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2014年8月

2014年8月 8日 (金)

モルヒネを受け容れる人たち

20140808_153050

Journal of Pain and Symptom management誌(6月13日、先行電子版)に、私の研究が掲載されました。(英文タイトル Why People Accept Opioids: Role of General Attitudes Toward Drugs, Experience as a Bereaved Family, Information From Medical Professionals, and Personal Beliefs Regarding a Good Death)この研究についてのプレスリリースをさせて頂きます。(この研究では、実際にホスピスでご家族を無くされた方々(遺族)を対象に、2010年に実施した質問紙調査です。日本ホスピス・緩和ケア研究振興財団による調査です。
研究の発端は、ホスピスで定期的に行っていた遺族調査で、遺族からの様々な意見を見たことです。 「ホスピスに入院でき、麻薬で痛みはなくなりましたが、ずっと眠ってしまい、あれでよかったのかと今でも悩み続けています」 「医師から十分な説明がないまま、モルヒネの注射が始まりました。ホスピスに入院させたことでかえって早く亡くなってしまったのではないかと後悔しています」といった衝撃的な内容でした。通常、遺族調査は肯定的な内容が多く、時には、個人的に「○○先生、本当にありがとうございました」といった私信が書かれていることもあります。しかし、一方で「ありがとうございました」と病棟を去って行った遺族の方々の中には、今でもつらい思い、誰にも解消できない迷いと後悔を持ち続けている方がいることが分かりました。
私も非常に影響を受けたイギリスのインタビュー研究では、患者が「なぜモルヒネを拒否したのか」について明らかにしています。それによると、モルヒネは最後の手段で、楽に亡くなるための薬と思っていること、医療者はモルヒネを始めること以外に方法はないという態度をすることが指摘されていました。また、自分の家族であるがん患者が医療用麻薬の投与を受けた時の、否定的な体験や医師からの説明も、モルヒネを使いたくないという思いに影響することが分かりました。
そこで、私と研究チームは、ホスピスで実際に医療用麻薬(モルヒネを含む)の投与を受けた患者の遺族を対象に、医療用麻薬についてどう感じているかを調査しました。
997人の遺族を対象として、返答のあった66%のうち、解析可能な432人(43%)の調査を行いました。 ほとんどの遺族は、もしも自分が自分の家族(患者)と同じように癌の痛みに苦しむ状況になれば医療用麻薬の投与を受ける、と返答していました。(必ず使う 26%、使う 41%、どちらかといえば使う 31%) 医療用麻薬を使うかどうかについて、どのようなことが影響するかをさらに解析したところ、幾つかのことが分かりました。
まず、使わない方に関しては、薬そのものに対する価値観、もともと薬が嫌い、薬をできるだけ使わない、自分の力で病気を治したいという価値観と関係がありました。そして、使う方としては、医療用麻薬の投与を受けた自分の家族(患者)が、きちんと痛みが緩和された経験、「もしも副作用がひどければ医療用麻薬をやめることができる」という説明を医療者から受けたことが関係していました。また、身体に苦痛を感じないことが、望ましい最期にとって重要だと考えていることも関係していました。
この研究の結果から、医療者は医療用麻薬を使うときに何に配慮するべきか気づかされました。従来の研究では、「いつか効かなくなる」といった耐性の問題や、「早死にする」といった生命短縮の恐怖だけが注目されていましたが、最近の研究では、様々な価値観、経験、信条が関わっていることが分かりました。
私と研究チームは、臨床の現場で医療者は医療用麻薬の悪い側面、副作用だけを強調するのではなく、「痛みが緩和されることで、患者の生活が具体的にどのようによくなるのか」を説明することが大切であると考えました。(ノセボ効果を増強させない)また、医療用麻薬を受け容れない患者には、いわゆるモルヒネだけではなく、あらゆる薬が嫌いと考える方々がいることも注目すべき問題でした。実際の臨床でもこのような考えの方々にどのように薬の服用を促すかは、工夫が必要です。しかし、その基盤には、患者自身が自分の問題を自分で対処しようとする考えと、医療者への信頼がないことがあります。医療者との信頼関係の構築は重要だと感じています。「これだけ熱心に医師が勧めてくれるから」とか、「看護師は本当に自分を思って薬を勧めてくれている」と患者が感じて初めて、治療が始められると実感しています。 そして、やはり苦痛のない状態で最期の日々を過ごしたいと考えていることが明らかになりました。多くのホスピスに入院する患者や家族が、「亡くなることは分かっています。でも痛みや苦しみなく過ごしたい(過ごさせたい)」とお話しになっていました。
死に向かって状態が悪くなる中で、モルヒネをはじめとする医療用麻薬は使われます。遺族は、医療用麻薬によって亡くなったと考えてしまうこともあります。死に至る過程の中で起こる「よく眠ること」「変な言動、幻覚、混乱が起こること」を、医療用麻薬の副作用と考えてしまえば、家族には悪い印象だけが残ることとなります。 しかし、本来医療用麻薬は痛みを緩和する薬であって、患者を死に向かわせるための薬でも、眠らせる薬でも、気分の混乱を起こす薬でもありません。副作用であるのか死への過程であるのかを見抜くことは、専門家でも難しいこともあります。しかし日本のホスピスでは、そのように死に向かわせるために医療用麻薬を使うことはないと私は確信しています。
医療用麻薬をなぜ使うのか、そしてその時患者、家族はどのようなことを考えているのかに配慮しなくてはならないことがこの研究から言えます。

