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2015年5月

2015年5月23日 (土)

患者から「早く死なせてほしい」と言われたらどうしますか?

この度、2年間書きためていた文章を一冊の本にして発売することとなりました。

20150523_183401タイトルは「患者から「早く死なせてほしい」と言われたらどうしますか? (本当に聞きたかった緩和ケアの講義) 」です。この本では、“3学期”構成となっており、さながら1年間の講義を受けているような流れになっています。23ある講義はすべて生徒の疑問から始まっていて、私がその問いに一つひとつ丁寧に答えます。
タイトルは親友の箱田高樹さんのアイデアで本の中の質問の一つからつけました。かつて仕事で苦労を共にし、親友でもある金原出版の吉田真美子さんと二人三脚作る事が出来ました。心から感謝してます。また本の内容の日本語校正は、しんじょう医院の事務水上久仁子さんに協力して頂きました。このブログも含めて、私の著作物の全ては水上さんが校正をして下さっています。

金原出版のページはこちら

序文の一部
2008年頃から、緩和ケアには追い風が吹き、がん患者を診療する病院では緩和ケアを提供すべし、という風潮が広がりました。
その頃から私も、ホスピスで身につけた緩和ケアを広めるにはどうしたらよいのかを考えるようになりました。内科や外科といった一般的な診療をする医師や看護師に、どうしたら緩和ケアを伝授できるかを考えました。そして多くのマニュアル、ガイドラインを作る仕事に関わるようになりました。「取っつきやすい緩和ケア」を目指していて、「わかりやすい」ことと「すぐに現場で使える」ことを重視しました。

こうしたマニュアル、ガイドラインは確かにわかりやすいものではありましたが、同じようなマニュアルを、レイアウトやフォーマットを変えて何度も違う出版社、違う媒体で発表することに、やや嫌悪感を感じるようになってきました。「痛みにはオピオイド」、「倦怠感にはステロイド」といったまるでカルタ取りのような一対一の対応で、緩和ケアを実践する底の浅さが目に付くようになってきたからです。

「わかりやすい」緩和ケアは確かに、非専門の方々に広めていくには大切なことですが、もっと深遠な考え方の基盤になることや、もっと広い視野から人間と病を考えることも必要なのではと思うようになりました。

一見「わかりにくい、すぐには現場で使えない」緩和ケアであっても、この本を通じて一緒に皆さんと考えることで、もっと基礎のしっかりとした緩和医療学になればと思い、本をまとめることとしました。この本は、これから緩和ケアを学びたい、または緩和ケアをより深めたいと考える医師や看護師の方を対象に書かれています。しかし、患者に接する家族や他の医療従事者にも是非読んでもらいたいと、普段の診療を終えてから深夜に、移動中の新幹線の中で、と時間をやりくりして書いてきました。今の自分の中にある緩和ケアを限界ぎりぎりまで深める努力を私自身に課しました。どうか皆さんの心に届くことを祈ります。

目次
オリエンテーション
  緩和ケアをめぐる10の提言

  • はじめに 苦悩する患者との向き合い方
  • 1)過去の概念を超えろ
  • 2)症状の最小化よりも、QOLの最大化を
  • 3)薬物では新しい力は生まれない
  • 4)三位一体の苦痛に対処せよ
  • 5)自分の直感を高めよ
  • 6)安心を処方せよ
  • 7)特別な一日を見逃すな
  • 8)自分を割れ
  • 9)社会的な役割を演じきれ
  • 10)人に対する驚きを持ち続けろ
1学期 痛みの治療と症状緩和
  • 痛みの治療 最初の対応・痛いと言わない患者・医療用麻薬の使い分け、神経障害性疼痛、呼吸困難・吐き気、腹水、食欲不振 食べる悩み・輸液、倦怠感、不眠、せん妄

2学期 鎮静と看取りの前

  • 鎮静 鎮静の説明・鎮静が必要な方へ、死なせてほしい、死の経過

3学期 コミュニケーション

  • コミュニケーション 緩和ケアって何?・がんの告知・化学療法の中止・余命告知・家族ケア、患者の自殺、民間療法、医療者のバーンアウト

終業式の言葉




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2015年5月18日 (月)

