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2019年7月 5日 (金)

がんの患者さんに、『民間療法を受けたいのですがどう思いますか』と聞かれたとき、どう答えたら良いのか

 診療中の患者に、民間療法について意見を求められると、どう答えたら良いのかわからず、戸惑いを覚えるのは誰しも経験していることと思います。民間療法はCAM (complementary and alternative medicine)と称され、ある調査では11-95%の患者が民間療法を自分自身で取り入れていますが、半分の患者は、医師にCAMの事を話せないと報告されています[1]。 医師に話せない理由としてを表1にまとめました。患者が話しにくいのも良く分かります。医師の中には、民間療法を完全に否定し「あれは詐欺みたいなもの、絶対に手を出してはいけない。お金を無駄にするだけ」と全ての患者に答える方も見たことがあります。そういう医師は、民間療法を完全に否定するという姿勢は一貫しており、一つの立場から1ミリも頑固に動かないというのも、ある意味楽でいいなと思う事もあります。

表1

患者が医師に民間療法のことを話せない理由 [1]

・ 民間療法の事を、医師が何も尋ねないから

・ 民間療法を取り入れることを、医師に反対されるのを心配するから

・ 民間療法に、医師が関心を示さないから

・ 民間療法の情報を十分に医師に伝えられないから

・ 民間療法は、がんの治療の妨げになると思うから

・ 医師と十分に話し合う時間がないから

・ 医師ではなく自分自身で治療を選択したいから

 また、医師たるものどういう訳か、民間療法を否定したくなる気持ちが湧いてくるのも良く分かります。何故否定したくなるのでしょうか。それについて考えてみましょう。

  まず民間療法を否定する理由は、なんでしょうか。「民間療法はインチキだ」という信念でしょう。自分が提供している医療は正統で、民間療法は邪道。自分が厳しい訓練の末、医師になり、さらに医師になってからも厳しい指導を受け、やっと自分なりの医療を患者に提供できるようになる。うまくいくことも、うまくいかないことも様々な経験を通じて、自分の力にしていく。そして、さらによい治療はないかと必死になって探している医師。そんな医師にとっては、民間療法が自分のこれまでの努力に匹敵するとは到底思えない、中味のない治療法だと思えるのでしょう。

 さらに、民間療法を否定する理由のもう一つは、費用が高額だということでしょう。医師にとって価値がないと感じるものに、高額な値段が付けられているものがあります。ただの水なのに、こんなに高いのか?治療効果があるとは思えない物質に、こんなお金を払うのか?という不審です。高額な値段を支払わせるには、購入しようとする人の心に価値を訴えなくてはなりません。「これで癌が治った」「みるみる癌が消える」といった大仰な広告文句と共に、何らかの権威のある医師のコメントを掲載しているのです。その広告を医師が見てみると、全体から信じられないオーラが漂ってくる。患者も家族もだまされていると、医師は感じてしまうのでしょう。

 ほとんどの民間療法は、物質か行為を介在させてその効果を発揮します。サメの軟骨も、プロポリスも、漢方薬は物質、手かざし、瞑想は行為を通じて、病気や自分の健康状態に作用します。ならば、医師自身が提供している医療もまた、医師の処方する薬物つまり物質であったり、処置つまり行為です。民間療法も医師の提供する医療も同じ構造なのに、医師はなぜ民間療法に不審を抱いているのでしょうか。治療の確立する時間でしょうか。ならば、民間療法の中には、漢方薬のように医師が提供する医療よりも長い歴史をもつものもあります。自然界の物質を病気の治療に使うことは、民間療法だって、医師の処方する薬物だって同じです。それでは、行為についてはどうでしょうか。民間療法の提供者の行為と、医師の訓練された治療行為とに差異はあるのでしょうか。医師の訓練された治療行為も、不完全で不確定なものを含んでいます。100%成功する手術、100%間違いのない処置が現実に実行できないということを意味します。民間療法の処置であっても、医師の処置であっても何らかの不確定な要素を含み、時には致命的な結果を生むリスクはどちらにもあります。ならば治療の行為者の経験年数でしょうか。数時間の訓練で怪しげな処置をする民間療法と、何年、何十年と訓練された医師の治療行為には、自ずと差があるということでしょうか。それとも治療の効果でしょうか。治療の成功が数%の民間療法の治療と、50%の医師の治療行為には、社会の扱いとして差があって当然ということでしょうか。