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2014年8月 4日 (月)

医師は、24時間、365日体制 (24/7)

Large_452838421 在宅医療は24時間、365日体制を患者と約束しています。義務ではありませんが、サインした文書を取り交わした上で診療をはじめます。在宅時医学総合管理料という在宅医療特有の高い管理料も、医療を求める患者と提供する医師が合意して初めて生じます。僕のように一人で開業している医師にとっては、この24時間対応の約束は、とても重く、よく周囲からも本当にやっていけるのかと質問、助言を受けます。「大丈夫なのか」「そこまでがんばらないといけないのか」などなど、多くは僕の身を案じて周囲は声をかけてくれます。
周囲の人たちは、僕が、24時間対応をすることで、相当つらい生活をしているのではないかと案じてくれるのです。 今、30名程度の方と24時間対応の約束をしていますが、僕の身体一つではこれが限界のようです。そして、この24時間対応の開始とともに開業2年が過ぎ、色々とわかってきました。

この24時間体制はどの位自分の生活を変えてしまうかなのですが、実は、開業するまでも勤務していた病院では急な呼び出しや電話に応対していましたので、実感としてはあまり変わらないというのが本音です。 医者になってからずっと、枕元には電話を置き、電話が鳴ればすぐに出なくてはならないという生活を続けています。
電話が鳴ることは、医者になってから数年はとても多く、入院中の患者のトラブル、夜中の救急外来に出動の要請、その他患者の状況の報告や、患者の対応の確認など、きりがないほどの状況でした。実は、この電話と呼び出しの多さで、脳神経外科医の道を2年目に諦めました。体も心もついていけず苦しみました。夜中に呼び出され、初めて診る患者にどう処置するのか、経験の浅い医師である自分にとっては、相当な恐怖で、「いつ電話してもよいよ」と上司に言われても、まず自分で少しでも何とかせねばという責任感で電話はできませんでした。自分の対応に自信も持てずに背筋には嫌な冷や汗が流れていました。患者の命を背負い、向き合う技術と度量が自分には不足していると感じていました。やがて、電話の呼び出し音が苦手になり、テレビの中で電話が鳴っても体が固まるようになり、今もそれは多少なりとも続いています。 慎重に呼び出し音の音色を調整し、体が「びくっ」と反応せず、それでも聞き逃さない着信音を探し続けています。(ちなみに今の呼び出し音は、人気ドラマ「24」で使われていた着信音です。決して体によくはありません。)
ホスピスで働くようになってからは、それほど呼び出されることはなくなりました。それなりに経験を積んだことにより、事前に予測できることは昼間のうちにきちんと確認できていたのです。しかしこれは、僕のように昼間に病棟で看護師とじっくりと対応を検討できるような、暇な医者にしかできない芸当です。外来、手術と病棟にいる時間も短くいつも走り回っている、かつて脳外科医だった自分と同じような働きをしている医師には、状況を予測しじっくりと準備する時間はありません。
昼間も忙しいため、対応の検討にもなんらか不備があり、結果として、残業し夜中も電話がかかってくる。忙しい医師は24時間病院から連絡されてしまう負のスパイラルに陥ります。そそうならないように、当直の医師がいるのですが、当直の医師では対応できない問題が起こると、結局病院にいない担当医師に連絡がされてしまいます。外科の患者の突発的なトラブル、例えば命の危険を伴うトラブルには、その日たまたま当直していた皮膚科の医師は無力です。適切な処置ができないだけではなく、患者、家族に対する責任が果たせないということになるのです。
医師にとってこのようなつらい状況から逃れるには、年数を重ねて、臨床の最前線から一歩退くまで我慢するか、呼び出される当番を決めて、休養できる日と仕事に追われる日をはっきりと分担するか、開業して24時間対応の状況から根本的に逃れるかしかありません。

