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2013年12月

2013年12月31日 (火)

2013年十大ニュース

今年も残すところあと数時間。恒例なので、今年の僕のニュースをまとめておこうと思います。これまた恒例なのですが、長男の机を借りて書いています。
1. 子供たちの成長についていくのが大変
長男は中学2年、体のことを心配していましたが何のことはない、明るく水泳部で暑い夏を泳ぎ切りました。学校の仲間もよいのか、楽しそうに遊んでいます。しかし、僕の頃とは遊び方が変わりました。各自の自宅でネットゲームを立ち上げて、通信しながらゲームをしています。時代は変わりました。僕が彼の年の頃は、パソコン(当時はNEC PC-8801) を持っている友人の家に集まり、ブラックオニキスというダンジョン型のロールプレイングゲームで楽しんでいました。友人とコミュニケートしながらゲームという事で、結局今も昔も変わらないのかもしれません。
次男は小学6年、今年は中学受験です。一昨年長男の時も本当に大変でしたが、彼もさらに大変です。なかなか集中力が続かないのか気を取られやすく親も必死です。あと20日もすれば全てが終わります。この大晦日もテレビをみせずです。ゲームもかれこれ1年位我慢させてます。しかし、この「やらなきゃならないときに、自分の気持ちを抑える」訓練はとても重要です。僕も振り返ると、受験勉強の内容はとてもばかばかしいのですが、自分の心を調節する訓練、瞬時に切り替えて遊びと勉強を両立するための訓練は今でも役に立っています。家族にもとても大きな負荷のかかる受験ですが、解放感も格別です。あと少し、親子でがんばろうと思います。
三男は年長。これまたすくすくと腕白に育ちました。幼稚園ではとても先生に誉められる優等生で友達も多いようです。来年小学校に入学するのですが、早いものです。三男はいつも甘やかせてしまいますが、一番家族の様子を見ています。
妻はこんな僕ら4人の男を、太陽のような笑顔で支えてくれました。ここに感謝を記します。ありがとう。
そんなこんなで、次男の受験に必死な我が家は、今年は年賀状を欠礼することにしました。本当にすみません。
2. 仕事の仲間が増えた
在宅医療を展開するにはチームの力が不可欠です。4月から看護師のTさんが加わりました、7月からはYさんも加わりました。また、昨年8月の開業からずっと一緒にがんばってくれる若いMさんも知らないうちに風格がオーラのように漂い、鍼灸師の資格を取得したTさんも大活躍しています。看護師の方々は患者さん、家族への愛が看護の下支えになっています。「人が好き」ということが体中からあふれている、世界に誇れる看護師の方々と自負しています。開業するときに考えていたのですが、医師である僕は看護師を束ねることはできないと痛感していました。お金で束ねることはできるかもしれませんが、信念で束ねることが出来ません。看護師を精神的も束ねることが出来るのは、看護師だけと確信しています。その看護師を束ねていたのは、家族と仕事とそして認定看護師の取得を全て成し遂げた原田さんでした。認定看護師はとても取得が大変で、多くの時間と労力を必要とします。成し遂げたこと心から尊敬しています。盟友の原田さんがいるからこそ、僕も開業して自分の活動が出来てきます。感謝しています。ありがとう。
しかし、6月には開業以降力になってくれた薬剤師のMさん、Hさんがオトナの事情で職場を退職、これからどうなるのかと夏には暗澹たる気持ちでした。しかし、あっと言う間に新たな薬局で責任者となり、10月からは再合流しました。考えればわずか4ヶ月のブランクでした。最初からこうなることが分かっていたのかと思うほどの復活劇でした。
そして、10月からは、近くに開業しているK先生が在宅のチームに加わりました。今のチームには医師は僕だけだったので、大変心強く思っています。よく患者さんや家族から、「どうやって先生は休むのですか?」と聞かれます。良い仲間がいるとお互い任せ合えるのです。だから、1年に1度は必ず長い休暇を取ってリフレッシュするようにしています。来年2月に旅をします。
また平成26年も皆さんよろしくお願いします。
3. 「わたしの研究会」を始めた
かねてより、医療者自身が自分語りをする研究会をしたいと思っていました。患者や家族にとって何が最適か、どんな治療やケアが最善かを探るのではなく、「今患者と相対している自分は何を思考しているのか」を共有することは出来ないかと考えました。そして、どんな思考をしているのかをうまく話し合えるような仕掛けを作る方法を模索していました。