 医師の治療行為は、保険診療である以上、誰が行っても公定価格で全国均一、また民間療法の宣伝のようなものは作れず、広告にも厳しい規制があります。全ての規制がなくなったとしたら、医師の治療行為は民間療法と同じ土俵で競争しなくてはならなくなります。その時もなお、現行の医療は患者にとって価値を持続することは出来るのでしょうか。

 このように、医師が毛嫌いし、迫害する民間療法というのは、物質や行為を介在すること、不完全で不確定であることを考えると医療と非常に似た構造になっていることが分かります。似た構造だということは、どちらも同じ平面上にあることで、そこに境界線をなんとか引かないとどちらも立ちゆかないということです。医師は「民間療法は怪しい、お金儲けだ、根拠がない」と迫害し、民間療法の提供者は、「医師の治療には限界がある。長い歴史のある治療法だ、国が認可していないのは時代が自分たちに追いついていないからだ」と反論します。多数派の医師が、少数派の民間療法を迫害します。

 実はこういう構造は、昔から続いていることです。例えば移民のアメリカ人が、原住民のインディアンを迫害したときも、ナチスドイツが、ユダヤ人を迫害したときも構造的には同じ事が起こっています。さらに、日本でもアイヌ人に対して同じ事がおきました。物理的に近接した場所にいるからこそ、迫害はおこります。当たり前のことです。同じ空間にいるからこそ、相手への攻撃が始まります。異物を排除することで、自分たちの思想で世界を支配しようと、迫害が始まります。しかし、過去の歴史をみても完全に排除しようとした歴史は、この中ではナチスドイツのみです。ならば、迫害はどのように起きたのでしょうか。アメリカでも日本でも排除はせず同居しながらも、風習、言語を多数派と同じに強要するという教化訓育を実行します。日本でも、韓国人、アイヌ人に日本語を強要します。つまり、自文化中心主義(エスノセントリズム)は、自分とは異なる人達を「違う人達」として排除するのではなく、「劣った人達」として扱い自分たちの価値基準の中に取り込み、「劣っている」「幼稚な」「未発達な」人達として扱うのです。そして、迫害から同化に転じて、人類は平等であるとしたのです。日本も韓国や中国でかつて同じ事をしました。そして当時の日本では、韓国や中国の人達を救済しようと考えていたはずです。しかし、そのような自文化中心主義がどのような結果を生むかは、歴史が証明しました。現在まで続く、民族的な怨恨はこのように始まったと考えています。

 さて、もう一度最初の問題に戻ります。医師が、自文化中心主義を通じて民間療法を見れば、まず排除しようとします。民間療法に関する患者の相談も排除しようとします。そうなれば、医師は患者からの相談がとても不快になります。「オレにそんなことを聞くなよ」「オレは民間療法は大嫌いだ」と内心思いながら、答えざるを得ません。

 さらには、民間療法に関心を持つ患者を排除しようとします。「民間療法を試すなら、オレの診察を受けに来るのはやめてくれ」ということです。そして、「民間療法はインチキで詐欺だ。できることなら、規制し活動を妨げなくてはならない」という考えに至ります。一方で、医師が嫌悪する民間療法の存在が、医師の心の中では自分の提供する医療行為が、正統で崇高なものであるという認識に至ります。自分よりも劣等なものを憎み、軽蔑することを自分自身の気高さの支えにするという言及は、ニーチェがかつて語ったことでした。

 次に、排除から少し前に進んだ自文化中心主義の立場をとったらどうなるでしょうか。医師は、民間療法に対して劣った、幼稚な、未発達なものであると認識します。そして、民間療法を自分たちの測量であるエビデンスにあてはめて、まだ十分な研究がなされていないものであるとします。日本緩和医療学会が、がん補完代替医療ガイドラインを出版していますが、まさにそのような方法で作られています。補完代替医療(≒民間療法)の分野の人達は、自分たち医療者を納得させるエビデンスを提示できない。だからひとまずは、医療者の測量方法で彼らの行為を審査しようとするのです。かつて、日本語を少数民族に強要したのとほぼ同じ発想がそこにはみえます。

