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2016年11月

2016年11月28日 (月)

一回性のケア

8605176311_6403fa4d8a_b 病院は、「こうでなくてはならない、その根拠はない、それでもずっとこうしてきたのだからこうでなくてはならない」という惰性が非常に強く働いていることという事については、前回の話で書きました。この事については今でも忘れられずそしてよく思い出す一件があります。働いていたホスピスでの出来事でした。
ある男性の患者が日曜日の昼間に亡くなりました。私も丁度仕事に来ていたので、そのしばらく前からホスピスの中にいました。その方のことをよく知っていた看護師が丁度勤務が重なり臨終の瞬間に立ち会ったのです。心ある経験豊かな看護師でした。そしていつも冷静で適確な動きをする優秀な方でした。亡くなったあとに私は相談を受けたのです。「実は今日この方の入浴を手伝う約束をしていたのです。ずっと入浴できておらず、今日こそはと約束し、この方もとても心待ちにしていたのです。亡くなってしまいましたけど、今から入浴(ベッドバスと言って寝たままで入れるお風呂がありました)させてもよいだろうか」という相談でした。
私はとても感動し、亡くなった方へも生きていたときと同じようにケアすることが、残された家族そして、残される看護師にとっても良いケアになる確信を得ました。死しても本人との約束を果たしたいという看護師の心に、私はとても共感できました。私は「入浴させてもよいではないか」と答えました。
幾ら私が許可したとしても、病院という組織の中で働く看護師だけでは、特別な対処について決断できないことから、その日日直(臨時の当番)をしている普段はホスピスで働いていない看護師長に、「亡くなった患者を入浴しケアすること」の許可を求めるために相談に行きました。すると、この様な答えが返ってきました。
「入浴のケアは、患者のために行うことであって、亡くなった方は既に患者ではない。よって、入浴はならぬ。もしも今後同じようなことが起こったらどうするのか。生きている人の合間に、亡くなった人の入浴を今後もするのか」という答えでした。
なるほど、真っ当な意見です。
とかく病院というのは公平で、かつ規律が求められます。当然のことだと思います。しかし、私自身の心の中ではもやもやとしたものが残り、今もずっと残っています。ホスピスを離れて4年以上が経ち、やっと最近になってこのもやもやの核心が分かってきました。
まず、臨終の立ち会いの話でも書いたように、病院の「こうでなくてはならない」という枠の存在があることです。この枠の窮屈さも、独立し開業した一因になっていることは確かです。いちいち自分が決めたことにもの申され、潰されることに嫌気がさしてしまいました。そう、私はかの患者を入浴させたかったのです。「看護師長に言わずに、ホスピスの判断でやっていまおう」という、現場の看護師達の胆力、もしくは「私は聞かなかったことにしておくわ」という看護師長の粋な計らいを期待していました。そして、残された家族(遺族)と看護師がきちんとその方のケア、いや供養をし、ホスピスの病棟を去って欲しかったと今でも思っているのです。
次に、一番高度なケアとは、その人に一回限りしか通用しないケアだということが分かってきたからです。
知識と技術のある医療者ほど、目の前の人のためにもっとも相応しい治療とケアを選び実行することができるのです。例え技術や知識が未熟であっても、誰にでもすることを同じように目の前の患者のために実行する事(再現すること)は大して高度なことではありません。ミスなく標準的な事をするというのは、プロの仕事ではありません。
かつての看護師長に「もしも今後同じようなことが起こったらどうするのか」と問われれば、「この人にしかできないケアは、この人にしかしません。次の人の事は今考える必要はありません」と答えるでしょう。なぜなら、この人に対するケアはたった一回限りしか通用しないケアなのですから。
本当のプロはたった一回、たった一人のための治療やケアを創造できる人です。
私は、病院の枠から出ようと、日夜新しい治療とケアの可能性を探っています。そしてようやく最近になって、過去の思い出を乗り越えて自分が探していたものが見つかりました。
この一回性のケアの価値を理解できたとき、これがかつての自分の探していたものだったのだと確信できたのです。まだ未消化の思い出はたくさんあります。その一つ一つをほどいていくことで、さらに新しい可能性、発想に触れたいと今なお渇望しているのです。
一回性 = 一回起こっただけで、再び起こることはないということ。(大辞林 第三版)
追記
「一回性のケア」については、「ともにある 1―神田橋條治 由布院・緩和ケアの集い」の中で
神田橋 條治 先生の発言にヒントを得ています。
(引用) ケースバイケースという言葉は、言いわけの言葉であってはいけない。ケースバイケースにできていたかどうかを問うようになると、技術はさらに向上する。技術が向上するというのはそういうことです。一番優れた技術とは、一回こっきりで二度と使われない技術です。

