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2017年9月 4日 (月)

今どきの緩和ケア、在宅医療 前編 「ホスピスを目指して」

今日はお招きくださり、ありがとうございます。緩和ケア、在宅医療はこの5年くらいで相当な変化を迎えております。今どきの以前の在宅医療とは相当異なるものになっておりまして、今、どう変化しているかを少しでもお伝えできたらと思います。
私の医師としての道のり
  私は現在神戸市北区で開業しています。医師になったのは1996年で、医学部を卒業してすぐに脳外科医になりました。当時は、大学を卒業するとすぐに自分の専門分野を選び、大学の医局という医師のグループ組織に所属する習わしでした。私は、「名古屋市立大学、脳神経外科教室」の医局に入局しました。医師として働いた経験もないのに、学生の頃に感じたイメージだけで、自分の好みで専門を選びました。自分の特性が、脳外科医に向いているかどうかわからないまま、ただやりたいと思って始めました。
実際は、非常に激務でした。大学でわずか3ヵ月研修した後(通常研修医は最低2年医師としての訓練を受けます)、人手の少なかった脳外科の医局では即実践ということで、ある漁師町の民間病院に赴任しました。新米の医師として、毎日朝から夜遅くまで病院に缶詰になりました。夕食もよく病院の患者と同じ食事を食べていました。いきなりたった一人で当直(夜勤)もしました。自分が初めて診た人は今でもよく覚えています。急に腰が痛くなった中年の人を診たのですが、今、考えるとただの腰痛です。でも医師になりたての自分にとってみたら、さっぱりわからない。もしかしたら、重大な病気なのではないかと、患者が来る前から、にわか勉強をし、怯えていました。次に診察したのは8ヵ月の乳児の便秘です。この子には浣腸をしたら良いよとベテランの看護師が耳元で教えてくれました。
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毎日が分からないことの連続で、朝も昼も夜もずっとポケットベルを鳴らされていました。脳外科医だから頭の中の病気を診ると思ったらそうではありませんでした。この病院のルールでは、夜から朝までは、首から上の病気は、すべて私が診るのです。子供はよく転ぶし、漁師町はケンカっ早いのでみんな酔って転ぶか、喧嘩して病院に来ていました。夏は、海水浴場の帰りに、自動車事故を起こしたケガ人が病院に運ばれ、毎晩のように呼ばれていました。食事をしているときも、夜家に帰ってからも、眠っている間も何かあれば、すぐに病院に呼び出されていました。
最近医師の過労死が問題になりますが、私も例外ではなく、毎日こんな生活をしていたら体がだんだんおかしくなり、ある日から職場に行くのがつらくなってきました。どうやってそこから逃げ出すかばかりを考えるようになり、自分は脳外科医の道を1年と2ヶ月で諦めました。医療の世界はまさにブラック企業と同じでした。
  その後、再び大学病院に戻り1年、内科の研修医として仕事を再開しました。そして、医師になって3年目に赴任したのは穏やかな農村でした。
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このころは医局に所属すると大抵卒業してから6年目くらいまでは、郡部の病院に赴任するのが習わしでした。自分とは縁のないところに行って医師として修行を積み、また何年目かになると大学に戻り、基礎研究をするのがキャリアパスでした。自分としては、郡部の病院に赴任することは、幅広く医師として身につけなくてはならない技能を身につけることが出来ました。もちろん、仕事として充実していますし、地域の住民の方にすごく温かくしてもらいました。しかし、私の家族にとっては、縁もゆかりもない、だれも知り合いがいないところで、とても孤独な状況だったのです。この先もあちこちの病院に転勤し続けて、その度に慣れない生活を家族に強いていくのかと暗い気分にもなっておりました。赴任した地域に根を降ろし、長く勤務する医師も多くいますが、自分はそういう気持ちになれませんでした。そしてやがて30才となり、どこで働くかと同時に、そろそろ何を自分の専門、強みにするのかを決めていく時期が来ました。
