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2014年3月

2014年3月30日 (日)

「患者との特別な日、そして別れ」 後編 最終回

その日からますます結季さんの状態は悪くなっていった。毎朝ホスピスに出勤すると、夜勤の看護師から前夜の報告を受ける。結季さんがその夜は寝付けず、ベッドの上で居心地悪そうに何度も起きたり寝たりしていたことが分かった。私は、内心「ああ、始まってしまった」と思った。そして、その後、彼女の病室に行き確信した。彼女はベッドに横になり明るい朝日が差し込む部屋の中で、気持ちよさそうにすやすやと眠っていた。声をかけるとすぐに目をさまし、「ああ、先生・・・」と小さな声で返事をした。私は、耳元で「昨夜は眠れなかったのですか?何か身体に異変があったのですか」と尋ねたが、彼女は意味が分かるのか分からないのか、「何のことですか」と答え、また寝入ってしまった。その後も声をかけるとすぐに目を覚ますが、まともな会話はできなかった。
その日の夕方近く、看護師が二人がかりで結季さんを部屋にあるトイレに担いで移動していた。「手を貸そうか」私が声をかけると、看護師は慣れた手つきで結季さんを移動させながら、「大丈夫ですから」と断られた。確かに女性のトイレに一緒にはいるわけにはいかない。
結季さんは、看護師二人に左右から担がれながら、どうにかトイレへ移動していた。足には全く力が入らず、手を離せば全く歩けなくなることは、容易に想像できた。それでも、必死の表情でトイレへ移動していた。
しばらく時間が過ぎ、用を足したのか今度は結季さんはベッドに向かって再び、看護師二人に支えられ戻っていった。半時間もすると、またトイレに行きたいとナースコールが押され、さっきと同じように看護師二人がかりで部屋のトイレへ移動が始まった。わずか2,3歩の距離を、少しずつ移動していた。そして、しばらくするとまたベッドへ戻っていった。
私は嫌な予感がした。こののままの状況なら、昨夜と同じように今夜も眠れないだろう。私は軽い睡眠薬の服用を看護師に指示した。
そして、次の日の朝の報告では、昼間と同じように夜も結季さんは寝付くことなく、トイレへ移動しベッドに戻ることを数回繰り返していた様子だった。
そんな日が何日か続いた。トイレへ行くとき以外は、平和に穏やかに眠っていた。看護師が、オムツやベッドの脇に置くポータブルトイレを使うようにすすめ、実際に試してもみたが彼女は一切受け容れず、トイレへ行くことが人生の中で一番大切なことであるかのように、看護師二人に担がれながら通い続けた。亡くなる前の日まで。もうこの頃には以前の結季さんのように、知性的で気の利いた会話や心を通わせる時間は全くなくなっていた。「トイレ」「おしっこ」といった簡単な言葉だけがやりとりされた。
そして数日が過ぎたある日、結季さんの身体には死が近い徴候が現れた。呼吸の仕方が変わり、喉元でごろごろと音がするようになった。目は力なく半分開いていた。もう時間は残っていないと感じた。最近よく看病に来るようになった結季さんのお兄さんにも死が近いことを伝えた。彼女の友人達も集まり、彼女に声をかけていた。しかし、もう結季さんから返事はなかった。そして、彼女の手先、足先は青黒くかわり、最後の大きな息をした。私は、息を引き取ったことを看護師からの連絡で知り、結季さんの病室へ行った。彼女は既に亡くなっていることが一目で分かった。周りの人に看取られての最期だった。私は、「まだこちらに着いてない方はいらっしゃいますか」と、お兄さんに尋ねた。間に合っていない人がいないことを確認した上で、「最後の診察をします」と周りに告げて、脈を取り、目にライトを当て、心臓の音を確かめ、結季さんが亡くなったことを宣告した。「ご臨終です」「今までお疲れさまでした」と最後に彼女に話しかけた。
人の亡くなり方はきっと大昔から同じだろうと思う。亡くなる前にはいくつかの徴候が出てくる。その一つが、落ち着きがなくなり、夜に眠れず、昼間に寝る、そして話すことにまとまりがなくなる。テレビドラマのように、亡くなる最期の瞬間まで意識が保たれ、みんなに別れを言いながら、力尽きがくっと首を垂れるような亡くなり方はしない。健康な意識が昼間の光なら、死の闇に向かう直前は夕暮れのような意識になるのだ。つまり、夢と現実の間を行き来するようになる。話している言葉は、相手に届いているが、意味は通じない。家族の声や私の声は聞こえているであろうが、亡くなりゆく患者の脳では何が映像として見えているのか分からない。もしかしたら調子が良かったときと同じような情景を見ているのではないだろうか。そんな風に思う事も度々ある。
それでも、きちんと情は通じている。相手に確かに言葉は届いている。意味は分からなくても。私は経験から確信している。
そして、結季さんと同じように、亡くなる直前までトイレで用を足そうとする患者はたくさんいる。人間は身体機能を失いながらそれでも残る最後の尊厳とは、トイレで用を足すことではないだろうか、と私はホスピスの仕事を通じて感じていた。衰弱した患者は、人前で平気で失禁することだけは何とか避けたいと思っているようなのだ。オムツ、尿を出すための管を入れること、ベッドの脇に置いたポータブルトイレ、道具としては衰弱した患者にとって合理的だが、一部の患者は安心も納得もしてくれない。介護とは下の世話そのものだとよく言うが、末期がんの患者は、また違った世話が必要だ。患者の尊厳を守るための最後のケアとは、トイレへ移動することの手伝いではないかとつくづく感じている。
実は患者を担ぎ続ける家族や看護師の肉体的、精神的疲労はかなり大きいものだ。自分一人でトイレへ行こうとして、ベッドから転落する患者もホスピスでは日常だ。患者が動くと感知するマットをベッドの脇に置き、看護師が音がする度に駆けつける姿もまた日常だ。5分おきに弱った足でトイレへ行こうとする患者を、頼むからとベッドへ押し戻す家族を何度も目撃した。ぼんやりとした意識の中でも羞恥心を感じる患者の最後の尊厳の砦である、トイレで用を足すこと。どうやって援助したら良いのか。よいケアの方法も見つからず、願わくばと病室内の重力が軽くなる装置を夢想したこともある。テレビドラマのように、死とは美しく順調なものではないのだ。
結季さんが亡くなってもう5年が過ぎていた。私は10年間働いたホスピスを辞め、同じ地域に小さな医院を開業した。自分の天職である終末期医療を患者の自宅で実践する「在宅ホスピス」の仕事に専念するようになった。今も時々、彼女からプレゼントされた切り絵の色紙を眺めながら「無病息災」の意味を考えることがある。彼女が考えていた本当の意味は私には分からないが、病のため床に伏せ、そして亡くなる患者を見守り続ける中で思うことがある。どんな人間も「生老病死」の苦しみから逃れることは出来ない。しかし、老いること、病むこと、死ぬことを受け容れながらも、苦しみを軽減する、いや苦しみを別の何かに変えていくことはできるのではないか。無病息災とは、不老不死の達成ではなく、生老病死の静かな受容なのではないか。そうであるなら、私は医者として、患者の静かな受容の手助けができれば良いのではないか。
これからも私は、乗り越えられないほどの苦しみから患者を救うことに力を尽くし、患者とその家族の最期の生活を見守り続ける。こうして多くの患者と出会い別れながら、医者として実践できることは何か、彼女のメッセージを通じて考え続けていきたい。

