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2016年6月

2016年6月23日 (木)

「緩和ケアの三つの挫折」 後編

6611611159_9d8bc8e2f2(本ブログに紹介された患者、家族の話は、モデルはありますが、全て私の想像上の方々です)

対話、コミュニケーションの挫折(第二の挫折)
先天疾患の患者に、癌患者の対話と同じようなやり方をした途端、ある日から診察を一方的に打ち切られた。十分に話を聞くことが良いことだと信じていた私には、何が自分に足りないのかさっぱり分からなかった。しかし、この患者に関わる訪問看護師の話を聞いて思い当たった。
私は、予後が1ヶ月未満の癌患者との対話を続けてきた結果、心を近寄せ密接な関係を、「短時間に」作る癖が付いていたのだ。ホスピスで一緒に働いていた精神科医に、「あんな風に手を握り優しく声をかけ、ベッドサイドに座り続ける。たしかに美しい対話だけど、精神科ではあり得ないやり方だ」と言われた時は意味が分からなかった。しかし、先天疾患や神経難病、またその他の難病の患者は、長い年月、自分の病気というより不自由さや障害と向き合っている。私のアプローチは拙速過ぎるのだ。「3日で心を通わせる」方法ではなく、「3年間一緒に居ても圧迫感がない」対話に努めなくてはならないのだ。
長年医療者と付き合う患者は、その関係の酸いも甘いも身体に染みこんでいる。時には裏切られ、時にはぶつかり傷つきながら、黙り込み、じっと相手を見ているのだ。本当に信頼して大丈夫だろうか、また自分が傷つくのではないだろうかと患者はとても恐れているのだ。そこに緩和ケアの専門家が、ぐいぐいと強引に入り込んでくれば、家の鍵をかけて追い出すほかなくなるのだ。
私は、さらに挫折を深めた。そして、医師と患者がどのような関係になるのが良いのか、ホスピスを離れてからずっと考えてきた。相手の力を信じながら、自立の手伝いをするにはどうしたらよいのか、疾患の障害を解決するだけではなく、その力で生きていく方法を共に開発するにはどうしたらよいのか考える様になった。その考えの基になったのは、難病の方々との対話と、その援助者からの学びであった。
緩和ケアを専門と自認してきた自分は、挫折を味わい、全く異分野の専門家に教えを請い、独力で一つ一つ自分の診療に取り入れてきた。それでもまだ足りない。一旦は緩和ケアを広く応用することはやめて、やはり「癌」と「終末期ケア」に閉じこもった方が良いのではないか、そんな風にも考える様になった。自分が関わることで、かえって患者、家族に不利益が生じ、さらには害になるのではないかと落胆した。
家族ケア、遺族ケアの挫折(第三の挫折)
家族も第二の患者としてケアの対象であるというのは、緩和ケアの大切な視点である。元々私は医師として本能的に、見守る家族の苦悩を理解し、言葉掛けしてきた。緩和ケアに魅了されてからは、より専門的な視点から家族ケアを実践してきた。特に在宅医療の活動を始めてから、患者の傍にいて、看病やケアを実際に行う家族は、病院で療養する患者の家族よりもずっと不安や恐怖にさらされることがわかった。
家族に看病の仕方、ケアの方法を一つ一つ教えながら、最初は不安な面持ちで「もっと先生も看護師さんも来て下さい」と話す家族が、「もう大丈夫です」と自信を深めていく姿を見て、私も家族ケアに新たな手応えを感じていた。
そしてある時、新たな手応えが吹き飛ぶほどの体験をした。癌になり家で過ごす夫を懸命に看病する妻に関わった時のことだ。当初何も分からないと不安そうだった妻は、時期が来れば必ず病院に入院すると話していた。私と看護師は頻繁に家を訪れ、時には休日の雨の中、往診したこともあった。会う度に、妻の分からないこと一つ一つに答え、そしてケアの仕方を教えた。積み重ねた時間と共に、妻も自分のケアに自信を深めていく様子だった。