がん患者に嘘をつく、そして緩和ケアとの出会い
ところで、2000年当時は、がんと診断した患者に、どう嘘をつくかというのを看護師や家族と真剣に打ち合わせしていました。亡くなるときも本人に言っていないものですから、どんどんうそと現実が離れていくわけです。「治る、治る」と言って入院しているのに亡くなっていく、まだそういう時代でした。「あなたはがんではない。治りが悪い肺炎だけれども、しっかり入院しないと治らないから」とうそをつき続けていました。そういうものだと自分でも思い込んでいました。そして、いざ患者が亡くなる現場になると、心肺蘇生をするのが普通のことでした。心肺蘇生を30分くらいして、家族に「すみませんでした」と言って、亡くなったのは自分の責任ではないのに、「力及ばずすみませんでした」「治せませんでした」と、頭を下げていました。
こういう患者の看取りをずっと続けていたとき、亡くなっていく患者にうそをつき続けていいのかと、本当に思いました。
そして、患者にうそをつかず、がんを告知する、がんである事を伝えるという問題に自分も取り組むことになりました。
その取り組みをしていたのは、当時まだ黎明期の緩和ケアでした。私は、いろんな本、いろんな研究会に参加し学び、心からホスピスで働きたいと思うようになりました。
患者にうそをつかないことだけではなく、苦痛を緩和する方法も身につける必要がありました。モルヒネも病院にはあるのに、使い方がわからないため、がん患者の痛みを治療することが出来ないまま、目の前で苦しみながら人が死んでいくのを何回も見ていました。人の最期は苦しまないと死ねないものなのだ、と思っていました。しかし、緩和ケアの教科書を読んでみると、どうもそうではないらしい。きちんとがんの痛みを治療する方法はある。しかし、日本の緩和医療、緩和ケアが相当遅れていることがわかりました。まだ30歳前後でしたから、もっと緩和ケアを学びたいと思いましたが、自分が所属していた大学病院で、緩和ケアを専門にする医師は一人もおらず、誰にも教わることは出来ませんでした。
大学の教授に「自分は緩和ケアの道を目指していきたい」と話しました。すると、「なぜ医師として敗戦処理の専門になろうとするのか」と教授に言われました。「治す」技術を学ぶことが医師として当然でした。「まだお前にはこれから将来がある、まだ技能も不十分なおまえがなぜ敗戦処理に回るのか」、こう言われました。今聞くと違和感がありますが、当時は本当に正しいことのように聞こえました。まだ医師としても十分世間にお返ししてはいない状態から、なぜそこを通り越し、引退寸前になるのかと。
私は、緩和ケアができれば、人は必要以上に苦しまなくても死ねると知りましたから、まず働いていた病院で自分なりに実践し始めました。教科書に書いてある通りやってみたら、確かにがん患者たちの痛みは治まりました。それを見ている看護師さんたちがびっくりしていましたね。それまでは、病院では緩和ケアは意識して行っていませんでした。自分も看護師さんたちも緩和ケアの可能性を確信しました。決して、病院で手に入らない特別な道具や薬が必要なわけではないのです。それまでに、普通に使っていた医療機器を使い、それまでに使い切れていない薬をちゃんと使うだけでした。
がんの痛みは、患者にとって相当な苦痛でした。がんの痛みはあきらめるしかない時代でしたから、痛みが取れた瞬間に患者から自分に向けられる信頼感はものすごく大きかったのです。当時内科医の私は、よく内視鏡を使い処置をしていました。しかし、内視鏡は、一時ではありますが、患者には苦痛を与えます。また、外来の慢性疾患、糖尿病や高血圧の患者に渡す1粒のお薬は、実感できる効き目が小さい。彼らに診察、検査をしてよくなりましたよと伝えても、患者自身はこの薬を飲むと自分は確かに調子がいいという実感がないわけです。一方で、がんの痛みはたった一つの薬で、相当効き目があります。また、がんの痛みが取れた瞬間にできる強い信頼関係は、自分が医師として味わったことのない感触でした。世界ががらりと変わりました。こういった体験を通じて、医師として緩和ケアに魅せられていったのです。自分には敗戦処理をしている気持ちは全くありませんでした。