結局今風な、他職種のグループワークを始めたのですが、内容は「自分語り」です。主に精神疾患を抱える患者が、自分自身の問題を当事者として語り合う当事者研究に大きな影響を受けました。
普段カンファレンスで顔を合わせるあの人が、こんな事を普段考えているのかと驚きが続きます。予想外の名言が飛び出すなど、とてもユニークな試みになっていることを主催者として喜んでいます。既に、研究会は生き物のように自分の意思を持ち成長し始めています。
既に2回終わりました。20-30人程度の小さな研究会ですが、これからも続けて行こうと思います。
4. 医院での新たなチャレンジを企画した
在宅医療、緩和ケア、看取りが自分の最も活かされる現場であろうと開業以降続けてきました。今年も60人(うち、在宅での看取り48人)の看取りに立ち会ってきました。つくづく思うのは、介護、看病は人に新たな風景を見せてくれると言うことです。此岸に残される僕を含めた在宅のチームと遺族の方々と新たな関係ができないかと考え、看護師のHさんの発案で12月23日に遺族を集め、キャンドルの光の中、バイオリンとピアノの演奏会を開きました。その一部はこれです。(ひこうき雲)
そして、神戸市医師会の在宅医療懇談会でも、また医師から相談を受けるほとんどは、在宅医療の点数がよく分からないということでした。医院の事務のMさんと企画し来年以降、診療報酬の考え方をレクチャーするWebページが作れないかとアイデアを出し合っています。さらに、医院の3人だけの忘年会で、(ちなみに当院は医師1人、事務員2人の小さな小さな職場です)Mさんがもっと人生の終末期を相談できる場所を作ろうというアイデアから、新しい外来を作ろうとしています。来年にはその形が出来上がると思います。うまくいくとよいですね。今年も色んなアイデアがでました。
ちなみに院長である僕の方針で、僕も職員も労働の総時間数の10%は、自分の好きな事に使って欲しいと要望しています。Googleが取り入れている自由な仕事をする時間のルールです。仕事のような仕事でないようなそんな仕事の時間はステキですよね。実は僕もその時間を他のクリニックの仕事に充てています。
5. ホスピスカーを導入した
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ある夏の日、自宅で苦しむ患者さんの家に少しでも早く向かおうと車を走らせていたところ、阪神高速のインター近くの下り坂でスピード違反で捕まりました。白衣姿で集団大サイン会に加わる自分を哀れに思い、やはり本当に必要なときには、早く駆けつけられるようにと、仕事用の車を緊急自動車にしようと思い立ったのです。
医院の事務のSさんは、以前自動車の仕事をしていたので、お任せしました。何度か警察で事情を説明し、そして以前お付き合いのあった自動車工場を見つけてくれました。8月に思い立ち12月24日に、兵庫県最初の緊急自動車いわゆるホスピスカーに認定されました。覆面パトカーのように、マグネットで屋根にひっつく赤色灯をつけ、救急車と同じサイレンを鳴らして走るのです。まだ一度も実働はありませんが、赤信号に突っ込む勇気もなくもしかしたら、いつまでも使わずにそのままかもしれません。Sさんのお陰で大きな到達が出来ました。ありがとうございました。また、SさんはMSW(医療ソーシャルワーカー)の通信講座も始めています。すごい方です。
6. 本の執筆をはじめた
以前、とある出版社から「単著で本を出してみませんか」というお話を頂きました。それまでは複数の人達で緩和ケアの本を作った経験は何度かありました。しかし、そのような本は一人で書くものではなく20-30人くらいの医師、看護師に内容を依頼し、その内容を編集者として僕を含む数人の医師で考えると言ったやり方でした。かねてより一人で全てを書く単著に挑戦したいと思っていたのですが、やはり一人で書けるものではないんですね。
良い編集者と協力者が伴走してくれることで本は出来上がるのです。そして仕事を通じて知り合った別の出版社のYさんと、以前から僕のブログや依頼原稿の校正の全てをになっている事務のMさんの伴走で、どうにか年内で内容を脱稿出来ました。これから本としてまとめていく作業があります。どうにか来年の6月までには本として出版できたらと思っています。
自分の中にある全てを書き記すことが出来ました。これ以上は今の僕にはどこを叩いても言葉は出てこないという程に書き続けてきました。種は植えたので、どうにか成長するよう祈るばかりです。編集のYさんと、校正のMさんにはまだ苦労をかけそうです。
7. 新たな研究をはじめた
以前から仲良くさせてもらっている、医師の佐藤先生と研究をはじめました。今の職場になって最初の研究です。やはり臨床研究は開業医では難しいので得意としている遺族調査をしようとアンケートを夏から作成しました。
