながら進行していきます。しかし、その過程と終着は、おおよそ表現者にとっては思わぬ方向に向かうのが必然です。

よく小説家や、漫画の作家が、登場人物を自分で作り出しているのに、その終着は、登場人物が決めると良くわからない事をいう方がいます。「自分の創作物には、自分で決着させろ」と言いたくなる事でしょう。意図をもって、出発してそして終われと。

しかし、一つの文章が終わりに向かいつつも終わらない理由の一つは、「人間の意図というものは、事前に決定できるものなのか、実は事が終わってから、意図を作り出しているのではないか」と言うことです。

このように表現者が自分自身もついにどちらに向いているの分からなくなり、迷子となっている状態があります。例えば、ストーリーが既に破綻していると感じられる、「進撃の巨人」はその代表です。表現者にとっても読者にとっても、時間の流れすらも何が何だか分からなくなり、自分が人間何だか、巨人なのかも分からなくなってきます。

巨人として人間の物語を読んでいるのかもしれない、そんな疑念を抱かせて、自分の身体の等身大を失い、大きくなったり小さくなったり感じます。まさに「不思議な国のアリス症候群」の知覚変容を体験させられているかのようです。

最近上映された、クリストファーノーラン監督、「TENET」も同じように過程と終着で、観るものを混乱させます。この映画を一度では理解することは無理ですし、また後期高齢者であればなおさら、意味が分からず「とにかく主人公の名前は何だったっけ?」「どうして車がバックで猛スピードで走るんだ。どうやって運転するんだっけ?」と、混乱の中から、本質的だが無意味な問いにたどり着きます。そう、主人公には名前はありませんし、車はバックしているように見えているだけです。

実は、科学理論の意味を変容させながら、もっともらしい展開をしていく方法は、「媒概念不周延の虚偽」という詭弁の一つです。「時間の流れは一定ではない。なので、順行だけでなく、逆行することもある。だから、同時に一つの世界で順行と逆行は起こりそれは知覚できる」というもちろん詭弁なのです。

しかし、一見詭弁に見えても、優れたストーリーは、並行世界(パラレルワールド)を作り、そこから自分に向けてやってくるメッセージから二つの世界を交流させます。そのメッセージは謎めいていますが、自分にとっては親密な内容で、自分の心を捉えてしまいます。そしてメッセージに抗うことができなくなり、自分の行動が変わっていくのです。

そして並行世界のメッセージが届く瞬間は、いつも時間や知覚にわずかですがずれを生じています。実は、そのような時空を変化させる装置は、皆さんにもときどき現れているはずです。

進撃の巨人の壁、TENETの回転ドアはその一例です。もしもそのような装置を発見したら、自分の意識を集中し、中に入っていこうと試してみて下さい。

私も先日そういう装置を見つけてしまい、つい深く中に入ってしまいました。その時のことを、写真と共にお伝えしておきましょう。このソフトシェルクラブの冷製グリーンカレー和えそばを食べた時の出来事です。

時空を変化させる装置は見た目は普通ですが、知覚のずれ、時間のずれを生じさせます。このソフトシェルクラブ(脱皮したてのカニ)を口にしたとき、皆さんこう思うはずです。「しまった、殻ごと食べてしまったと」そしてその次に、吐き出して、身だけを取り出さなくてはと思うはずです。しばらくすると、「あれ、これは食べれちゃうのか、あれれ」と感じた瞬間に、皆さんの知覚はずれはじめて、時間の流れが逆行します。

「さっき食べたあれは何だったのだろう」と視覚の記憶と味覚の記憶から、自分の体験した違和感をどうにか理解しようとします。時には店員に「あれは何が入っていたのか」と尋ねます。しかし、記憶や説明からは、何ら自分の体験のずれを埋めることはできず、決着しない問いだけが、宙に浮いたまま時間が順行していきます。

さらに、なぜグリーンカレーなのに冷製なのか、中華を食べに来たはずなのに、タイ料理なのか、タイ料理と思ったら、ひんやりとレモスコヨーグルトソース(レモスコとは、レモンと酢、青唐辛子で作られた調味料)の味がして、あれタバスコではないピリッとしたヨーグルトは何だと疑問が駆動し、時間の流れが逆行します。

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一口ずつ食べる毎に知覚がずれるので、全てを食べた後には、一体自分の時間がどう流れていたのか分からなくなります。確かに自分の口の中には、様々な香辛料の感触は残っているのですが、その体験の認識と知覚がずれているため、何が起こったのか理解出来なくなるのです。

もしかしたら、空になった皿の上で使っていた箸を踊らせれば、時間が逆行して、もう一度一口毎に、皿に戻ってくるのではと確信する体験をするはずです。

食後しばらくしてから、私はあるメッセージを並行世界から受け取りました。あなたの世界は、食べれば必ず料理がなくなる皿しかない。しかし、その皿にあった料理を知覚し記憶するのは皿ではない。

フォトグラファーとして思うのは、食べ始める前の写真は意味はありますが、食べ終えた後の写真には意味はないのです。認知と知覚の時間を私たちはいつも逆行して理解しようとしますが、順行した時間からは、事後何もヒントを教えてくれることはありません。

一言で言いましょう。「覆水盆に返らず」(≒ It's no use crying over spilt milk.)