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2014年3月29日 (土)

「患者との特別な日、そして別れ」前編

結季さんは、60代後半の大腸がん患者だ。独り暮らしのため家では過ごせなくなり、私が勤めるホスピスに入院していた。
ある日の夕方いつものように一日最後の回診に行ったとき、結季さんはこのところ力が出ないことを嘆いていた。この頃は体調が悪い日も目立つようになり、昼間に眠っていることも増えてきた。好きだった切り絵も、あまり捗っていないようだった。友人の訪問も段々と短時間になっていた。いつものように、その日一日の過ごし方を聞き、何気ない話をして部屋を後にした。
帰り支度を整えていると、携帯電話の呼び出し音が鳴った。病棟からだった。「こんな時間に何だろう」と思い電話をとると、看護師は「○○さんが(結季さんの苗字) 先生と話をしたいと仰ってます」「ええ、ついさっきまで部屋で話していたし、特に何か体調が悪くなったわけではないんだよね?」「はい、ただ先生と話をしたいと仰ってます」
今日は早めに仕事も終わり、今の時間に帰れば家族と一緒に夕食をとれるな・・・と内心思った。明日でもいいかな・・・とも思った。一瞬迷ったがもう一度白衣に着替えて病室に戻ることにした。家族の方はまたの機会もあるだろうが、患者との時間はもう二度と戻ってこないかもしれない。ある程度ホスピスでの仕事を経験していた私には、一つの確信があった。どの患者とも特別な一日があるということだ。特別な一日は微かな予感から始まるが、その日が終わらないと特別な一日だったかどうかは分からない。その日も微かな予感だけだった。
「何かご用でしたか」結季さんに声をかけると、「ああ、先生お忙しいのにすみません」と返事があった。ベッドの頭側を上げて、そこにもたれたままだった。病状が悪くなったため、身体の力が出てこない様子だった。ベッドの脇のテーブルには、ほとんど手付かずの夕食がそのままになっていた。「実は先生に見てもらいたいものがあって」
最近やっと出来上がった切り絵だった。
その切り絵の後ろには、やや乱れた文字で「無病息災」と書いてあった。彼女は穏やかな顔つきで私に、「先生、最近ね『無病息災』の本当の意味が分かったような気がするのよ。ただ病気しないで生きていくという意味だと思っていたけど、ここ(ホスピス) で毎日、先生や看護師さんに支えてもらいながら暮らしている間に、『無病息災』の本当の意味が分かったような気がするの」と話した。とても不思議なメッセージだった。いつもとはちがう澄み切った表情だった。私は、言葉を返すことなく、「無病息災」の意味を心の中で考え続けた。「無病」とは病気をしないないこと、「息災」とは健康で元気で過ごすことだ。既にがんの末期状態の結季さんの、得心したような表情を見ても私には何を意味しているのかよく分からなかった。しかし、彼女はそれを今日私に伝えたかったのだ。部屋を出た時一つの確信があった。今日が彼女との特別な一日だったのだと。後になっても、彼女を思い出すときに必ず思い出す、大切な瞬間だということに気がついた。
そして、彼女の言葉は恐らく最後の私へのメッセージで、彼女は「終わりの始まり」を静かに受け容れていることを私は悟った。「終わりの始まり」とは、生きる残り時間が短くなり、死を確かに意識しながら生きていく節目のようなものだ。恐怖の対象であった死が、約束され受け容れるしかない現実となった時、時に人は澄み切った表情となり、心のどこかで満足を感じるのだということを、私は患者を通じて学んだ。
特別な日の微かな予感を、自分の都合で見逃したことも、意図的にやり過ごしたことも今までにあった。「今、自分でちゃんと対応した方が良いな」と分かっていても、医師としての責任感と相手に対する好奇心より、過密スケジュールによる疲労の方が大きいと、ついやり過ごしてしまう。本当に些細な呼び出しから、苦痛を伴いすぐに駆けつけなければならない状況まで様々だ。とにかくその「特別な一日」を丁寧に対応し患者やその家族と過ごすと、その後の時間の流れ方が全く変わる。お互いの心がつながる特別な感覚にいつも心が震える。医者と患者、医者と家族という立場を超えた人間同士の確かなつながりが「特別な一日」には誕生するのだ。
私は、結季さんとの特別な一日に、彼女の中で始まった死を確かに意識した。そしてメッセージを受け取った。

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2014年3月22日 (土)

「このままでは本当にまずい」

結季さんは、60代後半の大腸がん患者だ。独り暮らしのため家では過ごせなくなり、私が勤めるホスピスに入院していた。腹痛が度々あったが、医療用の麻薬を調節することで、痛みなく過ごせるようになっていた。最初は医療用の麻薬を怖がっていた結季さんだったが、納得できるまで説明し副作用にきちんと対処することで徐々に慣れていった。

「先生が言うように、痛みが来そうなときは、早めに薬を飲むと余り強い痛みにはならないので、段々と怖くなくなりました。ほら、こうしてノートに使った薬や、時間を書き留めてあるのよ」几帳面な字と共に、薬を飲んだ状況がきちんと書いてあった。そのノートを毎日確認しながら、「ちゃんと、どんな使い方をしているかよく分かります。お陰で治療がうまくできます」と、私も彼女が自分の毎日を一歩一歩確認しながら前に進む姿を受け止めるようにしていた。

