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2017年6月27日 (火)

個人の信念を越えて、 鎮静を巡る議論をするために

以前に書いた書評ですが、こちらにも再録します。今までも今も共にこの問題に一緒に取り組み、また私にとってとても大切な指導者です。

世の中に、根拠の乏しい経験のみで語られる鎮静の議論、書籍を憂いて書かれた本だと、著者をよく知る私は思っています。「オレはこう思う」の些末な議論を退ける、多面的な考察を展開しています。
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本書が出版されるとほぼ同時に、雑誌「文藝春秋」では安楽死は是か非かというタイトルで特集が組まれた。90歳となった脚本家の橋田壽賀子が、「私は安楽死で逝きたい」と真情を吐露し、せめて死ぬ選択は自分でしたいと考えを述べている。また同時に企画されたアンケートでは、日本の知識人の過半数は安楽死に賛成していた。その理由として、苦痛からの解放、当人の尊厳のためという意見があった。

医療を今まさに受けている市民にも、尊厳死、安楽死という言葉は浸透し、議論の萌芽は週刊誌でも日常的に見つけることができるようになった。そして、「眠ったまま最期を迎える鎮静」も市民が知るようになった。

本書は、苦痛緩和のための鎮静について、研究の歴史を辿りながら、現在の状況について述べられている。鎮静は、タイトルの通り、終末期の苦痛がなくならない時に最後の苦痛緩和の手段として行われている。国内では、がん患者の苦痛に対して行われており、日本緩和医療学会からガイドラインも発表されている。著者は多くの研究の知見を紹介すると共に、現時点で何が言えるのかについてぎりぎりの地点まで読者を連れて行こうと試みている。

冒頭で、「これは通常の治療なのか? 鎮静なのか? 安楽死なのか?」と事例を示して現場の「もやもや」について紹介している。一般市民、緩和医療を専門としない多くの医療者には、鎮静は、安楽死と何が異なるかよくわからない。安楽死も鎮静も苦痛からの解放を目的としている以上、どちらも同じようなものなのではないか、鎮静は安楽死の代替行為ではないのかと心のどこかで思っているのだ。

しかし、緩和医療の専門家は、安楽死と苦痛緩和のための鎮静は、全く異なると認識している。いや、全く異なると考えたいと思っている。国内で行われた大規模な研究でも、鎮静は生命予後を短縮していないことがわかった。しかし、鎮静薬の投与方法、量が適切で緩和医療の経験が十分な医師が実施すれば、という前提である。

冒頭の「もやもや」の正体とは、鎮静を巡る議論の言葉を持ち合わせていない医療者が抱える、無知の証ともいえるのだ。著者は、患者の予測される予後、苦痛の強さ、治療抵抗性の確実さ、患者・家族の希望や価値観の4つの言葉を補助線として、鎮静という複雑な問題を整理する現実的な提案をしている。まだ国内では、鎮静をするべきだ、しないべきだという医療者同士の根本的な対立が続いている。しかし医療者の信念の対立を乗り越えるための議論を著者は望んでいるのだ。

私の知る著者は「本当に患者さんのためになる研究をしなくてはならない」と、常に医師としての姿勢がぶれることがない。医療者が観念的な議論をしている間にも、現実に患者は苦しみ続けている。「もやもや」している時間はそれ程ないのだ。

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