最近の在宅医療
後半は在宅医療が最近どれくらい変わってきたかですが、省庁の調査で、病気になっていない一般市民のうち、自宅で亡くなりたいと思っている人は半分くらいでした。本当に病気になってしまった人に聞くと、本当に自宅で最期まで過ごしたいというがん患者は大体3割。実際に自宅で亡くなることができたがん患者は7.8%です。なぜこれ程の開きがあるのか、今の在宅医療の一番の問題です。
日本で行われた地域介入研究で、2007~2010年の3年間、がん患者の診療の質を高めるために、緩和ケアを地域でレクチャーしました。市民講座や医療者の研究会など、緩和ケアの普及啓発と教育活動を繰り返し行いました。どのような成果が出せたかですが、本当は実際にその地域の患者の苦痛がどの程度だったかを検証するのが一番良いのですが、実際には患者それぞれの苦痛の程度を調査することはできませんでした。そこで、自宅で亡くなった人の数で、活動の成果を評価しました。介入した地域において自宅で亡くなったがん患者は10%を超えました。比較した全国平均が7~8%ですから、積極的に緩和ケアを普及啓発すると、自宅で亡くなる患者が増えるのです。

なぜ緩和ケアの普及によって自宅で亡くなる人が増えるのでしょうか。その理由の一つは、異なる病院の医療者の間で交流、つまり人脈が拡がる結果であると考えられています。医療者が「顔見知り」になると、より患者に対して良い緩和ケアを提供できると推測したのです。これは立ち止まって考えれば当たり前の事で、「顔見知り」の医師同士は当然良い治療の引き継ぎをします。病院の看護師と在宅の訪問看護師が顔を合わせて患者の話し合いをすれば、さらに良いケアが生まれていくのです。
患者はどこで最期を迎えたいと考えているのか
この研究でもう1つ大事な結果は、患者たちが実際にどこで最期を迎えたいと思っていたかが明確になったことです。決してすべての患者が家で最期を迎えたいと思っているわけではありません。緩和ケア病棟やホスピスで遺族に「ここで亡くなってよかったと患者は考えていたと思いますか?」と尋ねると、「ここでよかったと思っていたと思います」と答えたのは半分でした。つまり、半分の患者は、望んでいない場所だったと言うことです。先ほど、ホスピスで私が働いていたとき、自分で望んで来ていた患者はほとんどいなかったと話しました。この結果からも、決してすべての患者がホスピスで最期を過ごすことを望んでいたわけではないことが分かります。
また、自宅で過ごして私のような在宅医が治療やケアを行っていても、本当に家で亡くなりたいと本心から思っている人は全体の3割です。ということは、残りの7割の患者は入院できる病院を私が探さなくてはいけないということです。だから在宅で何が一番大変かというと、家で最期を看取ることではなく、患者や家族に入院したいと言われたときに入院できる病院を探すことです。神戸のような都市部ではどこの病院でもすぐ引き受けてくれるわけではありません。何が重要になってくるかというと「顔見知り」「顔の見える」連携です。
医師が人脈を拡張するには。
緩和ケアを普及するための研修会や地域の勉強会で、大事なことは人脈づくりです。今までは、例えばある大学病院の目の前にある診療所なのに、医師の出身が別の大学であれば、なぜか遠くの大学病院に患者を紹介するのが普通だったわけです。しかし、研修会や勉強会を通じて、近くの医療者を集めると、会を通じて顔見知りが増えてきます。そうすると、お互いいろいろな事を頼みやすくなるわけです。地域で緩和ケアや在宅を普及させていくには、緩和ケアの技術を教育するだけでは片手落ちです。医師一人一人の知識を高めると同時に、自分がわからない時にだれに聞いたらいいか、わかる仕組みをつくるのが大事です。こうして、会を通じて、医師の人脈を広げていくと、やはり在宅で最期まで過ごす患者も増えていきます。顔見知り同士の医師なら、病院から開業医、在宅診療医に頼めるようになるからです。私も、入院できる病院の医師の顔を知っていればと、「無理言ってごめん、入院を頼むわ」と頼みやすくなるのです。最期は入院したい7割の患者をこうして救うことが出来ます。
