「早く死にたい」と言われたときどうしたらよいのでしょうか。
ほとんど読まれないところから頼まれた原稿です。もちろん内容は改変しています。こちらでもシェアします。

Q
がん患者や高齢者の中には、「早く死にたい」と言われる方が時々います。真剣にそう言われた場合、医療者はどのように対応すべきでしょうか。
A 何度も診療している患者と色んな事を話せるようになった、心が通じたと思っている時に、「死なせて欲しい」と言われてしまうことは、私も今までに何度も経験があります。患者も心を開いて「この医師には自分の本心を話せる」と思うようになると、その本心を話すようになるのです。「もうこんな状態で生きているのはいや、お願いだから死なせて」、「先生の責任は問わないから、どうかお願いします」と真剣な表情で患者に切望されてしまうと、どう答えたら良いのか本当に分からなくなります。
「日本では安楽死は認められていません!」と相手の口をふさぐような返事もきっとその場にそぐわないものです。こういう話は私はしたくないと患者に伝えるには効果的でしょうが。「でしたら、明日にでもあなたが死ねるように準備しましょう」と、本当に患者の望みを叶えるような約束もできないはずです。また、「死にたい」と言われた医師も患者の状態を分かっていればこそ、(それが本音かもしれない)と考えて、どう返して良いのかわからず絶句してその場に立ち尽くしてしまうことでしょう。
この問題を考える上で、1つの研究を紹介します。日本で、呼びかけても起きないような深い鎮静を施したがん患者の中で、精神・実存的な苦痛に対して行った状況についての調査です。それによると、36%の緩和ケアに従事する医師が、精神・実存的な苦痛に対して、深い鎮静を実施した経験があることが分かりました[1]。
精神・実存的な苦痛として、「死にたいほどつらいこと」というのは、生きる意味が見いだせないことや、他人への負担感であることが示されています。
しかしどの様な病気であっても、ある時期他人の世話になる事は避けられないはずです。なぜ人は他人に自分を委ねる、依存することを苦痛と感じるのでしょうか。「自分の事は自分でする」と幼い頃から教育されているからでしょう。「できるだけ他人に頼らず、自分の事は自分でする。それが自立・自律である」という信念です。この信念を持ち続けて生きていくと、自分が弱ったときに、自分の事が許せなくなります。そして、弱った自分を助けようと手をさしのべてくる援助者に対して、その手をはたき落として援助を拒否し、さらには、この生を自分の力で終わらせたい、コントロールしたいと考えるのです。
力のある医療者、援助者が手をさしのべても、他人に依存することを拒絶する患者には、援助ができません。 ケアを拒絶し、現実を拒絶し、さらには自分自身を拒絶する患者にどのような援助ができるのでしょうか。幼い頃からの教育は、何か誤った信念を人の心に植えつけているのでしょうか。繰り返し社会の中でも、医療の中でも患者に問い続ける、「自己決定」(=自分の事は自分で決める)、「自己責任」(=自分の生き方は自分で決める)という生きていく上での原則が、「こんな状態で生きていくのなら、死んだ方がよい、早く死なせて欲しい」と患者を追い詰めているのではないでしょうか。
ならば、患者だけではなく、私たち全ての今を生きている人々の考え方に、もしかしたら根本的な誤りがあるのではないでしょうか。
1) Morita T. Palliative sedation to relieve psycho-existential suffering of terminally ill cancer patients. J Pain Symptom Manage. 2004 Nov;28(5):445-50.
A 何度も診療している患者と色んな事を話せるようになった、心が通じたと思っている時に、「死なせて欲しい」と言われてしまうことは、私も今までに何度も経験があります。患者も心を開いて「この医師には自分の本心を話せる」と思うようになると、その本心を話すようになるのです。「もうこんな状態で生きているのはいや、お願いだから死なせて」、「先生の責任は問わないから、どうかお願いします」と真剣な表情で患者に切望されてしまうと、どう答えたら良いのか本当に分からなくなります。
「日本では安楽死は認められていません!」と相手の口をふさぐような返事もきっとその場にそぐわないものです。こういう話は私はしたくないと患者に伝えるには効果的でしょうが。「でしたら、明日にでもあなたが死ねるように準備しましょう」と、本当に患者の望みを叶えるような約束もできないはずです。また、「死にたい」と言われた医師も患者の状態を分かっていればこそ、(それが本音かもしれない)と考えて、どう返して良いのかわからず絶句してその場に立ち尽くしてしまうことでしょう。
この問題を考える上で、1つの研究を紹介します。日本で、呼びかけても起きないような深い鎮静を施したがん患者の中で、精神・実存的な苦痛に対して行った状況についての調査です。それによると、36%の緩和ケアに従事する医師が、精神・実存的な苦痛に対して、深い鎮静を実施した経験があることが分かりました[1]。
精神・実存的な苦痛として、「死にたいほどつらいこと」というのは、生きる意味が見いだせないことや、他人への負担感であることが示されています。
しかしどの様な病気であっても、ある時期他人の世話になる事は避けられないはずです。なぜ人は他人に自分を委ねる、依存することを苦痛と感じるのでしょうか。「自分の事は自分でする」と幼い頃から教育されているからでしょう。「できるだけ他人に頼らず、自分の事は自分でする。それが自立・自律である」という信念です。この信念を持ち続けて生きていくと、自分が弱ったときに、自分の事が許せなくなります。そして、弱った自分を助けようと手をさしのべてくる援助者に対して、その手をはたき落として援助を拒否し、さらには、この生を自分の力で終わらせたい、コントロールしたいと考えるのです。
力のある医療者、援助者が手をさしのべても、他人に依存することを拒絶する患者には、援助ができません。 ケアを拒絶し、現実を拒絶し、さらには自分自身を拒絶する患者にどのような援助ができるのでしょうか。幼い頃からの教育は、何か誤った信念を人の心に植えつけているのでしょうか。繰り返し社会の中でも、医療の中でも患者に問い続ける、「自己決定」(=自分の事は自分で決める)、「自己責任」(=自分の生き方は自分で決める)という生きていく上での原則が、「こんな状態で生きていくのなら、死んだ方がよい、早く死なせて欲しい」と患者を追い詰めているのではないでしょうか。
ならば、患者だけではなく、私たち全ての今を生きている人々の考え方に、もしかしたら根本的な誤りがあるのではないでしょうか。
1) Morita T. Palliative sedation to relieve psycho-existential suffering of terminally ill cancer patients. J Pain Symptom Manage. 2004 Nov;28(5):445-50.
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