それまで、「どうして私はがんになったのかしら。ずっと病気にならないように、毎日の生活も食事も気をつけてきたのに」とか、「何の罰があったのかしら。何も悪いことはしていないのに」と嘆く日も多く、考え事をするあまり、夜寝付けないときもあった様子だった。「やっぱり、納得がいかないのよ。何でがんで死んでいかなくてはならないの」という究極の問いを私や看護師に投げかけては、こちらを絶句させてしまうこともあった。

そんな結季さんも、医療用の麻薬を使うようになってからは、身体は徐々に弱りつつあるにも関わらず、自分の感じている痛みと薬の反応を記録することに自分の集中力を注いでいる様子だった。まるで、記録が自分にとって残された時間の中でのいちばん大事な作業のように。私も複雑な気持ちではあったが、病気の苦しみや、死の恐怖に24時間、あの狭い部屋で向かい合っているよりは良いのかもしれないと結季さんの記録と作業を見守り続けた。全ての患者が結季さんのように、自分の状態を見張り続けるようなことはしない。彼女は自分の体調、症状を冷静に記録することで、恐怖や不安から逃れようとしているように思えたし、また自分の不安定な身体と将来を自分の手でコントロールしたい、病気を制圧したいと思っているようにもみえた。

ある日の夕方いつものように一日最後の回診に行ったとき、結季さんに最近作った切り絵を見せてもらった。この頃は体調が悪い日も目立つようになり、昼間に眠っていることも増えてきた。好きだった切り絵も、あまり捗っていないようだった。友人の訪問も段々と短時間になっていた。

そこにはまた、「無病息災」と書いてあった。彼女は穏やかな顔つきで私に、「先生、最近ね『無病息災』の本当の意味が分かったような気がするのよ。ただ病気しないで生きていくという意味だと思っていたけど、ここ(ホスピス) で毎日、先生や看護師さんに支えてもらいながら暮らしている間に、『無病息災』の本当の意味が分かったような気がするの」ととても不思議なメッセージを発した。彼女はいつもとはちがう澄み切った顔をしていた。私は、言葉を返すことなく、「無病息災」の意味を心の中で考え続けた。不思議で、でも大切なメッセージだった。

今までずっと医者として、人の生と死の境目を見つめ続けてきた。毎週のように人を看取っていく仕事を10年以上も続けてきた。自分と心がつながり言葉を交わし時間を共有した患者との出会い、そしてわずかな時間でやってくる別れ、その繰り返しだ。人からはよく「そんな仕事はつらくないのか、どうして亡くなりゆく患者ばかり診療するのか」と尋ねられる。もちろん私にも、医者になって最初の6年間、人を救うことに没頭した年月があった。最初の1年半は、脳外科医として多くの怪我や脳卒中の患者を救命することに日夜奮闘した。次の4年半は、内科として数々の検査技術の習得に夢中になり、ありとあらゆる疾患の患者を診療した。医者になって6年が過ぎた頃から、抗いがたい強い力により終末期医療の分野に魅了されることとなった。死の恐怖におののきながらも、それまでの生を全うし、懸命に生きていこうとする、主にがんの患者の側に立とうとしてきた。最初の頃は、医療用の麻薬でがんの痛みがなくなり、患者に深く感謝されることに夢中になった。亡くなる患者とその家族に精一杯尽くすことで、医者としての喜びを感じていた。患者が亡くなり、その瞬間遺族となった方々から、「先生に出会えて幸せでした」と言われると、自分が医者である喜びと充実感に満たされた。普通の医者から「治らない」と敬遠された患者に、自ら手をさしのべる自分の正義感もあった。

しかし、結季さんとのように心が本当につながってしまう患者との別れは、自分の心にも空虚な喪失感が必ず残ってしまう。終末期医療に専念したいと神戸のホスピスで働くようになり、それまでは一人ずつ大切に診療していた終末期の患者を、毎日10人以上、しかも終わることなくずっと診療する環境となった。病室から病室へ回診におもむくと、それぞれの患者のそれぞれの苦悩、それぞれの家族のそれぞれの事情に、圧倒されるようになった。自分の無力感よりも、患者や家族の絶望と追いつけないほど速い状態の変化に、徐々に疲労を感じるようになった。

「このまま、この仕事を続けていけるだろうか」と、家に帰っても仕事の思いを引きずるようになった。「その日、その瞬間、目の前の今」に集中できない自分を自覚するようになった。患者の傍に行き話を聞くことはそれ程苦しいとは思わなかったが、患者に関することで他人から尋ねられることが特につらくなってきた。職場のホスピスでも、一緒に働く看護師や、上司、また内科や外科など別の病棟の医師や看護師から話しかけられるのを避けるようになってきた。「この患者の痛みをもっととる方法を考えて欲しい」「あの患者の家族にきちんと病状を説明して欲しい」「その患者が今後どのような治療方針で臨むのか、主治医の意見がまとまるように助言して欲しい」と周りから話しかけられるのを避けてしまうようになった。診療と仕事、そして患者の苦しみに追われるようになってしまった。

友人や自分の家族には、「何か趣味の時間をとって、気分転換を図ったらどうか」と助言され、趣味のバイオリンを携えて地元のオーケストラに参加するようになった。しかし、その余暇の合間にも度々ホスピスから呼び出される。ポケットに携帯電話を入れたまま、オーケストラの練習に参加し、消音してある携帯電話が震える度に、体中が凍りつくような緊張を感じる状況だった。自宅にいても、家族と眠るベッドの枕もとには携帯電話を置き、呼び出しがあるとすぐに目を覚まし、即座に適確な指示をすることが求められる。徐々に電話の呼び出し音にとても敏感になり、子供たちが観ているテレビの中で呼び出し音が鳴るだけでも、身体が反応するようになった。家中の電話の呼び出し音を消音させた。

