十月の鬱病日記
Facebookを含むSNSと言うのは、10年以上使ってよく分かってきたが、ネガティブなことを書いてはいけませんな。あとSNSで議論するのもよろしくない、噛み合わないまま噛みつき合うというおかしな事が起こるんですな。
それでもSNSは便利でして、案外他人には知られたいんだけど、わざわざ自分から吹聴してまわるというのも粋ではないという事を伝達するには便利なツールですな。
例えば異動とか、引っ越しとか、髪が白くなったとか、体重が減ったとか、飯がうまかったとか、飛行機に乗ってうれしいとか言うような、自分では大問題でも他人から見れば、案外どうでもいいような話しを一方的に広めるには、非常に優れていますな。
さて、私にとっては大問題で他人に触れ回りたいのに、苦笑もしくはコメントできないどうでもいい話しについて今回はお付き合いいただきましょうか。
実は私、高校2年、17歳の時から9月下旬になると時限的に鬱病になるんですよ。最初の年の事を今でもよう覚えとります。
恋する相手を思いながら、Beatlesを繰り返し聴いて、歌詞を英語と日本語で全て覚えてましてな。Beatlesも歌詞の意味からはいるなんて気取った奴だと言われたこともあるんだが、鬱病の自分がさらに鬱であり続けるためには、何か燃料が必要なわけなんですわ。
一番好きなBeatlesの歌は、Nowhere manでしたな。ひとりぼっちのあいつなんて酷いタイトルがついていたが、本当は現実社会のどこにも馴染まない人みたいな意味で、勝手に自分も主人公に同化して、どうかしておったんだな。恋する彼女への想いを募らせて鬱になると思い込んでいた自分がいたわけで、村上春樹のノルウェーの森に影響を受けすぎましたな。恥ずかしい思い出だが、人間なんて5分前の自分は恥ずかしいものだから気にしてはいない。
しかし、鬱病というのは、ある日急になるものでして、キリンジがDrifterで歌ったように「鬱が夜更けに目覚めて、獣のように襲いかかる」ものなんだな。だから、鬱病になる原因をあれこれ考えても仕方ない、自分の周りの環境を調整して、良くなろうと思っても仕方がないものなんだとやっと悟りましたわ。
確かにきつい環境におかれると人は鬱病になるけど、やはりその始まりはある日ある一瞬、まさに急転直下なんで準備ができない。
私は最初、夏の疲れが出て、涼しくなるのに、パンツ一丁で薄い布団で寝るから、腹を冷やして調子が悪くなると思っていたんだが、その後何歳になっても、早目にホカホカのパジャマを着ても、布団を工夫してもダメで、ある時気がついたというわけなんだ。自分が時限的な鬱病になることに。これを九月鬱と名付けておこう。
何を考えても上手くいくような気がしなくなり、全ての人との会話を避けようとするんだが、仕事だけはどうにかできるんだな不思議なことに。なぜなら、白衣を着て別人格に変身し、自分も分からないくらい、リアルな演技をしているから、鬱病の自分はしばらく楽屋に引っ込んでいるという仕掛けなんだな。
しかし、家に帰ると頭が痛く、そして、この時期特有の聴覚過敏になり、モーター音がとにかく苦痛になるので、食洗機もドライヤーも全てダメになる。もちろん、京葉線の車内も苦痛でしたな。
AirPodsのノイズキャンセルで幾分マシにはなるが、家族にも迷惑をかける状況にさらに自分も落ち込むというわけだ。酒を飲んで紛らわそうとしても、眠くなり、オシッコが近くなるだけで、一向に鬱病は良くならず、このところ静かに暮らしていたというわけだ。
一番やってはダメだと今年学んだのは、自己診断で抗鬱薬を飲むことですな。ありゃ、いかん。自分の状態を公平に判断できないので、ただ食欲が増して、高校生の成長期のようになり、あと死にたくなって仕方がなくなる。何を考えていても、結論が「死にたい」になるので、自分でも本当に厄介でしたな。
郡司ペギオ幸夫が、近著「やってくる」でも同じエピソードがあって、ありゃ、よく分かってしまった。「死にたい」が急に、脈略なくイメージとしてやってくるので、薬で抑えようと思ったがかえって悪化する。こういう感じ知ってますかいな。
犬と散歩する、横を人が通り過ぎる、最初は急に腹が立ってしまう(なんでオレの横を通るんだ。オレの行く道を邪魔するな。他人と関わる余裕なんてないぞ)、そして急に死にたくなる(こうして袖触れ合うも多生の縁、でも触れあう人生なんてもうイヤだ)こういうなんの脈絡もない感情の動き方をするのだ。原因を探しても意味が無い。
うっかりその事を妻に話したら、さらに心配をかけてしまい、かえって申し訳ない気持ちが増し、鬱が悪化するという、悪循環でしたわ。この1ヶ月大変でしたな。
おや、でも今日は10月28日、九月鬱ではないと気がつくに至るんだが、地球温暖化の影響は私の体にもやってきて、1ヶ月遅れて、十月鬱になったというわけだ。
この鬱病のもう一つの不思議は、ある日ある瞬間から急になるのだが、治るのもいつもある日ある瞬間からでして、なんのきっかけなのか、理由をこじつけることはできても自分にはさっぱり、始まりと終わりも分からん、今年は、10月1日から始まって、一昨日の10月26日月曜日に急に治ってしまい、以降発想はキレキレ、体力はバリバリ、こうしてまた文章もサクサク、顔はニコニコで大変なもんだ。
こういうどうでも良い話でも案外人の心には届くこともあるようなんで、こうしてわざわざ書いておこうと思う。つまらない話を、案外他人は覚えているもんだし、待つ人もいるんだと最近よく分かるようになってきたんだな。ここまでのお付き合い、お互いお疲れさんということで、私の長く暑い夏(long hot summer)が私を過ぎ去っていったという今日の話は終わろう。
さて、今日の最後の言葉。
「鬱病は急に襲いかかり、そして急に去っていく」
そのルールや法則を自分でどれだけ考えても何もないんだな。不条理な去来で人は苦しむということだ。せいぜいできることは、被害を最小にする事だな。
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