経験的に癌患者の方々は、十分な食事の指導を受けていないのではないかというのが臨床疑問です。来年1月以降発送作業をしたいと準備をしています。どんな結果になるのか楽しみです。また佐藤先生とは今年も、神戸女学院大学で夏休みに医療コミュニケーションの講座で講師をしました。毎年学生の熱心さに感心します。来年もまた工夫を凝らして臨もうと思います。
また、神戸市医師会で今年一年間在宅医療懇談会という会に毎月参加しました。そこでも神戸市全ての医療機関を対象にアンケートを実施しました。この内容も自分で論文にまとめて投稿しています。来年には発表されると思います。どの先生方もかなり苦労をしながらそれでも自分の患者のために往診をしていることがよく分かりました。
8. 今までの研究を全て論文にした
社会保険神戸中央病院時代の最後の遺族調査を論文として書き上げて投稿しました。2年ほど心の余裕のなさを自分の言い訳にして、塩漬けにしていましたがやはり、成仏させなくてはと思い立ち、6月に学会発表し、8月に書き上げました。丁度本の執筆をしているときだったので、ホントやろうと思えば色んな事出来るなとつくづく自分でもパワーの源はどこに?という感じでした。
どうにか書き上げて、拙い英語も業者に直させて、投稿をはじめたのが10月、今までにいくつものジャーナルに落とされ12月現在、緩和ケア系のジャーナルに投稿中です。2010年に、ビギナーズラックで腫瘍系の世界的なジャーナルに論文が通りいい気になっていたので、どうしても高望みしてしまいました。やはり論文は読者のもの、一番関心が持たれるジャーナルに掲載されるのが常です。
それでも、研究テーマが世界的に共有されればちゃんと一流誌でも掲載される可能性はあります。自分の目の前にもきっと世界に繋がる悩みがあるはずです。これからも探し続けようと思います。
9. 大過なく一年が過ぎた
昨年は厄年、首が痛くなり動けないほどとなりましたが、接骨院の三宅先生のお陰で随分と良くなりました。今年も引き続き心身の状態を保つ主治医として、本当に一年支えて頂きました。ありがとうございました。高校以来もしかしたら始めてかもしれません、まっすぐの立ち姿勢になりました。いつも左肩が下がっていると人に言われ自分でも直せず諦めていました。これが僕だと開き直っていたのですが、最近鏡を見ると真っ直ぐに立てているではないですか!そして、以前よりも体の軸が良くなったのか、バイオリンを弾くのがとても楽になりました。無理をしなくても音が出るというか、思った音がきちんと出てくる感触がとても心地よいです。
12月の最後の治療のあと、三宅先生からは卒業と言われました。一旦治療は終わりました。ずっと続くものだとばかり思っていました。何だか治ってしまいとても残念なおかしな気分です。本当に不思議な治療です。自分の中から、何かがシューシューと音を立てて蒸発していくような感触があります。今年も一年お世話になりました。またバイオリンを弾いていれば、首か肩が痛くなるはずです。
また、家族も両親も大病なく無病息災過ごすことができました。神にも仏にも、犬にも猫にも感謝しています。
10. 自分の目指す方向が分からなくなってきた
今までは、緩和ケア、医師-患者関係、コミュニケーションを自分の中で模索し新たに開発することをライフワークと考えてやってきました。しかし、段々と自分の目指す方向が分からなくなってきました。それがなぜかと考えてみると、いつも何か対象があってその対象の欠点を探し、自分の価値を高めていると気がついたからです。例えば、緩和ケアが実践されない病院で、痛みを放置された患者に、適切に緩和ケアを提供し患者の痛みを治療する。そして患者の生活を取り戻す。さらに、どうしてその病院で緩和ケアが実践できないかを考えて、その病院で緩和ケアが実践できる仕組みを考える。こういう活動をずっとやってきたのです。
何か欠損した所を見つけ出し、その欠損を埋める。そこには、実は新たな概念の開発はなくまるで布教活動のようなものなのです。自分の言葉ではなく、自分が惚れ込んだ教義の言葉を広めるために自分の身を差し出しているのです。しかし、緩和ケア、医師-患者関係、コミュニケーションも宗教や信仰の対象ではありません。当然、壁にぶつかりアイデンティティを再構築する必要が出てくるのです。今年はその第一歩目でした。新たな道の尻尾くらいはつかめた気がします。まだ言葉にはなりそうにないのですが、まずは自分の捕まえた旧い言葉はまとめなくてはと思い、本の執筆に取り組んだのです。また来年以降模索しなくてはなりません。
今年もお付き合い頂きありがとうございました。皆さんにとって来年が良い年になりますように。

