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2017年9月

2017年9月16日 (土)

誰もが「多面」人格であるように

(この文章に書かれている人物にモデルはありますが、私の心の中に居る方です。)
今日の診察中にある方から問われました。「私は、もう色んな事を諦めて、死を受け容れなくてはならないのでしょうか。」私はしばらくどう答えたら良いか分からず、黙っていました。
その方は、まだ若い女性です。子宮にできた癌が肝臓に転移し抗がん剤の治療を受けていました。抗がん剤の治療を受けている病院から促され、私の医院に来るようになりました。治療を受けている病院とはいつも連絡を取り合いながら、それぞれの役割を果たすようにしていました。病院では、抗がん剤の治療と検査を、そして私は癌の症状と、毎日の食生活から、生活、仕事に関しての相談を大凡30分かけて話すようにしていました。
抗がん剤の治療を続けてきたものの、効果がなくなり、ついには病院の医師より、「もうこれ以上の治療方法はない、今後の過ごし方をよく考えて欲しい」と言われ、その方はとても落ち込んでいました。しかし、それも現実なので、どうにか受け止めて次にどのような行動を起こしたら良いのか、一人で悩んでいました。
「◌◌先生(病院の医師)は、もう残った時間は半年ないだろう、仕事や家庭のあらゆる事に関して、整理をした方が良いと仰いました」と、その方は話し始めました。そして、「私なりに職場を辞めること、家族と今後のことを話し合おうと思います。ただ、私自身はそんなに短い間しか生きられないとはとても思えないのです」と続きました。
余命が6ヶ月未満になると、末期癌の状態と言われます。保険会社から生前に保険金を受け取るとき、介護保険の認定を60歳未満で受けるときは、一つの目安として6ヶ月という期間を医師として予測する必要があります。しかし、医師が、目の前の患者の余命が6ヶ月未満であるという見立てをすることは、私は不可能だろうと思っています。多くの研究と、自分の経験からも余命が2ヶ月未満程度にならないと、精度の高い予測は出来ないと思います。それでも、社会から医師という仕事を信託されている以上、それ程根拠がなくとも、精度が低いといえども、余命6ヶ月と線を引かなくてはならない事は多々あります。医師というのは、明確な線がない連続した平面に、線を引かなくてはならないのです。生と死の線、全治にかかる期間の線、登校可能な線、そして、余命の線です。誰かが線を引かないと話が前に進みません。
その方も余命を6ヶ月未満と告げられつつも、ご自分には実感がありませんでした。このような方を診ると、以前は、残された余命の目安を知り、人生の時間を大切に、かつ計画的に使い切って欲しいと思っていたものです。死から今を逆算し、何を今すべきなのか考えて欲しいと思っていました。しかし、多くの方々の生死を見守り続け、この考えは間違っていたと今は思うのです。
私は、その方にしばらく沈黙してから答えました。「あなたは、◌◌先生の前では余命6ヶ月の患者として接して下さい。家族や、職場、そして私にはまた違う接し方をして下さい」と話しました。そして、「職場には、まだこれから何年先も生きる前提で、色んな仕事、プロジェクトをこなせば良いです。家族には、ある時には余命6ヶ月の、またある時にはずっと生きていくつもりで話せば良いです」、さらに言葉を続けました。「余命は思ったよりも当たりません。私は◌◌先生の前で見せるあなたの顔、人格だけで、あなたが生きていく事はしない方が良いと思います」と。
人は誰もが、相手との関係性によって、見せる顔、口調、言葉遣いまた性格すらも変わります。どの自分が本当の自分かではなく、どの自分も全て多面的な自分なのです。私も家族に見せる顔、職場での顔は違います。子供達一人一人に見せる顔も、一人一人違います。こちらではこう言っているのに、あちらでは全く別のことを言っていることだってあります。ある方と一緒に話すと、なんて自分はユーモアのある人間なんだろうと思い、また別の方と話すと、なんて自分はつまらない無口な人間なんだろうと思います。母親と妻に見せる顔、口調、言葉遣いは全く違います。そして違っていて良いのです。どれか一つの唯一の自分になってはいけません。
また誰しも、自分が関わる集団でも当然見せる顔は異なります。あるグループではとても自信に満ちて周りの人たちの中心にいることもあるでしょう、しかし別のグループに入ると借りてきた猫のように自信がなく、人から話しかけられるのが怖くなるほど緊張することもあるはずです。自分のもつ多面的な顔、つまり人格は、自分が気に入る、気に入らないはあるかもしれません。ただ多ければ多いほど、その人の毎日は豊かになるに違いないと私は思っています。
この方にとって、多面的な顔、人格を維持するには、全ての相手、全てのグループで「余命6ヶ月」でいる必要はないのです。一貫してしまう方が、人は生きていく希望を失います。一つの顔に押し込めていくことで、人の心は病みそして、壊れていきます。
丁度読み終えた「人は人を浴びて人になる」(夏苅郁子著)という本があります。この本で、著者は心の病にかかった精神科医で、母親が統合失調症であったことを告白しています。その中にこんな一説がありました。「講演する時の医師の立場が小さくなり、「患者4割、家族4割、医師2割」の心情で話すようになった。(中略)曖昧な自分に白黒つけたいと焦っていた私を救ってくれたのは、やはり人との出会いだった」。自分自身が、患者であり、家族であり、医師である。そのどの立場も全て自分だが、まるで自分の人格が分裂しているような違和感を感じ、白黒付けたいと潔癖に焦っているのです。私は、その分裂した状態を、多面人格と読み換え、そしてそれは本来の人の本質であると読みました。そして、人との出会いでさらに多面的な顔、多面人格(アモルファス(注)のような物を私はイメージしています)の面を増やしていくことで、救われていくのだと思いました。
