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2013年12月27日 (金)

「とどめを刺して下さってありがとうございました」 鎮静と安楽死は区別できるのか 後編

苦痛緩和を目的とした鎮静、その鎮静を開始する要件と話し合われるべき事柄、そしてリスクの説明をした上での治療でした。睡眠薬であるドルミカムを少量から注射で持続投与しました。注射を始めても正直あまり効いていないなというのが実感でした。奥様は目をつむってはいますが、やはり汗はびっしょりで呼吸も速くそして力がなくなりつつあるのが分かります。息も小さくなってきました。これ以上薬を増やすのは危険だと思い、そのままの状態で見守りました。そして、治療を始めて半日後の翌朝にご主人が見守る中、静かに息をひきとられました。その死に顔は穏やかでした。
そして、幾日かが過ぎました。ホスピスでは、患者さんが亡くなっても残された家族の方々のケアを大切に考えています。奥様が亡くなって1ヶ月が過ぎた頃に、担当していた看護師がお悔やみのハガキを書きました。そのハガキをきっかけに、ご主人がホスピスへやってきました。そして、入院してからの色んな出来事を語り合いました。僕とご主人との間に、過ぎ去った時間を愛おしく思う気持ちが共有され、ご主人は涙を流しながらもどこか満ち足りた気持ちがあることに気が付いていました。そして、言われたのです。
「先生、妻に熱心に治療をしてくれて本当にありがとう。最期は苦しまないようにとどめを刺して下さって、本当にありがとうございました。」その表情には感謝こそあれ、僕を責めるようなものは少しもありませんでした。
医師としてどれだけ説明を行っても、その専門的で操作的な言葉よりも何よりも、このご主人には「楽に死なせてくれた」という気持ちが、最期のシーンと共に心の中にしまわれているのです。そのことを思うと、鎮静というこの究極の治療が、安楽死と確実に区別されることの難しさについて頭を抱えてしまいます。本来は、安楽死と苦痛緩和のための鎮静は、その目的と方法が全く異なります。安楽死は死を目的としますが、苦痛緩和のための鎮静は当然、患者の苦痛が最小になるように行われます。
それでも、「患者さんを楽に死なせてあげたい」とはつゆとも思わず、「この治療はあくまでの治療の緩和を目的としているのであって、死を目的にはしていない」と断言できるのか、自分の心に問いかけても答えが出ません。初めて出会う患者さんではなく、それまで対話を積み重ね、家族の方と後になって語り合えるような思い出を共有しながらもなお、安楽死と苦痛緩和のための鎮静を線引きするには、相当な経験と、そして相互批判できる同僚を必要とします。
「先生、本当に他に方法はないの?」と問いかける看護師、「あの薬は試してみたか」と確認する上司、その存在が不可欠なのです。苦しむ患者に相対して、自分も切羽詰まった気持ちになったとき、一度部屋を離れて冷静になることが必要なのです。そして、家族と話し合い自分の心を冷ましながら、本人と家族の意向を探り、心の中に浮かぶ答えを探していくという高度な対応が要求される臨床現場なのです。患者、家族、同僚と関わる全ての人と対話している内に自分が何をなすべきなのか見えてくるのです。
あれから数年が経ち、ご主人の言葉を反芻し続けています。そして、今在宅医療の現場で、自分が患者に関わるときには同僚が同時に居合わせないという危険な状態を実感しています。自分と患者、そして限られた家族という密室の中で、本当に公正な鎮静を判断できるのだろうか、「苦しいから楽にして」という患者、「もう楽にしてやってくれ」という家族と、結託して安楽死に近い動機で鎮静をしていないかと本心では迷っています。
そして僕は今、二つのことを強く感じています。
一つ目は、亡くなる前に苦しむ患者はいるという事実です。