このことわざはこぼれた水が元に戻ることはないという真理を教える言葉ではありません。実は、私たちの意識は絶えず、「水に満たされた盆」を、空になった盆を見ながらも、意識できるという時間の変容を示す真理なのです。皆さんが意識さえすれば、きちんと水は盆に戻っていきます。

この世界では壊れかけた人間関係も、時間を逆行させれば、修復できます。一度吐いた唾だって呑み込むことも出来ます。

誰でも時間を自由に動かしながら、人は生きていくことができますし、そのきっかけはいつも知覚と認識のずれです。そして時空を変化させる装置は、案外皆さんのすぐ側に現れるのです。よく周りを見渡して下さい。そして、自分の周りの時空を歪ませてみて下さい。

 

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2020年11月 7日 (土)

僕の好きだった彼女 「夢の中の夢」

ああ、しばらく僕は眠ってしまっていたらしい。門限が過ぎたはずの彼女はまだそこにいた。

どうやら終電に間に合わなかったらしい。始発までの間、まだ一緒にいることができるのだと僕は、神か仏がくれたらしいこのチャンスを、必ずものにしなくてはと、眠気で動かない体を起こそうとした。

その時だ。自分の体の感覚が以前とは違うのに気がついた。目は見えにくく、小さな字が読みにくい事に気がついた。ガラスに写る自分の姿は、髪に白いものが混じっていた。僕は、何年間眠っていたのだろう。

確か、僕は付き合い始めた彼女とデートの約束をし、一緒に動物園に来て、人気のない場所の、静かな草食動物の檻の前に立ち、彼女と横並びになり手を繋ごうと手を伸ばした時だったはずなのだ。

手を繋ぎ、何も話さないまましばらく時間が過ぎ、そして前触れもなく彼女にキスしてしまおうと、はやる気持ちを抑えながら、顔を近づけた。彼女がこれから起こることを理解して、応じるようにぎゅっと目を閉じた。僕も、慣れない状況に緊張して、同じくぎゅっと目を閉じた。彼女の少し荒くなった息遣いと、自分の知らない髪の匂いにうっとりしたその瞬間に急に眠気に襲われた。

気がつき、時計を見るとその時から、32年間が経ってしまっている事に気がついた。彼女は、直ぐ側にまだいるのだが、僕と一緒に眠ってしまったようだった。

長い眠りの途中一度だけ、目が覚めたことをうっすらと覚えている。なぜか彼女と同じ会議室の前後ろに座っていた。どうやら新しい職場の説明会のようだった。彼女は僕の知っている彼女よりも髪が短くて、大人の女性になっていた。

僕はしばらく彼女が誰だか気がつかなかった。ふとあの同じ髪の匂いが、僕の記憶を繋げた。彼女だと分かった。「あの、もしかしたら、、、」

その瞬間、彼女は驚いた顔で振り返り、「ねえ、こんなことってある?」と話しかけられた18年以来の再開だった。彼女も僕もすでにそれぞれ、大切な家族を持っていた。でもそれは夢の中のことなのかもしれない。

あの時、草食動物の檻の前で、僕は至福の時を迎えられたのか今となっては思い出せない。でもまだ目の前に彼女は眠っていて、あの時と同じ可愛らしい小さな目のまま、僕と同じように頭には白いものが混じっていた。でもあの時と同じ匂いがした。

あと少し眠り始発を待とうか、でも次に目が覚めるのは何年後だろうか。そこに僕たちはまだ居合わせることができるのだろうか。そんなことを考えているうちに、また僕は眠ってしまった。僕は本当は起きているんだろうか、眠っているんだろうか。

そして、どちらの夢の世界に生きているんだろうか。

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フードフォトグラファー新城からのメッセージ「物事には手順がある」

こんにちは、フードフォトグラファーの新城です。

今回は、「物事には順序がある」という大切な事を、皆さんに伝えなくてはなりません。というのは、かねてより私は、子供の頃からどうしても、解く事ができない問いがあるのです。それは、「ラーメンに入ったメンマの、食べる手順」の事なんです。

どんなラーメンにも入っていることの多いメンマですが、その調理について、本当に幼い頃から、どう食べたら美味しくなるのか、考え続けてきました。

メンマはどう考えても脇役、主役は麺とスープです。こだわりのスープ、手打ち麺など、ラーメンを作ることができない客が見るとつい、何か特別なことがこのラーメンにはあるのだと店の看板から知らされることになります。

こだわりのスープ、12時間熟成と書いてあると、テレビの「ガチンコ!」や、「プロフェッショナル仕事の流儀」でみた頑固な店主の天才的かつ、努力の結晶が連想されます。12時間も手間暇かけたものを自分は目の前にしているのだと、そう思った時点でもう勝負はついています。そこそこの味であっても、受け身である私達は必ず負けてしまう構造になっているのです。

こだわりのスープの「こだわりの」とか、手打ち麺の「手打ち」と客のイメージを明確にすることが、実は脳科学を応用したプロの仕事です。

私が実際に体験する味覚よりも、コピーという視覚から連想させられてしまった味覚で先に体験し始めているのです。これは脳科学で最近明らかになってきた知見に合致します。

人間の運動は、脳の中で先に運動のイメージが出来上がり、感覚まで予測します。そして、実際の運動としてアウトプットし、運動を通じて得た感触から、自分の運動の学習と補正を行います。

