« 2015年5月 | トップページ | 2015年7月 »

2015年6月

2015年6月25日 (木)

なぜ緩和ケアの医師になったのか ~ Care for the carers ~

今年は、情報を発信したいという若い世代の医師との交流がありました。彼らは口を揃えて、「どうしたら『書く』ことができるのか」と質問します。私は、論文にしろブログにしろ原稿にしろ、読むであろう誰かに向かって贈与する動機がなければ書くことはできないと答えました。自分のため、業績のため、編集者のために書いているうちは、誰かに届く文章は書けないといつも答えています。 さて、この文章の送り手は私ですが、受取人は未来の私と家族です。今の自分のために書くのではなく、未来の私と家族に届けたい、今はそんな気持ちです。私的な内容を含むため、今まで書くのを躊躇していましたが、「書きたい」と思う若い世代の医師たちの勇気に敬意を払い、私も自分のことを書こうと思います。
10387458564_1c235f6f78_b
「なぜ緩和ケアの医師になったの?」よく聞かれる質問です。最近も同じ質問をある方から受けました。そんな時には、「色んな患者さんとの出会いがあってね」とか、「その時に読んだ緩和ケアに関する本にとても影響されて」とか、「本当に必要な医療なんだと心から思って」と答えています。 しかし、本音ではないのです。今までどこでも話したことのない、書いたことのない個人的な体験が、自分を緩和ケアの医師へと導いていき、医師として成長したのです。いつ、その事を書こうかとずっと迷っていましたが、そろそろ過去を振り返り昔の自分と向き合うのもよい、そういう時が来たのかもと思い、挑戦してみることにしました。
私が医師になったのは、1996年、そして妻との結婚はそれから間もなく1997年のことでした。恵まれた家庭に育ち、幸せに守られた子供同士の結婚でした。社会の仕組みもよく知らず、右往左往しながらも、自分達の生活を未熟ながらも少しずつ作っていっていました。私の仕事の異動により、私たちは何の縁もゆかりもない三重県の小さな町で、孤立した気持ちで暮らすことになりました。 そんな最中に、子供ができそして無事出産しました。髪の毛が全くない子供でした。小さいときはこういうものかと特に気にすることなく、慣れない育児が始まりました。しかし、うまく母乳を飲むことができず、よく機嫌が悪くなる子供でした。よく鼻が詰まりましたが、きっとみんなこんな大変なんだと思いながら、必死に育児を続けていました。
そんなある日、妻と子供が車で移動中に子供がけいれんし、救急車で総合病院に運ばれました。仕事中に呼び出された私が病院に駆けつけると、そこで小児科の医師から聞いたこともない病名を聞かされました。内科の医師である私も全く知らない病名でした。病院に運ばれるまで、全く気がつかなかった自分の無力にも落ち込み、またこれからどう子供を育てたら良いのか、これから自分はどう生きていったらよいのか、絶望にも似た気持ちになりました。今まで経験したことのない感情でした。
小児科の医師から、病気のあらまし、遺伝形式、教科書に書いてあるようなことは全て説明を受けました。また、それからは自分で資料を取り寄せ学んでいきました。 子供は1週間もしないうちに退院しました。しかし、今後どうやったら治療できるのだろう、長男を育てていくにはどうしたらよいのだろうということは、小児科の医師も教科書も、何も教えてくれませんでした。それも当たり前です。根本的な治療方法がないからなのです。私も医師です。まず医療が何もできず、何から手をつけて良いのかも分からないという現状に立ち尽くしてしまいました。病名が分かり、原因と病態が分かれば(診断)、次は治療というステップが全く通用しない状況でした。
小児科の医師に、これからどう育てたら良いのか尋ねましたが、彼らだって育てた経験もないから何も答えられないのです。医師の役割の限界も知りました。その時、医師からある家族を紹介されました。その方は、「もしも自分の子供と同じ状況の方がいれば、是非とも自分を紹介してほしい」と患児の家族として名乗っていたのです。 私たち夫婦はすぐにその家族と会い、自分の子供と同じ疾患を抱えそして成長した姿に安堵すると共に、その風貌の特異さに、普通の子供との差異に、落ち込んでしまいました。乳児期には疾患の特徴的な風貌はまだ目立たなくても、時間と共に随分と差異が目立ってくる事を知らされたのです。それでも子供に対する毎日の身体のケア、咀嚼や鼻閉の対処を教えてもらいました。医師よりもずっと頼りになる存在でした。
またインターネットを調べると、アメリカには既に患者、家族会もあり熱心な活動をしていることが分かりました。家族向けのケアに関するリーフレットも複数あり、全てを取り寄せそして学びました。 私は、医師として「病気を治す」という医療の限界を実感し、それでも「病気と共に成長する」子供に対し何ができるのかを学んでいったのです。子供の成長に必要な毎日毎日のこと、「ケア」の存在と価値を、自分の体験を通じて習得したのです。夫婦力を合わせて、明るく育てていこう、子供に必要なことをしていこうと、時に滅入り、時に笑いながら過ごしてきました。普通の子供ならどんなに楽か、どんなによいか、どうして自分達にこんなことが起こるのかと思うときもありました。
