生前供養としての在宅ケア
開業してから早いもので3年が過ぎました。在宅医療に専念した医院を作り、自宅で最期まで過ごしたい方の助けになればと始めた仕事でした。 この3年の間にも多くの出会いと別れがありました。別れの多くは癌の方々です。既に癌が進行し、それでもなお病院ではなく家で過ごしたいという方がいらっしゃるのです。「最期まで家で過ごしたい」という気持ちが強い方々です。

在宅医療の仕事をする前に、病院で勤務していたときは、「最期まで家で過ごしたい」と切望する方が、きっと家で過ごすのだろうと考えていましたので、ほぼ予想通りだったと言えます。しかし、そのような方々だけではないことに徐々に気がつき始めました。
病状が悪化して病院で寝たきりの状態になり、間もなく亡くなるであろうと医師からも説明を受けた家族の人達が、私の医院に来て、「家に連れて帰りたい」と話すのです。本人はどう思っているのか?と尋ねても、本人はともかく私は(家族)家に連れて帰りたいのだと話されます。 何故病状が悪いのに家に連れて帰りたいのかと、その心中を聞くと皆が同じ事を言うのです。
「今のまま病院に入院していても、何もしてくれない」
「今のまま病院に入院していても、何もしてくれない」
しかし、治療の内容を聞いてみると、点滴を連日受けていたり、酸素の投与を受けていたりし、決して放置されているわけではないのです。また実際に病院へ患者の様子を見に行くと、清潔なベッドで、きちんとした看護ケアを受けています。それでもなお、「何もしてくれない」と家族は感じているのです。 病院へ出向いたときに、病院のスタッフに話を聞いてみると、きちんと治療やケアされていることがよく分かります。私が客観的に見ても、診断も治療も適確な方ばかりでした。
「何もしてくれない」というのはどういうことなのですか?と尋ねると、この様な家族はいつも同じ答えです。「何も食べさせてくれないのです。何かを食べさせようとすると、いつも止められます」 さらに詳しくあれこれ尋ねると、多くの家族の話から、病院側の対応が見えてきます。病状が進行すると、当然、体の力が衰弱し、食べることができなくなります。これは自然な死への過程において誰もが避けられないことです。病院では食べられないことを客観的に判断するために、耳鼻科医や、言語療法士といった専門家、時には「嚥下チーム」と名付けられたチームが評価をします。そのような専門職がいない場合には、看護師、主治医が実際の嚥下運動を診ながら判断します。 そして、嚥下運動ができないほど衰弱し、「食べられない」認定を一度受けてしまうと、病院では絶飲食の指示が出され、一切の食事が出されなくなります。回復する見込みがある状況での嚥下訓練には、当然熱心ですが、衰弱が約束されている患者に対して、ひとたび「食べられない」認定をすれば、食事をさせること自体が危険なこと、となります。
「食べられない」と認定したことが、病院の医療職から家族に伝えられます。食べられなくなった理由として、当然、病状の悪化、そして病状の詳しい説明を受けます。そして、「ああそうですか。仕方ないですね。もう食べる力がないのであれば今後は点滴だけで」と納得する方もいるのかもしれません。プロの医療職が「食べられない」と判断するのならもう仕方ないと。しかし、今まで私が出会った家族はそう考えませんでした。 「病院は食べさせる努力すらしないまま、食べさせないことを決定している。病気が悪くなっていることは良く理解している。でも何も食べさせないままで死を待てと言われても納得できない」と話すのです。
病院の医療職の苦悩もよく分かります。嚥下機能が落ちた患者に「何とか食べさせてあげよう」と熱心にケアしても、ひとたび誤嚥しそれが元で病状が悪化すれば、今度は家族から責められる立場となります。患者のためにと、熱心にケアした医療職が、家族に責められるのです。その家族の責めだけでなく、「患者に害を与える事なかれ」の大原則から、医療職は病院の中では食べさせにくくなってしまうのです。 この様な「食べさせない」状況での看取りは既に、家族にとってはただ死を待つだけの時間となります。何か患者のため、愛する家族のためにできることはないのかと考える家族が、私の医院に来るのです。
病院の中で起こることは、病院の責任。家で起こることは、家族の責任です。せめて何か食べさせてあげられないのかと求める家族には、当然、病院側も「それなら家に帰って自由にするとよい」と退院を助言するのです。当たり前のことだと、かつて病院勤務していた私も思います。
こうして、「最期まで家で過ごしたい」と切望する患者ではなく、「最期は病院で過ごさせたくない」と切望する家族のために在宅医療があるのだと知りました。そして、実際にそのような患者、家族を引き受け、家で食べさせるためのケアや工夫をするようになりました。市販されているあらゆる嚥下にふさわしい食材、薬剤を試し、食べさせるためのコツを一緒に考えます。また「もっと食べさせてあげたい」とはやる気持ちの家族にブレーキをかけながら、それでも食べられるものを探すようにしてきました。 同僚の看護師が遺族へインタビューをし、「患者がむせてしまうこと」に強い気持ちの負担を感じることが分かりました。また私が主催した神戸市内の遺族調査では、家族として療養中の食事を調理することに難しさ、また、食欲が低下した患者に食事を食べさせることに難しさを感じていることが分かりました。
患者が家に帰ったからといって、私が医師としての責任を放棄しようとするわけではありません。家で起こることは、家族の責任と突き放してしまった時、もしも食べさせようとした家族が患者に害を与え、自分の関わった研究の結果と同じくつらい気持ちを残すのであれば、私の提供している緩和ケアは失敗です。話し合いながら、うまくいくこと、いかないことを一緒に積み上げていくことが大切なのです。
また、患者が家に帰り、私が緩和ケアを提供すれば、病院で見放された患者が食べることができるようになるということはありません。少し食べられるようになる時期はありますが、やはり、短期間の間、短ければ1ヶ月もしない間に亡くなってしまうこともあります。それでも家族は、家で過ごした期間は有意義だったと思っていることに度々気づかされます。 先日も、同じように病院では何も食べさせてもらえず過ごしていた寝たきりの末期癌の方が、家族の「連れて帰りたい」という強い思いで家に帰りました。その方は短い時間で亡くなりましたが、最近受け取った私宛の手紙には、病院で制限を受けていた暮らしに比べて、家で過ごした最期の日々には後悔がないことが書かれていました。
「食べられない」患者に対して、病院は安全第一という考えから食べさせることができなくなります。これはケアに対する責任が生じる以上、これからも致し方ないことと思います。ケアとしての点滴、食べること以外のケアを洗練させ、家族と一緒に病院でのケアを構築していく努力がこれからも必要でしょう。点滴をするのかしないのか、するなら量をどうするのかのエビデンスを探し続けることも必要でしょう。しかし、「食べられない」患者に対して、なお食材、調理、あらゆる工夫で、食べさせる努力を医療者が続ける事が、本質的なケアとなるのだと私は確信しています。それは、病院でできないことを在宅で放置し、無責任に家族に許すことではありません。「食べられない」患者になお、「食べさせる」ことは、家族にとって愛情の具現化であり、亡くなりゆく患者に対する、ケアの概念を超えた、生前供養でもあると気がついたからです。
病院内で十分なケアと治療を受けていてもなお、不満があり家に連れて帰りたいと言う家族と向き合いながら、いつも考えています。愛する方(患者)が亡くなりつつある時に、この家族ができる最高の生前供養は何なのであろうかということを。その具現化を構築することが、緩和ケア、在宅ケアいや医学、エビデンスを超えたもっと高度なケアなのだろうと私は今思案中なのです。
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