分かりやすく解説しましょう。あなたは川の側を歩いています。でも耳にはお気に入りのAirPods Proから音楽が聞こえてしまっていて、視覚、聴覚の情報がやや落ちています。その時歩く動作というのは全く意識されず、脳の中で右足、左足、体幹、上肢と連関された運動を、脳は先に作り出しそして、順調にアウトプットします。つまり無意識に歩いています。

その時です。足の裏にむにゅっとした嫌な感触がありました。その瞬間、脳は運動のイメージから実際の運動を起こすフローを中断し、そして何が起こったのか知ろうとします。

皆さんが想像している以上に、足の裏、足の指というのは、敏感な感覚器官です。私の足の裏は一瞬でそれが犬の排泄物であろう事を推測できます。まだ目と耳とそして鼻で確認していないにもかかわらず、一瞬で何が起こったのか悟ります。

そして自分の脳の自動的な作業を恨むのです。どうして、スバルのアイサイトのように、先に気がついて止まってくれなかったのかと。

このように人間の意識下にない行動は、どのような順序で起きているかを知っておくことは、これから犬の排泄物を踏まないためには大切な教訓です。

ラーメンを食す間にも、その脳のイメージとそして実際の味覚との時間的な差異が産まれます。さらには、感覚の予測すら先行しているため、いつも味覚は自分の脳が作り出すのが先なのです。

「うまいだろう」そして、実際の舌から味わった「うまい」が後から来ます。「うまいだろう」の期待値を計算することで、人間は瞬時にその標準偏差と分散を導き出し、実際に「うまい」であろう確率を計算します。その分布が1に近ければ近いほど、本当に不味かったときにも、「うまい(のかな?)」と、仮説が棄却される危険を回避することができると言うことです。

ラーメンは、脳科学と物理と数学の基本を反映した作業を私たちに知らないうちに行わせているのです。学問は、根本的に人間の快感の解明に結びついている事が、皆さんにもお分かりでしょう。

スープは熱々、ラーメンも茹でたて、湯切りの具合でとても良い温度となっています。しかし、それに加えたメンマの温度を計算していないため、やや冷めたメンマを口にしたときに「あれ?これは?」と違和感を誰もが感じるはずです。

その違和感は、先行する味覚イメージがないため、不味いと判断されるオッズが高まります。「台湾産の麻竹から作られた伝統の味」などとメンマのイメージを先に提出されることは、まずないのです。

先行するイメージに固められた集団の中で、たった一つだけ事前確率の計算されていない物質が混じっている、私たちはその異物に対しては相当公平な判断を下します。

「冷めていて不味い」このことに私は幼い頃から腹を立ててきましたし、食事という三次元の状態に収まり、時間軸という大切な四次元の観念を料理に含んでいないことがメンマの不味さを引き立たせます。

かくして、私はまず美しく盛り付けられたラーメンを、メンマを含む全ての食材の温度を均質にするために、箸で混ぜ合わせてしまうになったのです。これが食べる前の儀式となってしまいました。

でも、本来ならメンマの温度を管理して、出来上がった瞬間のスープや麺との温度差を計算し、そして時間と共に、対流、伝導で均質化しようとするエントロピーを、メンマも含めて計算する作品を作り上げて欲しいのです。

私は冷めたメンマを美味いと感じることができず、不味いと判断してしまうのは、作品の作り手が、メンマに対する思慮がないことも一因でしょう。こだわりがないのです。冷蔵庫から出して、麺とスープを処理する間にまあ、それなりのぬるさになるわな。それを、最後に入れれば見映えもよいじゃろ。この油断に不味さの要因があるのです。

「物事には順序がある」食べる順序を計算した、作品を私は長く待ちわびておりました。

そんな時に私が出会ったこの冷麺は、「桃のクリーミー冷やし担々麺」でした。桃はもちろん冷えていますが、それぞれの食材の温度、そして一部は赤紫蘇のジュレが食感だけではなく、温度のアクセントを与えます。一部は凍っていました。

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この作品には、人間の知覚と感覚のフィードバックをどのように脳で処理されているのかをきちんと理解している盛り付けがなされています。食べ始めた瞬間に、全ての具材を混ぜ合わせる、作品の仕上げを客に求めるようなことはありません。

食材の一つ一つの温度とその展開、当然口の中に入れれば、人間の体温36-37℃の間に緩衝をおこし、秒単位で違う温度へと達します。しかしその温度感覚も口腔、咽頭を通り過ぎたとき、胃に達すること頃には表在感覚ではなく、内臓感覚へと変化するのです。

世の中のメンマに出会う度に、私には「物事には順序がある」という言葉を思い出さずにはいられません。メンマに対して、フーリエの熱伝導式と多次元微分方程式から正しい手順が導かれるはずなのです。ジョン・デューイの思考の方法と同じく、メンマのあり様を意識し、さらに明確にし、仮説を作り検証することです。

私たちは何のために勉強するのか、子供に問われて絶句する質問の一つです。しかし、私ははっきりその理由を答えることができます。それはメンマの正しい温度と、ラーメンの食べる順序を知ることを追求するような事なのです。