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2013年12月27日 (金)

「とどめを刺して下さってありがとうございました」 鎮静と安楽死は区別できるのか 後編

苦痛緩和を目的とした鎮静、その鎮静を開始する要件と話し合われるべき事柄、そしてリスクの説明をした上での治療でした。睡眠薬であるドルミカムを少量から注射で持続投与しました。注射を始めても正直あまり効いていないなというのが実感でした。奥様は目をつむってはいますが、やはり汗はびっしょりで呼吸も速くそして力がなくなりつつあるのが分かります。息も小さくなってきました。これ以上薬を増やすのは危険だと思い、そのままの状態で見守りました。そして、治療を始めて半日後の翌朝にご主人が見守る中、静かに息をひきとられました。その死に顔は穏やかでした。
そして、幾日かが過ぎました。ホスピスでは、患者さんが亡くなっても残された家族の方々のケアを大切に考えています。奥様が亡くなって1ヶ月が過ぎた頃に、担当していた看護師がお悔やみのハガキを書きました。そのハガキをきっかけに、ご主人がホスピスへやってきました。そして、入院してからの色んな出来事を語り合いました。僕とご主人との間に、過ぎ去った時間を愛おしく思う気持ちが共有され、ご主人は涙を流しながらもどこか満ち足りた気持ちがあることに気が付いていました。そして、言われたのです。
「先生、妻に熱心に治療をしてくれて本当にありがとう。最期は苦しまないようにとどめを刺して下さって、本当にありがとうございました。」その表情には感謝こそあれ、僕を責めるようなものは少しもありませんでした。
医師としてどれだけ説明を行っても、その専門的で操作的な言葉よりも何よりも、このご主人には「楽に死なせてくれた」という気持ちが、最期のシーンと共に心の中にしまわれているのです。そのことを思うと、鎮静というこの究極の治療が、安楽死と確実に区別されることの難しさについて頭を抱えてしまいます。本来は、安楽死と苦痛緩和のための鎮静は、その目的と方法が全く異なります。安楽死は死を目的としますが、苦痛緩和のための鎮静は当然、患者の苦痛が最小になるように行われます。
それでも、「患者さんを楽に死なせてあげたい」とはつゆとも思わず、「この治療はあくまでの治療の緩和を目的としているのであって、死を目的にはしていない」と断言できるのか、自分の心に問いかけても答えが出ません。初めて出会う患者さんではなく、それまで対話を積み重ね、家族の方と後になって語り合えるような思い出を共有しながらもなお、安楽死と苦痛緩和のための鎮静を線引きするには、相当な経験と、そして相互批判できる同僚を必要とします。
「先生、本当に他に方法はないの?」と問いかける看護師、「あの薬は試してみたか」と確認する上司、その存在が不可欠なのです。苦しむ患者に相対して、自分も切羽詰まった気持ちになったとき、一度部屋を離れて冷静になることが必要なのです。そして、家族と話し合い自分の心を冷ましながら、本人と家族の意向を探り、心の中に浮かぶ答えを探していくという高度な対応が要求される臨床現場なのです。患者、家族、同僚と関わる全ての人と対話している内に自分が何をなすべきなのか見えてくるのです。
あれから数年が経ち、ご主人の言葉を反芻し続けています。そして、今在宅医療の現場で、自分が患者に関わるときには同僚が同時に居合わせないという危険な状態を実感しています。自分と患者、そして限られた家族という密室の中で、本当に公正な鎮静を判断できるのだろうか、「苦しいから楽にして」という患者、「もう楽にしてやってくれ」という家族と、結託して安楽死に近い動機で鎮静をしていないかと本心では迷っています。
そして僕は今、二つのことを強く感じています。
一つ目は、亡くなる前に苦しむ患者はいるという事実です。
