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2014年3月15日 (土)

人生のラストレッスン

ある日、ホスピスの受付に「○○というものだ。主治医を呼べ!」と大きな声がした。「何か・・・不手際でもありましたでしょうか・・・」病棟の看護師長が対応した。「だから、早く主治医を呼べ!」と繰り返し怒鳴っていた。ひとまず、面談室に案内し、私が呼び出された。「結季さんのお兄さんが、病状を教えてほしいと来ています。随分激しい口調です。先生気をつけて」と看護師長に耳打ちされた。今の病院はトラブルを極度に恐れている。いや病院に限らず、怒りをあからさまにした人物に対して、うまく対応ができない人が増えた。もちろん私も含めてだ。
結季さんは、聡明な60代後半の大腸がん患者だ。独り暮らしのため家では過ごせなくなり、私が勤めるホスピスに入院していた。
面談室で結季さんのお兄さんに相対すると、不機嫌そうな顔をしながら、「妹をこんな所に閉じ込めてどうするつもりだ。おまえら一体どういう治療をしているんだ。妹はがんだぞ。こんなところでろくな治療もせず、死を待っているだけなのか。どういう病院なんだ。訴えるぞ」
その目には怒りだけではなく、悲しみが宿っているのに、私は気がついた。この方は話せばきっと分かる方だと直観した。私は、話し始めた。「私がまず病状を説明致します」そして、手術の時の様子、その後再発したこと、抗がん剤を使ったが、副作用が強くまた全く効果がなかったことを話した。そして、「私が結季さんに始めて出会ってから、今までにどんな話をしてきたのか」について話した。私と結季さんの間にどういう会話があり、どういうやりとりをしてきたのか話した。一人で暮らしてきた結季さんは、誰にも迷惑をかけずに最期までここにいることを決断したこと、それまでの気持ちの葛藤について話し続けた。
「そうだったのか・・・」最初は不機嫌だったお兄さんも徐々に、怒りの気配が薄れてきた。私には分かった。妹に対する愛情と、そして大変な時期に側にいられなかった罪悪感、過酷な現実に直面して動転していた。怒り以外に自分の気持ちを表現する方法がないこともはっきりと分かった。
医療の現場では、「遠くからの親戚」と言われる出来事だ。それまでに患者、家族と医療者が良好な関係にあっても、その場に居合わせなかった親戚がある日突然現れて、「あの治療法、この治療法」と勧め出す。ひどい時には、その人の身近な経験や、本、インターネットの情報から別の病院に連れて行ってしまう。もちろん、患者、家族も納得して付いていくのなら、私も何も言わずに送り出す。しかし、当惑している状況なら、間に割って入って調停せざるを得ない。特にホスピスは、「何の治療もしないところ」と言われて、遠くからの親戚には滅法評判が悪い。微に入り細に入り、患者との信頼関係を築きながら、穏やかな余生を送っていても、「遠くからの親戚」は全てを破壊してしまう。このような方々の心の底には、患者に対する慈愛や家族に対する労いよりも、それまで自分が関われなかった自責感と、根拠のない全能感が見え隠れする。せいぜい医者としてできることは、自責感を軽くすることと、厳しい現実を伝えて、「自分が患者を救える」という全能感の放棄を促す事ぐらいだ。
結季さんのお兄さんは、しばらく話す内に、徐々にその心が溶けていくのが分かった。結季さんは「誰にも迷惑をかけず、私一人でひっそりと死んでいきたい」と常々話していたが、やはり家族がいればそういうわけにはいかない。「誰にも迷惑をかけずに生きて死んでいく」ことは、美徳であると考えて疑わない。「人に迷惑をかけるな、自分の事は自分でしろ」と幼少の頃から繰り返し言われている世代には特にこの傾向が強い。しかし、自分の命は自分だけのものではないのだ。家族や他の人間との関わりの中で、自分の命は周りの人間にも共有されているのだ。だからこそ、結季さんのお兄さんはこんなに苦悩している。そもそも、「誰にも迷惑をかけずに」という考え自体が傲慢なのだ。自分が弱れば周りの人達に依存しながら生きて行かざるを得ない。そんな依存を嫌えば、一人で生きていけなくなれば、自ら命を放棄するほかない。「家族に迷惑をかけたくない」とホスピスに来る患者の多くは話していた。しかし、迷惑をかけずに生きて、死んでいくことは出来ない。私は、その事をどうにか患者に伝えるよう努力してきた。
結季さんのお兄さんに私は話しかけた。「時々、ここに来て結季さんの側で過ごしませんか。これから色んな事があると思いますが、結季さんの家族として彼女のことを一緒に支えていきませんか、力を貸してくれませんか」と話した。お兄さんは、下を向き涙ぐみながら、「今まで遠くにいて何もできなかったから・・・これからは、もっとあいつの側についてやろうと思います」と答えて下さった。次に病室へ行き、結季さんのお兄さんが来たこと、これからは側にいる時間を増やしたいと話していることを伝えた。最初は、「兄にも自分の家族がいて、あちらの生活もあるから」と遠ざけようとしたが、「お兄さんの気持ちも引き受けてあげて下さい」と伝え部屋を後にした。