違う人間の個としての体験を再現し、そして共有し、身体という圧倒的な境界に分断された、個と個が結合する人類共通の目標に近づくためなのです。私は毎日そんなことを考えながら、食と向き合っています。

 

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2020年11月 6日 (金)

フードフォトグラファー新城からのメッセージ「人生最後の晩餐の質問は大嫌い」

フードフォトグラファーの新城です。

いちいち目につく軽い記事に噛みつかなくても良いではないかと思うのだが、どうしても自分が専門分野としている、医療哲学に関わる事には、黙っていられないのが人間の性である。

一般的な事よりも、一つ上の事を言って相手を唸らせたいと思うのもまた、人間の性というより私の承認欲求から生じる煩悩でもあろう。

ここに告白すると、私は「明日が人生最後の日としたら、最後に何を食べますか」という質問が大嫌いなのだ。これを、「最後の晩餐テーゼ」と名付けておこう。

最後の晩餐テーゼには、一つの重大な矛盾がある事をまず私は指摘したい。ある人が、人生最後の晩餐を食す前に、どうして今からまさに食すその晩餐が最後だと自覚できるのであろうか。

私の経験からは、人間は絶えず明日の事を考えており、客観的にはまもなく死を迎えるかもしれないという状況にあっても、なお明日は今日と同じように始まるだろうと思っているものなのだ。

自覚的に、今この時が人生の最後であると言う事に気がつけないのが、人間の性であることはもっと知られて欲しい。この事実は生物としてのヒトには、死を予め認知する事が出来ないという仮説から導かれる、私の経験的な事実である。

賢明な人生賛歌派の活動家はこういうだろう。「今日が人生最後の日と思い、毎日を生きなさい」と。この言は生きる謙虚さと時の有限性を教える、茶道にも通ずる一期一会を、圧倒的な説得力で問いかける。

しかし、ここにももう一つの大きな矛盾が生じることを、私は指摘しておこう。毎夕最後の晩餐として、自らの欲望のままに贅を凝らした食を求める結果は、贅肉の塊、つまり肥満への道なのである。今日が最後の日と思って生きろなどと助言すると、結局は健康を害する結果となるのである。

「今夜が最後、今夜だけは特別」とコンビニスイーツを食し続けた結果、最後の日が3年続き深刻な健康問題を生じた患者をちょうど診察したところである。

違う側面からさらに考えてみよう。「最後の晩餐」はキリストが12人の弟子と食事を共にするという機会である。ダヴィンチの余りにも有名な絵画にも描かれており、この後キリストは弟子の裏切りを予言し、そのまま拘束されてしまう。しかし、その晩餐以降もキリストに夕食を食べる機会は残されていただろうと推測する。つまり、最後の晩餐は、最後の夕食ではなかったのだ。

これが最後と思っていてもやはり、また次の日が来るという真理が導ける。最後の晩餐の次の日の夕食は、どんな食材でどんな料理だったのだろうと推測するのは、人間の自然な知性の働きである。

私が指摘したい、もう一つの最後の晩餐テーゼは、「何を食べるか」ではなく、「誰と食べるか」がこのテーゼの本質であると言う事である。ただ単に最後の夕食と言うことではなく、最後の団欒が本意なのである。

改めて皆に問い直したい。「明日が人生最後の日としたら、最後に誰と何を食べますか」と。しかしこの質問にもほぼ全員が、正しく返答できない問いなのである。

その理路を以下に続けよう。例えば、私の家族は5人、妻と三人の息子がいる。皆の想像する通り、食べ盛りである。食べ物の争いは絶えない。

さらに、争いを深刻にする私の家族にとっての特別な事情を告白しなくてはならない。私の家では、一人一人の偏食を認めている。好き嫌いなく何でも食べるという教えを、私は人権を根本から否定する危険思想と見做しているのである。

どんな思考も嗜好も志向も尊重されなくてはならない。私は、単なる家長という立場ではなく、家族構成員と共に市民的成熟を目指す一員なのである。

この私も特定の大きさと切り方をした玉葱と、特定の味付けをしたラッキョウを一切食すことができない。私に玉葱やラッキョウを食べる事を、他者が強制する事は、即ち私の市民権を剥奪する暴力行為である。

私の家族にとっては、明日の晩餐も保証された日常の晩餐であっても、なかなか家族構成員全員の合意に達する事は困難であると言わざるを得ない。

言い換えれば、家族構成員のいずれかが同意できない食事をするという事は、ドメスティックバイオレンスを、最後の晩餐の成立と同時に伏流することになるのだ。これを、最小共同体に生じる、矯正された強制原理と暫定的に呼ぶことにしよう。

以上、論考を続けてきたが、最後の晩餐テーゼに関する、私の結論を述べる。

最後の晩餐に何を食べるかは、人間は今がまさに最後の晩餐であると認識することが出来ないため、カントが理性の限界を述べたことと同じく、終わりなき最後が続くことになる。

さらに、誰と食べるかについては、晩餐に参加する全ての構成員の合意を得る事は出来ないため、最後の晩餐のテーゼそのものに、暴力の存在を認めることになる。従ってヘーゲルの提唱する自由の相互承認原理から否定される。

