抗癌剤をやめれば、QOL(生活の質)は上がるのか?これからのホスピスの役割とは。
「この病棟では、もしも心臓が止まっても、呼吸が止まっても、心臓マッサージを始めることや人工呼吸器につなぐことはしません。そして、この病棟に入院中は、原則的に全ての抗癌剤を止めることになります。」かつて私が勤務していたホスピス(=緩和ケア病棟)では、これから入院するために訪れた全ての患者やその家族にいつも確認していたことです。今でも国内のほとんどのホスピスでは、同じような説明をしています。ホスピス病棟では、蘇生行為と、手術、化学療法(抗癌剤)、放射線療法を行わないことを、患者、家族に通知し同意を得た上で入院を決めるのです。
私がホスピスで勤務し始めたのは、2002年でした。その頃はまだ国内でもホスピスは少なく、緩和ケアを専門的に学び、自分の情熱を傾けたいと思っても、私の地元名古屋には働き口はありませんでした。そのため、神戸に来てホスピスに就職したのです。1990年から2000年にかけては、まだ癌を本人に告知するかどうかを真剣に議論していました。そして、告知しない医師の方が多いのが現状でした。
患者は、自分が癌であることを知らされることなく、嘘の説明のもと、脱毛、倦怠感、食欲不振といった副作用に耐えながら抗癌剤の治療を受けていました。そして、自分の死期と向き合う機会を持てないまま亡くなる時を迎えました。さらに、呼吸が停止すると気管内挿管され、人工呼吸が始まり、自己心拍が停止すると心臓マッサージを受けるのが通例でした。心肺蘇生が始まると、家族は患者との別れの時間をもてないまま部屋の外に出され、しばらくして「力及ばず残念です」という医師からの儀式的な死亡宣告を受けたものです。
亡くなる患者の、人間としての尊厳を取り戻すために、癌であるという真実を告げ、その上で治療を続けるかを医師と話し合い、自分の余命と向き合う試みとして、ホスピスの普及と緩和ケアの導入が始まったのは、2000年を過ぎた頃からでした。シスプラチンを中心とした抗癌剤を亡くなるまで続ける事で副作用のためにQOLが低下していた患者や、治療に固執し限りある命の時間と向き合えない患者、そして患者の衰弱をただ見守り穏やかな心を見失っていた家族は、ホスピスで抗癌剤を中止して一時的に体調が回復し、適切な苦痛緩和を受け、丁寧な医療者との対話とケアを受けることで、QOLは確かに向上したのでした。
あれから14年が過ぎ、時は2016年。私も開業し在宅緩和ケアに専念しています。緩和ケアとホスピスを取り巻く状況も大きく変化したことを実感します。患者も家族も、初診であっても突然「癌です」とはっきり宣告され、「残った時間は半年でしょう」と躊躇なく余命の告知がなされることも目立ってきました。
昨今では、抗癌剤シスプラチンによる強い吐き気を抑える制吐薬も増えてきました。数日の副作用を乗り越えれば、体調の回復も以前より早くなってきました。また分子標的薬を始めとする、皮膚の障害や末梢神経障害によるしびれという、以前とは全く異なった副作用も出てきています。そして、適切なケアを受ければ、分子標的薬を継続でき、QOLが低下することも以前ほどではなくなってきました。また分子標的薬の継続が生命予後を延長するというエビデンスも報告され続けています。
しかし、突然の間質性肺炎の発症による急死といった新たな問題も生じています。また一番の問題は薬剤の費用です。例えばタルセバは、1日10642円、悪性黒色腫で適応があり、最近肺癌にも適応となったオプジーボは、1回140万円程度です。もし2週間おきに点滴を受けると、年間約3500万円になるのです。(参考)
2010年以前には、抗癌剤をやめることでQOLが上がり、治療を中止することで、自分が人生において何を大切にしてきたのかを振り返る機会が得られました。ホスピスへの入院でこれらは確かに実現していたのです。また緩和ケアも、抗癌剤を中止する事をどう対話するのか、議論していました。しかし、現在は、分子標的薬のような抗癌剤を止めることでQOLが上がるとは限らず、治療を中止することで、患者にどういう益(ベネフィット)があるのか、私自身も分からなくなっています。
私のような緩和ケアの専門家は、抗癌剤を始めとする癌治療について、以前よりもずっと学ばなくてはならない、そして、抗癌剤を中止する事で患者のQOLを向上させていた、かつての緩和ケアから卒業しなくてはなりません。抗癌剤を投与中の患者に緩和ケアと支持療法を提供し、日々の生活をケアする必要があるのです。そして、抗癌剤の副作用の治療とケアを提供する専門家にならなくてはなりません。さらに、限りある命の時間と向き合う患者と家族に、最適な療養の方法と場を提案し続けなくてはなりません。緩和ケアはこの10年で相当変化しているのです。
現在でも冒頭で紹介した多くのホスピスでは、入院する前に、心肺蘇生を開始しないこと、抗癌剤の治療は行わないことを患者、家族に説明しています。以前はQOLが高まると信じて説明し続けていた事なのです。しかし、述べてきたように、抗癌剤を中止してもそれほどQOLが高まらないとしたら、抗癌剤の中止の理由はいったいどこにあるのでしょうか。ほとんどのホスピスでは、抗癌剤の中止が入院の条件のように説明していますが、そのことは、診療報酬制度に明文化されたことでも、ホスピス、緩和ケアの理念に該当することでもないのです。ただホスピスの1日当たり49,260円(30日まで)と治療コストが見合わないことだけが、その理由でしかないと私は感じています。治療コストを負担する患者は、高額医療制度を活用することで、高価な抗癌剤の薬剤費の負担を軽減する事が出来るのです。ホスピスが経営的な観点から、高価な抗癌剤をどう考えるのかが問われているのです。
私がホスピスで働いていた頃も今も、血液癌や乳癌の方はほとんど入院することはありませんでした。特に血液癌では化学療法を亡くなる直前まで続けられること、またQOLが維持されること、さらに亡くなるまで輸血を繰り返すことが多いことが、ホスピスへの入院を妨げる要因になっているように思います。治療の中止が明らかに生命の短縮になる可能性があることが、ホスピス、緩和ケアの理念である「無理な延命や意図的に死を招くことをしない。」の「意図的に死を招くことをしない」と相反するからと感じています。(出典)しかし、肺癌、胃癌、大腸癌、乳癌、腎臓癌のように化学療法の「維持療法」が議論される状況となると、血液癌の方と同じく、ホスピスへの入院に躊躇する状況が生まれるのではないでしょうか。
癌患者の治療を最適化するために、緩和ケアも変化し続けなくてはなりません。癌を告知しなかった時代が、今思い出すと相当違和感を持って思い出されるのですが、最近は、抗癌剤を中止しないと入院できないホスピスにもまた違和感を感じるようになってきました。
これからのホスピスと緩和ケアは、癌患者のため、癌治療の中でどんな役割を果たしていくのでしょうか。
これからのホスピスと緩和ケアは、癌患者のため、癌治療の中でどんな役割を果たしていくのでしょうか。
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