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2017年4月

2017年4月19日 (水)

癌による黄疸の治療とエビデンス。医師に影響するバイアス。

診療している個々の患者に最適な治療を選ぶこと、これは本当に難しいことだと思います。決断する時間は少なく、答えを迫られます。 そのために、白(出来ることは全て治療する)、黒(何もかも治療しない)と短絡的な治療方針になりやすいことも医師にとっては宿命的なことなのです。 毎週勤務している病院でも、なかなか個別に治療を選ぶことが出来ない現実を垣間見ます。かつて私は胃瘻に関しての考えを書いたことがありますが、「できることは全てする = Do everything」を治療の信念にしたとき、食べられなくなったら胃瘻をすることは、全くもって当たり前の事なのです。 また治療の選択には各治療医の思いもかなり関与しており、「今まで一生懸命に治療してきた、今更あとにはひけない」(サンクコストバイアス)、「あの人でもうまく行ったのだから、今度もうまく行くだろう」(アベイラビリティバイアス)が、最前面に出てくることもしばしばです。複数の医師、看護師が集まるカンファレンスの場でも、声高にバイアスを多く含んだ内容を発言する医師を傍観する度に、とても複雑な気持ちになります。
例えば、黄疸特に閉塞性黄疸の処置についてです。肝臓から十二指腸へ胆汁を流す、胆管が詰まったとき黄疸になります。胆石や癌で胆管が詰まるのです。私が診察するのは、癌の方、しかも病状が進んだ方が多いので、黄疸の処置はいつも迷います。 処置は大きく分けて二つあります。内視鏡を使って詰まった胆管に管や金属のステントを入れる方法、そして皮膚から肝臓に針を刺してから、管や金属のステントを入れる方法です。どちらも合併症のある処置で、必ず成功するとも限りません。
閉塞性黄疸を治療することは、消化器を専門にする医師にとっては、「当たり前」のことで、治療の正当性に疑いの余地はありません。可能なら必ず治療をしようとします。黄疸が改善するとまず見た目が良くなります。黄色かった皮膚の色が元の顔色に戻ります。黄疸はひどいかゆみが出ることも多く、飲み薬があまり効かない時もあります。しかし、もう残った余命が限られた方にも同じ考えを当てはめるのはどうでしょうか。まずきちんと自分が行っている処置を改めて調べなくてはなりません。私も改めて検索し、教科書を調べてみました。
ベネフィット(益)のこと
もちろん閉塞性黄疸の処置により、症状や生活の質(QOL)が向上するという報告は多数あります。 しかしその報告のほとんどは「医者が患者を診て良くなった」と報告しているのであって、実際に患者が「良くなった」と体験しているかどうかという観点に欠けています。少ないながらも(4つの研究)患者の体験、QOLをきちんと評価した研究もあります。QOLと症状に重点を置いた研究(対照群のない研究)のうち、2つはQOLと症状の改善があった、1つは限られた患者のみ効果があった、1つはかゆみが大幅に低下したと報告されています。しかし、それぞれの研究には色々な問題もあり、本当に黄疸が改善したことでQOLを向上させたかどうかを見分けることが難しいという問題点があります。 また生存期間が延長するというエビデンスはありません。
リスク(危険)のこと
一方で、合併症は、10-43%と報告されています。一つの詳細な研究では、入院期間が延長するような合併症が63%、手技による死亡が2%とも報告されています。出血や感染症(敗血症)そして、膵炎の合併症は致命的になる事があります。(もちろん私も内科医の頃に自分が内視鏡処置して経験をしました)専門医は、熟練した技術があれば、リスクはもっと減らせると主張するかも知れませんが、患者側の要因、また全く予測不可能な要因もあるため、その主張も、いわゆる「自分なら大丈夫、自分に限ってはそんなことはない」というバイアス(正常性バイアス)の影響を受けます。
今までのエビデンスをまとめると、閉塞性黄疸の処置は、症状やQOLを良くする効果はあるが、合併症が多いため、利益よりも危険が上回ると判断せざるを得ません。特に病状が進んだ患者には相当な注意が必要です。
外来通院している患者、入院中であってもいつも退屈してあちこち病院内を歩いている患者であれば、良い処置になる事もあるでしょう。しかし、一日のほとんどをベッドで過ごしている患者、病室内を動くにも手助けがいる患者には、危険がはるかに上回ると考えざるを得ません。
さて、限られた予後の患者に閉塞性黄疸の処置をすることは、本当に患者にとって良いことなのでしょうか。医師は今一度立ち止まって考える必要があります。 「黄疸は治療する方が良いに決まっている」、「黄疸を処置することで患者のQOLは必ず向上する」、「黄疸を処置することで、生存期間は延びる(処置しなければ早く亡くなってしまう)」と思い込んでいるに過ぎないのではないでしょうか。 これだけ高いリスクのある治療方法です。本当に個々の患者に治療が必要かを今一度立ち止まって考える必要があると、緩和ケアの専門家としていつも考えています。
参考文献 Dy SM, Harman SM, Braun UK, Howie LJ, Harris PF, Jayes RL. To stent or not to stent: an evidence-based approach to palliative procedures at the end of life. J Pain Symptom Manage. 2012;43(4):795–801. PMID 22464354