余命を告げられたがん患者は、一見他人からは、不合理な言動があるかもしれません。それでも、その不合理な言動こそが、「多面的な顔」であり、生きる原動力なんだと私は深く確信しているのです。がん患者に限らず、人はつらい時こそ、自分の顔と人格を増やしていく事を続けて欲しいのです。自分自身の存在や心を白黒付けようとしたり、一貫性を持とうとしたりすることを止めて欲しいのです。そして、私はそのことをこの方に、この日伝えようとしたのです。
注)アモルファスとは、元素配列に規則性がなく全く無秩序な金属のことです。偶然にも紹介した「人は人を浴びて人になる」の著者が参加していた絵の同好会の名前がアモルファスの会だったとのことです。

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2017年9月 4日 (月)

今どきの緩和ケア、在宅医療 後編 「今在宅医療はどうなっているか」

最近の在宅医療
  後半は在宅医療が最近どれくらい変わってきたかですが、省庁の調査で、病気になっていない一般市民のうち、自宅で亡くなりたいと思っている人は半分くらいでした。本当に病気になってしまった人に聞くと、本当に自宅で最期まで過ごしたいというがん患者は大体3割。実際に自宅で亡くなることができたがん患者は7.8%です。なぜこれ程の開きがあるのか、今の在宅医療の一番の問題です。
日本で行われた地域介入研究で、2007~2010年の3年間、がん患者の診療の質を高めるために、緩和ケアを地域でレクチャーしました。市民講座や医療者の研究会など、緩和ケアの普及啓発と教育活動を繰り返し行いました。どのような成果が出せたかですが、本当は実際にその地域の患者の苦痛がどの程度だったかを検証するのが一番良いのですが、実際には患者それぞれの苦痛の程度を調査することはできませんでした。そこで、自宅で亡くなった人の数で、活動の成果を評価しました。介入した地域において自宅で亡くなったがん患者は10%を超えました。比較した全国平均が7~8%ですから、積極的に緩和ケアを普及啓発すると、自宅で亡くなる患者が増えるのです。
20170904_232839 なぜ緩和ケアの普及によって自宅で亡くなる人が増えるのでしょうか。その理由の一つは、異なる病院の医療者の間で交流、つまり人脈が拡がる結果であると考えられています。医療者が「顔見知り」になると、より患者に対して良い緩和ケアを提供できると推測したのです。これは立ち止まって考えれば当たり前の事で、「顔見知り」の医師同士は当然良い治療の引き継ぎをします。病院の看護師と在宅の訪問看護師が顔を合わせて患者の話し合いをすれば、さらに良いケアが生まれていくのです。
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患者はどこで最期を迎えたいと考えているのか
この研究でもう1つ大事な結果は、患者たちが実際にどこで最期を迎えたいと思っていたかが明確になったことです。決してすべての患者が家で最期を迎えたいと思っているわけではありません。緩和ケア病棟やホスピスで遺族に「ここで亡くなってよかったと患者は考えていたと思いますか?」と尋ねると、「ここでよかったと思っていたと思います」と答えたのは半分でした。つまり、半分の患者は、望んでいない場所だったと言うことです。先ほど、ホスピスで私が働いていたとき、自分で望んで来ていた患者はほとんどいなかったと話しました。この結果からも、決してすべての患者がホスピスで最期を過ごすことを望んでいたわけではないことが分かります。
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また、自宅で過ごして私のような在宅医が治療やケアを行っていても、本当に家で亡くなりたいと本心から思っている人は全体の3割です。ということは、残りの7割の患者は入院できる病院を私が探さなくてはいけないということです。だから在宅で何が一番大変かというと、家で最期を看取ることではなく、患者や家族に入院したいと言われたときに入院できる病院を探すことです。神戸のような都市部ではどこの病院でもすぐ引き受けてくれるわけではありません。何が重要になってくるかというと「顔見知り」「顔の見える」連携です。
医師が人脈を拡張するには。
緩和ケアを普及するための研修会や地域の勉強会で、大事なことは人脈づくりです。今までは、例えばある大学病院の目の前にある診療所なのに、医師の出身が別の大学であれば、なぜか遠くの大学病院に患者を紹介するのが普通だったわけです。しかし、研修会や勉強会を通じて、近くの医療者を集めると、会を通じて顔見知りが増えてきます。そうすると、お互いいろいろな事を頼みやすくなるわけです。地域で緩和ケアや在宅を普及させていくには、緩和ケアの技術を教育するだけでは片手落ちです。医師一人一人の知識を高めると同時に、自分がわからない時にだれに聞いたらいいか、わかる仕組みをつくるのが大事です。こうして、会を通じて、医師の人脈を広げていくと、やはり在宅で最期まで過ごす患者も増えていきます。顔見知り同士の医師なら、病院から開業医、在宅診療医に頼めるようになるからです。私も、入院できる病院の医師の顔を知っていればと、「無理言ってごめん、入院を頼むわ」と頼みやすくなるのです。最期は入院したい7割の患者をこうして救うことが出来ます。
