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2018年12月14日 (金)

「死にたい」現場で向き合う

私は、神戸のホスピスで10年勤務し、その後開業して在宅緩和ケアに専念すること6年。この16年間、主にがん患者の緩和ケアを中心に活動してきた。ホスピスでは年150人を超える末期癌患者の、そして開業してからは年間50人前後の患者の、最期の時間に関わってきた。医師になって20年が経とうとしているが、2000人を超える患者の死に関わった。私にとって人の死は日常の事となっている。そして、ホスピスで働きたいと熱望し家族を連れて神戸に来た31才の私は既に47才となり、今は人の死に関わる仕事において自分は一番活かされると、社会の中での自分の立ち位置について、天職であることを静かに受容している。
よく知り合いや同僚から、「ホスピスで働いてつらくないのか、人の死に立ち会ってどう気持ちを保っているのか」と聞かれる。しかし、ホスピスでも自宅でも患者達は死ぬまで生きており、私は約束された死の時間まで、苦痛を最小化し、患者の力を最大化するための緩和ケアを、医療の本質と信じて実践しているに過ぎない。患者達の多くは、不治の病を抱えてもなお、毎日の日常の流れは確かに訪れ、今まで生きてきたように生きている。心の繋がった患者との別れはつらい時もあるが、決して未練はない。人生の最期の時間に「向き合う」というよりも、患者の横で歩調を合わせて、ちらちらと横目に見ながら見守って歩いているような毎日だ。患者が死というゴールに達するまでの間、自らの歩調をゆっくりにし、彼らが大過なく死というゴールまで、自分の足でどんなにゆっくりでも歩みを続けるようガイドするのが私の仕事だ。
しかし、時に患者は、天寿を全うする前に、「死にたい」と自ら人生の歩みを中断したいと、苦しみに押し潰されそうな心を吐露することがある。私が直面してきた、末期癌患者の「死にたい」という声にどう「向き合う」いや、「見守って」きたのか、皆さんにお伝えしたい。登場する患者は、実在するかもしれないが、私の思い出の引き出しの中にしまってある、私の痛みを伴う空想に過ぎない。答えの見つからないまま、私の心の中に残り続ける現実感のある空想だ。この空想を皆さんと共有したい。
私が始めてRさんに会ったとき、肺癌が骨に転移し相当な痛みがあった。タバコが好きで、今まで病気らしい病気をしたことのないRさんは、たまたま背中の痛みで病院に来たところ、肺癌が分かった。彼はとても痩せて、そして神経質そうな人だった。私は、緩和ケアの専門であることを名乗り、「呼吸器科の医師から、痛みの相談がありました。相当痛みに困っていると聞いてます。一度診察しましょうか。」と話しかけた。彼は、「緩和ケア」という言葉を聞いて、とても警戒した様子だった。大抵の患者は「ホスピス」とか「緩和ケア」と聞くと死を連想するのだ。冗談みたいな話だが、語感が似ているのか「かんわけあ」を「かんおけや」と聞き違える患者も実際にいた。
「お前には用はないんだ。行けと言うから仕方なく来ただけなんだ。さっさと痛みをとってくれ。これだけ痛いと何もできん。お前に分かるかこの痛みが。」Rさんは背中の痛みのため歩き方もおかしかった。これはどうやら家に帰れないだろうと思い、しばらく入院することとなった。
痛みがあるうちは、もう他のことは全く考えられない様子で、まずは副作用のなさそうな鎮痛薬を処方した。本当は確実に痛みを緩和するためには、医療用麻薬を投与したいのだが、私のような専門医であっても、医療用麻薬の副作用には悩まされる。十分予防しても副作用がでることもある。Rさんは私とまだ出会ったばかりで警戒している。彼と私の間には治療するにあたっての信頼関係を醸成する時間がまだ足りない。副作用なく確実に成功する治療、いわば「バント」で進塁してから、「タイムリーヒット」を狙わないと、最初から力んで一発逆転ホームランを狙うと彼との関係が崩れてしまうかもしれない。良かれと思って最善の治療をしても、副作用を許し合える関係になるにはまだ信頼が足らないと思ったからだ。
幸い次の日少しは痛みが取れた。そして、数日間痛みのことばかりではなく、Rさんがどんな人なのかぼんやりとおしゃべりすることに専念した。元来私は好奇心が強く、人が好きだ。Rさんがどんな事をしてきた人なのか、仕事、家族のことを、無目的にインタビューした。Rさんは、工場を経営し小さな工場ではあったが確実な仕事を重ねて、信頼を重ねてきたことを誇りにしていた。私が、「仕事の上で何を一番大切にしてきましたか」と尋ねると、「約束を確実に果たすことだ」とRさんは答えた。答えの中に私への要望がはっきりと含まれていた。私は痛みを取るという約束をRさんと交わして、そして確実に果たすことを会話を通じて約束させられた。
毎日の診察を通じて、彼との治療関係の芽が出てきたと感じた頃、Rさんに、「医療用麻薬を使わせて下さい。きっとその方が痛みは今より取れるでしょう。もしうまくいかなかったら、直ぐに別の方法を考えます。麻薬と聞くと怖いかもしれませんが、きっとRさんを助けてくれます。始めてからもしもやっぱり嫌だと思えばやめてもかまいません。一度痛みがどの位なくなるか、一緒に挑戦してみませんか」そう話すと、Rさんは「信頼しているから任せるよ」と答えた。