最後の晩餐テーゼを二つの根拠で棄却したが、私には新たな提案がある。

「最後の晩餐」ではなく、「午後の抜歯前の昼食」とこのテーゼを置換することだ。

今から一定の時間は、麻酔薬と感染予防のため確実に食事ができず、また抜歯という自分の身体の一部を喪失するという、喪の儀式に備え、今何を食べておくべきなのかについては、万民にとって、共通了解に至る可能性のあるテーゼとなり得る。

さらに、抜歯という喪の作業に臨むにあたっては、独りでその作業に臨む必然性がある。誰も私の抜歯を代理する他者はいないからである。

私がトイレに行き今すぐ用を足さないと、大変な事態になる蓋然性が高い状況にあるとする。しかし、「ねえ、そこのあなた大変申し訳ないけど、私の膀胱は間も無く暴発します。代わりにトイレに行ってくれませんか。どうしてもこの原稿を完成させなくてはならないのです」と、その行為を代理した他者が、私の用を足せないと言うことである。

さらに分かりやすく言い換えると、抜歯前のランチは一人で食えと言うことである。

先日、私が最後の晩餐テーゼを放棄して、抜歯前の昼食として選んだのが、この和牛カルビと牛骨スープの冷麺(生姜麺)である。長年の懸念事項であった、親不知の抜歯を済ませ、麻酔が覚めても何も食べる気持ちが湧かない私を、この冷麺は驚くべき力量で支え続けたのだ。

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翌朝まで食欲という人類最大のコントロールできない自然欲求を緩和することに成功したのだ。

ここまで読んだ、皆は「明日が人生最後の日としたら、最後に何を食べますか」という問われた時は、私の論考を思い出し、「午後の抜歯に備えて、あなたは何を昼食に食べますか」と脳内変換して問い直して欲しい。その瞬間に皆の心は、確実に解放されるはずである。この解放こそが、アウフヘーベン、止揚の本質である。

これは、私から皆への未来の処方箋である。

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2020年11月 5日 (木)

僕の好きだった彼女「体を重ねることって」

僕が18歳との時、初めての女性の感触に夢中になった。一つ年下のガールフレンドは、クリスマスイブの夜に、どちらから誘ったわけではないのに、とても自然に一つのベッドの中にいた。

僕はどう行為を進めて良いのか分からず、じっとしているだけだった。僕の知識はせいぜいポルノビデオで、力強い男がただ女をねじ伏せて、やがて女は官能にいたるそんな筋書きばかりだった。

自分にはそんな力強さもなく、またねじ伏せるような愛情の示し方は、彼女にはふさわしくないと思った。その時彼女は、ただ服を脱ぎ、「あなたも服を脱いでただ、ベッドの中に入ったらよいのよ」と優しく微笑み、静かに教えてくれた。

僕は言われたとおり、自分も服を脱ぎ、肌触りの良いシーツと、薄い布団の中に入った。まだ昼間なのに、緊張で周りが見えなくなり暗く感じた。

その時、彼女は僕の背中側からただそっと僕の緊張した身体に触り、自分の肌の感触を僕に伝えるような仕草をした。そこには、快感はなく、僕の身体は性的な反応は全くしなかった。彼女に触れられただけで、一瞬で緊張が解け、身体が軽くなった気がした。初めての感覚だった。

「ただ、お互いの肌の感触を伝え合ったら良いのよ、そうするだけで安心するでしょ」そう背中からささやくように言われた。彼女の触れる手が僕の肩から胸に伸びてきた。でも彼女は決して僕の快感が高まるようなことはしなかった。

僕は少し不満はあったけど、身体の向きを変えることなくしばらく目をつむり、彼女の手の動きに集中して、身を委ねた。彼女はゆっくり、身体の上を指でなぞるように動かし始めた。

その動きにはやっぱり性的な快感はないけれども、僕はやがて味わったことのない静かな感触に引き込まれていった。

とても安心した気持ちになり意識が遠のいたとき、彼女の手の動きが止まった。どちらが先だったか分からなかったが、しばらく眠りについてしまったようだ。僕は夢の中で、彼女の背中から僕と彼女の二人を見るという不思議な光景を目にした。二人の呼吸と心拍、そしてどうしてそんなものが、見えたのか分からないけど、脳波が完全に一致しているのが分かった。

気がつくと日が暮れていた。昼間の優しい光と優しい肌の感触は、周りの暗さで急に現実に、引き戻された。「早く家に帰らないと」彼女は静かに言って、自分からベッドを離れてしまった。僕は彼女の手を、初めて強い力で引き寄せようと、ぐっとつかんだ。

でも彼女は、「また今度」と全く未練のない、媚びない笑顔で、あっという間に服を着てしまった。そして振り返ることもせず、部屋から出て行ってしまった。裸のまま一人取り残された僕は、自分の性的な欲求を持て余すことなく、始めての女性の感触の余韻に満たされていた。

その穏やかで優しい感触は、どこに行き着くこともないけど、僕を確かに安心させて、人と人は分かり合えないけど、言葉を使わずとも、肌と肌で何かを伝え合うことができると確かに知った。