ちゃんと人脈をつくり、自分がだれに頼んだらいいか、どこの施設に頼んだらいいかを知っていけば、余り大きな規模の診療所でなくても開業できると考えたのです。私の医院には私しか医師はいませんし、事務員が2人だけ全部で3人です。この体制で5年間やってきました。それでも大きな力を発揮しようと思ったら、絶えず顔をつながなければなりません。例えば夜中に患者を自宅から救急車で病院に送ろうと思ったら、その夜の当直の若い先生に、「本当申し訳ない。今日だけお願い、診てください」と頭を下げて電話で頼みます。診てもらったら、自分から数日以内に見舞いに行き「あの人はどんな様子でしたか」と直接医師に尋ねますし、病棟の看護師に「この人のご家族はあんなふうで」と話す機会をもつようにします。医師会のような組織で、開業医が「自分が困ったときには必ず入院させられるような仕組みをつくろう」とやってもあまりうまくいきません。結局は人と人同士のことなのです。大きな力に任せず、自分で人脈を構築していかないと、在宅医療の質は高まりません。これが私の考える今流の在宅医療です。
実際に家で過ごす患者、家族の姿。在宅療養は恵まれている。
いくつか自宅で過ごしている患者、家族の実際について話そうと思います。患者である母は、病院に入院しているよりも、静かで庭の見える自宅での生活を望んでいました。がん専門病院の看護師である娘が毎日看病していました。何度も、「病院は制約が多いし」と娘はよく話していました。これはどういうことかというと、病院では使えない薬や物品があるのです。病院は「使える薬、物品」をそれぞれ院内の規定で決めています。日本で使えるすべての薬がどの病院でも使えるわけではないのです。例えば、痛み止めの薬が5種類あったら、その病院で使えるのは2種類くらいといった感じです。5種類すべての薬を病院が使えるようにすると、そのうちいくつかは大抵使われずに、使用期限切れとなり無駄になります。今はどの病院も経営が困難になっています。少しでも損益を減らすために、薬の使える種類を減らすのです。もちろん2種類の薬をきちんと使いこなせば良いのかもしれません。しかし、5種類の薬をすべて使って初めて医師はそれぞれの薬の特性と限界を知ることが出来るのです。
しかし、私のような開業医は5種類全て使えます。使いたい薬を処方せんに書けば、良いのですから。開業して、処方出来る薬の制限がなくなったことで、とても治療の幅は拡がりました。薬だけではありません。衛生材料と言われる、いわゆる医療物品もすべて使えるようになりました。自分が使いたい物品(ガーゼや褥瘡の治療用ドレッシング材)をいろんな種類使うことが出来ます。病院で働いていたときよりもずっと良い治療、ケアが在宅医療で実現できています。これは開業してから分かったことでした。
自宅療養をしているがん患者は、介護保険でベッドを借りることができます。借りるベッドはいつも新しく、きれいです。褥瘡ができないようなエアマットもすぐに借りることが出来ます。一方病院のベッドは最新ではなく何年も使っているため、やはり傷んできます。自宅療養している患者の方がずっと物品の質はよくなります。
在宅死の実態
開業して、最初の1年間(2013年)は、全体で61人の亡くなった患者さんのうち、45人(73%)を最期まで自宅で診察しました。その頃は、家で亡くなるのが病院で亡くなるよりもよいと考えていたのかもしれません。年々、周囲の医療機関と「顔見知り」の人も増え、また、入院したい人は早く入院できるよう援助するようになりました。また、紹介される患者数は年々減っています。昨年(2016年)は、全体で47人の亡くなった患者さんのうち、29人(61%)を最期まで自宅で診察しました。
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自宅で最期まで過ごすというのは、本人にとっては住み慣れた場所で過ごせる良い面があります。しかし、看病、介護に当たる家族には相当な負担です。体だけでなく、心のつらさと向き合う時間なのです。また、最近都市部で問題になっていることは、いわゆる孤独死の問題です。調査で、都市部の死亡診断書の調査がありました。検案事例、いわゆる孤独死と言われているようなものがどれくらいあるかを調べました。検案事例とは既に死から時間経っており、死因が特定できない人の事です。この調査で分かったことは、医療や介護、福祉の手が行き届かず、家で知らないうちに亡くなっている人が、半分くらいだったという事実でした。 厚生労働省から毎年発表される、死亡場所は、都市部の自宅死亡が増えていることが分かっています。しかし、内情は在宅死している病死の数が多いのではなく、孤独死が増えているのではないかということです。
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どんな人たちが在宅医療を好むのか
さて、私の経験からどんな人たちが在宅医療を好むのか、お話しします。まず、たばこをよく吸う人です。病院、ホスピスでも絶対禁煙なので、たばこを吸いたい患者さんは、あきらめて家に帰るしかありません。
20170904_233401 また、認知症を合併している人も、ずっと家で過ごしています。自分が病気だと思っていないので、自分で病院に行きません。家族としては、何とか病院に行ってほしいのだけれども、「何で行かないといけないの」と怒りだしてしまう。また病院に連れて行っても診察の順番を待つことが出来ないのです。