しかし、自分は郡部の一介の内科医でしたし、さらに緩和ケアの勉強がしたいと強く思うようになりました。ホスピス病棟で働けば何かしら違うものが見えてくるのではないかと思い、その病院、そして大学の医局を飛び出したのです。
ホスピスで働く医師として感じたこと
日本中のホスピスで医師を募集していないか、情報を自分で探しました。そして、社会保険神戸中央病院(現JCHO神戸中央病院)に就職がすぐ決まりました。2002年当時、神戸にはホスピスが5ヵ所ありました。当時も今もそうですが、ホスピスで働く医師は不足しています。内科や外科といった科は大学の医局から派遣して医師をあてがっていきます。しかし、ホスピスは大学からの人材の供給がありません。医師がいないときには、どうしても病院内で医師をあてがう必要があります。すると、その病院の中で一番温厚な人が院長に急に呼ばれます。人格者で、医局長など中間管理職のトップで、温厚で絶対首を横に振らない、つき合いもいい、部下にも信頼が厚く、上手に黒いも白いも取り込んでいくような、そういう人あたりのいい医師が、「うちの病院でホスピスをつくることになり、つきましては君が一番適任だと思う」と青天の霹靂で呼ばれるわけです。私のように若いうちからある日突然、緩和ケアを専門にしたい、ホスピスで働きたいと言って、それまで所属していた組織を飛び出してくる人はまれなのです。
神戸のホスピスで働き始めて、色々驚くことがありました。それまで働いていた郡部の病院では、自分の病院で患者を診なかったら、行き場所がないので、断ることはありませんでした。初診から看取りまでずっと診察を続けるのが常でした。その地域の人たちを求められる限りずっと診ないと、自分たち以外に医師がいないと理解していました。
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神戸に来て、病院がいっぱいあることに驚きました。家から勤務している病院まで、車で30分走る間にホスピスが3ヵ所ありますし、大学病院や大きな市民病院もたくさんあります。随分細かく専門分化していて、がん患者の初診から看取りまで一人の医師だけが関わることは、まずありませんでした。
一番驚いたのは、ホスピスには、最期を迎えるにあたりこういうところで生きていきたい、そして死んでいきたいと、自分で望んだ患者たちが来ると私は思っていました。働きだしてわかったのは、そんな人はほとんどいない。大きな病院から、ベッドが満床になった、入院日数が2-3週間を超えたという理由などで回されてくる。患者も家族もホスピスに来ることを求めていないのに、病院から転院を促されてくるのです。
他にも、患者本人は高齢でも家にいることができるのに、同居している若い人は学校や仕事に行き、昼間は患者が1人になるから家に置いておけない。だから、家族がホスピスに入院を求めるということもありました。患者は、本当はホスピスに来たくないのに、渋々来ているわけです。清潔感がある白い壁だけれども、体が動けなくなった患者たちにとってみたら、白い壁に囲まれた部屋で一生を終えなくてはいけない。悶々と過ごしている患者もいました。そこで働いていた10年間で、自分から望んでここに来たいと申し込みをしてくる患者には、ほとんど出会えませんでした。皆さん、ただただ家の事情、病院の事情に巻き込まれ、療養場所を移り変わっていく。そういう人をずっとホスピスで診ていくことになりました。
勤めていた病院では外来も時々やっていました。ある時、ホスピスを退院した患者が時間になっても来ないからおかしいなと思い、家に電話したら、「よほど調子がよいときでないと病院に行くことができない。明日、熱が下がったら病院に行くから」と言われました。調子がよくないと病院に来られないのは当たり前です。病院に来るというのは、弱った体どうにか家を出て、受け付けし、外来で長時間待ち、やっと診察が終わる。会計を済まし、薬を薬局で受け取り家に帰ってくる。がん患者たちは大抵同じ日に二つ以上の科の外来に行くことが多いのです。病院の外来に受診するというのは、かなり体力が必要な事なのです。

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