ある時、特殊な処置が必要になり病院に入院したことがあった。わずか数日で、妻は「早く連れて帰って家で一緒に過ごしたい」と話した。以前から、時期が来れば入院すると話していたので、そのまま長く入院すると私は思っていた。妻は、「自分がやって来たケアの仕方が、ここでは全くできない。大事な夫のケアをここでは取り上げられてしまう」と話した。
そして、夫を連れて帰ったのだが、間もなく病状が悪くなってきた。病状の変化につれて、ケアの変化も変わっていくため、妻も息をつく暇もないほどだったが、見事に毎日を乗り越え、ついに家族全員での看取りとなった。看取りの直後は、「夫と第二の新婚のようでした」「毎日大変だったけど充実していた。別れは悲しいけれども、どこか自分としてやり遂げたという気持ちがあるのです」と話した。
それから、1ヶ月後。私は往診の合間にこの方の家に行き、仏壇の前で手を合わせた。残された妻は、以前と同じように、「在宅医療がこんなに良いものだということをみんなに教えてあげたい」「先生、また時々来て下さいね」と話していた。介護を通じての成長というのはこういうことなのかなと思った。
さらに時間は経ち、1年も過ぎた頃だっただろうか、久しぶりに家に寄り、呼び鈴を押すと、暗い表情の妻が出てきた。以前のように部屋に通されることはなく、門を挟んで話すだけだった。「先生もお忙しいでしょうから・・・」と明らかに私を避けている様子だった。
私は戸惑った。そして、色々と考えた。そして一つの事に思い当たった。
病院に勤務している頃、丁度1ヶ月頃になると、病院に用事があったから、と家族が会いに来てくれることがあった。それも全員ではなかった。また死別後1年が経つと遺族会を開いていた。大抵15%くらいの出席率だった。
もっと多くの人達に家族ケア(遺族ケア)ができたらどんなに良いだろうと思っていた。遺族会を欠席した家族にケアする方法を考えていたのだ。そして開業してからは、時々思い出したように、相手の家に立ち寄り声をかけるようにしたのだ。病院で働いていたときにはできなかったケアを、在宅医療の現場でできたらどんなに良いかと思ったのだ。
共に看取りに向かって力を合わせた医療者と家族は、時間と共に冷静になり、そしてもう次の人生に向かわなくてはならないのだ。「もうそっとしておいてほしい」門の向こうに立つ妻の目にはそんな言葉が浮かんでいたように思った。以前は、ご自身のケアの完成と、介護を通じての成長を通じて、死別の悲しみよりも何かを達成した悦びを共有した妻と私だった。しかし、時間は過ぎて冷静になり、まるで熱狂から醒めたような妻にとっては、悲しみだけが心に残り、そして、私と会うことは、当時を思いだし、悲しみを増幅させるだけとなってしまったのだと感づいた。家族ケアは、お互いの関係性とそして、時間の流れを意識することが大切なのだと初めて気が付いた。
早期からの緩和ケア、癌以外の全ての疾患に緩和ケアを。
この言葉に出会い、実践し挫折した医師の体験を率直に述べておきたい。
緩和ケアの専門家は、本当にあらゆる患者に対し緩和ケアを提供できるのだろうか。一人の医師にはできないなら、多くの他分野の専門家に緩和ケアの実践を教育すれば良い、そう思い、この10年近く、私なりに奮闘してきた。しかし、痛い目に遭いながら身につけたことをどのように異分野の専門家に伝えれば良いのか。また、異分野の今までの医療アプローチと緩和ケアをどのように融合したら良いのか、今のところ私は分かっていない。
そして素直にこう伝えたい。
私が熱心に取り組んだ緩和ケアの実践は、「終末期の緩和ケア」であって、「早期からの緩和ケア」「癌以外の全ての疾患に緩和ケア」には応用できない。時には有害でもある。私のように「緩和ケア」を身につけたと思っている医療者は、実は限定された緩和ケアを身につけたに過ぎないこと、自分の技術が広く通用しないことを分かっておいた方が良い。
どうかこの分野に関わる医療者の方々は、緩和ケアを広める努力をしつつも、自分達の現時点の知識と経験の有限性についても自覚的であって欲しい。