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あとは、部屋に趣味のものがたくさんある人は部屋から一歩も動きません。自分のお気に入りのものがたくさん部屋にあるので、患者さんにとってはとても居心地の良い場所なのです。ものだけではなく、ペットがいる患者さんも在宅療養を好みます。
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こういう患者さんたちは、心、いや魂が家についているとしか思えません。とにかく、最期まで家にいたいと強く言います。「ずっと家で過ごしたい」=「とても家にいることを好む」というだけではなく、「病院がとても嫌い」ということも、私が診療を頼まれる大きな理由です。
高齢者の家の中はどうなっているのか。
あちこちの家を往診するようになり、本当に同じ家は一つもないなあと思います。どの家にもそれぞれの雰囲気とそして匂いがあります。高齢者の家の中は整然としていることはまずありません。所狭しと多くのものに囲まれて、生活しています。その中でもとりわけ私自身、とても不思議思い、好奇心をくすぐるのは、人形を集めている人が多いことです。他にも、旅のお土産、ペナントとか、そういうのが几帳面にきちっと並んでいます。部屋の相を見ると大体その人がわかるような気持ちにもなります。若い人たちが、アニメや映画のフィギュアを集めるのと同じです。こうしてものを集め、ため込む、ホーディング (hoarding)、物ためのことを一時期勉強してみました。社会的にはテレビでも報道される「ゴミ屋敷」の問題です。私は医者ですから、どうして人は物ためをするのだろうと、考えました。同じ物ためでも、整然型と雑然型に分類されるのですが、どちらにも共通しているのは、目がついた物を置いていることです。その人の脳の状態、精神状態が部屋の中の状態に現れるのではないだろうかと、今でも好奇心で患者さんの家の中を眺めています。
最近増えてきた在宅医療を望む家族
  最近増えてきたのは、本人よりも、介護する家族が、最期まで家で看たいと私のところに相談に来るケースです。特に親をきちっと看取りたいと考えています。そして、長く介護をしてきた家族自身が、病院に任せるのではなく自分でやり遂げたいと考えています。例を挙げます。ある、娘さんが何年も父親を介護していました。しかしある時、肺炎になり、近くの病院に入院しました。食べさせようとしてもむせるばかりで、いよいよ点滴だけになりました。娘さんとしては、何としても食べさせたい、自分が病院で食べさせるから、許可して欲しいと病院の医師、看護師に頼みました。すると、病院の医療者からは、「食べる力がないから食べさせてはいけません。食べさせるのだったら退院してください」と言われ、退院することになったのです。病院の中では、たとえ家族であっても、患者さんに害を与えてはならないという原則が強いからです。もちろん、娘さんも病院の原則は理解していますし、もう父親が食べる力を失い、余命が短い事もわかっています。それでも何か一口でも食べさせたいと思うのは、食べることそのものがケアで愛情を表現し伝える行為だからです。
20170904_233607 これはいわば家族による生前供養です。最期まできちんとできることはして、見送りたい。そう思う家族も多いのです。
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在宅医療の本質とはなにか。
  ホスピスで長く働いていた私は、家で診察するようになって、心のケアに関して大切なことに気がつきました。患者さんが家で過ごしていると、ふと窓から外を見れば、庭のエサ台に鳥が来たりするのを見たり、天気や木々のようすの変わりを見て、癒されたりするのです。そして、病院の中のような人工的な音はなく、とても静かです。病院は自然の匂いもなければ、風もないところです。日常気持ちよいと感じる、自然な感覚を遮断したところでは、人の心は荒んでいくのだと改めて思うようになりました。
20170904_233655 私は、ホスピスで働いていたとき、各病室を回り、患者さんと相対しているとき、いつも「自分がこの方の心を癒やさなければ」と責任を感じていました。心のケア、またスピリチュアルケアとも言われる、緩和ケアにとってはとても大切なケアです。患者さんの心の訴え、叫びを聞き届け、そして対話する、その時間も場所も十分にありました。
しかし、家に帰って過ごしている患者さんたちを診ていると、彼らは、窓の外の風景や、自然な匂い、風、何気ない家族とのやりとりに心を癒やされていることに気がつきました。
20170904_233810 そして、私は医師として患者さんと家族の苦痛を治療し、不安な気持ちに、その時だけきちんと応えればよいと思えるようになりました。自分が患者さんの家にいない多くの時間に対して、必要以上の責任を感じる必要はないのだと悟りました。私自身、在宅医療に専念するようになってから、心の負担が随分と軽くなりました。
おわりに
今日は在宅と緩和ケアの変わりようをお話ししました。私のような、小さな活動の中にも、何かしら大きな可能性を皆さんが感じていただけることが出来ましたら、こんなに嬉しいことはありません。
今日は皆さんにお話をする機会をいただきまして、本当にありがとうございました。

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今どきの緩和ケア、在宅医療 中編 「最近の緩和ケアの流れ」

そして開業へ