医療者のために
(参考文献より)
閉塞性黄疸に対するステント留置を、QOLと症状の観点から検証した研究。
対照群の無い、観察研究のみ。(ステント留置の治療の前後でQOLなどを測定している)
・ 47名の患者(肝外胆管の狭窄、手術不適例)を対象に、ステント留置後48時間以内と1ヶ月後にQOLをEORTC QLQ-C30で測定し、黄疸とかゆみに関する二つの質問をした。28名の患者が調査に参加できた。9名は1ヶ月以内に死亡した。感情、認知、全般的な健康状態の項目が改善した。黄疸と痒みは改善した。
Luman W, Cull A, Palmer KR. Quality of life in patients stented for malignant biliary obstructions. Eur J Gastroenterol Hepatol. 1997;9:481–484.
・ 40名の患者(悪性胆管閉塞)を対象に、内視鏡でステントを留置後2週間後にEORTC QLQ-C30で測定した。全般的な健康状態の項目、痛み、痒みが改善した。
Larssen L, Medhus AW, Hjermstad MJ, et al. Patient-reported outcomes in palliative gastrointestinal stenting: a Norwegian multicenter study. Surg Endosc. 2011;25:3162–3169.
・ 109名(94%が進行がん)の患者(悪性胆管閉塞)を対象に、経皮的胆管ドレナージ後(PTCD)1ヶ月後に評価した。VASを用いた痒みは改善したが、QOL(FACT-Hep; Functional Assessment of Cancer Therapy-Hepatobiliary instrument)は低下した。
Robson PC, Heffernan N, Gonen M, et al. Prospective study of outcomes after percutaneous biliary drainage for malignant biliary obstruction. Ann Surg Oncol. 2010;17:2303–2311.
・ 50名の患者(悪性胆管狭窄、手術不適例、明らかな肝転移なし)を対象に、内視鏡でステント留置直後、1ヶ月後にSF-36でQOLを測定した。51%の患者が調査できた。6名の患者は1ヶ月以内に死亡した。6名の患者はステント閉塞のため調査しなかった。1名はステントの逸脱、2名は調査の拒否、3名は外科手術が追加され調査対象から除外された。78%の患者の黄疸は改善し(処置の7日後に20%以上ビリルビンが低下)社会、メンタルヘルスの項目でQOLは改善した。痛み、身体機能の改善はなかった。
Abraham NS, Barkun JS, Barkun AN. Palliation of malignant biliary obstruction: a prospective trial examining impact on quality of life. Gastrointest Endosc. 2002;56:835–841.

