「緩和ケアの三つの挫折」 後編

対話、コミュニケーションの挫折(第二の挫折)
先天疾患の患者に、癌患者の対話と同じようなやり方をした途端、ある日から診察を一方的に打ち切られた。十分に話を聞くことが良いことだと信じていた私には、何が自分に足りないのかさっぱり分からなかった。しかし、この患者に関わる訪問看護師の話を聞いて思い当たった。
私は、予後が1ヶ月未満の癌患者との対話を続けてきた結果、心を近寄せ密接な関係を、「短時間に」作る癖が付いていたのだ。ホスピスで一緒に働いていた精神科医に、「あんな風に手を握り優しく声をかけ、ベッドサイドに座り続ける。たしかに美しい対話だけど、精神科ではあり得ないやり方だ」と言われた時は意味が分からなかった。しかし、先天疾患や神経難病、またその他の難病の患者は、長い年月、自分の病気というより不自由さや障害と向き合っている。私のアプローチは拙速過ぎるのだ。「3日で心を通わせる」方法ではなく、「3年間一緒に居ても圧迫感がない」対話に努めなくてはならないのだ。
長年医療者と付き合う患者は、その関係の酸いも甘いも身体に染みこんでいる。時には裏切られ、時にはぶつかり傷つきながら、黙り込み、じっと相手を見ているのだ。本当に信頼して大丈夫だろうか、また自分が傷つくのではないだろうかと患者はとても恐れているのだ。そこに緩和ケアの専門家が、ぐいぐいと強引に入り込んでくれば、家の鍵をかけて追い出すほかなくなるのだ。
私は、さらに挫折を深めた。そして、医師と患者がどのような関係になるのが良いのか、ホスピスを離れてからずっと考えてきた。相手の力を信じながら、自立の手伝いをするにはどうしたらよいのか、疾患の障害を解決するだけではなく、その力で生きていく方法を共に開発するにはどうしたらよいのか考える様になった。その考えの基になったのは、難病の方々との対話と、その援助者からの学びであった。
緩和ケアを専門と自認してきた自分は、挫折を味わい、全く異分野の専門家に教えを請い、独力で一つ一つ自分の診療に取り入れてきた。それでもまだ足りない。一旦は緩和ケアを広く応用することはやめて、やはり「癌」と「終末期ケア」に閉じこもった方が良いのではないか、そんな風にも考える様になった。自分が関わることで、かえって患者、家族に不利益が生じ、さらには害になるのではないかと落胆した。
家族ケア、遺族ケアの挫折(第三の挫折)
家族も第二の患者としてケアの対象であるというのは、緩和ケアの大切な視点である。元々私は医師として本能的に、見守る家族の苦悩を理解し、言葉掛けしてきた。緩和ケアに魅了されてからは、より専門的な視点から家族ケアを実践してきた。特に在宅医療の活動を始めてから、患者の傍にいて、看病やケアを実際に行う家族は、病院で療養する患者の家族よりもずっと不安や恐怖にさらされることがわかった。
家族に看病の仕方、ケアの方法を一つ一つ教えながら、最初は不安な面持ちで「もっと先生も看護師さんも来て下さい」と話す家族が、「もう大丈夫です」と自信を深めていく姿を見て、私も家族ケアに新たな手応えを感じていた。
そしてある時、新たな手応えが吹き飛ぶほどの体験をした。癌になり家で過ごす夫を懸命に看病する妻に関わった時のことだ。当初何も分からないと不安そうだった妻は、時期が来れば必ず病院に入院すると話していた。私と看護師は頻繁に家を訪れ、時には休日の雨の中、往診したこともあった。会う度に、妻の分からないこと一つ一つに答え、そしてケアの仕方を教えた。積み重ねた時間と共に、妻も自分のケアに自信を深めていく様子だった。
ある時、特殊な処置が必要になり病院に入院したことがあった。わずか数日で、妻は「早く連れて帰って家で一緒に過ごしたい」と話した。以前から、時期が来れば入院すると話していたので、そのまま長く入院すると私は思っていた。妻は、「自分がやって来たケアの仕方が、ここでは全くできない。大事な夫のケアをここでは取り上げられてしまう」と話した。