自宅で過ごす患者は平穏で、ほとんど鎮静が必要な苦痛はないというエキスパートの意見は全く違っていました。自宅でも病院でもホスピスでも同じように、自分の力では平穏に死を迎えられない患者がやはり2割はいるということです。この実感はホスピスで働いていたときと全く変わりません。自宅での鎮静は必要ないと考えているエキスパートは自称エキスパートです。恐らくホスピスや緩和ケアの訓練を受けて、自分の臨床観を検証していない可能性が高いと僕は感じています。苦しんでいる患者も数時間、長くても2日程度過ぎれば亡くなります。「死とはこういうものだ」と説明し、何も行動をおこなさなければ、それはまた平穏な死としてカウントされるということです。また在宅の現場であれば、鎮静を始めるのに様々な道具、薬を準備する必要があります。その手間はやはり医師の心の負担になるには十分すぎます。病院では用意されていて簡単に使えた道具と薬は、在宅では自分が手配し揃える必要があります。また、その道具と薬は、自分が自らスケジュールを調整して、できるだけ早く患者の元に届け、自らの手で始めなくてはなりません。
僕はこの手間を惜しまないし、いつも準備をしています。亡くなる間際になり苦しむ患者にすぐ処置が出来る準備です。
二つ目は、看護師や薬剤師、ヘルパーといった医療や介護の同僚、さらに家族には鎮静をさせないということです。
ホスピスで働いていたときにも、自分は治療の指示をするに過ぎず、実際に注射器に薬を詰めて針を患者に刺すのは看護師です。看護師は医師の指示で鎮静を始めたとしても「自分が患者に加害した」という罪の意識が芽生えるのは当然のことです。この辺り医師は非常に鈍感です。医師はカルテの上や、電子カルテのディスプレイで鎮静剤の量を決めています。どこかバーチャルなのです。僕は開業し在宅で患者の鎮静に関わるようになり、自分で道具と薬を運び、患者の家でアンプルを切り、注射器に吸い、道具を用意し、針を患者に刺すという行為を噛みしめながら、治療するという自分の責任を本当に強く意識するようになりました。注射も道具を確保することは大変手間がかかることです。鎮静剤や麻薬を自分の医院に確保するということは、麻薬免許、金庫、そして仕入れ、コスト計算。全てに手間がかかります。さらには、シリンジポンプは高価なので、使い捨てであってもバッテリータイプであっても、確保するには躊躇する医師も多いかもしれません。また、鎮静を始める度に自分が実際に患者の家に行かなくてはなりません。もちろん雇用した看護師に(私の医院には看護師はいません)処置を預けることもできるかもしれませんが、僕はそうしようと全く思わなくなりました。
このような注射で鎮静する手間を省くために、ダイアップのような坐薬を多用する医師もいます。処方した坐薬は家族や訪問看護師が患者の肛門に入れることになります。医師は滅多に自分の手で坐薬を入れることはないでしょう。鎮静に坐薬を使うことが時にはいかに危険であるかを意識するようになりました。坐薬は一度投与すると中止できません。注射は針を外せばそれ以上薬が入ることはありません。しかし、「あ!効き過ぎている。大変だ!」と思っても坐薬は一切中止ができません。もちろん、亡くなる直前の状況で鎮静は行われますから、鎮静を始めてからすぐに亡くなることもあるでしょう。しかし、どれだけ検証しても亡くなる時が来たのか、薬が効きすぎたのか完全に検証することは出来ません。
坐薬を使用し鎮静を実施した看護師や家族の体験はどうでしょう。「あの時に薬を使った自分のこの手で入れた薬が、患者、大切な家族の死を招いてしまった」と悔やんでいる看護師や家族を僕は知っています。どれだけ、「いや、あれは薬のせいではない」「必要な治療だった」「きっと患者は楽になり救われたはずだ」と医師が話しても、自分の手を汚してしまったような嫌な感触は、恐らく時間と共に消えることなく、むしろつらい体験として心に残るのではないでしょうか。
この鎮静を巡る問題については、僕はずっと深く考えています。
それはあのご主人の言葉を借りれば、「自分の同僚や、家族に患者のとどめを刺させてはいけない」という事です。患者の死が避けられないとき、医師が全力をかけて対応すべきは、患者の苦痛が最小限になることとそして、残される家族が患者の死後悲しみから立ち上がり生きていく事を応援することです。平穏に亡くなることができない患者には手間を惜しまず救い出し、残される家族にはつらい体験をさせず、大切な同僚を守ること、その誓いを僕はあのご主人から教えられました。
やはり僕はあの時あの患者のとどめを刺したのかもしれません。しかし、それは誰も検証できずまた誰も責めません。それでもこうして今でも僕の心に動揺を残し続けています。僕はこの動揺を静めることなくこれからも終末期医療の現場に立ち続けようと思っています。