製薬会社と医師のこれから。同床異夢のかつての仲間たち。

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私が医師になったのは平成8年(1996年)、もうバブルは終焉を迎え、世の中では、質素倹約に舵を切った方が良いのかなと感じ始めた頃でした。
医師になりわずか数ヶ月で、大学病院から市中病院に転勤となりました。転勤とは名ばかりで、まだ何もできない研修医でした。それでも、地方の市中病院では、一医師として働かなければならないプレッシャーに、毎日緊張していました。 ある日、科の上司が歓迎会をしてくれることになりました。しかも歓迎会は何回もあったのです。歓迎会は必ず製薬会社の人達が手配して下さっていました。
歓迎会では、各社の薬の名前を教わるだけで、特別な宣伝、説明はありませんでした。そして、各科合同の忘年会になると、複数の製薬会社の人達も参加し、大きな会となるのでした。ある程度の会費は出すのですが、会の規模とは見合わず少額でした。宴会の度に、二次会、三次会と羽振り良く接待が行われていました。もちろん私も参加していました。また、私は苦手で参加しませんでしたが、ゴルフに出かける医師も多く、○○杯と称して病院主催のゴルフコンペがありました。多くの製薬会社の社員も加わり、その際の病院職員の負担はかなり少額でした。
どの製薬会社も同じように接待、そして宴会の度に協賛金と称して数万円を出費するため、製薬会社同士の競争はありません。そして、製薬会社の営業の方は夕方になるといつも医局にいて、特定の薬剤の宣伝と言うよりも、雑談をしていらっしゃいました。自腹でゴルフやスポーツ雑誌を買って医局に持ってくる方もいました。もちろん、製薬会社の社員ですから、薬の副作用情報、新製品、講演会の案内もしていらっしゃいました。

私が自分の専門を緩和ケアに定めたのは30を過ぎた頃、平成14年(2002年)のことです。その頃もまだ接待や製薬会社がリードする講演会があり、医局の外には大勢の営業の方々がいました。毎週のように各社の接待を受けようと思えば、できる状況でした。さすがに毎週では身体が持たないので、私も時々各科の医師と一緒に参加する接待の席はありました。自社製品のPRよりも、製薬会社の営業の方が自分を売り込むための接待が主でした。

私は、自分の専門分野に関してのアイデア、学会発表、論文を製薬会社に売り込んでいました。まさに「売り出し中」です。経験が浅く、言葉が貧弱な頃でしたが、私の人生の夏ともいえる時代で、一分野で名を馳せたいという野望もありましたので、頼まれる社内勉強会、講演会は率先して引き受けていました。また利益相反の開示はありませんでしたが、年間50万円程度の、講演料、原稿料を受け取ることもありました。 社内勉強会では、主に、緩和ケアで使われる医療用麻薬を比較、特に他社製品との比較とそれぞれの利点といった、各製薬会社単独では得がたい情報を提供していたのです。また既存の特定の薬剤よりも、自社製品が使われるためにはどういうアイデアがあるのかという臨床的な助言もしていました。
無理な使い方ではなく、どの様な患者にどの様な医療用麻薬が適しているのかを、自分の臨床経験から伝えていました。 講演会では、別の町で活躍する顔見知りの医師や看護師からの招待で、色んな町に出かけました。その都度テーマが先方より提示され、それに沿った内容でアイデアを駆使して1時間程度話をしました。交通費、宿泊費、講演料は全て製薬会社が負担し、自分の担当の製薬会社の営業社員が同行することが常でした。(一人でのんびり行きたいので、と断っても必ず同行して下さる慣習でした)

私は自分を売り込むために製薬会社を利用し、製薬会社は自社製品をより深く知るために私を利用していました。ビジネスパートナーです。講演の内容には全く製薬会社は関与せず、「自社製品に関連した内容ならよろしい」という大まかなルールでした。ビジネスパートナーとして、各社製薬会社の社員の方々とは個人的な付き合いも生まれました。しかし、そのほとんどの方が転勤となると音信不通となり疎遠となります。自分と相手に利益がなくなればそれ以上の関係にはなりませんでした。自分としては、製薬会社の特定の方に、同じ仕事に熱中する相手として、信頼、親愛を感じて、敬意を持ってお付き合いしているのですが、転勤になるとあっさりとその関係はなくなりました。彼らは仕事相手ではあっても、友人ではないのです。そしてそのような関係の築き方は、今も続いています。