また、私は医師として別のことを考え始めていました。将来この子が大きくなったとき、彼に疾患のことをどう伝えたら良いのだろうかと考えていたのです。疾患のことを知識として伝えるのではなく、彼が生きていく上で、どう自分なりに受容するのか、そして落胆せず生きていく希望を与えるにはどうしたらよいのかを考え続けていました。「治らない病気になった」と彼にどう伝えたら良いのかを自問自答したのです。この私の問いに答えてくれる医師は誰もおらず、教科書ももちろんありませんでした。
先天疾患を抱えた子供の育児を通じて、私の仕事の仕方は随分と変わっていきました。「治らない病気がある」ことの医療の限界、そして、診断・治療を柱とした医学では患者を支えきれないことに、意識的になりました。また、ケアの重要性、特に身体のケアの仕方を医療者が患者、家族に教えていくこと、患者の生活を支援することとはどういうことなのかを追求するようになりました。また「治らない病気になった」患者にどう向き合い、彼らにどう説明するのか模索するようになりました。
こんな心境の自分にとって、がん患者に対する治療としての緩和ケアは、一つの希望となりました。例え治らないがん患者であっても、何を治療するべきなのか、がんを告知するにはどうしたらよいのかは、自分の苦悩と同一平面上にありました。彼らが最期まで生きていくのを支えながら、私は、がん患者に哀れみや憐憫を感じることはありませんでした。なぜなら、苦しみながらも希望を持ち生きていく姿と、そして、病気を治せない医師であるにもかかわらず、私に信頼を寄せてくれる患者から、たくさんの勇気をもらったからです。先天疾患を抱えた子供を医師でありながら治すこともできず、まだ親にもなりきれていない自分が、どう子供との関係を築いたら良いのかを教えてもらいました。
この個人的な体験を経て、私は子供を育てながら、手探りで緩和ケアの実践を始めました。終末期のがん患者を率先して受け持ち、また家にいたい患者には、当時できたてだった病院の訪問看護ステーションから往診、そして看取りも始めました。充実した活動に手応えを感じ始めていました。自分の医師としての働きが変わっていきました。そして、さらに自分を発展させたいと思ったこと、そして常時身体ケアが必要な子供によりよい養育環境を与えてやりたいという思いから、大学の医局を離れ、神戸のホスピスに就職することになったのです。
私は今でも覚えています。病院を離れるときの送別会で、学生時代から知り合いだった(実は母親の飲み友達)大谷貴子さんが著書、「霧の中の生命」の中で述べていたことを引用して挨拶をしました。大谷さんは本の中で、骨髄移植を受ける際に、放射線を全身に浴びることで卵巣機能が低下し不妊になることを事前に知らされなかったエピソードについて書いています。医師は「命が助かるのだから仕方ない」と主張し、患者はさらにショックを深めていくことも書かれていました。病院の中では気がつかない、患者の生活への視点、人生への視点の欠落です。私も子供の体験を通じて、感じていたことを周囲の医師に語りました。「患者が本当に求めていることを、医師も病院も提供できていないと思う。今の自分は、患者が求めていることと、自分ができることのずれが大きいことしか自覚できていない。本当に患者が求めていることに応えられるように、ホスピスでさらに修行したい」と話しました。
知り合いの児玉真美さんは、著書、「海のいる風景—重症心身障害のある子どもの親であるということ」の中でこんなことを述べています。医療者にとって病院は職場だが、そこにいる患者にとっては生活の場所なのだ。職場であるという医療者の発想が、患者の生活を貧しいものにしていく、といったことが書かれています。医療者の視点、発想に生活感のないことを見事に指摘しています。私は今、ホスピスから在宅医療へと活動の拠点を移しましたが、それは職場から生活の場に、自分と医療を移動させようと思ったからです。 私の子供にとっても、多くの患者にとっても、医療者の視点とのずれ、病院の中での生活の貧しさを諦めながら、医療者に自らを委ねなくては生きていけないというのが現実です。
さて、「なぜ緩和ケアの医師になったの?」という問いの本当の答えは、「私の家族におこったことに関係していて、さらに言えば私の家族がより幸せになるため」なのです。子供が、私を緩和ケアの道に導いていったと言っても過言ではありません。妻と共に子供のケアを続け、そして成長する子供のお陰で、私は謙虚になり、そして人生をかけて取り組む価値のある仕事を見つけることができたのです。緩和ケアの医師として関わる患者が、よりよい状態になっていくことと、私が親として関わる子供の健やかな成長は、私の中ではつながっています。ですから、私は仕事を通じて苦難と苦労もありますが、同時に大きな達成と喜びも感じているのです。
間もなく16歳になる子供の人間としての成長と、自分の医師としての成長を振り返りながら、こんなことを思い出しています。最近、ケアラーのケアが話題になります(care for the carer)。ケアする医療者を、どうケアするかという、ケアの基盤を支えるための取り組みです。妻はもちろん子供のケアラーでもありますが、私というケアラーを支える、ケアラーでもあります。子供と自分にいつも愛情と栄養をたっぷり注いでケアしてくれる妻がいてこそ、我が家のケアがいつも幸せの中にあるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年5月 | トップページ | 2015年7月 »