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「とどめを刺して下さってありがとうございました」 鎮静と安楽死は区別できるのか 前編

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(紹介する症例は、実在する患者、家族とは異なります。)
今から数年前、僕がまだホスピスで働いていたとき、あるご遺族から言われた言葉が今でもずっと心に刺さっています。「先生、妻に最期のとどめを刺して下さってありがとうございました。」奥様を亡くされたご主人は満面の笑みで僕にそう話しました。そのご主人とは入院中にとても悩みながら毎日を一緒に過ごしたので、たとえ患者である奥様が亡くなられても、僕とご主人の間には、なにかしら温かいものが残っていました。決してご主人も責めるような気持ちはありません。本当に感謝を伝えられたのだと思いました。
その患者さんは、末期の癌と診断され家で過ごしていましたが、ある日トイレへ移動する途中で転んでしまいました。高齢のご夫婦が二人で力を振り絞りながら、毎日を過ごしていましたが、ついに家での生活をあきらめて、かねてより申し込んでいた緩和ケア病棟に入院する決意をしたのです。私の10年間のホスピスでの経験から、患者、家族が入院を決意するときというのは、トイレへの移動に失敗したときや、家の中で転び怪我をしたときです。
一般の人達は、痛みがひどくなったらホスピスに入院すると考えているのかもしれませんが、今は外来でも痛みの治療ができるようになり、そのような患者は年々減ってきました。働き始めた平成14年頃は、まだ一般の医師に、がんの痛みを緩和するための麻薬の使い方の知識が十分になかったため、「痛みの治療が今の病院では受けられない、入院させて欲しい」とホスピスにいらっしゃる人も多くいました。しかし、フェンタニルパッチ(麻薬の貼り薬)が日本でも使用可能となった頃から、ほとんどそのような患者はいなくなりました。また緩和ケアの講習、研修会も数多く行われ、「麻薬をひとつ使ってみるか」という医者が増えたこともあります。
また、一般の人達が想像するような「私は生を充実させるため、安らかな死を迎えるためにホスピスでの生活を決意しました」と自分からホスピスにいらっしゃる方もほとんどいませんでした。多くの人達は、トイレへ行くという当たり前のことが急に出来なくなるという体験から心に強いショックを感じて入院を決意します。そのような患者さんはいつも同じ言い方をしていました。
「これ以上家族に迷惑をかけられません」
その奥様も同じように、「夫にはこれ以上迷惑をかけられません。自分でトイレにも行けないなんて」と悲しそうな顔をしながら入院されました。そして、急速に肺癌が悪化し全く動けない状態となりました。ついに部屋の中にあるトイレに行けなくなりました。それでも、1日の全ての力を使い切ってでもトイレで用を足そうとされていました。懸命に、懸命にわずか5歩のトイレまでの道程を自分の力で一歩一歩。時にご主人や、看護師が手を貸しながらこの大仕事を毎日続けていました。これも私の経験からはっきり言えることですが、過ごす場所がホスピスであっても自宅であっても、男でも女でも、若くても老いていても、人は衰弱してもなおトイレへ行こうと一生懸命力を振り絞ります。人間の尊厳の根本はトイレで用を足すことなんだ、そう確信しています。尿道に管を通して尿を回収したり、オムツをすればトイレへ行く用事はなくなります。でも、患者さんは大抵その処置を嫌がります。オムツだけはやめてと何度も言われました。しかし、トイレへ移動することを介助すること、排泄の介護が看病するものにとって一番、体と心に負担となります。ホスピスの役割の多くはこの排泄に関わる介護の負担を軽減することなのではないか、そんな風に僕は考えています。
入院し週も変わり徐々に状態は悪化していきました。そしてある日、突然息苦しいということで、病室に緊急に呼ばれました。真っ直ぐに横になることも出来ず、汗びっしょりになりベッドに備え付けられたテーブルに突っ伏しています。話すのもやっとです。酸素を使い、一時的に呼吸が楽になるよう、モルヒネわずかな量で注射しました。しかし、全く効果はありません。「楽にして、もうこれ以上無理」と奥様も苦しそうです。奥様の背中をさする看護師にそっと目配せし、ご主人を病室の外にお呼びして話しました。
「出来る限りの処置をしてみますが、うまく苦しさをとってあげられないかもしれません。その時にはまた一緒にどうするか考えましょう」
それから色々な薬を試してみましたが、やはり全く効果はなく汗びっしょりのまま話す力すらなくなってきました。再びご主人を部屋の外にお呼びし話をしました。
「普通に治療しても苦しさがとれないようです。少ない量から睡眠薬を注射して、苦しさを感じないようにすることはできます。しかし、容態が悪いのでわずかな時間の間に亡くなるかもしれません」
「苦しさをとるための治療です。薬で、亡くなることを手伝うのではありません。慎重に投与します」
ご主人は迷うことなく、「今までよく頑張ってきました。先生、もう楽にしてやってくれ」私は原則に則り「いえいえ、亡くなるために薬を使うのではないのです。呼吸困難を楽にするためです」ご主人は意味が分かりかねるのか、「とにかく、こんなに苦しそうな状態を見続けることはできない。どんな方法でもよいから、楽に過ごせるようにしてやってほしい」とおっしゃいました。

