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2014年10月

2014年10月12日 (日)

がん放置療法の功罪

(本文に登場する患者は、フィクションですが、実際の診療を通じて経験した出来事です)
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以前から、医療を否定するような本がよく売れています。「がん放置療法のすすめ―患者150人の証言 」、「医者に殺されない47の心得 医療と薬を遠ざけて、元気に、長生きする方法」を上梓した近藤誠先生の本には大きな反響がありました。一部の患者や市民には熱狂的に支持され、また多くの医師は強く反発をしています。この様な医療を否定する本には必ず陰謀論が展開されており、現代医学の提供者である病院や医師は、患者の治療を通じて何らかの利得を得ている、という論が展開されます。そして、多くの医師の反発は、様々な癌の治療の成果が科学的に検証されているのに、その治療を否定してしまっては、医学の根底から否定されてしまうことになるので、反論以前の問題であること。また患者の治療の機会を奪う悪魔の言説だと批判しています。 この土俵の全く違う論戦を眺めながら、自分の医療現場を振り返ってみると、癌放置治療法の実際の効能について考えざるを得ません。ある患者との出来事を通じてこの問題について語ってみようと思います。
私は長く癌、緩和ケアに関わってきましたので、今は癌の患者の在宅診療(月2-4回、30分予約制)と外来通院(月1-2回、30分予約制)を行っています。多くの患者は、手術、化学療法、放射線療法を受けています。つまり病院での現代的な癌治療を受けている方々ばかりです。在宅診療の方々は、癌治療を受けていた病院に通院できなくなり紹介されてくることがほとんどです。病状の重い患者にとっては、総合病院の外来に行き、待ち、診療を受け、会計を済まし、処方された薬を薬局で受け取り、そして家に帰ってくる。その行程が既に負担なのです。かなり疲れ果ててしまい、病院へ行くことでかえって体のエネルギーが奪われるという皮肉な状況となります。
「先生、今日は体がだるいので、病院へは行けません」
何度か総合病院に勤務していたときには、患者から聞いた言葉です。調子が悪いのに病院に来られないとは・・・。開業を決意したのも癌の在宅診療を積極的に行うようにしたのも、本当に調子の悪い患者には、こちらから診療に伺うべきだと考えたからです。私が診療する多くの患者は、現代的な癌治療を受け、医学的に管理されています。病院や医師との関係はある程度続いていたりうまく保たれていたりします。こういう方々からは「癌放置療法」の話はほとんど出てきません。しかし、総合病院での癌治療を否定するある方に出会いました。
体の調子が悪くなり歩いてもすぐに疲れるようになってしまった、と近くの病院で検査したところ、胃癌であることが分かりました。普通に日常生活も送れますし、まだ終末期癌という状況ではありません。時折癌の存在を思い出すような不調はあっても、以前と同じような毎日を過ごせる方でした。頑固な高齢男性で、胃癌と言われた直後から、病院へ行くのをやめてしまいました。 「どうせ癌になったら治らないのだから、病院へ行くだけ無駄。自分独自のやり方で体調をコントロールしていけば良い」と決意して、一人で食事や暮らし方の工夫をしていました。一緒に住んでいる家族はとても心配になり、癌の治療は受けなくても良いので、せめて医師や看護師と定期的につながりを持ってほしいと考え、私の所に相談にいらっしゃいました。
「年齢も年齢ですし、本人も頑固です。どんなことも自分でこうと決めてしまえばもう他人の話なんて全く聞いてくれません。それでもせめて時々診察を受けてほしいと頼んでみたんです」と娘さんは困り果てた様子でした。 診察に連れてくることは、本人が頑固すぎてできない、でも家に来てくれればとのお話でした。娘さんの相談を受け、色々な状況を確認して早速ご本人の家に伺いました。 初めて会うその方はにこやかで、自分の考えている闘病について語ると言うより、まるで自分に言い聞かせるように演説していました。「薬の力に頼るような生き方はしたくない」「医者は嫌いだ」「胃癌はほおっておけばよい」と語り、そして話題の「癌放置療法」の本を手渡されました。「自分はこのやり方でこの先やっていく」と。
私は、「どうぞ、ご自身のやりたい方法で療養を続けて下さい。ただ、月に2回は会いに来ます。ご自身のやり方がうまくいっているか一緒に確認し合いましょう」と話しました。確かに胃癌があることは、検査を実施した病院からの診療情報提供書(紹介状)で分かってはいましたが、診察をし、話をしていても、ほとんど胃癌の影響は分からない方でした。趣味にも取り組み、精神的にも落ち着いていると感じました。この方の心が漂流してしまわないよう、家族の心配が最小限になるよう、将来の悪いときに備えて、何とか医師である自分と、頑固なこの方との間に、信頼関係が生まれると良いなと、それから数回診察をしながら毎日のこと、感じていることを話すようにしました。信頼関係が生まれるまでは、この方が嫌う投薬や、生活指導はせず話を聞きながら、時には「他の癌の患者はどうしているのか」という質問に具体的に答えるように取り組んできました。 診察の度に、癌放置療法の内容を私に向けて話してきます。そして、将来病院の世話にはならず一生を終えると話していました。私は、この方が手術、化学療法を受けた方が良いとは思えず、本当にこの方の生きづらさにこれからも対応できたら良いな、いつになるかは分からなくても一生を終えるときに側で手伝うことができたら良いなと思いました。