自宅で過ごす患者は平穏で、ほとんど鎮静が必要な苦痛はないというエキスパートの意見は全く違っていました。自宅でも病院でもホスピスでも同じように、自分の力では平穏に死を迎えられない患者がやはり2割はいるということです。この実感はホスピスで働いていたときと全く変わりません。自宅での鎮静は必要ないと考えているエキスパートは自称エキスパートです。恐らくホスピスや緩和ケアの訓練を受けて、自分の臨床観を検証していない可能性が高いと僕は感じています。苦しんでいる患者も数時間、長くても2日程度過ぎれば亡くなります。「死とはこういうものだ」と説明し、何も行動をおこなさなければ、それはまた平穏な死としてカウントされるということです。また在宅の現場であれば、鎮静を始めるのに様々な道具、薬を準備する必要があります。その手間はやはり医師の心の負担になるには十分すぎます。病院では用意されていて簡単に使えた道具と薬は、在宅では自分が手配し揃える必要があります。また、その道具と薬は、自分が自らスケジュールを調整して、できるだけ早く患者の元に届け、自らの手で始めなくてはなりません。
僕はこの手間を惜しまないし、いつも準備をしています。亡くなる間際になり苦しむ患者にすぐ処置が出来る準備です。
二つ目は、看護師や薬剤師、ヘルパーといった医療や介護の同僚、さらに家族には鎮静をさせないということです。
ホスピスで働いていたときにも、自分は治療の指示をするに過ぎず、実際に注射器に薬を詰めて針を患者に刺すのは看護師です。看護師は医師の指示で鎮静を始めたとしても「自分が患者に加害した」という罪の意識が芽生えるのは当然のことです。この辺り医師は非常に鈍感です。医師はカルテの上や、電子カルテのディスプレイで鎮静剤の量を決めています。どこかバーチャルなのです。僕は開業し在宅で患者の鎮静に関わるようになり、自分で道具と薬を運び、患者の家でアンプルを切り、注射器に吸い、道具を用意し、針を患者に刺すという行為を噛みしめながら、治療するという自分の責任を本当に強く意識するようになりました。注射も道具を確保することは大変手間がかかることです。鎮静剤や麻薬を自分の医院に確保するということは、麻薬免許、金庫、そして仕入れ、コスト計算。全てに手間がかかります。さらには、シリンジポンプは高価なので、使い捨てであってもバッテリータイプであっても、確保するには躊躇する医師も多いかもしれません。また、鎮静を始める度に自分が実際に患者の家に行かなくてはなりません。もちろん雇用した看護師に(私の医院には看護師はいません)処置を預けることもできるかもしれませんが、僕はそうしようと全く思わなくなりました。
このような注射で鎮静する手間を省くために、ダイアップのような坐薬を多用する医師もいます。処方した坐薬は家族や訪問看護師が患者の肛門に入れることになります。医師は滅多に自分の手で坐薬を入れることはないでしょう。鎮静に坐薬を使うことが時にはいかに危険であるかを意識するようになりました。坐薬は一度投与すると中止できません。注射は針を外せばそれ以上薬が入ることはありません。しかし、「あ!効き過ぎている。大変だ!」と思っても坐薬は一切中止ができません。もちろん、亡くなる直前の状況で鎮静は行われますから、鎮静を始めてからすぐに亡くなることもあるでしょう。しかし、どれだけ検証しても亡くなる時が来たのか、薬が効きすぎたのか完全に検証することは出来ません。
坐薬を使用し鎮静を実施した看護師や家族の体験はどうでしょう。「あの時に薬を使った自分のこの手で入れた薬が、患者、大切な家族の死を招いてしまった」と悔やんでいる看護師や家族を僕は知っています。どれだけ、「いや、あれは薬のせいではない」「必要な治療だった」「きっと患者は楽になり救われたはずだ」と医師が話しても、自分の手を汚してしまったような嫌な感触は、恐らく時間と共に消えることなく、むしろつらい体験として心に残るのではないでしょうか。
この鎮静を巡る問題については、僕はずっと深く考えています。
それはあのご主人の言葉を借りれば、「自分の同僚や、家族に患者のとどめを刺させてはいけない」という事です。患者の死が避けられないとき、医師が全力をかけて対応すべきは、患者の苦痛が最小限になることとそして、残される家族が患者の死後悲しみから立ち上がり生きていく事を応援することです。平穏に亡くなることができない患者には手間を惜しまず救い出し、残される家族にはつらい体験をさせず、大切な同僚を守ること、その誓いを僕はあのご主人から教えられました。
やはり僕はあの時あの患者のとどめを刺したのかもしれません。しかし、それは誰も検証できずまた誰も責めません。それでもこうして今でも僕の心に動揺を残し続けています。僕はこの動揺を静めることなくこれからも終末期医療の現場に立ち続けようと思っています。

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