開業というのは「やりたい医療を実践する」「自分の得意な医療を地域で発揮する」という本来の表向きな正の動機だけではなく、この24時間対応から逃れたい、これ以上がんばれないという状況や、また患者だけではなく病院の運営や経営といった、管理的な仕事から逃れたいという負の動機もあるのです。
「どうして開業してまで24時間対応をするのか?」というのは、周りの開業医にとっては理解しがたいのも当然です。それでは、僕のように開業してからも24時間の対応をすると、生活はどうなるのでしょうか。まず自分の毎日の過ごし方が変わってしまいます。例えば先週の日曜日もオーケストラの練習でしたが、朝から夜までに8件の電話と、2件の出動がありました。連携している訪問看護師の方々の力添えがあってやっと何とか約束が果たせる状況です。もしも訪問看護師の方々が一緒に対応をシェアしてくれなかったら、もっと自分は出動しなくてはなりません。もちろん、医師として自分が対応しなくてはならない問題もあります。
さらに、電話での呼び出しというのは、自分だけの問題ではありません。夜中に呼び出されると家族も目が覚めます。外出中に呼び出されて、予定をキャンセルしたことも何度もあります。子供が小さい頃、ドライブや行楽地に出かけた時に病院からの電話が鳴ったこともありましたが、妻も子供たちも真剣な顔で、「ねえ、病院大丈夫?」「もう帰らなきゃならないの?」とすぐに聞いてきます。そして、父親の邪魔をしないように神妙な顔をして静かになります。「うん、大丈夫だった」と僕が話すととてもほっとした顔でまたはしゃぎはじめます。家族との遠出は難しく、自分の趣味は限られますが、幸い近くで楽器が弾けるので僕には良かったと思っています。出張やドライブ旅行もそんなに好きではなく最小限にしています。ゴルフ、ウインドウサーフィン、スキー、ハングライダーは向かない趣味だと思います。反対に、庭・ベランダ園芸、盆栽、プラモデル、パソコン、ブログは24時間対応に向いたよい趣味だと思います。
もちろん、家族や仕事の都合で神戸を離れなくてはならない時もあります。そんな時には連携している別の病院の医師に頼んで留守をお任せします。それでも、患者からの連絡はまずは自分が受けるようにしています。というのは、初めて診る患者にはどう対応したら良いのか分からないため、相当な緊張を医師は強いられます。 僕も病院勤務をしている時、一番心的負担が強かったのは、この初めて診る患者の対応です。救急外来の時も、自分が気がついていない病気だったらどうしよう、当直の時も、自分は何か見落としているのではないか。また、いつもと違う病棟で仕事のペースが周りの看護師と合わずに、ついおかしな遠慮をしたり言い過ぎてしまったり。この緊張は眠りを妨げます。夜中に呼び出され、心が瞬時に緊張すると、再び眠りに入ることはとても難しく、朝まで起きていたことも度々です。
ですから、出先でも、まだ一度も試していませんが海外であっても、自分が24時間まず対応します。今はローミングができるので便利になりました。また出先でもiPhoneで電子カルテを見ることができるので、どこからでも、正確に医療情報を留守番の先生にお伝えできるようになりました。 それでも、自分の職場の方ではない医師には、気軽に頼めないのも事実です。しかし、もう一人医師を雇う程の甲斐性と仕事量は僕の医院にはありません。