この方の家での診察が始まって数ヶ月が経った頃、急に「先生に来てもらっても何らメリットはないな」「特に何をしてもらいたいということもないから」「もう来なくてもよいよ」と言われました。診察を側で聞いていた家族はびっくりしてしまい、それは困ると、本人と押し問答を始めました。 私自身は、医師と患者の関係は良いときもあれば悪いときもあり、くっついたり離れたりしながら時間を重ねていけば良いと思っています。しかし、本人の求めがないところには関係は生まれません。「病院に来ない患者」「医師の診察(面接)を求めない患者」とは治療関係は生まれないのです。それに「メリットはない」と言われてしまえばもう立つ瀬がありません。「それでは仕方ないですね。もう一度(この方と家族)皆さんで話し合ってから診察をどうするか考えて下さい」とお伝えし、その方の家をあとにしました。いつも診察する机の横にはきっと何度も読み返しているであろう、あの「癌放置療法」の本が置いてありました。
癌の問題を抱えて生きていく人たちをcancer survivor (キャンサーサバイバー)と呼びます。このキャンサーサバイバーという言葉には、この方のように実際に癌を抱えている方だけではなく、癌と診断され治療を受けたのちまだ再発していないが不安を抱えている方まで多くを含みます。「がん患者の生き残り」ではなく、「がんに関わる全ての患者、癌と生きていく人たち」という大きな意味になっています。そして、キャンサーサバイバーの方々の中には、人間関係の不調を抱える方も多くいます。私の経験から、まず「人嫌い」になる方がいます。そして、「他人との接触を避ける」傾向が生まれます。他人のうち最も不快なのが医師です。医師との接触により、患者は自分が癌であることを嫌でも思い出し、普段は紛らわせていた癌に対する不安が呼び起こされます。さらには、まだ自分も考えていなかったような問題を医師から告げられるのではないかと、びくびくしながら過ごしています。
「もしかしたら、医師は自分の知らない癌の問題を既に知っているのではないか」 「黙って、隠されているだけで、医師には自分の将来が見えているのではないか」
そんな疑念に支配されてしまえば、この方のように病院、医師から離れていこうとするのもよく分かります。厭世的になりうつ状態になる患者もたくさんいます。そんな心理状態の患者にとって「癌放置療法」は、心の寄る辺になるのです。癌を抱えながら生きて行くことは、余りにも精神的に負担が大きく、いつも癌のことを考えてしまいがちになります。そんな心理状態に「癌放置療法」が優しくささやきかけます。「そう、その癌をほおっておいてもいいんだよ、病院に行かない方がいいんだよ、医師と関わるとろくなことはないよ」と、人嫌いで厭世的な患者の心を慰めます。さらに「自分の人生は自分で選択して生きていけば良いんだよ」と励ましてくれます。
この方には、「この『癌放置療法』のやり方に賛同していることは分かりました。それではやれるところまでやってみましょう。そのお姿を見守っていきますから」と話しました。ぽかんとしていました。しかし、この方が私自身に心を開くことはとうとうありませんでした。また一度この方に尋ねてみたことがあります。「この『癌放置療法』の作者である近藤誠先生の診察を受けてみる気持ちはないのですか?直接お会いすることで色々な事がさらに深まると思いますよ」と。その方の返事はこうでした。 「その必要はない、私はその医者に会いたいのではなく、この本を読みこのやり方で自分の身体をコントロールしていきたいんだ」と答えました。
癌の問題を抱えて生きていく、キャンサーサバイバーの方々は自ら助けを求めず、孤独な道を進もうとする時期があります。在宅診療は、身体の不調で通院できない患者だけではなく、精神的に孤独な道を進む「引きこもり」の患者に到達できる可能性がある診療だと私は感じています。実際に、「引きこもり」の癌患者には、関わり続ける事で良い関係を構築できることもあります。「癌放置療法」を多くの医師は、医学的に危険な言説であることから、批判を続けています。しかし実際に「引きこもり」の癌患者は病院に診察に来ることもないのです。病院で働いているとそのことを忘れてしまいますが、本当の問題なのは、医師が診察することのできない、医療の手が届かない患者が確かにいるという現実なのです。そんな患者に「癌放置療法」は肯定的なYesのメッセージを届け、心を慰め続けています。
そして、私は「引きこもり」のキャンサーサバイバーの方とどう向き合っていけば良いのか、まだ分からず困惑し続けています。自分の慈愛が患者に届かないのであれば、「癌放置療法」を上回る毒を用意する必要があるのかも知れません。