実際にモルヒネの飲み薬を処方すると、その日から「おまえついにやったなあ」とRさんはうれしそうな表情だ。数日すると「痛みはほとんどないよ、良かった。普通に歩けるよ」と治療の成功を私とRさんとで喜び合った。あとは、より適切な麻薬の量を探し出し、便秘をはじめとする副作用を少なくする、80点を限りなく100点に近づけるための治療だ。今後肺癌が進行し状態が悪くなったとしても、一度治療の成功体験を共有できれば、これ以降のつらい時もうまくやっていける、そう直感した。
そして、しばらくして退院が間近に迫ったある日のことだ。診察に来たRさんの表情はいつもと違い暗い。入院中に痛みがなくなったことを喜び合った時は過ぎていた。
「なあ、先生、どうせ俺の病気は治らないんだろ。それなら、この先なんで生きていかなきゃならんのかなあ。いっそ、何か注射して死なせてくれないか」
緩和ケアの現場では、癌患者は痛みをはじめとする強い症状に苦しんでいる。痛みがあるうちは悩むことも、自分自身を見つめる余裕もない。この話のように、適切に痛みが緩和されると、患者の表情は穏やかになり、そしてその劇的な効果によって、医師は患者の信頼を得ることができる。他の臨床分野に比べて、患者の苦痛を緩和する緩和ケアは、時に医師は大きな信頼を得ることができるのだ。「痛みが取れたありがとう」を言われることは、医師として最大の喜びであり、患者とその家族の賛辞が、毎日の原動力となるのだ。ここに私が緩和ケアを続けてきた強い動機がある。
しかし、肉体の苦痛が緩和されても、患者の現実が変わるわけではない。患者は肉体の苦痛の緩和と引き替えに、次は心の悩みに直面するのだ。言いかえれば、十分に悩む余裕を与えてしまうのだ。一つの苦痛を緩和できても、二番目の苦痛が一番目に繰り上がってくる、治療の道程はまさにその連続だ。こうして、一度は苦痛の緩和の達成に喜び合った患者が、今度は治療者である私に「死なせてほしい」と訴えて私の前に現われる。皮肉なことに、医師と患者の間に信頼関係があるからこその告白なのだ。
この様に死を求める患者ばかりではないが、時には微笑みながら、時には切迫した表情で、ホスピスで療養する多くの患者から「死なせてほしい」と言われ私はとても困惑した。彼らと信頼関係を築いた結果、究極の苦痛の緩和として、死の手伝いと導きを私に求めてくるのだ。
緩和ケアの対象には、肉体の苦痛だけではなく、精神、心の苦痛もある。またより根源的な苦痛としてスピリチュアルペイン(または実存的苦痛)と呼ばれ研究がなされている[1]。
「家族に迷惑をかけてまで生きていたくない」、「どうせ死ぬなら、早く楽にしてくれ」、「動けない身体で生きていても仕方がない、死なせてくれ」と患者の声を聞いてきた。特に、肉体の苦痛が緩和されたしばらく後や、肉体の衰えにより転倒、失禁をしたあとには、極端に生きていく気力を失ってしまうのか「死にたい」と告白される。
私は大いに悩んだが、「日本は安楽死は認められていません。」、「私にはあなたを死なせるような治療はできません」と何とも気の利かない答えしか返せなかった。かといって絶句して無言でいると、患者は、この医者に自分の気持ちを打ち明けても仕方がないと、「死なせてほしい」という言葉以外も徐々に飲み込むようになってしまう。
「そうか、死にたいほどつらいのか」と対話のお手本のように共感を示しても患者の心を慰めることもできず、「どうして死にたいほどつらいのか」とその理由を深めていってもなんの問題の解決にもならない。私はどうしたらよいのか分からなくなってしまった。
この様な「死にたいほどつらい」精神的な苦痛に鎮静という治療を実行することもある。耐えがたい苦痛、薬物やあらゆるケアを駆使しても緩和できない苦痛に対して、緩和ケアの現場では鎮静が行われている。具体的にはミダゾラムのような睡眠薬を、自発呼吸は残る程度の状態になるよう調節し、患者の意識を落とし最期の時まで投与を続ける。どの様な療養場所であっても、末期癌患者の20-30%に必要となり、その期間は2-3日がほとんどだ。対象となる苦痛は、強い呼吸困難、痛みといった肉体的な苦痛もあるが、多くはせん妄と呼ばれる、意思の疎通が不可能な意識の混濁の状況だ[2]。
日本でも、末期の癌患者の「死なせてほしい」という精神的な苦痛に対して、鎮静が行われている現状があると報告されている[3]。「死なせてほしい」患者を、薬物で死なせることはできないなら、すでに残った時間が1-2週間未満の状況であれば、鎮静してもよいのではないかと考える医師もいる。一方で、この様な方法を緩徐な安楽死 (slow euthanasia) と批判する人達もいる[4]。鎮静はその手順が国内外でガイドラインとしてまとめられており、十分な緩和ケアを尽くしているか他職種のチームの複数人で判定することと、患者、家族の意向を重視することとしている[5]。しかし、私自身は「死なせてほしい」患者に対して、その苦痛緩和のために鎮静を治療として実行して良いのか躊躇している。やはり、死にたいと望む患者の意識を薬で下げる事は、苦痛の緩和という目的を医師として自覚しつつも、その結果患者の死期が早まる事も、目的としている事に気がついているからだ。私が心の中に目的を封じ込めてしまえば、誰にも気がつかないかもしれない。患者の苦痛の緩和を高らかに宣言すれば周囲の医療者、家族の罪悪感を軽減するかもしれない。そう考えながらも、死にたいと望む患者に治療の力で向き合う重圧に私は医師として耐えられなくなってしまった。