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2017年4月14日 (金)

患者は、以前の医師を覚えているのか? 医師の言葉に傷つく患者、家族たち。 後編

(ここに書かれた内容は、私の心の中では真実ですが、実在しない患者の物語です。しかし、後編の一部には、患者、家族たっての希望で、医師の語られた言葉そのままに書いています)

医師・患者関係は例え良好であっても、一時的なものです。それは学校の教師と生徒(自分自身)との関係のようなものです。小学校の時の教師を、中学校に進学すれば覚えていますが、その存在を求めることはありません。高校生の時の教師に、自分の将来に大きく影響するような、大切な助言を受けていたとしても、成人し社会人となった自分にとっては、懐かしく、恩義には感じていても、その教師に恋い焦がれることもなければ、求めることもありません。恐らく、これからも会いに行くこともないでしょう。
もしも患者が以前の医師を覚えているとしたら、もしも人が以前の教師を覚えているとしたら、その理由は酷い体験をしたからです。心ない医師の言葉、教師の言葉で傷つけられた人は、いつまでもその相手のことを覚えています。
「診察室に入っても身体の診察をすることなく、コンピューターの画面をずっと見たまま、自分の話を聞こうともしませんでした(この患者は聴診すればすぐ分かる程、胸水がたまっていました。その医師は見落としていました)」
「咳が酷いことを医師に訴えたら、あなたの病気なら仕方の無いことですね。ほら、教科書にもそう書いてありますよ(適切な緩和ケアを受ける機会をその医師は奪いました。その病院に緩和ケアの専門医はいるにも関わらず)」
「病気について大切な説明があると、自分と家族が部屋に呼ばれました。医師は、一言目に『あなたの余命はもう半年ありませんね』と言いました。とても急でビックリしました。何でこんな話し方をするのでしょうか。(その患者はその説明からすでに1年以上生きています)」
「セカンドオピニオンを受けたいと話したら、急に不機嫌になり、『どうせ他に行っても同じように治療はないと言われるだけですよ。どうせこの病院に戻ってくるのだから』と言われました(患者は診療情報提供書(紹介状)を書いてもらえなかったため、その病院で治療を続けるしかありませんでした)」
「(自費の)免疫療法についてどう思うか医師に相談したら、『そういう治療は高額らしいですね、そうそう、プリウスが全破損で事故したくらいかかるんですってねえ』(その医師は何を例えたかったのは分からないが、治療の意味が無いというのが伝えたいのだろうか)」
そして、一番私の心を傷つけたのは、こんな言葉です。
「あなたは実は○○癌なんです。今こうして私が癌告知しましたので、ホスピス病棟に移って頂けます。」高齢で、本人も病気の告知を望まなかったので、未告知のまま、私が長く診察していた方が、ある時とある病院の一般病棟に入院しました。退院する事が出来なくなり、病院からホスピス病棟に移るように言われ、家族とホスピスの医師が面接しました。未告知ではホスピス病棟に移れないと家族に説明した上で、既に病状が悪化し朦朧とした意識の患者の耳元で、ホスピス医がささやきました。その言葉が患者に聞こえたのか聞こえなかったのかは分かりませんが、傍にいた家族の心は深く傷つき、患者が亡くなったあと、私の診察室に来てこの話をされました。亡くなったあとも、ずっと家族はホスピスの医師を恨み続けています。そして、ホスピスに移ろうとしたことを後悔し自分を責めています。
ホスピスでは、本人が病気の真実を知っていることを大切にすることはわかりますが、このホスピスの医師は何を大切にしているのでしょうか。
このような言葉で、患者と家族の心が傷つけられたとき、患者は以前の医師の事をずっと話し続けます。そして、診療を引き継いだ私は丁寧に診察し、そのような話を全て引き受けます。自分ではない医師の心ない発言ですが、同業者として私は心から詫びるほかありません。そして、私はホスピスで働いた10年と、開業してから5年間詫び続けてきました。
人は過去を変えることは出来ません。無かったことにも出来ません。そして、いつか私の前からも通り過ぎて、別れの時が来ます。私に出来ることは、過去の遺恨を聞き届け、詫び、そして「あの世」で私のことをすっかり忘れてもらう位、患者、家族を傷つけず、支配せず、その時だけ期間限定で、手を抜かずベストを尽くす事だけです。人は誰かの言葉で傷つけられたとき、過去の時間に閉じ込められ、そして心が動けなくなります。そんな患者、家族が現れないように、そんな人が現れないように医師、教師には、自分の使う言葉に注意して欲しい、心からそう願っています。
そして、この私自身も高校時代の教師が、高校を卒業してしばらくしてから、「お前は何を考えているか分からない奴だった。いつも『そんなやり方で良いのか』と俺を(教師を)見ている気がして嫌な奴だった」と言われました。この言葉に傷つき、今も高校生の時が止まったままです。この時は再び動き出す事はないでしょう。ただ、私に出来るのは、私以外の誰かが、医師に時を止められたとき、その時を再び動かす努力をすることだと考えています。
* アカデミー賞を受賞した、映画「MOONLIGHT」も、同じテーマでした。止まってしまった時間を再び動かすこと、当事者でなくてもできたらと思います。