彼女はしばらくすると、思い当たる理由もなく、僕の前には現れなくなってしまった。

そのから、僕は自分の中で生まれた優しい感触を長い間求めてきたが、再び得ることはできなかった。彼女を求めているのか、あの感触を求めているのか自分でも分からなくなったまま、時間が過ぎていった。

「もしかしたら、あの感触を再現できるかもしれない」と、思った事もあるが、駄目だった。ただ肌を触れあう、優しい肌の感触を確かめ合うことができる人とは出会いないまま、猛々しく、どこか演技的な性的な快感を追い求め、行為の時間を終わることが、一連のことなのかと思うようになった。

始まりがあれば、きちんと短時間の間に終わりがある。性行為も、仕事のプロジェクトと同じように、キックオフがあり、〆切がある。その〆切に向かって、納期に間に合うようただひたすらに、自分を鼓舞して、アドレナリンを分泌させるように仕向ける。それを快感と喜びと思い込むように努力してきたのではないだろうか。

彼女と過ごしたあの午後のひと時から、身体的な充実感を体験できず、段々と体力と、自分で高める性的な快感にも、限りがある年齢に達してしまった。

久し振りに彼女と会い、僕も彼女もすっかり年齢を重ねてしまったことを実感した。でもあの午後の彼女と同じように、「ただお互いの肌の感触を伝え合ったら良いのよ」と、あの時と同じように彼女はひんやりとした床の上で、僕にささやいてくれた。でも、あの時と同じ静かな気持ちにはもうなれなかった。

18歳の僕が、たった一度だけ体験したあの時の感触は、あの時の彼女にしか、僕の心の中に作り出せないものなんだと、彼女の表情を久し振りに見ながら確信した。

なぜ肉体の快感に没頭できず、自分の心に冷めた場所があるのか、今まで僕が何を求めていたのか、あの日から30年経ってやっと分かったのだ。

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2020年11月 4日 (水)

フードフォトグラファー新城からのメッセージ「担々麺の写真は難しい」

皆さん、良い週末をお過ごしでしょうか。まとまって集中する時間をなかなか取れない、フードフォトグラファーの新城です。今、阪急電車に揺られながら集中でき、やっと皆さんに、世界の真理についてお知らせする機会を得ることができましたのでお伝えします。

さて、フードフォトグラファーにとって、いや正確には日本で暮らし日本語を使う日本国籍の日本人にとって、どのような食べ物の写真が、題材として一番難しいかご存知でしょうか。

それは、「担々麺」なのです。あの独特な赤い色調の中にある、瑞々しさ、辛さへ期待が高まる心情を、カメラに収めたことは、まだ私にはありません。何故できないのか考えておりましたが、やっと二つの真理に到達しました。

その真理の一つ目は、構図や露出、フォカースといった技術的な難易度が高いということではないのです。

まず、この写真をご覧ください。美味しそうだ、食べてみたいと皆さんは率直に思いますか。きっと思えないとはずです。

また、自分の撮った写真だけを見ても私にも、これから始まる、口の中での大戦争と、顔面から吹き出す汗を予感することはできません。

私は、一口目から辛さの痛覚と、パクチーの不味苦さ、さらにはゴーヤの刺激的な苦味に、七転八倒するかと思いきや、イカ墨の冷麺が仲を取り持つことで、新たな味覚に、恍惚とした時間を過ごしたのです。

そうです、まず心の中で確信するのは、時間展開性を写真に収めることができないという哲学的なテーゼに応えられない事に至ります。この担々麺を食べる前には、写真を撮影したその瞬間には、自分は「蓼食う虫も好き好き」の「虫」にさせられた気分、例えるならカフカが「変身」で描写した、毒虫になったザムザになった擬似感覚を、写真は素直に描写してしまうのです。現に、この写真は見事にその感覚が収められてます。

自分が人間ではない、他の何者かにされ、虫の気分のまま担々麺を食すという予感を写真は伝えているのです。

しかし、人間にとって虫と区別しうる高等な感覚を現実には体験するのです。つまり現実には、担々麺を食したその一口目から、視覚、味覚、嗅覚、触覚、聴覚の五感の配分率を調性のとれた和音を体験することで、一気に「虫」から「人間」を超えた存在に辿り着くことを確信するはずなのです。

その時間展開性を、一連の時間としてキャプチャーするこが、写真ではできないのです。

そして二つ目の真理とは、日本人はこの担々麺の赤に対して、一定の警戒感を抱くという民族的な事実です。

人類学では、隣の部族、民族が同一の食品を求めないことで、共存関係になるという知見があります。ある民族とある民族が同じ食物の奪い合いを始めることが最も原始的な争いの原点です。

たった一つの唐揚げを取り合う家族にも、その争いの一端を見ることができます。互いに価値のあるものとして認識することが、争いのそして、戦争の基になるのです。それが、魚であれ、肉であれ、石油であれ、宗教の聖地の争いであれ、民主主義の解釈の違いであれ。

担々麺の独特な赤には、根本的に日本人を退ける作用があります。「これはとっても美味しくないどころか、食べたら死ぬかもしれない」と警戒させるのです。

その、「死ぬかもしれない」覚悟を通り越す体験こそが、フグ毒に打ち勝ちフグを食べてきた、私たち日本人の禁を犯す背徳感を伴う、食文化の豊かさなのです。

しかし、写真には食べない方が良いという「警戒感」を切り取ることはできるのですが、食べることを通じて得られる、背徳感に平伏する人間の恍惚を、描くことができないのです。