「このままでは本当にまずい」

次の日、次の患者に向かって行くにはまた違う心構えが必要だと気がついていたが、自分ではどうしたらよいのか分からなかった。
そんなある日、学会を通じて知り合った別の町のホスピスの先生から、一緒に研究をしないかと誘われた。日本中にホスピスはあり、神戸市内にも4つのホスピスはあったが、日常的な交流はなく日々の思いや迷いを相談できる場所がなかった。この研究のやりとりのために、メーリングリストが開設された。これによって、研究の事だけではなく、日常の診療や自分の心構えといった色んな話題を、日本全国のホスピスの医者と討論する場所ができた。この頃から徐々に全国規模の仕事をするようになり、幾つかの研究をまとめて論文を国内外に投稿するようにもなった。相談と勉強を日常に取り入れるようになってから、自分の力量が向上すると共に、自分の限界も自覚するようになった。自分の限界を超えた現実を診療で目の当たりにしたときには、同じホスピスで働く医者や看護師、そして日本中の同僚、以前の同僚に相談するようになった。

毎日の仕事も、ホスピスの医者と看護師がきちんと時間を決めて集まる場を作り、そのカンファレンスの場で患者の事を話し合うようにした。それぞれが思いついたときに、口々に相談するのではなくきちんと話しあう機会を持つようにした。結果として苦手な電話がかかる回数も減った。そして普段自分が感じている、カルテにも書かないようなことも含めて話し合うようにした。私が患者に接しているときに何を感じているのか、そして何をつらいと感じているのか。自分の役割を明確にし、自分の役割以外の部分や、不得手な部分を他人に任せるようにした。

「目の前の患者に真摯に向き合おう。目の前の患者に対して自分の責任を果たそう」自分の強すぎる責任感に自分がつぶされそうになっていた。自分の医者としての責任感を周囲とシェアし、同僚に相談できるようになってから、徐々に自分を取り戻すことが出来た。

結季さんの診療をしながら常日頃自分の感じていることを話すことで、周囲の看護師は色々なことを教えてくれるようになった。「私が夜の巡回で結季さんと話したときには、『これからつらいことがあるだろうけど、もう天に任せるしかないと思うの』と話していました」「『もうそろそろ私に残された時間も少なくなってきたように思うの』と、涙を浮かべながら話していました」といった、私が普段受け取らない彼女の言葉も掬い取ってくれる仲間がいることに、私は心から安堵した。彼女の苦しみの全てを自分が引き受けるのではないのだと。

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2014年3月15日 (土)