そして、夫を連れて帰ったのだが、間もなく病状が悪くなってきた。病状の変化につれて、ケアの変化も変わっていくため、妻も息をつく暇もないほどだったが、見事に毎日を乗り越え、ついに家族全員での看取りとなった。看取りの直後は、「夫と第二の新婚のようでした」「毎日大変だったけど充実していた。別れは悲しいけれども、どこか自分としてやり遂げたという気持ちがあるのです」と話した。
それから、1ヶ月後。私は往診の合間にこの方の家に行き、仏壇の前で手を合わせた。残された妻は、以前と同じように、「在宅医療がこんなに良いものだということをみんなに教えてあげたい」「先生、また時々来て下さいね」と話していた。介護を通じての成長というのはこういうことなのかなと思った。
さらに時間は経ち、1年も過ぎた頃だっただろうか、久しぶりに家に寄り、呼び鈴を押すと、暗い表情の妻が出てきた。以前のように部屋に通されることはなく、門を挟んで話すだけだった。「先生もお忙しいでしょうから・・・」と明らかに私を避けている様子だった。
私は戸惑った。そして、色々と考えた。そして一つの事に思い当たった。
病院に勤務している頃、丁度1ヶ月頃になると、病院に用事があったから、と家族が会いに来てくれることがあった。それも全員ではなかった。また死別後1年が経つと遺族会を開いていた。大抵15%くらいの出席率だった。
もっと多くの人達に家族ケア(遺族ケア)ができたらどんなに良いだろうと思っていた。遺族会を欠席した家族にケアする方法を考えていたのだ。そして開業してからは、時々思い出したように、相手の家に立ち寄り声をかけるようにしたのだ。病院で働いていたときにはできなかったケアを、在宅医療の現場でできたらどんなに良いかと思ったのだ。
共に看取りに向かって力を合わせた医療者と家族は、時間と共に冷静になり、そしてもう次の人生に向かわなくてはならないのだ。「もうそっとしておいてほしい」門の向こうに立つ妻の目にはそんな言葉が浮かんでいたように思った。以前は、ご自身のケアの完成と、介護を通じての成長を通じて、死別の悲しみよりも何かを達成した悦びを共有した妻と私だった。しかし、時間は過ぎて冷静になり、まるで熱狂から醒めたような妻にとっては、悲しみだけが心に残り、そして、私と会うことは、当時を思いだし、悲しみを増幅させるだけとなってしまったのだと感づいた。家族ケアは、お互いの関係性とそして、時間の流れを意識することが大切なのだと初めて気が付いた。
早期からの緩和ケア、癌以外の全ての疾患に緩和ケアを。
この言葉に出会い、実践し挫折した医師の体験を率直に述べておきたい。
緩和ケアの専門家は、本当にあらゆる患者に対し緩和ケアを提供できるのだろうか。一人の医師にはできないなら、多くの他分野の専門家に緩和ケアの実践を教育すれば良い、そう思い、この10年近く、私なりに奮闘してきた。しかし、痛い目に遭いながら身につけたことをどのように異分野の専門家に伝えれば良いのか。また、異分野の今までの医療アプローチと緩和ケアをどのように融合したら良いのか、今のところ私は分かっていない。
そして素直にこう伝えたい。
私が熱心に取り組んだ緩和ケアの実践は、「終末期の緩和ケア」であって、「早期からの緩和ケア」「癌以外の全ての疾患に緩和ケア」には応用できない。時には有害でもある。私のように「緩和ケア」を身につけたと思っている医療者は、実は限定された緩和ケアを身につけたに過ぎないこと、自分の技術が広く通用しないことを分かっておいた方が良い。
どうかこの分野に関わる医療者の方々は、緩和ケアを広める努力をしつつも、自分達の現時点の知識と経験の有限性についても自覚的であって欲しい。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)