激辛ラーメンを食べて、その後下痢が続いて、肛門の粘膜に痛みが走る快感、抜けかけた歯を、わざわざ自分でぐらぐらといじり、歯茎の痛みを感じている快感、そしてお漏らしてしまったのに、その羞恥心に耐えながら、股間が濡れていく快感は、写真に描くことができないのです。

恍惚感には背徳が伴う、そしてその背徳は、やはりアプリオリな概念なのです。写真は、視覚情報をアプリケート(認識)できても、アプリオリ(先験的)な概念を伝えることはできません。

さて、皆さんにも私の伝えようとする二つの真理と、フードフォトグラファーとしての限界が分かって頂けたと思います。

もちろん、この後私はこの自分史上最高の担々麺を食すことになるのですが、食後の恍惚感については、このような形で皆さんにもお伝えするしかありません。

食後の皿の写真からは、何も伝えることができないとカメラを置きました。皆さんも自分の好きなものが伝わらないこと、好きなものを分かって欲しい誰かに伝えられない辛さを日々体験していることと思います。

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多くの若者は、私の伝えた真理を、「これ、ヤベエ」「ヤバイ」の一言で全てをまとめます。優れた要約能力で、日本の国語教育の賜物でしょう。でも皆さんは、時間展開性と、先験的恍惚感を伝える努力をこれからも続けて下さいね。

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2020年11月 3日 (火)

僕の好きだった彼女「曇った窓硝子」

シャワーを浴びた彼女は、火照った体で寝室の窓硝子を曇らせながら、僕をベットに誘った。

恥ずかしそうに手で顔を隠していたが、「この臆病者め」と口調は潔く、その迫力に僕は一瞬迷い躊躇してしまった。

その時だった。安っぽいキッチンタイマーのような音が辺りに鳴り出した。その音に二人は現実に戻り夢から醒めてしまった。そして彼女は、また寝返りをして僕に背を向けた。

僕はあとわずかの距離を縮めることなく、雨の中を一人帰っていった。二人のまとわりつくような汗で、世界が満たされたような、蒸し暑い日だった。

僕に次のチャンスはいつ来るのか分からないが、その時はまた来るだろうと、象の巨体を横目に、静かに予感していた。次来る時は、ユニクロで買ったばかりの、さらさらパンツを履いてこよう。

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2020年11月 2日 (月)

フードフォトグラファー新城からのメッセージ「ネコは味を確かめたいだけ』

フードフォトグラファーの新城です。今週も私に不思議な世の理を教えてくれた料理の写真を通じて、皆さんに伝えたいことがあります。

さて、世には意図しないメッセージと、意図するメッセージがあります。

まず意図しないメッセージを一番的確に歌い上げたのは、以前は兄弟で活動していたキリンジです。その歌はアルバム「ネオ」の中の「ネンネコ」という歌です。

その一節に、

'ネコは昨夜(ゆうべ)の涙 舐めてくれた だけど慰めてくれてるんじゃない 違う 違うんだ 「味を見たいだけ」 誤解だったんだ'

という歌詞があります。身も蓋もない歌詞ですね。

犬やネコに対する愛情を注ぐと彼らは返してくれるように思い込んでいますが、でもあちらにもあちらの本能的な事情があります。

歌詞はさらに、

'だけどいいじゃない わたしそれで救われた' と続きます。そして、結果的には相手から意図しないメッセージを勝手に受け取り、親密なメッセージを相手に返します。相手にはよく分からない事ですが、こういう勘違いは、確かに人に感謝や愛情を生み出して、世の中をよくしていることに間違いはありません。

そして、僕にはこの「塩ラーメン」です。その日は色々とトラブルが続き、僕はすっかり消耗していました。長雨の日でした。

塩ラーメンは決して僕を励まそうとはしていません。汗をかいた後の暑い日に、この冷やし塩ラーメンの冷たい麺と食感は僕の身体を的確に冷まし、温度のバリエーションを変化させた夏野菜は食べる喜びを、そしてスープの塩味は僕の体に欠けていた、血中ナトリウム濃度を平衡状態にして身体を化学的に満足させます。

食べているうちにトラブルのいくつかは、どうでもよいこととなり、夏野菜が口の中で僕に破砕される度に、嫌な感情も心の中で破砕されていきました。スープをすするたびに赤じそと南高梅の程よい清涼感と共に、不条理な出来事で渦巻いていた心の中も、爽やかに風が通っていきました。

「塩ラーメン」は、作った人が、それぞれの食材の「味を整えたいだけ」で、皿の中に一つの完結した世界を作っています。その味を体験した僕が、勝手に「塩ラーメン」に励まされたと思い込むのです。

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いや待てよ、「塩ラーメン」は生き物ではないから励ましたりはしない、そこでさらに僕は勘違いをします。「もしかしたら、この塩ラーメンを作った人が、僕の事情を分かって、励ましているのではないか」と思い込むのです。

