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2014年3月29日 (土)

「患者との特別な日、そして別れ」前編

結季さんは、60代後半の大腸がん患者だ。独り暮らしのため家では過ごせなくなり、私が勤めるホスピスに入院していた。
ある日の夕方いつものように一日最後の回診に行ったとき、結季さんはこのところ力が出ないことを嘆いていた。この頃は体調が悪い日も目立つようになり、昼間に眠っていることも増えてきた。好きだった切り絵も、あまり捗っていないようだった。友人の訪問も段々と短時間になっていた。いつものように、その日一日の過ごし方を聞き、何気ない話をして部屋を後にした。
帰り支度を整えていると、携帯電話の呼び出し音が鳴った。病棟からだった。「こんな時間に何だろう」と思い電話をとると、看護師は「○○さんが(結季さんの苗字) 先生と話をしたいと仰ってます」「ええ、ついさっきまで部屋で話していたし、特に何か体調が悪くなったわけではないんだよね?」「はい、ただ先生と話をしたいと仰ってます」
今日は早めに仕事も終わり、今の時間に帰れば家族と一緒に夕食をとれるな・・・と内心思った。明日でもいいかな・・・とも思った。一瞬迷ったがもう一度白衣に着替えて病室に戻ることにした。家族の方はまたの機会もあるだろうが、患者との時間はもう二度と戻ってこないかもしれない。ある程度ホスピスでの仕事を経験していた私には、一つの確信があった。どの患者とも特別な一日があるということだ。特別な一日は微かな予感から始まるが、その日が終わらないと特別な一日だったかどうかは分からない。その日も微かな予感だけだった。
「何かご用でしたか」結季さんに声をかけると、「ああ、先生お忙しいのにすみません」と返事があった。ベッドの頭側を上げて、そこにもたれたままだった。病状が悪くなったため、身体の力が出てこない様子だった。ベッドの脇のテーブルには、ほとんど手付かずの夕食がそのままになっていた。「実は先生に見てもらいたいものがあって」
最近やっと出来上がった切り絵だった。
その切り絵の後ろには、やや乱れた文字で「無病息災」と書いてあった。彼女は穏やかな顔つきで私に、「先生、最近ね『無病息災』の本当の意味が分かったような気がするのよ。ただ病気しないで生きていくという意味だと思っていたけど、ここ(ホスピス) で毎日、先生や看護師さんに支えてもらいながら暮らしている間に、『無病息災』の本当の意味が分かったような気がするの」と話した。とても不思議なメッセージだった。いつもとはちがう澄み切った表情だった。私は、言葉を返すことなく、「無病息災」の意味を心の中で考え続けた。「無病」とは病気をしないないこと、「息災」とは健康で元気で過ごすことだ。既にがんの末期状態の結季さんの、得心したような表情を見ても私には何を意味しているのかよく分からなかった。しかし、彼女はそれを今日私に伝えたかったのだ。部屋を出た時一つの確信があった。今日が彼女との特別な一日だったのだと。後になっても、彼女を思い出すときに必ず思い出す、大切な瞬間だということに気がついた。
そして、彼女の言葉は恐らく最後の私へのメッセージで、彼女は「終わりの始まり」を静かに受け容れていることを私は悟った。「終わりの始まり」とは、生きる残り時間が短くなり、死を確かに意識しながら生きていく節目のようなものだ。恐怖の対象であった死が、約束され受け容れるしかない現実となった時、時に人は澄み切った表情となり、心のどこかで満足を感じるのだということを、私は患者を通じて学んだ。
特別な日の微かな予感を、自分の都合で見逃したことも、意図的にやり過ごしたことも今までにあった。「今、自分でちゃんと対応した方が良いな」と分かっていても、医師としての責任感と相手に対する好奇心より、過密スケジュールによる疲労の方が大きいと、ついやり過ごしてしまう。本当に些細な呼び出しから、苦痛を伴いすぐに駆けつけなければならない状況まで様々だ。とにかくその「特別な一日」を丁寧に対応し患者やその家族と過ごすと、その後の時間の流れ方が全く変わる。お互いの心がつながる特別な感覚にいつも心が震える。医者と患者、医者と家族という立場を超えた人間同士の確かなつながりが「特別な一日」には誕生するのだ。
私は、結季さんとの特別な一日に、彼女の中で始まった死を確かに意識した。そしてメッセージを受け取った。

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