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患者は、以前の医師を覚えているのか? 医者離れ患者離れ 前編

(ここに書かれた内容は、私の心の中では真実ですが、実在しない患者の物語です。しかし、後編の一部には、患者、家族たっての希望で、医師の語られた言葉そのままに書いています)
とある会の席で、若い医師と対話しました。患者に対する治療を丁寧に考え、真摯に向き合う方であることは話しぶりからすぐに分りました。その彼が、「自分の病院では、診察している患者を年に数人しか看取ることがない。それぞれ別の病院に移った後どう思っているのだろう」と に呟きました。私は、「先生のことはほとんど覚えてないと思って良いですよ、そしてそれぞれの人達はそれぞれの医師と新しい出会いがあるでしょう」と答えました。その医師は少し残念そうな顔をしていました。
以前ホスピスで働いていた時も、そして今も、私はほとんどの患者をどこかしらの病院から紹介され、診療を始めます。「抗がん剤の治療を続ける事が出来なくなった」、「家での生活に困難がある」などなど理由は様々ですが、いずれにしろ以前の主治医から私が治療を引き継ぎます。実際に引き継ぎをしてから、以前の医師のことを話題にする患者や、もう一度受診したいという患者は、ほとんどいません。もちろん、今までの医者との治療関係を大切に思い、身動きのしにくい体であっても人の助けを借りながら、病院の外来に通院する方はいます。それでも、しばらくすると結局通院もやめてしまいます。最近も「入院する場所がなくなると困るから」通院すると話す方がいました。その方の場合、医師・患者関係を大切にしているのではなく、病院の機能が自分達にとって必要と感じているのです。
治療を引き継いだ私は、少しでも早く患者とその家族と慣れ親しむことが出来るように、とても気を遣います。言葉の一つ一つを吟味し、これから死に向かう道程、苦難の時間を一緒に過ごしていけるような関係になろうと努力します。自分より後には、新しい医者はいないかもしれないと、出来る限り全ての問題を引き受けるよう心掛けています。「こういう問題は、専門の先生の診察を受けに行って下さい」とか、「それは私が診ることではありません」と患者、家族の訴えを退けず、まず自分にできる所まで考え、できない部分はどこに頼ればよいか患者、家族と話し合うようにしてきました。
このような治療の過程の中で、私と患者、家族の間に治療関係が出来てくると、もう以前の医者の話は出てこなくなります。もちろん、私の前で以前の医者の話をしないようにしてくれているのかも知れません。しかし、少なくとも前の医者に恋い焦がれて、「○○先生にはとても世話になっている。もう一度会いに行く」と話す方は少数です。贔屓の医師というか、 特定の医師のファンのような方は稀にいらっしゃいます。「あの先生は私が育てた」、「私があの先生を支えないと」と、歌舞伎の贔屓筋のように粋な言葉を聞くことはごく稀にありました。(ちょっとうらやましかったです)
私は、患者と向き合う医師が、真摯にその方のことを考えて、考え抜いて、悩みながら一緒に、時を進んでいくことをとても素晴らしいことと考えています。自分もそうありたいと思っています。しかし、「この患者の治療のことは自分が一番良く知っている」と思っているうちはよいのですが、「この患者の生き方は自分が一番良く知っている」になると、とても危険だということもよく知っています。私が、ある時紹介を受けた患者の事で、紹介元の医師に相談に行くと、「ああ、あの人ね。あの人は○○のようなものの考え方をする人で、家族も××よね」とまるで、その人の人格を全て分かっているような話し方をするのです。その医師は恐らく患者を丸ごと理解し、人間として全人的な治療をしようと心掛けているのですが、子供を支配する母親のように、「○○ちゃんの事は私が一番分かっているから」と支配的になり、相手の力と機会を奪っていくような姿に見えました。そういう医師ほど、自分から患者が離れていくことが許せず、またもしも離れていったとしても、ずっと自分のことを覚えていると思いたいようです。親離れ、子離れと医者離れ、患者離れは同じ構造なのでしょうか。
