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2015年2月24日 (火)

経験の檻。「その鎮静、ほんとうに必要ですか」を読んで。

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鎮静は、私のライフワークでもあるので、緩和医療学会のガイドラインを否定する意見を書かれた大岩孝司先生の「その鎮静、ほんとうに必要ですか」を読んでみました。
鎮静は耐えがたい苦痛に対して行われるのですが、耐えがたい苦痛はまず存在しないというのが持論としてあげられていました。 そして、患者の意識は亡くなる直前まで保たれるので、昏睡にはならない。患者の意志と意識を一番大切にすればこそ、鎮静をしてはならないと主張しています。さらに、医療者の緩和ケアの質が低ければ、耐えがたい苦痛が拡大するため、鎮静に歯止めがかからないという懸念が書かれていました。また、辛いと思っているのは、患者ではなく家族であるため、患者と家族の認識のズレを解消する必要があると主張しています。 さらに、耐えがたい苦痛に鎮静が行われるのであれば、耐えがたい苦痛に対する緩和ケアを充実させることの方がずっと重要だと主張されていました。部分的には、私の終末期ケアの臨床から得た経験からほぼ同意できる内容でした。
しかし、著者の主張とは裏腹に、私が在宅医療をしている中では、今でも末期癌患者に鎮静を実施することは何度もあります。最近自分の調査でも30%程度の患者が鎮静を必要としていることが分かりました。(まもなく論文が発表されます)著者と私の立場の違いはどこにあるのでしょうか。
著者は冒頭で、在宅療養を担当していた患者が、別の病院に入院した後に薬で鎮静され最期の3日間は昏睡状態のまま亡くなったことを家族から聞き及んだ、という無念の経験が紹介されています。そして、鎮静に対する嫌悪感と怒りを感じたことが書かれています。この経験から鎮静を緩和ケアの現場に導入することに反対の立場を表明しています。
これに対し、私は20代の終わりの頃(1998年ごろ)、肺癌の患者がある日急変し、強い呼吸困難に襲われた時のことを今でもよく思い出します。あの日私は休日の病院に呼び出され、緩和ケアの適切な知識を持ち合わせないまま、ただ呆然と汗びっしょりになり、体を横たえることもできずに苦しみながら、命の最期の日の苦痛に耐えていた患者の表情を思い出します。意識はあっても、苦痛の中、家族と別れをすることもできず、「苦しい助けてくれ」、「楽にしてくれ」とうめいていた患者を思い出します。私も看護師も家族も為す術なく、ただ部屋の中で立ち尽くしていた時のことを思い出す度に、どうしてあの苦しみを軽減する事ができなかったのか後悔に苛まれます。そしてこのことは、緩和ケアの一治療として、適切な鎮静の仕方を習得する努力を始めるきっかけとなりました。安全に鎮静ができるように、鎮静に至る過程がより正しい方向へ向かうように、一時期ガイドラインの作成に関わったこともあります。
筆者も私も立場は違えども、「経験の檻」から自由になれないのです。過去の強烈な体験と記憶から、それ以降の医療への取り組み方が変わってくるのです。筆者と私は同じ分岐点に立ち、右と左、別の道に進んだということなのかもしれません。
「経験の檻」の中から、主張された持論は、内容に同意できても心の深いところまでは届きません。心の深くまで届く言葉には、寛容さと謙虚さが含まれています。寛容さと謙虚さを醸成するには、自分と反対の考えをもつ現場への取材と、反対する意見に触れる機会を自分自身で作り出すことが必要です。
まず、この本の著者の行動に欠けているところがあるとすれば、実際に鎮静をしているホスピスへの取材です。この著者の先生が、鎮静をしている医療現場から学ぶ姿勢を持たなければ、本当の問題には気付かないかもしれません。本を読んでいても、著者は「鎮静を今までしてきたがやめた」のか「鎮静をした経験がない」のか分かりません。「経験の檻」に閉じこもった医師は、自分のできない治療を否定する傾向があります。モルヒネの使い方を習ったことのない医師は、モルヒネを否定します。抗がん剤の治療の経験のない医師は、抗がん剤を否定します。手術ができない医師は、手術の侵襲を否定します。もちろん全ての医療の技術の習得は不可能です。しかし、あらゆる医療現場を見学することはできます。そして、その現場でベストを尽くそうとする医師と対話することはできます。 さらに問題なのは、自分の医療の質を評価されることがないため「自分は最高とは言えないまでも、相当質の高い医療を提供している」と、多くの医師、そして私も信じていることです。自分の医療の質を測るには、まず自分から他の現場を見に行くことです。そして、多くの研修を受けて意見をもらうことです。一方、研修を引き受ける側の開業医はほとんどフィードバックをもらえません。なぜなら、未熟な相手に自分の質の高い医療を披露しているという思い込みがあるため、研修者は何も語ることができなくなるからです。
さて、私は、ホスピスでも一般病院でも働いた経験があり、今も総合病院の非常勤医師をしながら在宅医療を提供しています。そして色んな医療現場での考え方や、スタッフの努力を理解するように努めています。患者をホスピスに紹介する側の病院では何が起こっているのか、医師と患者は何を話し合っているのか、紹介状の文面以上に何が起こっているのかを、相手の医療現場に赴いて知る必要があります。すると謙虚さがうまれます。身勝手に「紹介が遅い」と言い続けているだけでは、現状は何も変わりません。 そして、自分の判断、行動に対して批判を受けることができる環境をどのように整備するかが、医療を向上させる肝だと思っています。他人から意見されることは、自尊心が傷つくことも苛立つこともあるため、誰もが嫌うことです。しかし、きちんと意見される環境を用意しないと世界観が狭くなっていきます。 著者の先生は、私と同じ開業医ですから、恐らくは在宅チームは自分と雇用関係がある看護師か、他の訪問看護ステーションでしょう。しかし、雇用関係のある人間同士はまともな意見、批判はなかなかできないものです。また他の事業所である、訪問看護ステーションとは日常的に顔を合わすこともないため、意見交換の場を持つことを積極的に考えないと、なかなか意見を交わし合う関係にもなれません。
最後に、私はこの本と筆者の主張に表面的には同意でき、学会のガイドラインを真正面から批判する熱意には感服しました。しかし、内容が心の深いところまで届かず、不信を感じる部分もありました。その不信の解消には、やはり筆者と私自身が対話するところから始まるのだろうと思います。「経験の檻」に閉じこもった持論は、正しいが人の心には届かない。こうして、私自身の「檻」をまた認識する機会となったのです。

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