こういう患者のつらい体験を知り、それなら、相手の家で自分が診察し、あらゆる診察を全て引き受けるのが、一番良いと思いました。そして、開業を決意しました。66平米ほどの小さいテナントを借り、主にがん患者たちのための外来診療と訪問診療(往診)を、始めました。往診車も緊急自動車に改造し公安委員会の認可を受けました。この緊急自動車、ホスピスカーについての詳しくは今年(2017年)金原出版から出版した本(『超・開業力』)に載っています。
この自動車(シルバーのトヨタアクア)で1人、荷物を持って回ります。
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もちろん訪問看護師、リハビリ、薬剤師のスタッフも一緒に患者のケアにあたります。家に行く日時はみんなそれぞれの時間で行くので、週に1回は必ず集まり、顔を合わせて、患者や家族について話し合うようにしています。
さて、ホスピスで働いていたときも、在宅の患者もみんな同じことを言います。「苦しみたくない」と。以前のようにがん患者たちに嘘をつくことはなくなりました。ほとんどの患者は、認知症などでない限り、自分ががんだと知っています。今苦しんでいなくても、将来苦しむのではないかと恐れています。
緩和ケアの新しい流れ
自分は緩和ケアを実行することで、ある程度患者の苦しみを軽くすることが出来るようになってきました。しかし、まだ世の中には緩和ケアは知られているとは言えず、医師一人一人の緩和ケアの技術も不十分です。それでも緩和ケアに関しては、2007~2008年くらいから、厚生労働省も力を入れ、急速に教育と啓発の機会が増えました。また2日間の緩和ケア研修も全国の病院で行われるようになり、地域の医師同士の交流の機会が増えました。こうして、一般の医師も随分がんの痛みを止める医療用麻薬を使うようになりました。
私がホスピスで働き始めた2002年のころは、がんの痛みに麻薬を始めるためだけにホスピスに入院する人がいました。今はそんな患者はいません。外来できちんと麻薬が処方されるようになりました。
そして、今のホスピスには患者は亡くなる直前にしか来ません。日本のホスピスは病棟の一部みたいなものが多いですが、アメリカ、イギリスだと患者は家にいます。イタリアは日本に似ていて、入院するもよし、家にいるもよしと、国によっても違います。日本では最期まで家で過ごす患者は、10%未満ですが、アメリカやイタリアでは40%位です。どの国でも終末期のケアを受けるようになると、30~ 40日くらいで亡くなるのが普通です。私がホスピスをやめるころには、平均在院日数は30日を切りました。1週間以内に亡くなる人が17%、22床のベッドで年間200人以上が亡くなっていきます。
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一人ひとりの人生に寄り添う、そういうことを大事にしたいと思っていました。一人ひとりの思いを聞きながら、その人に合った亡くなり方を探そうとホスピスで働き始めたのです。ところが、ホスピスで働いた10年間でわかってきたことは、あまりにも亡くなる人数が多いのと、みんな最初はホスピスの入院を望んでいないということでした。それでもホスピスに入院し自分が診療する以上、苦しまずに最期を迎えてもらおう、家族や本人との対話をしっかりしようとやっていましたが、これを長く続けていくのは本当にきついことで、特別な訓練も必要です。
ある研究によると、がんの人たちは、亡くなる1ヵ月前になると、外来に来られない体調になります。だから、本当に動けなくなってから、どこで最期を過ごすのかと準備を始めていては間に合わないのです。がんの人たちが本当に寝たきりになる時間、そして看病、介護が大変な時間は短いのです。自宅で療養するがん患者たちも、看病が大変なのは最期の1ヵ月。2週間が踏ん張りどころです。
同じ研究でさらに分かったことは、がんの症状による苦痛は亡くなる半年前から既にあり、そして亡くなる1ヶ月前になると苦痛が高まります。ですから、緩和ケアが、外来に来られなくなったような患者たちや、亡くなる前1ヶ月だけを対象にしていてはいけません。最期だけ緩和ケアをやるというのでは、全く患者の役に立たない。亡くなる直前だけではなく、外来に通院しているような早い時期から、緩和ケアを実践しないと患者のためにならないと世界中で分かってきたのです。
多くの患者たちに(がんの患者だけとは限らない)緩和ケアは必要です。しかし、緩和ケアは患者や家族に嫌われます。緩和ケアにはネガティブなイメージがあり、「死」を連想させてしまいます。また、患者も家族も緩和ケアはどんなものか、どんな治療、ケアを受けるのかよく知りません。ですから、患者が自分から緩和ケアの外来やホスピスに来ることはまずありません。この状況は日本だけでなく世界中同じ状況です。そして、この10年くらいは“早期からの緩和ケア”というキーワードで緩和ケアの新たな活動が始まりました。アメリカで行った“早期からの緩和ケア”の研究では、早期から緩和ケアの外来診察を外来で最低月1回以上すると、肺がんの患者のQOLが上がりました。また不安やうつ状態も改善しました。病気の恐怖に1人で悩むのではなく、ある程度医療者がちゃんと聞いて、将来や生活の不安を相談するところをつくるだけで、うつや不安が減っていきます。さらに、早期から緩和ケアを提供すると生存期間が大幅に延びることも分かりました。それまで、緩和ケアは「患者に寄り添い、苦痛を緩和することは議論の余地なく善行である」と言われていただけだったのですが、きちんと科学的にも裏付けされました。
この研究論文が2010年に発表されてから以降いろいろな国、病院で早期からの緩和ケアに関する追試験はありますが、おおむねいい結果が出ています。ずっと以前から患者、家族はがんの苦痛に耐えていまし、緩和ケアの必要性を感じていました。医療者、特に医師はやっとこれらの研究を通じて、緩和ケアの価値とパワーを信用するようになったのです。