そこで、私は、「死なせてほしい」と望む患者と向き合うのを止め、見守ることにした。いつも自分が患者に対して結果を出さなくてはというプレッシャーから解放されなければ、この仕事は続けられないと悟ったからだ。向き合うのを止めるのに、まず患者と関わる全ての人達、医療者、家族に患者と接している時間どの様な事を話しているのか、そしてそれぞれが何を感じているのかを、尋ねて回るようにした。本当に自分以外の人達にも「死なせてほしい」と話しているのかを確かめるようにしたのだ。
Rさんは孫に対して「死なせてくれるように先生に頼んでくれ」という話は一際せず、以前と同じように接していた。妻には家庭の中できっとこんな会話をしていたんだろうなという、無造作なやりとりを相変わらずしていた。信頼できる看護師には、一度家に帰りたいなあと話していることも分かった。私が見た「死なせてほしい」というRさんは、Rさんの一部に過ぎないのだ。Rさんには私が見ている顔だけではなく、同時に色んな顔があり相手との関係性の中で顔が変わるのだ。
「一人の人間は、『分けられない individual』存在ではなく、複数に『分けられる dividual』存在、分人である。」「たった一つの、『本当の自分』、首尾一貫した、『ブレない』本来の自己などというものは存在しない」と小説家の平野啓一郎は述べている[6]。とても示唆に富んだ人間観で、彼の言う「分人」は、相手により使いわけられ、自分の中で多くの分人が同居するという考えだ。私もRさんの分人から「死なせてほしい」と頼まれているのであって、Rさんのもつ分人の全てが「死」に同意しているわけではないと考えるようになった。私は医師として患者のあらゆる顔、分人を探し出すことで、「死なせてほしい」と望む患者と向き合うのを止めた。
健康で、力のある私たち医療者は、時に大きな力で患者の苦悩を解決しようとしてしまう。また、医療者は他人の人生、運命に不当な干渉をしてしまう傾向もある。しかし、本来患者の苦悩は、彼ら自身の大事な人生の課題だ。彼らの課題を奪うことなく、じっくりと苦悩し課題に取り組むことができる環境を、さりげなく整えることが医療者にできることなのだ。患者がしっかり苦悩できるように肉体の痛みをとり、きれいで清潔な環境と身なりを整え、そして静かな時間を用意する。決して、医療者自身がなにか妙案で彼らの苦悩を解決しようとしてはいけない。
患者の苦悩に毎日向き合い続けるには、彼らの苦悩を彼らのものになるように援助することが必要なのだと、最近私は考えている[7]。
文献
1)Morita, T, Kawa, M, Honke, Y, Kohara, H, Maeyama, E, Kizawa, Y, Akechi, T, Uchitomi, Y, Existential concerns of terminally ill cancer patients receiving specialized palliative care in Japan., Support Care Cancer, 12, 2, 2004,137-140.
2) Maltoni, M, Scarpi, E, Rosati, M, Derni, S, Fabbri, L, Martini, F, Amadori, D, Nanni, O, Palliative sedation in end-of-life care and survival: a systematic review., J Clin Oncol, 30, 12, 2012, 1378-1383.
3) Morita, T, Palliative sedation to relieve psycho-existential suffering of terminally ill cancer patients., J Pain Symptom Manage, 28, 5, 2004, 445-450.
4) Seymour, Rietjens, Bruinsma, Deliens, Sterckx, Mortier, Brown, Mathers, van der Heide, UNBIASED consortium, UNBIASED consortium, Using continuous sedation until death for cancer patients: A qualitative interview study of physicians' and nurses' practice in three European countries., Palliat Med, 29, 1, 2015, 786-790.
5) 日本緩和ケア学会. 苦痛緩和のための鎮静に関するガイドライン2010年版. 金原出版、東京、2010.
6) 平野啓一郎 私とは何か 「個人」から「分人」へ、講談社現代新書、2012.
7) 新城拓也 患者から死にたいと言われたらどうしますか? 金原出版、2015.

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