人生のラストレッスン

ある日、ホスピスの受付に「○○というものだ。主治医を呼べ!」と大きな声がした。「何か・・・不手際でもありましたでしょうか・・・」病棟の看護師長が対応した。「だから、早く主治医を呼べ!」と繰り返し怒鳴っていた。ひとまず、面談室に案内し、私が呼び出された。「結季さんのお兄さんが、病状を教えてほしいと来ています。随分激しい口調です。先生気をつけて」と看護師長に耳打ちされた。今の病院はトラブルを極度に恐れている。いや病院に限らず、怒りをあからさまにした人物に対して、うまく対応ができない人が増えた。もちろん私も含めてだ。
結季さんは、聡明な60代後半の大腸がん患者だ。独り暮らしのため家では過ごせなくなり、私が勤めるホスピスに入院していた。
面談室で結季さんのお兄さんに相対すると、不機嫌そうな顔をしながら、「妹をこんな所に閉じ込めてどうするつもりだ。おまえら一体どういう治療をしているんだ。妹はがんだぞ。こんなところでろくな治療もせず、死を待っているだけなのか。どういう病院なんだ。訴えるぞ」
その目には怒りだけではなく、悲しみが宿っているのに、私は気がついた。この方は話せばきっと分かる方だと直観した。私は、話し始めた。「私がまず病状を説明致します」そして、手術の時の様子、その後再発したこと、抗がん剤を使ったが、副作用が強くまた全く効果がなかったことを話した。そして、「私が結季さんに始めて出会ってから、今までにどんな話をしてきたのか」について話した。私と結季さんの間にどういう会話があり、どういうやりとりをしてきたのか話した。一人で暮らしてきた結季さんは、誰にも迷惑をかけずに最期までここにいることを決断したこと、それまでの気持ちの葛藤について話し続けた。
「そうだったのか・・・」最初は不機嫌だったお兄さんも徐々に、怒りの気配が薄れてきた。私には分かった。妹に対する愛情と、そして大変な時期に側にいられなかった罪悪感、過酷な現実に直面して動転していた。怒り以外に自分の気持ちを表現する方法がないこともはっきりと分かった。
医療の現場では、「遠くからの親戚」と言われる出来事だ。それまでに患者、家族と医療者が良好な関係にあっても、その場に居合わせなかった親戚がある日突然現れて、「あの治療法、この治療法」と勧め出す。ひどい時には、その人の身近な経験や、本、インターネットの情報から別の病院に連れて行ってしまう。もちろん、患者、家族も納得して付いていくのなら、私も何も言わずに送り出す。しかし、当惑している状況なら、間に割って入って調停せざるを得ない。特にホスピスは、「何の治療もしないところ」と言われて、遠くからの親戚には滅法評判が悪い。微に入り細に入り、患者との信頼関係を築きながら、穏やかな余生を送っていても、「遠くからの親戚」は全てを破壊してしまう。このような方々の心の底には、患者に対する慈愛や家族に対する労いよりも、それまで自分が関われなかった自責感と、根拠のない全能感が見え隠れする。せいぜい医者としてできることは、自責感を軽くすることと、厳しい現実を伝えて、「自分が患者を救える」という全能感の放棄を促す事ぐらいだ。
結季さんのお兄さんは、しばらく話す内に、徐々にその心が溶けていくのが分かった。結季さんは「誰にも迷惑をかけず、私一人でひっそりと死んでいきたい」と常々話していたが、やはり家族がいればそういうわけにはいかない。「誰にも迷惑をかけずに生きて死んでいく」ことは、美徳であると考えて疑わない。「人に迷惑をかけるな、自分の事は自分でしろ」と幼少の頃から繰り返し言われている世代には特にこの傾向が強い。しかし、自分の命は自分だけのものではないのだ。家族や他の人間との関わりの中で、自分の命は周りの人間にも共有されているのだ。だからこそ、結季さんのお兄さんはこんなに苦悩している。そもそも、「誰にも迷惑をかけずに」という考え自体が傲慢なのだ。自分が弱れば周りの人達に依存しながら生きて行かざるを得ない。そんな依存を嫌えば、一人で生きていけなくなれば、自ら命を放棄するほかない。「家族に迷惑をかけたくない」とホスピスに来る患者の多くは話していた。しかし、迷惑をかけずに生きて、死んでいくことは出来ない。私は、その事をどうにか患者に伝えるよう努力してきた。
結季さんのお兄さんに私は話しかけた。「時々、ここに来て結季さんの側で過ごしませんか。これから色んな事があると思いますが、結季さんの家族として彼女のことを一緒に支えていきませんか、力を貸してくれませんか」と話した。お兄さんは、下を向き涙ぐみながら、「今まで遠くにいて何もできなかったから・・・これからは、もっとあいつの側についてやろうと思います」と答えて下さった。次に病室へ行き、結季さんのお兄さんが来たこと、これからは側にいる時間を増やしたいと話していることを伝えた。最初は、「兄にも自分の家族がいて、あちらの生活もあるから」と遠ざけようとしたが、「お兄さんの気持ちも引き受けてあげて下さい」と伝え部屋を後にした。
その後、お兄さんは週に2-3日昼間の間数時間、結季さんと一緒にいる時間ができるようになった。最初は、「早く帰った方がいい、こんなに何度も来なくてもいい」とお兄さんが度々来るのを疎ましそうにしていた結季さんだったが、その声には本当の拒絶はなかった。むしろ、自分の弱った姿を見せたくないという気持ちの表れのようだった。段々と友人の面会を断るようになった結季さんだったが、お兄さんの面会は決して断らなかった。自分の弱った姿を見せる相手が一人でもいれば、患者は生きていける。そして、患者の命を心から引き受ける愛情をもつ家族がいれば、患者は穏やかに人生の最後を過ごしていける。
彼女と同じく、自分の人生の中で重要な登場人物は、不思議と必ず現れる。天涯孤独と思われていた人でも、ホスピスにいる間にほぼ必ずと言っていいほど誰か大切な人が現れる。血の繋がった家族に限らず、知人であったり時には宿敵のような人物であることもある。突然の登場に本人もびっくりしながらも、自分と誰かのつながりを不快に感じ拒絶する患者はいなかった。
結季さんに限らずどうしてこれ程までに、病気をして弱っていく患者は「誰かの迷惑になりなくない」と考えるのであろうか。またホスピスで医者や看護師に「迷惑をかける」方が、自宅で家族に「迷惑をかける」よりましだと思うのであろうか。「他人に迷惑をかけるな」と幼少の頃から教えられてきた世代にとっては、病気になり誰かの世話になることは、生きていく上でつらい事なのであろうか。自宅療養をしていて、毎日朝から夜まで、同居している家族の手を患わせて申し訳ないという気持ちも理解は出来る。しかし、患者がホスピス、病院に弱った身を寄せても、家族は放って置くことは出来ない。ほとんどの家族は患者を思う静かな愛情から、毎日のように病室に来て、時には狭い椅子や簡易ベッドで夜を明かす。例え、病室を後にして家路についても、絶えず病室の愛する家族が気になり、夜中も呼び出されるのではないかと携帯電話を枕もとに置き、眠りの浅い夜を過ごしている。
「他人に迷惑をかけたくない」という信念を持った患者は、そろって尊厳死を望む。結季さんもそうだった。「先生、もう私が駄目だと言うときには、管だらけにしないで楽に死なして頂戴ね」そんな風に話していた。尊厳死にも色々な考えがあるが、概ね今の医療の中では、がんのような治らない病気がある状態で、もしも呼吸をしなくなったり、心臓の鼓動が止まった時には無理な延命をしないこととされている。具体的には、人工呼吸器や心臓マッサージを始めないという考えだ。
もちろん、ホスピスに入院する前には、本人や家族に人工呼吸器や心臓マッサージを始めないことを予め確認している。私は尊厳死に反対する立場ではない。むしろ支持してきたし、実践してきた。しかし、最近の患者や市民は、「他人に迷惑をかけるくらいなら死んだ方が良い」、「自分が他人の役に立たない状態になれば早く死んでしまいたい」、「病気で不自由な身体で生きていかなくてはならない状況になれば、早く死なして欲しい」という本音が、尊厳死と直結している。「生きる価値がなくなったら、死なせて欲しい」と患者から頼まれることも増えてきた。私は患者と対話するうちに、いつも複雑な気持ちになる。「生きる価値」、「生きていく意味のある命」を峻別することを求められるからだ。医者は、仕事では病人としか付き合えない。患者はどんな病気であれ、様々な身体の不都合と直面する。そんな不都合がある身体に価値があるのか、意味があるのかを問われても答えようがないのだ。生老病死という不可避な課題に、ただ粛々と取り組む患者を応援することしか出来ない。私の役目は、ホスピスで病死を通じて学ぶ患者たちの「ラストレッスン」の環境を整えることだけだ。患者に人間として良い示唆も気の利いた教訓も教えることは出来ない。せいぜい痛みを最小化して、清潔なベッドを用意することで、「ラストレッスン」の学舎を整備することぐらいだ。
ホスピスという所は、過酷な現実と患者が向き合うところだ。決して天国に近い楽園でも、笑顔があふれる希望の病棟でもない。毎日衰える肉体を抱えながら、それでも、もしも未来への希望があるとすればそれは何であろうか。誰でもいい、誰かの愛情が注がれれば患者の心に小さな希望が灯されると私は信じている、いやそう信じたいと心から思う。患者との出会いと別れを何千回と繰り返しながら、ずっと小さな希望の灯を探し続けてきた私は、これからもこうして患者の学舎を準備し、彼らの学びの過程を聞き続けるであろう。

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2014年3月 9日 (日)

がんの痛みはなくなるのか

結季さんは、聡明な60代後半の大腸がん患者だ。独り暮らしのため家では過ごせなくなり、私が勤めるホスピスに入院して暮らしていた。初めての診察から、2ヶ月が経とうとしていた。毎日のように30分近く話し込む診察は、結季さんの人柄もあって私には1日の楽しみになっていた。毎朝挨拶と状態の確認のために診察し、1日の終わり、夕方にもう一度じっくりと話をするために病室へ足を運んでいた。「今日はどんな1日でしたか」、「今日は友人が来てくれました。以前ここで作った切り絵を、仲間のサークルの集まりに持って行ってくれました。自分としても会心の出来でした」静かな病室で自分の趣味に没頭する結季さんの姿は、主治医としても安心できるものだった。その日も最後に結季さんに聞かれた。「もう私時間は残っていないのかな」私はいつものとおり答えた。「まだ生きる力は残っていると思いますよ」