緩和ケアの課題、医師と患者のコミュニケーション
「ちゃんと体に触れ、聴診器を当ててくれたことがとてもうれしいです」、こんなことを最近診察した肺癌の患者から言われました。その患者は、ある病院の呼吸器内科で肺癌の治療を受けていました。しかし、診察のたび、医師は目を合わそうともせず、コンピューターの画面をずっと見ながら診察していたそうです。聴診器を使い診察することもなかったと言いました。
3_2 もう一つの緩和ケアの課題は、医師と患者のコミュニケーションをどうやったらよくできるかです。本当は状態が悪くなっていくばかりのがん患者を前にして、医師は、どういう向き合い方をしたらいいかわからないのです。私も経験が浅い時にはこういうときがありました。相手は自分が治療をしても治らないのがわかっている。自分が患者を治したいという気持ちがあっても、治す方法がもうわからない。自分ができることは何もないことを知るのです。そうなると目が合わせられなくなってきます。患者は、診察のたびに状態が悪くなってきますから、逃げ出したいわけです。それを逃げ出さないようにするために、次はどうしたらいいのか。向き合えない医師に、「コンピューターばかり見ないで患者の目を見なさい」と教育するのではないのです。亡くなっていく人とどう向き合ったら何とか逃げ出さずに済むかを、心のあり方ではなく、もっと実践的に技能として教えなくてはだめです。技能としてコミュニケーションをちゃんと考えていくというのが、大切なのです。
家族は第2の患者
先ほど紹介した、 “早期からの緩和ケア”の研究はボストンの病院でした。彼らは、外来の診察室で、患者の問題と家族の問題をそれぞれに扱います。緩和ケアでは、家族は第2の患者なのです。例えば、患者の普段の食事をつくるのは家族です。食欲がなくなってきたら、家族は何をつくったらいいか困ります。がんで食欲が落ちた患者の治療は、難しく、何か薬を使ってもう一度食べられるようにすることはまずできません。治療の成果がないときに、医師はどうすればよいのでしょうか。緩和ケアでは、患者や家族の体験を大切にします。他の患者で、こういうものなら食べられた、食欲がないときはこう考えた、こうしのいだという話をたくさん覚えておき、目の前の患者に伝えます。そして、家族には、食べられないことを受け止めていく助言をします。例えば、「食べられないのはしょうがないから、食べろ食べろと言うのはやめにしましょう」と言います。「つくるときは、こうつくったらどうでしょう」「これくらいの体調だったら1日2食で十分ではないですか」と言うと、食べさせなくてはというプレッシャーから少し解放されたりします。
治療している医師の苦痛を軽減するのも緩和ケア
がんにはいろいろな苦しみがありますが、まず患者が苦しみます。当たり前です。これを見ている家族も相当な苦しみを持ちます。医療者もこれに引きずり込まれ、必ず苦しみのトライアングルの中に入ります。だから、先ほどのコンピューターしか見ない医師も実は苦痛の真っただ中にある。自分でなすすべがないのです。こういう治療の成果が出せないとき、自分一人の力ではもうどうにもならないときには、登場人物を増やすのが一番です。緩和ケアは、患者が苦しんでいるときだけでなく、家族や、医療者が苦しんでいるときにも大きな力を発揮します。
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私が病院で働いていたときには、治療を担当する医師に「苦しい症状は全部私が診ておきますから、先生は治療のことだけ患者と話していてください」とよく言っていました。患者にも「あの先生には治療の相談だけして、あとのことは私に言ってください」と言うわけです。こうして医師自身の苦しさを軽減できます。だれかの苦痛が軽くなると必ず連鎖しますから、全体によい影響が出てきます。治療を担当する医師も緩和ケアの力を借りることで、再び患者と目を合わすことが出来るようになることを、私は望んでいるのです。緩和ケアは、たとえ患者の死が約束されている状態からでも、患者、家族、医療者の苦痛に対処することで、誰かに良い結果が出せる可能性があります。患者、家族、医療者の苦痛は連鎖しているのです。
これが今の緩和ケアの大切な役目だと思います。

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今どきの緩和ケア、在宅医療 前編 「ホスピスを目指して」

今日はお招きくださり、ありがとうございます。緩和ケア、在宅医療はこの5年くらいで相当な変化を迎えております。今どきの以前の在宅医療とは相当異なるものになっておりまして、今、どう変化しているかを少しでもお伝えできたらと思います。
私の医師としての道のり
  私は現在神戸市北区で開業しています。医師になったのは1996年で、医学部を卒業してすぐに脳外科医になりました。当時は、大学を卒業するとすぐに自分の専門分野を選び、大学の医局という医師のグループ組織に所属する習わしでした。私は、「名古屋市立大学、脳神経外科教室」の医局に入局しました。医師として働いた経験もないのに、学生の頃に感じたイメージだけで、自分の好みで専門を選びました。自分の特性が、脳外科医に向いているかどうかわからないまま、ただやりたいと思って始めました。
