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2015年12月

2015年12月13日 (日)

「患者から死にたいといわれたらどうしますか」新しい人間観。講義録

2015年12月11日に金沢大学附属病院での講義録です。

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・ 緩和ケアのポエム化が著しく、それで一度離れてみてから考え直そうと本を書いた。ポエム化をするときな、何か本質的に醜悪な部分を隠すためか、美化するための方策であること。

・ 人は亡くなる前にどのような苦痛を感じるのか、精神的な苦痛に対する鎮静の研究から検討[1]。 ・ 「死なせてほしい」と患者から頼まれるというのはどのような状況が多いか。実は、身体的苦痛の緩和、良好な医師、患者関係が構築された結果、患者は信頼した私(医師)に死の手伝いを求めるのではないのか。(この辺りは近刊こころの科学に原稿を書きました)

・ 988人の終末期患者への調査によると、安楽死、医師による自殺幇助(PAS)に賛成すると答えたのは60%、しかし自分自身が安楽死、PASを求めているのは10%だったこと。「死なせてほしい」という人の全てが言外のことを伝えようとしている。

・ そのような苦痛を人は感じるのか。幼少の頃から教育されている「自分のことは自分でします。」「人には迷惑を掛けないように」の教育の成果ではないのか。

・ 自己決定、自己責任の発想がかえって患者の苦痛を強めているのではないか。

・「自立は、依存先を増やすこと」という言葉から、本当の自立とは何かという生き方の提案をした[3]。他人に自分のことを任せることは訓練していかなくてはならない。他人に任せることで不備を気にするよりも、さらに変化し良くなることを実感する必要がある。(子供に手伝いをさせることの話し)

・自分探しの旅、「僕を探しに」という絵本の一節から、「本当の自分」を探すことの危うさ無意味さを考えた。自分に欠けたところを探し続けることの危険さと、ペルソナ(本当の自分は存在して、他人に触れあうときには仮面を付けている)の不快感を捨て去ることを話した。
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・ 一つの人間観として「一人の人間は、『分けられない individual』存在ではなく、 複数に『分けられる dividual』存在である。」、「たった一つの、『本当の自分』、首尾一貫した、『ブレない』本来の自己などというものは存在しない」という平野啓一郎の著書の一節を引用した[4]。

・ 人は相手に応じて顔を返る。さらに、その顔をいくつ持っているかが人間としての成熟ではないのか。そして、その顔に応じて語る言葉は変わる。(阿修羅像を写したところ、終了後の座長の山田先生より阿修羅の顔は最大11面というのがあるそうで。もしかしたら、11の顔をもつことが人間のゴールかもしれませんね)
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・ 「死にたい」と語る患者のあらゆる顔を理解していくことが、さらにその患者を知っていくよいプロセスになるはず。

1) Morita, T, Palliative sedation to relieve psycho-existential suffering of terminally ill cancer patients., J Pain Symptom Manage, 28, 5, 2004
2) Emanuel, EJ, Fairclough, DL, Emanuel, LL, Attitudes and desires related to euthanasia and physician-assisted suicide among terminally ill patients and their caregivers., JAMA, 284, 19, 2000
3)リハビリテーションの夜 熊谷晋一郎 医学書院 2009
4)私とは何か「個人」から「分人」へ 平野啓一郎 講談社現代新書 2012

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