ちゃんと人脈をつくり、自分がだれに頼んだらいいか、どこの施設に頼んだらいいかを知っていけば、余り大きな規模の診療所でなくても開業できると考えたのです。私の医院には私しか医師はいませんし、事務員が2人だけ全部で3人です。この体制で5年間やってきました。それでも大きな力を発揮しようと思ったら、絶えず顔をつながなければなりません。例えば夜中に患者を自宅から救急車で病院に送ろうと思ったら、その夜の当直の若い先生に、「本当申し訳ない。今日だけお願い、診てください」と頭を下げて電話で頼みます。診てもらったら、自分から数日以内に見舞いに行き「あの人はどんな様子でしたか」と直接医師に尋ねますし、病棟の看護師に「この人のご家族はあんなふうで」と話す機会をもつようにします。医師会のような組織で、開業医が「自分が困ったときには必ず入院させられるような仕組みをつくろう」とやってもあまりうまくいきません。結局は人と人同士のことなのです。大きな力に任せず、自分で人脈を構築していかないと、在宅医療の質は高まりません。これが私の考える今流の在宅医療です。
実際に家で過ごす患者、家族の姿。在宅療養は恵まれている。
いくつか自宅で過ごしている患者、家族の実際について話そうと思います。患者である母は、病院に入院しているよりも、静かで庭の見える自宅での生活を望んでいました。がん専門病院の看護師である娘が毎日看病していました。何度も、「病院は制約が多いし」と娘はよく話していました。これはどういうことかというと、病院では使えない薬や物品があるのです。病院は「使える薬、物品」をそれぞれ院内の規定で決めています。日本で使えるすべての薬がどの病院でも使えるわけではないのです。例えば、痛み止めの薬が5種類あったら、その病院で使えるのは2種類くらいといった感じです。5種類すべての薬を病院が使えるようにすると、そのうちいくつかは大抵使われずに、使用期限切れとなり無駄になります。今はどの病院も経営が困難になっています。少しでも損益を減らすために、薬の使える種類を減らすのです。もちろん2種類の薬をきちんと使いこなせば良いのかもしれません。しかし、5種類の薬をすべて使って初めて医師はそれぞれの薬の特性と限界を知ることが出来るのです。
しかし、私のような開業医は5種類全て使えます。使いたい薬を処方せんに書けば、良いのですから。開業して、処方出来る薬の制限がなくなったことで、とても治療の幅は拡がりました。薬だけではありません。衛生材料と言われる、いわゆる医療物品もすべて使えるようになりました。自分が使いたい物品(ガーゼや褥瘡の治療用ドレッシング材)をいろんな種類使うことが出来ます。病院で働いていたときよりもずっと良い治療、ケアが在宅医療で実現できています。これは開業してから分かったことでした。
自宅療養をしているがん患者は、介護保険でベッドを借りることができます。借りるベッドはいつも新しく、きれいです。褥瘡ができないようなエアマットもすぐに借りることが出来ます。一方病院のベッドは最新ではなく何年も使っているため、やはり傷んできます。自宅療養している患者の方がずっと物品の質はよくなります。
在宅死の実態
開業して、最初の1年間(2013年)は、全体で61人の亡くなった患者さんのうち、45人(73%)を最期まで自宅で診察しました。その頃は、家で亡くなるのが病院で亡くなるよりもよいと考えていたのかもしれません。年々、周囲の医療機関と「顔見知り」の人も増え、また、入院したい人は早く入院できるよう援助するようになりました。また、紹介される患者数は年々減っています。昨年(2016年)は、全体で47人の亡くなった患者さんのうち、29人(61%)を最期まで自宅で診察しました。
自宅で最期まで過ごすというのは、本人にとっては住み慣れた場所で過ごせる良い面があります。しかし、看病、介護に当たる家族には相当な負担です。体だけでなく、心のつらさと向き合う時間なのです。また、最近都市部で問題になっていることは、いわゆる孤独死の問題です。調査で、都市部の死亡診断書の調査がありました。検案事例、いわゆる孤独死と言われているようなものがどれくらいあるかを調べました。検案事例とは既に死から時間経っており、死因が特定できない人の事です。この調査で分かったことは、医療や介護、福祉の手が行き届かず、家で知らないうちに亡くなっている人が、半分くらいだったという事実でした。 厚生労働省から毎年発表される、死亡場所は、都市部の自宅死亡が増えていることが分かっています。しかし、内情は在宅死している病死の数が多いのではなく、孤独死が増えているのではないかということです。
どんな人たちが在宅医療を好むのか
さて、私の経験からどんな人たちが在宅医療を好むのか、お話しします。まず、たばこをよく吸う人です。病院、ホスピスでも絶対禁煙なので、たばこを吸いたい患者さんは、あきらめて家に帰るしかありません。