がんに限らず、慢性疾患の治療に熱心な医師ほど、患者離れが出来ないようにも見えます。外科治療やカテーテル、内視鏡治療のように、医師の技能が治療成績に大きく影響を及ぼすような医師・患者関係においても、時に医師は支配的になります。患者自身も見えないような身体の内部や(内面ではなく内臓という意味)、微細な箇所まで医師は到達します。そのような体験を通じて、医師は患者の隅々まで知っているような錯覚をするのです。長時間に渡りとても苦労を伴う手術を施した患者に、医師は普通以上の強い親密感を持ちます。だからこそ、がんのように難儀な手術を乗り越え手術が成功した後、患者の病気が再発し衰弱に向かうことを受け容れにくくなるのです。
こんな方を診察したことがあります。食道癌の難しい手術の後、独り暮らしだった患者は、自分一人で生活を構築することが出来ず、ろくに食べるものも食べず、そして衰弱していました。主治医は正しく標準的な抗がん剤治療をし、患者の治療にあたっていましたが、副作用のためにかえって生活の力を奪ってしまい、状況は悪化する一方でした。
ある日、近所の人に発見され、救急車で手術をした医師の元に運ばれてきました。もう立ち上がる力も無く、自分で寝返りをうつこともできません。栄養状態は悪くとても痩せていました。医師は、点滴、そして鼻から胃までチューブを入れて、栄養剤を送り続けます。何週間かが過ぎても一向に身体は回復せず、生きていくことは出来ますが、寝たきりの状態が続いていました。本人は、小さな声で「もう治療は止めて早く楽にして欲しい」とずっと話し続けていました。治療を担当する医師から診察と助言を求められ、私もこの患者と話しました。何度も「何か望むことはあるか」と尋ねると、「早く治療を止めて楽にして欲しい」と訴え続けます。栄養の投与を止めることが正しいことなのか、治療を担当する医師のように、栄養の投与を続ける事が正しいことなのかは分かりません。少なくとも分かったのは、患者は治療を続ける事を望んでいないということです。それを治療を担当する医師に私が伝えたとき、とても不快そうな表情をし「そんなこと(=治療を中止すること)はできない」と答え、医師は会話を遮ってしまいました。そして、それ以降は、複数の医療者で話し合う機会を避けるようになってしまいました。
医師も患者の苦痛もいかほどかと心中察するに余りあるのですが、この様なときは、患者のためにどうするのが一番良いのか、もう治療を担当する医師には冷静に判断できなくなります。患者の手術にかなりの時間を費やし、成功を喜び合い、その後の回復を支えた医師にとって、現状を受け容れることは、患者と同じように苦しいことなのです。このような状況になった場合は、新しい病院、新しい医師に治療を引き継がないと、医師も患者も苦痛から解放されません。私はホスピスで働いているときも積極的にこの様な状況になった患者を、ホスピスに熱心に誘っていました。そして、治療を担当する医師には、「先生は、また病室に見舞いに来て欲しい」と、医師と患者の関係が新しい別の形、人間と人間の関係になるように努めてきました。そして、ホスピスに来た患者は、もうそれまで熱心に治療を担当していた医師のことはすっかり忘れています。もちろん恩義は覚えているのですが、今の自分にとってその医師は必要ないのです。

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