しかしこの数年、製薬会社と医師、製薬会社と学会の関係について色々な変化を感じるようになりました。特に毎日新聞が一連のノバルティス社と医師との不適切な関係を報じ朝日新聞が医師と製薬会社との資金の関係を報道するようになってから変化はますます加速しています。 製薬会社は自主規制を強め、接待を全くしないようになりました。そして病院の方は、製薬会社の訪問規制をして、特定の時間、場所、アポイントメントを取った上での面会、というルールを決めるところも増えてきました。 製薬会社は以前のように、講演内容もチェックせず「お金は出すが、口は出さない」という状況から、講演の内容を指定したり、チェックしたりするようになり、「お金を出すなら、口は出す」という関わりになってきたように感じます。

また講演会の形は、以前のようにその分野で名の知れた医師に色々な町で講演してもらい新たな知識を得るというよりも、製薬会社の共催、主催の講演会で話す医師は、製薬会社寄りの宣伝をする「どちらかというと言葉が軽い」医師と受け止められるようにもなってきました。

医師の立場としては、研究会も学会運営も新しい形を模索する必要が出てきそうです。今までのように、「お金は出すが、口を出さない」会社は減り、学会の共催費、ランチョンセミナーの運営も難しくなってきています。(余談ですが、食事を食べながら人の話を聞くなどと言うスタイルは演者に対して失礼ではないかと思い、自分としてはあまり引き受けたくありません。食事しながら人の話は聞けないと思います。)

学会は、大きなお金を動かす年次大会の運営から脱却する必要があります。 そして、特定の医師をステークホルダーと信じて、製薬会社が援助する関係はなくなっていくと思います。なぜなら、ステークホルダーたる医師の影響力が年々低下しているからです。以前なら、大学医局の教授が特定のグループに対して大きな力を持っていました。私の経験からも、教授には人事権があるため、教授に反目すれば自分の勤務地や配属に関して冷遇されることもあります。若いときには、少しでも医師としての経験をつけたいという自分の気持ちを満たすために、大学医局や教授、医局の人事担当医師(医局長)に取り入らなくてはなりませんでした。少なくとも反目することはできませんでした。

また自分だけではなく、自分の人事異動によって何の縁もゆかりもない、馴染みのない田舎暮らしをする家族(妻、子供)への影響もあります。引越に次ぐ引越で家族の状態も良くも悪くも変化しますが、これも人事次第です。小さな子供達、やっと地域なじんだ妻の生活を、人事は医師の生活を破壊します。また家族生活の安定のため単身赴任する医師も多くいます。大学の医局は地方医療を支えていましたし、医師は自分の生活を制限されながらも、職務に邁進していました。
しかし、今は大学医局に所属せず研修医時代を自分の好んだ勤務地で過ごし、そのまま専門分野に入ってきます。所属している病院には、それぞれの医師に対する人事権はありません。医師を生活を以前のように直接制限する力が減ることで、特定のグループの派閥を作りにくい状況が医療界には生まれていると思います。医師会や大学医局の影響力が低下したことからも明らかです。医師の生活を制限することができなくなってきたからです。

こうして、義理、人情もなく、接待費もないため自分を売り込む術のない製薬会社の営業社員、自主規制の名の下で、資金援助や共催という形で医師や特定のグループに「貸し」を作れない製薬会社、ステークホルダーとなり得ない医師、そして製薬会社をあてにしないむしろ敬遠する現場の医師が増えて、これからはそれぞれが新しい知恵を出さなくてはなりません。恐らく製薬会社は、自分の会社の社員には、医師に対する宣伝効果がなくなってくるため、ますます宣伝価値がある医師だけに資金を投入するようになっていくと思います。さらに今まで以上に、医師の経験と社会的権威を宣伝価値として利用するようになるのです。それが営利を目的とした企業の正しい形です。そして、どんなに権威がある様に見えても、投資する価値のない医師を製薬会社は冷遇するようになるでしょう。

さて、この数年でどう変化していくのか。色々な手を考えながら様子を見守っていこうと思います。

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