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2019年12月

2019年12月11日 (水)

「 病院? ホスピス? それとも 自宅? 」 ~病人は何を考えどう過ごしているのか~ 講演記録

2019年11月16日 いなべ総合病院で講演をしました。

「 病院? ホスピス? それとも 自宅? 」 ~病人は何を考えどう過ごしているのか~

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講義のプレゼン資料 PDF

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当日の動画

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2019年12月 2日 (月)

表現とはアートとは アドバンスア・プランニング(人生会議)のポスターは何が問題だったのか

今回唐突に厚生労働省から発表された、アドバンスケア・プランニング(人生会議)のポスターが、わずか数日で撤回されました。最近の厚生労働省は普及、啓発にポップなデザインを採用することもありましたが、さすがに人の生き死にに関わることまでポップにするとは驚きました。
僕も厚生労働省宛に終末期ケア、緩和ケア、在宅医療に関わる医師としてこのポスターに反感を抱き、撤回を求める抗議文を送りました。厚生労働省のポップな手法には、現代的でポップな反応、炎上で反応するのは同じ土俵の出来事、撤回もいきなりページが消えるポップな対応でした。
*ポップ; 時流に乗っている様子。Popular(大衆)の短縮形。

Images  
アドバンスア・プランニングを普及、啓発したいという本当の目的よりも、少数であってもこのポスターを不快に感じる、患者、家族、医療者に対して、配慮しあっという間に撤回したのもまた発表以上に驚くことでした。僕は、最近の自分の活動と、この一件を通じて、表現とは何だろう、アートとは何だろうとさらに考える機会になりました。


ところで僕は、バイオリンを弾くことが好きで、アマチュアオーケストラに所属してもう30年近く演奏を続けています。人前で簡単な曲なら弾けますから、老人ホームのクリスマス会でみんなを喜ばせることならできます。
でも、自分の演奏はアートなのでしょうか。僕は、音を通じて何かを表現できているのか、自分では分かりません。録音しても、録画しても自分の演奏を客観的に見ても、自分の演奏が何を表現できているのかさっぱり分かりません。
リズムや音程、その曲らしさを客観的に評価することはできても、自分よりうまい演奏をする人はいくらでもいます。プロの演奏にはほど遠く、プロの表現力と才能の前には、自分が演奏するのが嫌になるくらいです。


自分はバイオリンで生計を立てるほどの才能はなく、演奏のレベルがそれほど高くないのに、なぜ演奏を続けているんだろうと思う日々。そんないじけた気持ちを変えたのは、ある方のたった一言でした。
「先生が楽しそうに演奏している姿を見て、何かを伝えようとする姿を見て、私はとても心打たれました」その人は、僕が何度音を外したとか、演奏技法が優れているかどうかは見ることなく、僕の姿を、表現を見てくれていました。この言葉には勇気づけられました。
アマチュア演奏家にとって表現とは、音楽を聴きに来ることではなく、自分が確かに何かを伝えようとしている姿を見せることなんだと悟りました。


Don’t be shy. 恥ずかしがるよりも、下手くそでうまくいってなくても、引っ込み思案にならず自分をさらけ出すのが、自分の表現そのものなんだと知りました。
また僕もよく色んな、アーティストのコンサートに出掛けていきます。お金を払って、自分の心の中にある音を、現実に再現し辿る快感に酔いしれます。特にクラシック音楽のコンサートでは、何度も聞いて知っている音楽を聴く方が、全く知らない曲を聴くよりもずっと快感です。そして、演奏している人達の姿、表現に心打たれ、知らないうちに涙が出てくることもあります。そう、人は優れた表現をアートを通じて体験したときに、深く感動するのです。


自分の感じた感動を、自宅に戻り妻に伝えても、あっさりしたもんで「よかったな(妻は大阪出身)」とあしらわれます。「今度は一緒に行こう!」と妻を誘っても、「わたし、クラシック興味ないんよねー」と断られます。反対に妻が、「スキマスイッチのライブ、最高や!」と帰って、浴室や洗面所で大音量でスキマスイッチの曲を流されても、僕にとっては何の感動もなく、むしろ(スキマスイッチが好きでも嫌いでもないので) ちょっとうるさいなと思うくらいです。
また妻にも反対に「今度はスキマスイッチのライブ行けへん?」と誘われても、僕は「いいわ」と即断わります。
アートを通じた表現は確かに人の心を動かします。でも、表現に立ち会わない人には、記録された動画や写真を見ても、その臨場感と快感は届きません。むしろ不快だけが伝わることもあります。また、快感を感じる表現には人は代価を払ってでも立ち会いますが、不快に感じる表現には接触しようとはしません。


アートとは受け手が、表現にアクセスするかしないかを決めることができて、初めて成立すると思うのです。また色んな好みの多様さを保証し、機会が多い社会の方が、きっと人々にとって幸福なはずです。表現の自由をお互いが保障する。好みを尊重する。
社会は、表現の場を確保することが大切です。多くの劇場、美術館、映画館、講演会場ありとあらゆる場を整備して、社会資本として維持していくのです。


しかし、表現にアクセスしない権利を保障しなくてはなりません。僕が行きたくないコンサートに無理矢理連れて行かれることも、興味のない絵画を見せられ続けるのも、待合室でヘビメタが流れ続けている診療所に行くのも嫌なのです。
あいちトリエンナーレの「表現の不自由・その後」の展示が一時抗議で中止された騒動にも通じますが、本来美術館に行かなければ、アートの表現にアクセスしない権利が保障されているのに、今は、SNSやメディアを通じてその表現が、公共に目に触れてしまいます。SNSをやめて、テレビを消せば良いのですが、見ないように目をつぶりながら生きていくのもまた「不自由」です。

長くなりましたが、本題に戻ります。
アドバンスア・プランニング(人生会議)のポスターを見たくない人、アクセスしたくない人の権利を保障できなかったのが、一番問題だったと思うのです。いや、ちょっと待て、普及、啓発のポスターは本来、アートではないと言う方もいるかもしれません。でもこのポスターは不特定多数が目に触れることを前提に作られています。その時点で、既にアートと認識されると思うのです。このポスターのコピー(文章)、小籔千豊さんの構図と表情、色使い、配置全ては厚生労働省ではなく、どなたかデザイナーのアートであり表現です。


本来、アートとは、感動や不快は自分ではなく受け手である相手のものです。アートは表現をされた時点で、その評価を自分でコントロールできません。このポスターのアートとしての表現力は高く、多くの人達の心の中に何かしら波紋を広げました。そして色んな意見が交わされました。僕は名もないデザイナーのアートとしての表現力にただ感嘆すると同時に、アートや表現について見識の浅い、関係者にため息がでるのです。


しかし、ため息をつき終わり、立ち止まって考えればこれは関係者もきっと“これで大丈夫か”と気がついていたはずです。何かの事情で止められない。状況になっていたのかもしれません。いくつかの決して多いとは言えない抗議の声に、一部の関係者はホッとしてやっと止められたのかもしれません。取り下げてデザインごと破棄したことその事が、つまり、デザイナーの意図していた強かな表現だったのかもしれないと考えると、また違うため息が出るのです。

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