 民間療法の提供者も劣った、幼稚な、未発達な人達であると認識しています。だから、彼らが自分たちと同じ言葉を話すことができればよいと思っています。言い換えれば、民間療法の提供者が、医師が理解できる臨床研究の手法で自分たちの行為を検証し発表するのが良いことだと考えているのです。

 さらに、患者に対しても、医療知識に関しては、医師よりも劣った、幼稚な、未発達な人達であると認識します。「患者は医療に関しては十分な知識をもっていない、だから医師である私は彼らを正しい方に導かないと。」「エビデンス、質の高い臨床研究の結果から得られた最新の知見で患者の治療にあたらないと」と考えているのです。実はこの考え方は至って、アメリカ的な考え方で、自分たちの価値観を全世界的に広め、さらにはあらゆる活動を自分たちの測量方法で評価するというやり方なのです。

  私は、医師が民間療法をどのように考えているのかという見解についてですが、経験からも、述べてきた自文化中心主義の檻の中からまだ出られない状態にあるのではないかと思っています。患者にどう答えたら良いのか分からないのです。今まで一緒に仕事をしたことのある、寛容な医師達は、「まあ、やりたいのなら止めませんよ。やってみたらどうですか」とか、「余り高い費用がかかるものはやめたほうがいいですよ」と答えていますが、やはり檻の中からの言葉です。

 他分野の研究からこの、自文化中心主義を克服する知見があれば、この「がんの患者さんに、『民間療法を受けたいのですがどう思いますか』と聞かれたとき、どう答えたら良いのか」という質問にも別の観点から考えることが出来ると思います。

 例えば、スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセトは、「自由主義は、最高に寛大な制度である。なぜならば、それは多数派が少数派に認める権利だからであり、だからこそ、地球上にこだましたもっとも高貴な叫びである。それは、敵と、それどころか、弱い敵と共存する決意を宣言する。」と述べています。医学に当てはめると、西洋医学と東洋医学、現代医療と民間療法あらゆる近接したものを、対比させ争うのではなく、医師が弱い敵と見なす民間療法であっても一方を排除することではなく共存しなさいと説いています。自分と相手の価値観、測量方法は違う、なのに正義の同化をさせようとせず、ありのままで共存しなさいと主張しているのです。

 自文化中心主義に対比される概念としては、フランツ・ボアズが主張した文化相対主義があります。これも先ほどのオルテガの主張と同じく、全ての文化に優劣が無く、平等に尊ばれるべきという、共存を説いています。

 これらの主義、思想を臨床に反映するなら、医師自身が、民間療法の存在を認めて、自分たちの提供する医療と共存すると考えるということです。ならば、どうしたらそのような考えに至れるのでしょうか。ただ、患者に「民間療法を受けたいのですがどう思いますか」と聞かれたときに、「それもよい方法ですね。やってみてください」と答えたら良いのでしょうか。

  私はそれでは不十分だと思っています。自分自身の価値観の相対化や、あらゆる療法との共存を図るだけでは、何かが足りません。「民間療法も人によっては効くことだってある。それが事前に分からないからこそ、やってみる価値があるのかもしれない」という価値観の相対化か、民間療法の提供者がよく語る、「現代医療と一緒に実施することは、よい事でさらに良い効果がでる」という共存では、患者に民間療法を受けるかどうかの全ての判断を委ねてしまい、患者が自己決定することに関しては、医師は不関与であるという立場を強調するだけです。「あなたがやりたいならやれば」という無関心が目立つようになるからです。

 私が臨床で答えてきたのは、「それはどういうものなのですか」と、民間療法以前に、民間療法に関心を持つに至った患者自身の考えを探ろうとする試みです。実は民間療法に患者がアクセスするときは、家族や親類、あるいは親しい友人に勧められたりということがほとんどです。民間療法を受けるかどうかという質問に答える前に、どのような人達とのどのような関わりが患者にあるのだろうかという、いわば患者に対する好奇心を全開にし、民間療法という話題から相手への理解を深めていくのです。話をしている内に、必ず自分の心の中では寛大さが生まれてきます。その寛大さが、オルテガの語った共存につながっていくのではないかと考えています。

1) Davis EL, Oh B, Butow PN, Mullan BA, Clarke S. Cancer patient disclosure and patient-doctor communication of complementary and alternative medicine use: a systematic review. Oncologist. 2012;17(11):1475-81. 

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