よく患者や家族から、ホスピスではどんな治療をするのかと尋ねられる。「治療をせずに死を待つところでしょ」と言われる。私は、ただ「がんの苦しさを最小限にすることで、あなたの力が最大限になるよう治療します。ここは治療の場であると同時に、がんをもって暮らすための場所です」と答えるようにしていた。「死」「不治の病」「何もしないところ」というネガティブなイメージを持つ言葉をできるだけ避けて、「生」「病気と共存」「生活を支える」というポジティブなイメージの言葉を使うように心がけていた。しかし、生も死もコインの裏と表なのだ。どちらを見せるかによって全く意味が変わってしまう。このように物事は必ず二面性があり、どちらを強調するかはこちらの裁量次第だ。「99%助からない治療」と「1%助かる治療」、「死亡率が40%」と「生存率が60%」は同じなのだ。
嘘で患者を欺きたくない、しかし真実の残酷さ患者を傷つけたくない。だからこそ、このフレーミング効果を駆使しながら、慎重に毎日の対話に努めていた。
「あいたた・・・またお腹の痛みが出てきたわ・・・」結季さんは、話している間に、最近出てきている痛みに顔を歪ませた。私は、痛みのあるお腹を手でさすりつつ、ナースコールを押して看護師を呼び、痛み止めを持ってくるように指示した。結季さんはいつも通り麻薬の粉薬を服用すると、おおよそ30分もすると痛みは弱まっていった。「痛みは時々出てくるけど、ちゃんと薬が効くから大丈夫よ」
先週始めて、飲み薬の麻薬を処方した。度々出てくる腹痛に、結季さんはいつも「これはいつものことなのよ、大丈夫しばらくすれば自然と消えていくのよ。先生少しだけ待って・・・」と、それ以上の治療を拒んでいた。私も緩和ケアの専門医として、「この痛みはちゃんと薬で抑えることが出来ますよ」と話しても、「私、まだ麻薬を使うには早いと思うの。あれは最後に使う薬なんでしょ。今使ってしまっては、将来本当に苦しくなったときに困るじゃないの」
そんな押し問答を毎日繰り返した後に、「もしも不具合があれば他に方法を考えますから、一度麻薬を使ってみましょう。できるだけ痛みを抑えて暮らしていく方が、身体の力も奪われませんから」と説得し、「先生がそこまで言うのなら・・・」とホスピスに来たときと同じように、渋々麻薬の服用が始まった。最初の数日は軽い吐き気があり、「確かに痛みは軽くなったけど、こんなかえって調子が悪くなる薬は、やっぱり嫌だわ」と結季さんは不服そうな顔をしていたが、「しばらくしたら、吐き気もなくなるはずですから」と半ば、私からお願いするような形でどうにか痛みの治療を続けること出来た。
多くの患者、家族が、ホスピスに来る理由として、「将来強い痛みがあった時に心配だから」と話す。まだ痛みがないか、深刻ではない時期から将来の苦痛に備えているのだ。私はいつも「今までにがんの方を看病したことはありますか?」と、患者や家族に尋ねるようにしていた。半分くらいの患者は、「あります」と答える。そしてその時の体験を語ってもらうようにしてきた。「痛みに苦しんでいました」とか、「血を吐いたときにどうしようかと思いました」といった、苦痛の恐怖を語る方や、「最期は苦しそうでした」と死を目撃したときの恐怖を語る方に出会いました。さらには、「先生はとてもよくしてくれたのですが、治療を説明するときにこんな風に言ったのが、嫌だなと思いました」とか、「看護師さんはとても親切にしてくれたのですが、いつも忙しそうでじっくり話すことができませんでした」など、医療者とのやりとりの中で長く時間が経っても「嫌な体験」として残っていることを敢えて語ってもらっていました。
何を恐怖に感じたのか、何が嫌だと感じたのか、聞き届けることでその患者、家族への対応に配慮するようにしてきた。
現実に多くの患者、家族はがんの痛みに恐怖を感じている。10年前に比べると随分とがんの痛みの治療は進歩した。がんの痛みは、麻薬を使うことでかなり抑えることができる。飲み薬、坐薬、注射だけではなく、小さなフィルムを貼るだけで長い時間痛みを抑えることができる薬もできた。しかし、麻薬の取扱には知識とコツ、そして経験を必要とする。折角使える麻薬があっても、麻薬を扱う医師、看護師、薬剤師が使うのを躊躇すれば、結局患者の痛みは放置されてしまう。また麻薬には副作用もあり、痛みを抑えると同時に、眠気、吐き気、便秘といった副作用を上手く治療することが要求される。がんの治療で難しいのは、手術も抗がん剤もそして麻薬も、良い作用と悪い作用どちらも出てしまう、つまり副作用が必ず出てしまう事だ。他の病気の治療なら副作用が出てくることは、許容されない事が多いのに、がんの治療ではなぜか悪い作用を引き受けなくてはならない。
さらに、麻薬は患者からも家族からもホスピスと同じように忌避される。死を連想させるからである。今までに、「私の痛みに麻薬を使って下さい」と患者や家族から頼まれた事は一度もない。麻薬の使用に慣れている私でも、患者に麻薬を使いましょうと最初に話す時、本心は躊躇している。なぜなら、麻薬を使い始める時、患者とは信頼関係が必要だからである。ただでさえ患者が嫌い恐れる麻薬を、「あなたに必要だから使いましょう」と話し、患者が受け容れる素地が必要なのだ。私の肩書や業績では患者は納得しない。さらに、麻薬はいつも上手くいくとは限らず、副作用のため使えなくなったり、思ったより痛みが取れない事もままある。上手くいく事が多いのなら信頼関係は必要ないかもしれない、治療が上手くいかない場面に遭遇し、それでもなお医者と患者が最善を探しながら治療を続けていくには、相当な信頼関係が必要なのだ。
それでも以前より麻薬を使いこなす医者は増え、がんの痛みを放置される患者は少なくなった。10年前には、「今通っている病院では痛みの治療も麻薬を使うことも出来ないから、入院させて欲しい」とホスピスに紹介される、比較的状態の良い患者もたくさんいた。しかし、今は町の開業医でも普通に麻薬を処方するようになり、痛みの治療を目的にホスピスに入院する患者はいなくなった。こんな状況になったのも、各地域で粘り強く麻薬の使用方法を教育し、様々な教本を整備してきた、緩和ケアの先達のお陰だ。私も数年前までは、製薬会社がスポンサーとなった研修で話をする機会が多々あった。ので「がんの痛みを征圧する」「麻薬の使用方法を教育する」ためには、手段を選ばずこのような機会を利用した。
今でもがんの痛みは、専門医が治療しても完全に消し去ることはできないが、結季さんのように一日のほとんどは痛みなく過ごす事ができ、また痛みが出てきても、結季さんのように頓服の麻薬を使うことでわずかな時間の間に痛みを感じなくすることが出来るようになった。がんの痛みを治療する時にはいつも、「ああ、がんは確かにこの患者の身体の中で生きているんだな。そして、がんも大人しく眠っているときと、元気に目を覚まして活動するときがあるんだな」と思ってきた。痛みは、がんが生きている証だ。
がんの痛みはとることはできるのか。確かに麻薬はがんの痛みから患者を救ってくれる。がんの痛みは、患者の体力を消耗させ、気力を奪い、生きていく力、生命力を破壊する。がんの痛みは、がんの生きている証で、何かしら人間の身体にとって深い意味があるのかもしれない。しかし、その余りにも圧倒的に不快な痛みには、到底人生における示唆や教訓があるとは私には思えないのだ。だから、これからも痛みを抱えるがんの患者には、心から声をかけ続けるだろう。「あなたの痛みを少しでも軽くしたい」と。