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2016年6月22日 (水)

「緩和ケアの三つの挫折」 前編

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(本ブログに紹介された患者、家族の話は、モデルはありますが、全て私の想像上の方々です)

自分の中で大きくなっていた思いが、最近はっきりと形になってきた。
私は、「主に癌の人達の終末期に緩和ケアを提供してきた。開業してから約4年間、もっと多くの人達に応用できるに違いない」と思い、早期から緩和ケアを提供し、癌ではない人にも緩和ケアを提供する試みをおこなってきた。
今まで、緩和ケアの発想が及ばなかった領域に自分が飛び込むことで、何が変化するか体験してきた。新しいチャレンジに大いに心を躍らせ、時代の最先端をゆくケアを実践する興奮にとりつかれた。
先天疾患、神経難病、認知症、心不全、そして慢性疼痛。ありとあらゆる疾患の患者と家族に、自分が緩和ケアの専門家として身につけた、症状緩和の薬物療法、患者との対話方法(コミュニケーション)、家族ケアを応用し実践してみた。自分は、緩和ケアの専門家という自負はもとより、ほぼ信仰に近いほど、その方法論の正しさを盲目的に信じていた。
開業して4年間、自分のクリニックだけではなく、他のクリニック、総合病院、と複数のフィールドでの活動を通して、緩和ケアの実践の広がりに挑戦してきた。そして、恐れずに自分の今の思いをこう書きたいと思う。
新しい挑戦の4年間は失敗だらけだった。しかも、致命的と言ってもおかしくない失敗も数多くおかしてしまった。その三つを紹介したい。
症状緩和の挫折(第一の挫折)
がん性疼痛のアプローチは、慢性疼痛の患者には有害だった。がん性疼痛の「強い痛みがあれば、医療用麻薬の投与を躊躇しない、副作用に注意しながら、十分量を投与する。」さらにまずいのは、「痛みがあれば、レスキュー薬(頓服薬)は回数を制限せずに投与する。」この2つの、疑いのない大原則を慢性疼痛の患者に適応した結果、患者は痛みが軽減することはほとんどなく、医療用麻薬の依存症になってしまうこともあるのが分かった。
鎮痛薬のことを、英語でpainkillerとも言う。言い得て妙な語感だ。しかし、医療用麻薬は確かにがん性疼痛にはpainkillerだが、慢性疼痛には十分な効果がないこともあるのだ。がん性疼痛のように痛みを最小化しようとしても、慢性疼痛の場合はうまくいかない。つまり、医療用麻薬は、痛みによってはThe king of painkiller(最強の鎮痛薬)ではないのだ。青天井の増量ルールに従って医療用麻薬が多く投与されたら、さらに最悪な結果となる。開業した2年目には、そんな患者をあちこちの医療現場でみるようになっていた。そして、自分もついに本物の医療用麻薬の依存症に遭遇したのだ。
総合病院で、あるがん患者の痛みに、医療用麻薬が投与されていた。しかし、痛みの性質や、画像をよく見てみると、癌の再発がないのだ。「がん患者が痛いと訴えれば麻薬をきちんと使う」という教育効果は確かに市井の医師にも相当広がってきた。そして、この患者は確かにがん患者ではあるのだが、合併する慢性疼痛に対して、医療用麻薬がかなり大量に投与されてしまっていた。そして、私の所に紹介となった。
おかしな行動がたくさんみられた。速効性の医療用麻薬を1日8回以上は使うことがほとんどで、その服薬パターンは、痛みだけではなく、気持ちを落ちつかせるために使っている様子だった。タバコを吸うように速効性の医療用麻薬を服用していた。そして、その薬が減ることに異常な恐怖を感じていた。毎日、薬を使った時間、回数を紙にきちんと書き留めていた。私は、治療者として最初は好感を持ってその習慣を見守っていたが、途中から、医療用麻薬がなくなることに相当な恐怖を感じるらしいことが分かってきた。
慢性疼痛と分かりながらも医療用麻薬が減量できずに時間が経っていった。他の鎮痛薬を併用しながら医療用麻薬を減量することを提案すると、驚くほど怒りだした。どう対処したら良いのか分からないまま時間は過ぎ、ある時、急に診察が終了した。もうこれ以上医療用麻薬を使っての治療はできない、総合病院で診療を続けるように話し、一旦自分の診察を終了した。
大きな挫折感だった。自分は医療用麻薬の使い方に習熟し、その絶大な効果も、そして副作用も理解しているつもりだった。しかし、目の前の医療用麻薬の依存症の患者をどう治療したら良いのか、全く知らなかったのだ。自分の無知を恥じ、慢性疼痛の治療に関わる専門家の職場を何カ所も見学しては、がん性疼痛と治療のアプローチがどう違うのかを聞いてまわった。また日本には数少ない薬物依存の専門家にも意見を聞いた。
国内には、まだ薬物依存を十分に扱える病院が無いことも分かった。自分一人でこの医療用麻薬の依存症の患者を診察することに挫折を感じ、また同時に恐怖を感じた私は、紹介されてきた元の総合病院で診察を受けるように促した、というよりも、逃げ出したのだ。(その後この患者はきちんと総合病院に通院し治療を受けている)

後編につづく

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