それでも24時間対応をするには深い理由があります。また、24時間対応を負担と思うだけではありません。初めての患者では、とても緊張が強いられますが、1週間以内に一度でもお会いした患者であれば、何が起きているのかある程度分かります。そして信頼関係を築いた患者との急なやりとりは、心に温かく、充実感のある思いも残ります。自分のプライベートを犠牲にしても駆けつけた時、患者もその家族も、「普段お金を払っているんだから、当たり前の権利でしょ」ということは一切仰いません。「本当に申し訳ない」「こんな夜遅くにすみません」「先生、ありがとう、助かった」「先生の顔を見ただけで本当にほっとした」よく言われることですが、相手にありがとうと言ってもらうだけで、自分の生活を差し出せるのです。「ありがとう」と言われた途端、負担に感じていた心は晴れて、むしろ、自分が相手にとって大きな存在で、そして自分の一挙一動が相手にとって崇高な光明になっていることをはっきりと感じます。つまり、自分の存在の意義を相手を通じて、はっきりと意識するのです。この実感が医師にとっては大きな力になるのです。
今多くの職場では「ありがとう」と相手から言ってもらえないような環境を整えつつあります。その一つは、「交換可能な人材」に労働者を変えてしまうことです。この交換可能な人材を要求するのは、コンビニや牛丼チェーン、ファミリーレストラン、工場のようなマニュアル化された様々な職場だけではありません。すでに病院も例外ではありません。自分が、働いている職場から交換可能な人材であるとみなされていると、人は職場に対する忠誠心を失い、自分のオペレーション以上の仕事はしないようになるのです。「話していても目を合わせようとしない」「何を尋ねてもはっきり答えず、確認してきますと言ったきり戻ってこない」「コンピューターの画面ばかり眺めていて、自分を診ない」と病院の医師や看護師のことを不快に思う患者にたくさん出会ってきました。しかし、医師も看護師も交換可能な働き手として病院で働く以上、これ以外の振る舞いはできないのです。自分の責任を限定することで、不必要な患者、家族との関わりを避けるようになるのは当然です。看護師が毎年大量に病院を辞めるのも、女性の職場作りの不完全さや、夜勤シフトの問題だけではありません。「あなたの替わりはいくらでもいる」と職場からみなされていることを、潜在的に感じているからです。毎年多くの看護師が離職するので、離職しても大丈夫なようにマニュアル化した。それでも離職を減らすことは結局できなかった。これがどこでも本音ではないでしょうか。
僕は、交換可能な働き手、医師として病院にみなされるのを嫌い開業しました。ですから、これからも24時間対応を約束しながら、患者、家族にとって交換不可能な医師であり続けようとするはずです。よく「日本の医療は、医師や看護師の捨て身の犠牲で成り立っている」と話す方もいらっしゃるのですが、自分の存在が患者、家族にとっては交換可能な状態になることも時には受け容れなくてはなりません。それでも構わないという医師や看護師もいることでしょう。しかし、自分自身の存在意義を実感できないまま、プロフェッションはどういう動機で仕事を続けるのでしょうか。賃金だけでは人の動機は継続できません。「先生、ありがとう」と患者、家族に心から自分の存在を認めてもらうには、やせ我慢ではない、24時間対応を続けなくてはならないのです。
今日は休日。この時間まで無事電話は鳴りませんでした。私も皆さんも平和な夜になりますように。

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