実際は、非常に激務でした。大学でわずか3ヵ月研修した後(通常研修医は最低2年医師としての訓練を受けます)、人手の少なかった脳外科の医局では即実践ということで、ある漁師町の民間病院に赴任しました。新米の医師として、毎日朝から夜遅くまで病院に缶詰になりました。夕食もよく病院の患者と同じ食事を食べていました。いきなりたった一人で当直(夜勤)もしました。自分が初めて診た人は今でもよく覚えています。急に腰が痛くなった中年の人を診たのですが、今、考えるとただの腰痛です。でも医師になりたての自分にとってみたら、さっぱりわからない。もしかしたら、重大な病気なのではないかと、患者が来る前から、にわか勉強をし、怯えていました。次に診察したのは8ヵ月の乳児の便秘です。この子には浣腸をしたら良いよとベテランの看護師が耳元で教えてくれました。
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毎日が分からないことの連続で、朝も昼も夜もずっとポケットベルを鳴らされていました。脳外科医だから頭の中の病気を診ると思ったらそうではありませんでした。この病院のルールでは、夜から朝までは、首から上の病気は、すべて私が診るのです。子供はよく転ぶし、漁師町はケンカっ早いのでみんな酔って転ぶか、喧嘩して病院に来ていました。夏は、海水浴場の帰りに、自動車事故を起こしたケガ人が病院に運ばれ、毎晩のように呼ばれていました。食事をしているときも、夜家に帰ってからも、眠っている間も何かあれば、すぐに病院に呼び出されていました。
最近医師の過労死が問題になりますが、私も例外ではなく、毎日こんな生活をしていたら体がだんだんおかしくなり、ある日から職場に行くのがつらくなってきました。どうやってそこから逃げ出すかばかりを考えるようになり、自分は脳外科医の道を1年と2ヶ月で諦めました。医療の世界はまさにブラック企業と同じでした。
  その後、再び大学病院に戻り1年、内科の研修医として仕事を再開しました。そして、医師になって3年目に赴任したのは穏やかな農村でした。
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このころは医局に所属すると大抵卒業してから6年目くらいまでは、郡部の病院に赴任するのが習わしでした。自分とは縁のないところに行って医師として修行を積み、また何年目かになると大学に戻り、基礎研究をするのがキャリアパスでした。自分としては、郡部の病院に赴任することは、幅広く医師として身につけなくてはならない技能を身につけることが出来ました。もちろん、仕事として充実していますし、地域の住民の方にすごく温かくしてもらいました。しかし、私の家族にとっては、縁もゆかりもない、だれも知り合いがいないところで、とても孤独な状況だったのです。この先もあちこちの病院に転勤し続けて、その度に慣れない生活を家族に強いていくのかと暗い気分にもなっておりました。赴任した地域に根を降ろし、長く勤務する医師も多くいますが、自分はそういう気持ちになれませんでした。そしてやがて30才となり、どこで働くかと同時に、そろそろ何を自分の専門、強みにするのかを決めていく時期が来ました。
がん患者に嘘をつく、そして緩和ケアとの出会い
ところで、2000年当時は、がんと診断した患者に、どう嘘をつくかというのを看護師や家族と真剣に打ち合わせしていました。亡くなるときも本人に言っていないものですから、どんどんうそと現実が離れていくわけです。「治る、治る」と言って入院しているのに亡くなっていく、まだそういう時代でした。「あなたはがんではない。治りが悪い肺炎だけれども、しっかり入院しないと治らないから」とうそをつき続けていました。そういうものだと自分でも思い込んでいました。そして、いざ患者が亡くなる現場になると、心肺蘇生をするのが普通のことでした。心肺蘇生を30分くらいして、家族に「すみませんでした」と言って、亡くなったのは自分の責任ではないのに、「力及ばずすみませんでした」「治せませんでした」と、頭を下げていました。
こういう患者の看取りをずっと続けていたとき、亡くなっていく患者にうそをつき続けていいのかと、本当に思いました。
そして、患者にうそをつかず、がんを告知する、がんである事を伝えるという問題に自分も取り組むことになりました。
その取り組みをしていたのは、当時まだ黎明期の緩和ケアでした。私は、いろんな本、いろんな研究会に参加し学び、心からホスピスで働きたいと思うようになりました。
患者にうそをつかないことだけではなく、苦痛を緩和する方法も身につける必要がありました。モルヒネも病院にはあるのに、使い方がわからないため、がん患者の痛みを治療することが出来ないまま、目の前で苦しみながら人が死んでいくのを何回も見ていました。人の最期は苦しまないと死ねないものなのだ、と思っていました。しかし、緩和ケアの教科書を読んでみると、どうもそうではないらしい。きちんとがんの痛みを治療する方法はある。しかし、日本の緩和医療、緩和ケアが相当遅れていることがわかりました。まだ30歳前後でしたから、もっと緩和ケアを学びたいと思いましたが、自分が所属していた大学病院で、緩和ケアを専門にする医師は一人もおらず、誰にも教わることは出来ませんでした。
大学の教授に「自分は緩和ケアの道を目指していきたい」と話しました。すると、「なぜ医師として敗戦処理の専門になろうとするのか」と教授に言われました。「治す」技術を学ぶことが医師として当然でした。「まだお前にはこれから将来がある、まだ技能も不十分なおまえがなぜ敗戦処理に回るのか」、こう言われました。今聞くと違和感がありますが、当時は本当に正しいことのように聞こえました。まだ医師としても十分世間にお返ししてはいない状態から、なぜそこを通り越し、引退寸前になるのかと。