こうして、作った人の意図しないメッセージを僕は勝手に受け取り、そして「この塩ラーメンに僕は救われました」個人的な感謝を伝えるのですが、それはネコに感謝を伝えるのと同じく、相手にはさっぱり分かりません。僕の言葉の熱が気持ち悪いだけです。彼はいつもと同じ皿を作っているだけなのです。

多くの仕事は没頭すればするほど、その行為そのものを洗練すればするほど、複数の人達が勘違いを起こすようになります。今日もどこかで「ネコ」が落ち込んだ人の涙を、相変わらず舐めてくれているでしょう。

でもやっぱり「ネコ」は、味が見たいだけです。もしもネコに直接そう言われてしまったら、どんな気分になるのでしょうか。

人は喋りすぎない方が良い、意図しないメッセージが伝わったことが分かったら、種明かしはしない方が良い。僕は塩ラーメンから「粋」を教わったのです。

言わぬが花、言わぬがネコ。そして、言わぬが夏の塩ラーメン。

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2020年11月 1日 (日)

僕の好きだった彼女

いつものように車の中で白衣を脱ぎ、まだわずかに自分に残ったエロスを確認して、彼女の部屋へ足早に向かった。

すると、彼女はいきなり僕をベッドへと誘った。それに応えようと、一歩前に出ると、僕と彼女の間には、大きな障壁がある事に気がついた。

僕ら二人が見つめ合う、絡みつくような視線を遮るものは何もないのだが、その肉体を重ねようとした瞬間に、ガラスという形而上学的な物質が、僕ら二人の逢瀬を分断していた。

僕は小さくため息をついた。まだ彼女にとって、僕には何かが足らないのだ。

非情にも鳴り響く安っぽいタイマーの音で、僕ら二人は現実に戻り、またそれぞれの使命へと戻っていくのだった。二人の残り香が、それぞれの肉体に残らないままで。僕は再び白衣を着て、自分の本来の場所に戻った。

別れ際の彼女の目は、つぶっているのか開いているのか分からなかった。でもその様子は、僕に彼女の使命は昼寝であることをまた思い知らされた。

どれだけ課金しても、同伴出勤はおろか、アフターなんて夢のまた夢、今日もLINEの交換もできないまま、指名の時間を過ぎ、一人残された場所でこうして想いを書くしかないのだ。

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フードフォトグラファー新城からのメッセージ「タンタンのこと」

フードフォトグラファーの新城です。摂食障害かと思われても、食べ物の写真をアップするのは、皆さんにお伝えしておきたいことがあるからです。

さて、今日頂いた麺は、個人史上最高の坦々冷麺でした。

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夏野菜の彩りが美しく、トマトは少し凍らせて、ゴーヤの苦みとパクチーの苦みがトウモロコシの甘みと感情的な合成(コンプレックス)したときのその旨みはもう、想像できない(アンイマジナブル)ものでした。

そのアンイマジナブルなコンプレックスと言えば、個人的に最も近年に回想できることと言えば、布袋寅泰と吉川晃司のCOMPLEX依頼の出来事以来でした。

先週は、僕と友人のリクエストで予約の時に、「タンタン」のファンの僕らのために「坦々」ではなく「タンタン」をお願いしますと店主に伝えました。

当日はこのパンダの点心を食べさせてくれました。「坦々」なあんが「タンタン」に入っているという「タンタン」「タンタン」な「坦々」な訳なんです。でも「担々」な「タンタン」でもある訳でそれを考えているうちに迷宮に入ってしまうのです。

もちろんパンダ好きは直ぐに食べ始めることができず、その美しさと奇抜さにしばし感嘆の眼差しを注ぎつつ、可哀想でなかなか食べ始めらないのです。

どこから箸を入れるのか、どこからその顔面を引き裂いていくのか。そのことを考えると食べることができないのです。

しかし、食べ始めることができないもう一つの理由があります。その鏡の中の鏡の表現には、いつまで経っても永遠にフレームから出てこられなくなる、表現者(調理人)の罠にはまってしまうという、アルヴォ・ペルトの「Spiegel im Spiegel; 鏡の中の鏡」にも匹敵するループに入り込んでしまうのです。

さらに秀逸なのはこの幸せな夕食のメインディッシュに「トンタン」です。「タンタン」ではなく「トンタン」です。分かりますか?

「トン 豚 の タン 舌」です。甘酢で味付けされた「トンタン」には、言語の持つ音韻の美しさに心が惹きつけられ、その美味しさにユーモアを感じました。もはや帰宅してからはどれが「タンタン」で「トンタン」だったのか、王子動物園に居るのが「トンタン」なのか「タンタン」なのか分からなくなると言うゲシュタルト崩壊というお土産を頂きました。そのことも皆さんにお伝えしたい。

そして、この「タンタン」の点心は、店内のメニューにはありませんでした。つまり僕たちの夕食のためにたった一夜のためだけに作った一品だったのです。皆さんも「タンタン」コースと注文してくださいね。次の「タンタン」メニューがどういうものであったのか、また教えて下さい。

9ea76b4475a30f03fe46f0baf5c5300b 今日も会計の時にまた次回の夕食を予約しました。

そのテーマは「新型コロナウイルスのために翻弄され、心を傷ついた仲間を癒やして欲しい」というリクエストでした。店主は何を表現してくれるのでしょうか。

 

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