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2014年3月 1日 (土)

「私はあとどの位、生きられるのですか」後編

私は、結季さんにある日話してみた。「まだ時間は残っていると思います。力も十分おありですし、時には病院からどこかへ出かけてみたらどうでしょうか」と話すと、「時間は残っているというのなら、私があとどれだけ生きられるのか、ちゃんと教えて下さいませんか。先生はもう分かっているのではないのですか」と反対に聞かれた。その目を見ていると、ああ、この方は「あとどれぐらい生きている事ができるのか」を聞いているのではない。「あとどのくらい生きていなくてはならないのか」を聞いているのだと直観した。私は返す言葉を失ってしまった。
今までも、自分の残った時間、余命を尋ねる患者に多く直面してきた。その都度絶句してしまう。患者は自分の余命を怯えるように尋ねてくる。「どうして、残った時間を知りたいのですか」と大抵はまず尋ねるようにしている。患者にも改めて一呼吸おいてもらうためだ。患者自身も余命を聞きたいけど聞きたくない。答えて欲しいけど答えて欲しくない。そんな、心境にあるはずだと思っているからである。そんな風に問いかけると、患者は「やっぱり気になりますから」とか、「いや、やっぱりその話はもういいです」とか色んな返事をする。それでも「ちゃんと教えて下さい」と聞かれたときには、さらに医者として私は当惑する。それは余命を伝える残酷さに躊躇するだけではない。そもそも「医者は患者の余命を言い当てることは出来ないから」である。
一般の人も、患者も家族も、医者は科学的な検査とデータ、さらに経験から、大抵の患者の余命が分かると信じている。しかし、過去の研究で言えることは、ほとんどの患者の余命は言い当てることが出来ないということだ。癌患者に限って言うと、余命が1-2ヶ月未満であれば、客観的な患者の状態といくつかの簡便な検査を組み合わせて、せいぜい70%位の的中率である。科学的な検査、膨大なレントゲン、CTスキャン、MRIは、「今の病気の様子」は教えてくれるが、「これからの余命を含む未来予測」はできないのである。また、医者は診療中の患者の余命を楽観的に、つまり長目に予測する傾向にあることも分かっている。診療している患者は少しでも長く生きていて欲しいと考えるのが医者にとっては当たり前だし、患者が長く生きるために治療をしているのであるから、余命を甘く見積もるのも当然である。
それでも、世の多くの医者は「余命3ヶ月、6ヶ月、1年」と説明している。その根拠は、多くの患者を集計した、統計上の余命を目の前の患者に伝えているのである。目の前の患者が余命3ヶ月である根拠を、恐らく医者は示すことは出来ない。そして、もう一つの根拠は「可用性バイアス」と言われるもので、直近に経験した患者の記憶から話しているに過ぎない。いずれにしろ、医者の頭の中でデータ、経験の複雑な計算から正確な余命をはじき出しているわけではない。
私は、「あとどの位生きられるか」と患者に聞かれたとき、絶句してしまうのは「目の前の患者の余命を本当に分かっていない」からである。何千人も癌患者を診察してきたのにである。1ヶ月未満と1週間未満の余命は、ある程度は分かる。しかし、長くも短くも大きく外れることも未だに度々である。結季さんのように、「私があとどれだけ生きられるのか、ちゃんと教えて下さいませんか。」と聞かれたとき、自分を含む医学の不十分さと、不確実な現実に申し訳ない気持ちにさせられる。そして、正直に「人間の余命を正確に言い当てることは、まだ現実には難しいのです」と答えるのがやっとである。こう答えたとき、患者は目を反らし、自分が余命を聞いたことを後悔したかのように話をやめてしまう。きっと、自分が一大決心をして医者に問いかけたのに、医者は自分をはぐらかしたと思うからだろう。
余命の告知という重要な対話に、絶句してしまう医者と、まともな答えが得られない患者。この平行線をまたぐにはどうしたらよいのか。ホスピスで何度もこの問いに直面した私は、ある時からこう患者に尋ねるようになった。「あなたはあとどれぐらいがんばれますか」患者は毎日体の苦痛に直面し、心の苦悩からも逃げられない。せいぜい私に出来ることは、患者が自身の確かな身体の声に耳を傾けるように仕向けることだけである。患者は、たいてい自分の身体と直観で、自分の余命を分かっていると最近つくづく感じている。いつも患者は自分の身体の声を聞いているが、医者であり他人である私には、患者の身体の声は直には聞こえない。きっと患者はその微かな声を医者である私と対話することによって、現実の声にしたいだけなのだ。
私は決心して、結季さんに言葉を返した。「あとどの位なら頑張れますか?」すると結季さんは、少し考えてからこう、答えた。「あと1ヶ月くらいなら頑張れると思う。でもそれ以上はもう無理かな・・・」その言葉には、脳だけで考えた願望ではないことが、すぐに分かった。やはり結季さんも身体の声を聞いているのだ。私は、「なら、1ヶ月だけ頑張って下さい。あなたが頑張れるところまで生きて下さい」「私もここのスタッフも、これからもずっとあなたのことを支え続けます」そう答えてその日の診察を終えた。