また、認知症を合併している人も、ずっと家で過ごしています。自分が病気だと思っていないので、自分で病院に行きません。家族としては、何とか病院に行ってほしいのだけれども、「何で行かないといけないの」と怒りだしてしまう。また病院に連れて行っても診察の順番を待つことが出来ないのです。
あとは、部屋に趣味のものがたくさんある人は部屋から一歩も動きません。自分のお気に入りのものがたくさん部屋にあるので、患者さんにとってはとても居心地の良い場所なのです。ものだけではなく、ペットがいる患者さんも在宅療養を好みます。
こういう患者さんたちは、心、いや魂が家についているとしか思えません。とにかく、最期まで家にいたいと強く言います。「ずっと家で過ごしたい」=「とても家にいることを好む」というだけではなく、「病院がとても嫌い」ということも、私が診療を頼まれる大きな理由です。
高齢者の家の中はどうなっているのか。
あちこちの家を往診するようになり、本当に同じ家は一つもないなあと思います。どの家にもそれぞれの雰囲気とそして匂いがあります。高齢者の家の中は整然としていることはまずありません。所狭しと多くのものに囲まれて、生活しています。その中でもとりわけ私自身、とても不思議思い、好奇心をくすぐるのは、人形を集めている人が多いことです。他にも、旅のお土産、ペナントとか、そういうのが几帳面にきちっと並んでいます。部屋の相を見ると大体その人がわかるような気持ちにもなります。若い人たちが、アニメや映画のフィギュアを集めるのと同じです。こうしてものを集め、ため込む、ホーディング (hoarding)、物ためのことを一時期勉強してみました。社会的にはテレビでも報道される「ゴミ屋敷」の問題です。私は医者ですから、どうして人は物ためをするのだろうと、考えました。同じ物ためでも、整然型と雑然型に分類されるのですが、どちらにも共通しているのは、目がついた物を置いていることです。その人の脳の状態、精神状態が部屋の中の状態に現れるのではないだろうかと、今でも好奇心で患者さんの家の中を眺めています。
最近増えてきた在宅医療を望む家族
最近増えてきたのは、本人よりも、介護する家族が、最期まで家で看たいと私のところに相談に来るケースです。特に親をきちっと看取りたいと考えています。そして、長く介護をしてきた家族自身が、病院に任せるのではなく自分でやり遂げたいと考えています。例を挙げます。ある、娘さんが何年も父親を介護していました。しかしある時、肺炎になり、近くの病院に入院しました。食べさせようとしてもむせるばかりで、いよいよ点滴だけになりました。娘さんとしては、何としても食べさせたい、自分が病院で食べさせるから、許可して欲しいと病院の医師、看護師に頼みました。すると、病院の医療者からは、「食べる力がないから食べさせてはいけません。食べさせるのだったら退院してください」と言われ、退院することになったのです。病院の中では、たとえ家族であっても、患者さんに害を与えてはならないという原則が強いからです。もちろん、娘さんも病院の原則は理解していますし、もう父親が食べる力を失い、余命が短い事もわかっています。それでも何か一口でも食べさせたいと思うのは、食べることそのものがケアで愛情を表現し伝える行為だからです。

これはいわば家族による生前供養です。最期まできちんとできることはして、見送りたい。そう思う家族も多いのです。
在宅医療の本質とはなにか。
ホスピスで長く働いていた私は、家で診察するようになって、心のケアに関して大切なことに気がつきました。患者さんが家で過ごしていると、ふと窓から外を見れば、庭のエサ台に鳥が来たりするのを見たり、天気や木々のようすの変わりを見て、癒されたりするのです。そして、病院の中のような人工的な音はなく、とても静かです。病院は自然の匂いもなければ、風もないところです。日常気持ちよいと感じる、自然な感覚を遮断したところでは、人の心は荒んでいくのだと改めて思うようになりました。

私は、ホスピスで働いていたとき、各病室を回り、患者さんと相対しているとき、いつも「自分がこの方の心を癒やさなければ」と責任を感じていました。心のケア、またスピリチュアルケアとも言われる、緩和ケアにとってはとても大切なケアです。患者さんの心の訴え、叫びを聞き届け、そして対話する、その時間も場所も十分にありました。
しかし、家に帰って過ごしている患者さんたちを診ていると、彼らは、窓の外の風景や、自然な匂い、風、何気ない家族とのやりとりに心を癒やされていることに気がつきました。

そして、私は医師として患者さんと家族の苦痛を治療し、不安な気持ちに、その時だけきちんと応えればよいと思えるようになりました。自分が患者さんの家にいない多くの時間に対して、必要以上の責任を感じる必要はないのだと悟りました。私自身、在宅医療に専念するようになってから、心の負担が随分と軽くなりました。
おわりに
今日は在宅と緩和ケアの変わりようをお話ししました。私のような、小さな活動の中にも、何かしら大きな可能性を皆さんが感じていただけることが出来ましたら、こんなに嬉しいことはありません。
今日は皆さんにお話をする機会をいただきまして、本当にありがとうございました。