私は、緩和ケアができれば、人は必要以上に苦しまなくても死ねると知りましたから、まず働いていた病院で自分なりに実践し始めました。教科書に書いてある通りやってみたら、確かにがん患者たちの痛みは治まりました。それを見ている看護師さんたちがびっくりしていましたね。それまでは、病院では緩和ケアは意識して行っていませんでした。自分も看護師さんたちも緩和ケアの可能性を確信しました。決して、病院で手に入らない特別な道具や薬が必要なわけではないのです。それまでに、普通に使っていた医療機器を使い、それまでに使い切れていない薬をちゃんと使うだけでした。
がんの痛みは、患者にとって相当な苦痛でした。がんの痛みはあきらめるしかない時代でしたから、痛みが取れた瞬間に患者から自分に向けられる信頼感はものすごく大きかったのです。当時内科医の私は、よく内視鏡を使い処置をしていました。しかし、内視鏡は、一時ではありますが、患者には苦痛を与えます。また、外来の慢性疾患、糖尿病や高血圧の患者に渡す1粒のお薬は、実感できる効き目が小さい。彼らに診察、検査をしてよくなりましたよと伝えても、患者自身はこの薬を飲むと自分は確かに調子がいいという実感がないわけです。一方で、がんの痛みはたった一つの薬で、相当効き目があります。また、がんの痛みが取れた瞬間にできる強い信頼関係は、自分が医師として味わったことのない感触でした。世界ががらりと変わりました。こういった体験を通じて、医師として緩和ケアに魅せられていったのです。自分には敗戦処理をしている気持ちは全くありませんでした。
しかし、自分は郡部の一介の内科医でしたし、さらに緩和ケアの勉強がしたいと強く思うようになりました。ホスピス病棟で働けば何かしら違うものが見えてくるのではないかと思い、その病院、そして大学の医局を飛び出したのです。
ホスピスで働く医師として感じたこと
日本中のホスピスで医師を募集していないか、情報を自分で探しました。そして、社会保険神戸中央病院(現JCHO神戸中央病院)に就職がすぐ決まりました。2002年当時、神戸にはホスピスが5ヵ所ありました。当時も今もそうですが、ホスピスで働く医師は不足しています。内科や外科といった科は大学の医局から派遣して医師をあてがっていきます。しかし、ホスピスは大学からの人材の供給がありません。医師がいないときには、どうしても病院内で医師をあてがう必要があります。すると、その病院の中で一番温厚な人が院長に急に呼ばれます。人格者で、医局長など中間管理職のトップで、温厚で絶対首を横に振らない、つき合いもいい、部下にも信頼が厚く、上手に黒いも白いも取り込んでいくような、そういう人あたりのいい医師が、「うちの病院でホスピスをつくることになり、つきましては君が一番適任だと思う」と青天の霹靂で呼ばれるわけです。私のように若いうちからある日突然、緩和ケアを専門にしたい、ホスピスで働きたいと言って、それまで所属していた組織を飛び出してくる人はまれなのです。
神戸のホスピスで働き始めて、色々驚くことがありました。それまで働いていた郡部の病院では、自分の病院で患者を診なかったら、行き場所がないので、断ることはありませんでした。初診から看取りまでずっと診察を続けるのが常でした。その地域の人たちを求められる限りずっと診ないと、自分たち以外に医師がいないと理解していました。
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神戸に来て、病院がいっぱいあることに驚きました。家から勤務している病院まで、車で30分走る間にホスピスが3ヵ所ありますし、大学病院や大きな市民病院もたくさんあります。随分細かく専門分化していて、がん患者の初診から看取りまで一人の医師だけが関わることは、まずありませんでした。
一番驚いたのは、ホスピスには、最期を迎えるにあたりこういうところで生きていきたい、そして死んでいきたいと、自分で望んだ患者たちが来ると私は思っていました。働きだしてわかったのは、そんな人はほとんどいない。大きな病院から、ベッドが満床になった、入院日数が2-3週間を超えたという理由などで回されてくる。患者も家族もホスピスに来ることを求めていないのに、病院から転院を促されてくるのです。
他にも、患者本人は高齢でも家にいることができるのに、同居している若い人は学校や仕事に行き、昼間は患者が1人になるから家に置いておけない。だから、家族がホスピスに入院を求めるということもありました。患者は、本当はホスピスに来たくないのに、渋々来ているわけです。清潔感がある白い壁だけれども、体が動けなくなった患者たちにとってみたら、白い壁に囲まれた部屋で一生を終えなくてはいけない。悶々と過ごしている患者もいました。そこで働いていた10年間で、自分から望んでここに来たいと申し込みをしてくる患者には、ほとんど出会えませんでした。皆さん、ただただ家の事情、病院の事情に巻き込まれ、療養場所を移り変わっていく。そういう人をずっとホスピスで診ていくことになりました。
勤めていた病院では外来も時々やっていました。ある時、ホスピスを退院した患者が時間になっても来ないからおかしいなと思い、家に電話したら、「よほど調子がよいときでないと病院に行くことができない。明日、熱が下がったら病院に行くから」と言われました。調子がよくないと病院に来られないのは当たり前です。病院に来るというのは、弱った体どうにか家を出て、受け付けし、外来で長時間待ち、やっと診察が終わる。会計を済まし、薬を薬局で受け取り家に帰ってくる。がん患者たちは大抵同じ日に二つ以上の科の外来に行くことが多いのです。病院の外来に受診するというのは、かなり体力が必要な事なのです。

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