その後、お兄さんは週に2-3日昼間の間数時間、結季さんと一緒にいる時間ができるようになった。最初は、「早く帰った方がいい、こんなに何度も来なくてもいい」とお兄さんが度々来るのを疎ましそうにしていた結季さんだったが、その声には本当の拒絶はなかった。むしろ、自分の弱った姿を見せたくないという気持ちの表れのようだった。段々と友人の面会を断るようになった結季さんだったが、お兄さんの面会は決して断らなかった。自分の弱った姿を見せる相手が一人でもいれば、患者は生きていける。そして、患者の命を心から引き受ける愛情をもつ家族がいれば、患者は穏やかに人生の最後を過ごしていける。
彼女と同じく、自分の人生の中で重要な登場人物は、不思議と必ず現れる。天涯孤独と思われていた人でも、ホスピスにいる間にほぼ必ずと言っていいほど誰か大切な人が現れる。血の繋がった家族に限らず、知人であったり時には宿敵のような人物であることもある。突然の登場に本人もびっくりしながらも、自分と誰かのつながりを不快に感じ拒絶する患者はいなかった。
結季さんに限らずどうしてこれ程までに、病気をして弱っていく患者は「誰かの迷惑になりなくない」と考えるのであろうか。またホスピスで医者や看護師に「迷惑をかける」方が、自宅で家族に「迷惑をかける」よりましだと思うのであろうか。「他人に迷惑をかけるな」と幼少の頃から教えられてきた世代にとっては、病気になり誰かの世話になることは、生きていく上でつらい事なのであろうか。自宅療養をしていて、毎日朝から夜まで、同居している家族の手を患わせて申し訳ないという気持ちも理解は出来る。しかし、患者がホスピス、病院に弱った身を寄せても、家族は放って置くことは出来ない。ほとんどの家族は患者を思う静かな愛情から、毎日のように病室に来て、時には狭い椅子や簡易ベッドで夜を明かす。例え、病室を後にして家路についても、絶えず病室の愛する家族が気になり、夜中も呼び出されるのではないかと携帯電話を枕もとに置き、眠りの浅い夜を過ごしている。
「他人に迷惑をかけたくない」という信念を持った患者は、そろって尊厳死を望む。結季さんもそうだった。「先生、もう私が駄目だと言うときには、管だらけにしないで楽に死なして頂戴ね」そんな風に話していた。尊厳死にも色々な考えがあるが、概ね今の医療の中では、がんのような治らない病気がある状態で、もしも呼吸をしなくなったり、心臓の鼓動が止まった時には無理な延命をしないこととされている。具体的には、人工呼吸器や心臓マッサージを始めないという考えだ。
もちろん、ホスピスに入院する前には、本人や家族に人工呼吸器や心臓マッサージを始めないことを予め確認している。私は尊厳死に反対する立場ではない。むしろ支持してきたし、実践してきた。しかし、最近の患者や市民は、「他人に迷惑をかけるくらいなら死んだ方が良い」、「自分が他人の役に立たない状態になれば早く死んでしまいたい」、「病気で不自由な身体で生きていかなくてはならない状況になれば、早く死なして欲しい」という本音が、尊厳死と直結している。「生きる価値がなくなったら、死なせて欲しい」と患者から頼まれることも増えてきた。私は患者と対話するうちに、いつも複雑な気持ちになる。「生きる価値」、「生きていく意味のある命」を峻別することを求められるからだ。医者は、仕事では病人としか付き合えない。患者はどんな病気であれ、様々な身体の不都合と直面する。そんな不都合がある身体に価値があるのか、意味があるのかを問われても答えようがないのだ。生老病死という不可避な課題に、ただ粛々と取り組む患者を応援することしか出来ない。私の役目は、ホスピスで病死を通じて学ぶ患者たちの「ラストレッスン」の環境を整えることだけだ。患者に人間として良い示唆も気の利いた教訓も教えることは出来ない。せいぜい痛みを最小化して、清潔なベッドを用意することで、「ラストレッスン」の学舎を整備することぐらいだ。
ホスピスという所は、過酷な現実と患者が向き合うところだ。決して天国に近い楽園でも、笑顔があふれる希望の病棟でもない。毎日衰える肉体を抱えながら、それでも、もしも未来への希望があるとすればそれは何であろうか。誰でもいい、誰かの愛情が注がれれば患者の心に小さな希望が灯されると私は信じている、いやそう信じたいと心から思う。患者との出会いと別れを何千回と繰り返しながら、ずっと小さな希望の灯を探し続けてきた私は、これからもこうして患者の学舎を準備し、彼らの学びの過程を聞き続けるであろう。

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