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医師は全ての患者の臨終に立ち会えるか

23220366335_7f29f38433_b 先日、面識のないとある医師からメッセージを頂きました。
そこには、私が過去に書いた論文についての質問が書かれていました。その論文というのは、ホスピスで働いていた時に書いた遺族調査についての内容で、「臨終に主治医が立ち会わないこと」についての遺族調査でした。
当時私が働いていたホスピスは、多いときには日に3人、年に200人亡くなることもある所でした。全員の看取りの瞬間に立ち会っていては、上司と私二人しか医師がいない状況では、仕事としてやっていけないことは目に見えていました。そのため、勤務時間外の看取りは、患者が呼吸をしなくなってから、その日に当直している別の科の医師がまず死亡を確認し、次の日の朝になってから、主治医が死亡診断書を発行する事としていました。それでも例えば金曜日の夜中に患者が亡くなると、土曜日の朝に休日出勤をしていました。
よく知られていないことですが、死亡確認、死亡診断に関する法的なルールは、何ら死亡の定義や死亡診断の手順に関しての規定をしていません。死亡診断書を発行する事を医師に義務づけているだけなのです。(参考リンク 医師法 19-21条)なので、どのような状態を持って、どの瞬間から死とするかは医師の裁量に任されているのです。なので、死の瞬間に主治医が立ち会わないこと、それまでその患者を診療したことのない当直している医師が死亡を確認することに関しては、何ら法的な問題はありません。
しかし、テレビドラマの影響もあるのか、患者の傍らにある心電図のモニターを医師も看護師も家族も見つめ、その波形がフラット(平坦、一直線)になった瞬間に医師が「ご臨終です」と死亡を宣告するのが、慣習のようになってきました。その心電図の波形が平坦になったときでも、最後の一息を終えたときでも、その瞬間に居合わせようと思えば、医師は相当長く患者の傍に居なくてはなりません。その時間的な負担が、勤務として考えたときにどうなのかということです。
しかし一方で、死の瞬間に立ち会えない自分の良心の呵責もありました。
そこで、実際に死の瞬間に立ち会うことに関して遺族はどの様に考えているのかという調査をしてみたのです。その結果は、「臨終に主治医が立ち会うことは望ましいが、立ち会わなかったからといって遺族の心的なつらさが高まることはない」こと、そして「臨終の瞬間に立ち会えなくてもその前に何度も病室に足を運び、患者や家族にきちんと応対していれば良い」事が分かりました。
自分自身の良心の呵責は軽減しました。そして、この論文を通じて、過重な仕事をしていた全国のホスピスの医師の身体的、心的な負担を軽減できたことを知りました。
「私のホスピスでも夜は当直医に任せることができました。院長を説得するときにこの論文を使いました」とか、「私は今まで最後に立ち会えないことをとても悪いことをしていると思ってきました。それでもホスピスでの仕事を続けるためには、必要悪なのだと考えていました。この論文を読んでから、臨終の瞬間にこだわるよりもそれまできちんとケアしていたら良いと分かりました」といった色んなメッセージを頂きました。
私自身この調査をするまで、自分の良心の呵責を軽減するだけではなく、全国の同僚のために役に立つ研究をしたいと思っていたので、その目的を達することができ、そして調査後6年以上経った今もメッセージを頂けることを心から喜んでいます。
ホスピス時代に書いた論文ですが、今となっては在宅医療の現場に居るため、臨終の瞬間に立ち会うことは全くと言っていいほどなくなってしまいました。今までの4年間にたまたま臨終の瞬間に居合わせたのは3-4回つまり年に1回くらいのことでとても稀なことです。病院の中で働いていた時は、当たり前、常識と思っていたことでも、医療現場が変わると全く常識ではないことを思い知らされます。病院は、「こうでなくてはならない、その根拠はない、それでもずっとこうしてきたのだからこうでなくてはならない」という惰性が非常に強く働いていることに最近は気づかされるのです。
どんなに「こうではなくてはならない」という事が本質的に意味がなくても、その組織の内部の人間を納得させるには、やはりそれなりの材料が要るのです。もし私の調査が、「全国のホスピスのうち、24時間主治医が直接死亡確認をする所が○○%、その病院の当直医が死亡確認をするという所が○○%」という実態調査で終わっていたらどうだったでしょうか。「どこもそうなのだから問題ない」という程度の根拠では、惰性の力に飲み込まれてしまいます。
やはり、研究というのは惰性の力に対抗できる、より強い力を持たなくてはなりません。そこで私は、「主治医が死亡を確認しないことで、家族の心を傷つけるものなのか」を調べ、さらに、「主治医が死亡を確認しないのなら、どうすれば家族の心を傷つけないのか」を調べたのです。この様な疑問に答えることができれば、惰性の力を止めることができるかも知れないと思ったのです。
最後に本来は、亡くなりゆく患者、死者の実際の声を聞かなくてはなりません。私が不在の時、顔も知らない当直医が死亡を確認し、宣告することを、患者、死者がどう感じるのかということをです。しかし、死亡の確認を含む臨終に向き合うという事は、家族に対する振る舞いであり、ケアであると私は考えているのです。そしてその振る舞いとケアこそが、亡くなりゆく患者、死者に対する敬意なのです。
(この研究については、ここで概略が、ここで全文を読むことが出来ます)

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