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「私はあとどの位、生きられるのですか」前編

結季さんは、ホスピスに入院する決意をした。少し前に私が覚悟の上で、「あなたにとって今一番必要な治療は、緩和ケアだと僕は確信しています。」と話してから、考えが変わったようだった。私は、緩和ケアを専門にしている医者。そして結季さんは、独り暮らしの60代後半の大腸癌の患者だ。
「先生、ここでは毎日が静かに過ぎていくわ。今までの病室がどれだけ騒々しかったかよく分かるわ。昼間も夜もずっと誰かの声、ナースコールの電子音、私が昼間に眠りたいと思っても他の患者さんの処置で目が覚めるし。」病院という所は、体と心を休めるための場所なのかと思うほど、昼夜を通して空気が攪拌し続けている。最初はどの患者も4人部屋、他の患者がいる病室にいるとかえって安心だと話し、個室ばかりのホスピスをとても淋しい場所と敬遠する。しかし、患者は一度ホスピスの静けさを体験すると、すぐに今までに何が足りなかったのか、そして何が必要だったのかを自ずと悟る。
「たった一人で最初は淋しいかと思っていたけど、他の患者さんに気兼ねなく友達にも来てもらえるし、切り絵も習字も集中して出来るわ。今までは昼も夜も何度も何度も、血圧を測るために看護師さんが来ていたけど、ここの看護師さんは、私が今何を感じているか、何を考えているか聞いてくれるわ」と上機嫌だった。「やはりここで過ごして良かったでしょう。あなたにとっては、どんな治療を受けるかというだけではなく、病院でどんな暮らしをしていくかが大切だったと思うのです」と私も続けた。内心は、新しい環境にすぐに慣れることが出来た結季さんの様子に安堵していた。しかし、安堵の中にも、次の暗雲の影がちらりと見える気がした。
結季さんはホスピスに移ってから3日目の終わりに、「少し退屈してきたわ。一日が長くて」と話し始めていた。「この病室に一日いると、つい色んな事を考えてしまうのよね。一体いつまでこんな風に生きていなくてはならないんだろうって。だって、私の病気は癌よ、治らない病気じゃないの。絶対に治らないって分かっているのに、何を希望に生きていけばいいの?」そんな結季さんに、看護師の一人が「外出や外泊で家に帰ってみたらどう」と話しかけた。結季さんは友達も多く、毎日のように近所の友達や、趣味の仲間が部屋に来ていた。元来、明るく社交的な結季さんは、ホスピスの看護師にもすぐに馴染み、一人一人の名前も覚えていった。いつも書いている日記に、看護師の名前を忘れないように、きちんとメモするそんな方だった。癌の病魔が結季さんを完全に呑み込むには、まだ十分な時間があるようだった。治療はうまくいっていて、体の苦痛も毎日が爽快に過ごすとはいかなくても、痛みのために表情が歪むようなことはなかった。ホスピスに移り最初の数日は、新しい環境の期待と、緊張からかえって活き活きとしていた結季さんだったが、すぐに以前のような病気の苦悩と向き合うこととなった。「ホスピスに来たからって、癌が治るわけではないのよね。看護師さんは、一度家に帰ってみたらって言うけど、帰って何をするっていうのよ」病院からバスで10分の自宅まで行って帰ってくることは、十分出来る状態だった。
私は、色んな癌患者と接してきて、彼らの心理状態というのがある程度分かるようになってきた。結季さんと同じように、どの患者も最初はホスピスに来ることを拒む。「死」を連想するホスピスを忌み嫌う患者がほとんどなのである。しかしまた、結季さんと同じようにどの患者も実際にホスピスへ移ってみると、その環境と何よりも時間の流れ方、医者や看護師の接し方の違いに、「最初は」感激しホスピスへ来て本当に良かったと話す。そして、ホスピスでの生活にも慣れてくると、その感激は完全に消え失せ、ホスピスに来る以前の現実に向き合うことになる。
ホスピスに患者を送りだす病院や病棟のスタッフは、実際にホスピスへ患者が移る事が実行できた時、自分たちの治療、ケアの目標が達せられたと満足する。しかし、当事者である患者は、最初の緊張と喜びが終われば、結局は何も状況が変わっていない自分と直面するのである。
ホスピスや緩和ケアを知る一般の人も、そして医療者も、ホスピスでは患者も家族も満たされた気持ちで、穏やかに平和に暮らしていると思っている。しかし、現実は全く違う。確かに適切な緩和ケアを実行することで、廊下にも響き渡るほどの苦痛な叫びや、夜中の慟哭はない。しかし、それぞれの部屋を順番に回診すると、「自分でトイレに行けないことが、どんなにつらいことか」「残された時間を見つめることが、どんなに過酷なことか」「残される家族を思うとき、どんなに無念か」涙を浮かべながら話す。うれしそうに喜ぶ日ももちろんあるが、悲しみと涙に暮れる日もある。
ホスピスに移るまでは、ホスピスを忌み嫌う。しかしホスピスに来ると、普通の病室に戻りたいと希望する患者はいない。でも、状態が落ち着いているのに外出や外泊、そして退院する患者はほとんどいない。ホスピスを出る話をすると、「家に帰ると不安だから」「家族に迷惑をかけたくないから」「家に帰っても何もすることはないから」と折角の残された時間を有意義に使おうとしない。
昨日と同じ今日。今日と同じ明日。明日と同じ明後日。毎日の色が変わることをとても嫌う。口にする理由は、たまたま話す理由なのであって、本心ではないのかもしれない。新しい事を始めたらという周囲の提案を穏便に断るための口実のようなものなのだろう。そう、多くの患者は「新しい事を始めるパワー」がないのだと最近は思う。一見元気そうに見えても、余剰したパワーはもう残っていない。そして、残された時間を有意義に使うと良いのにと考える医者や看護師は、健康なのだ。健康な人間は高エネルギー状態で、自分のもつパワーを使い切れない。余剰したパワーの使い道に悩む、逆におかしな状態なのだ。
新しい事を始めるパワーのない患者と、新しい事を探し続けている、パワーの余った医療者とでは、当然考えは交わらない。

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