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2014年10月 4日 (土)

最近の緩和ケア研究

Medium_2349630643 最近の緩和ケア研究は大きく変化してきたように思います。 日本でも世界でも90年代から2000年の頃には、単一の薬剤が何らかの症状緩和を検証した臨床研究が多く、結果の解釈と臨床現場への応用は非常に平易であるものが主流でした。統計解析も非常に単純で、臨床医が取り組める程度のものでした。そして、ある論文を読み、「ああ、明日から自分の臨床にも取り入れてみよう」という研究が主流でした。(そういった研究の例)この時代には、緩和ケアのコツはジャーナルを読めば入手できるものであり、それらは非常に読みやすく、すぐ頭に記憶されるものも多くありました。
しかし、2000年以降は、evidence based medicineが主流の時代がやってきて、無作為化比較試験が治療効果を測る最も優れた方法論として位置付けられ、症例報告、エキスパートオピニオンが下位にランクされるようになりました。さらに複数の質の高い研究を比較するコクランレビューをはじめとするメタアナライス、そして、数々の臨床ガイドラインが作成されました。こうなると徐々に、厳密ではない方法論の単発的な論文はやや影を落とし、研究には多くの予算と組織力が必要となりました。こうなると既に一人の医師が思いついた臨床のコツというよりも、臨床介入を白黒決着つけるための、チームでの審判になってきました。目新しい薬の使い方や治療介入よりも、既に知っている方法の検証や、今までの方法と新しい方法の比較が増えてきました。
厳密な方法での比較は、臨床の現場には大きな影響力を持ちました。「オレ流、自分の経験」よりも、検証された方法が重んじられるような風潮が広まりました。「上司のやり方よりも、ガイドラインに記載された方法」という感じになり、徒弟制度であった医師の修行もやや変容したように思います。超人的な感覚をもった先達の医師の治療と主義を背中を見ながら盗み取っていくよりも、知識量の差、いうなれば英語論文の読書量が重んじられるようにもなりました。経験の少ない医師にとっては、短期間に大きな治療の自信をもつことができる利点もありました。「知っているか知らないか」情報が力になっているのです。身体には限界があります。医師は一つの体で一つの経験しかできません。多くの臨床現場を修行し、自分の身体で獲得する技法のみでは最早追いつかないほど、医療は細分化され専門化されています。Evidence based medicineは、世界的、地域的な、そして各医師の治療のレベルを均一化する重要な手法ではありながらも、何か治療者独特の熟練した「ひとぐすり(人薬)」(治療者の関わりそのものが治療効果であると言う意味)の効果を減弱させました。
そして、2010年頃から、さらに厳密な方法論と統計解析で、今まで効果があるかもしれないと言われてきた治療方法を再検証する研究が、緩和医療の分野でもなされています。その結果、改めて効果が確認された薬剤もありますが、実はそれほど効果がないことが分かった薬剤もあります。さらに、臨床研究の方法論の厳密性だけがエビデンスの価値を決めるのではないだろうとも考え始めています。それは、厳密な方法論で検証された臨床研究が、臨床現場に適用できない比較試験であったりするからです。また、厳密な方法論と統計解析で治療方法同士を比較したとき、計算上は差があっても、実際に患者はその差を体験できるのだろうか、という問題も生じてきました。例えば、ある治療AとBを比較し、その鎮痛効果が0から10のスケールで1と2の差だったとします。確かに統計解析では差があったとしても、その差にどれほどの意味があるでしょうか。
これからも方法論とその解釈を巡って10年単位で物事の考え方は変わっていくことと思います。今世間を席巻している考え方は、10年後にはまた変容していることでしょう。
緩和ケア研究では、90年代から2000年代にかけて、新規薬剤が上市されると、その効果を、さらに緩和医療と症状緩和の発展のために臨床に取り入れる治療医の好奇心とチャレンジが一種の旋風のように世界を席巻した時代が確かにありました。倦怠感にはやっぱりステロイドが良いぞ、吐き気にはやっぱりプリンペランがいいな、オピオイドの眠気にはアリセプトが効くらしい。結果の解釈も単純でした。
最近の緩和ケア研究は、複合的な介入を評価する研究であったり、緩和ケアを提供するシステム、仕組みについての研究が増えてきました。結果の解釈も複雑で、「さあ、明日から現場のやり方を変えてみよう」とはとても思えないものも増えてきました。「おたくの病院ではそういうのができるのですね」、「そちらの国ではよく分かりませんが、そういうことをやっているのですね」という研究も増えています。また、ヨガマインドフルネスのような介入を、今風な研究方法論で検証したものもあります。しかし、最近の研究を見て「今の自分の現場にはどういうシステムを採用したら良いのだろう、どこを改良したら良いのだろう」「無駄なことを減らし、有益なことを増やすにはどうしたらよいのだろう」「目の前の患者に適応すべき治療、介入は何であろう」ということが分かりにくくなっています。いや、分からなくなってきました。最近の新しい研究は、臨床家に新たな視線と世界観を提示する優れた研究もあります。しかし、その具現化にはしばらく時間がかかりそうだと感じています。

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