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2013年12月26日 (木)

「患者との対話」は教えられるか。生兵法は大怪我のもと。

20131226_155302_2 私は2007年に初めて本を出版しました 。当時勤務していたホスピスの仲間と一冊の本を仕上げることが出来たのです。当時の私は、それまで苦しんでいた患者との対話に一つの光明を見出したような気になっていました。癌を告知すること、予後が限られていることを話すこと、いわゆる「悪い知らせを伝える」ということに関して一つの体系を手に入れて、今から思うといい気になっていたようです。SPIKESというコミュニケーション技法がありますが、これは、場を設定し、患者の意向を尋ね、そして話を始めることを確認する。そして悪い知らせ、医療情報を伝え、患者の感情に呼応する。最後に今後の計画を伝える。そうか!まず患者に何を知りたいのか、どこまで知りたいかを尋ねることで、自分の話すことや話し方を決めれば良いんだ、「これでいける!」と悟ったような気になりました。「占い師も霊能者も聞かれたことに答えるのであって、見えていること全てを語ることはない。結婚運を聞かれているのに、寿命を答えることはない」とそんな風に思ったのです。さらにこの方法を研修医に教えることで、きっと彼らは自分が苦しんできた道に迷うことなく、医師として発展していけると思ってしまいました。

私は、ホスピスに1ヶ月研修に来る医師と一緒に、SPIKESの技法のDVDを見て、勉強し、何度かシミュレーションし、この技法を用いて患者と対話し、また討論する。そういうことを日数をかけて準備しました。

さて、その研修医は、癌を知らされていないが黄疸があり病状をとても不審に思っている、ある高齢の女性に相対することになりました。家族との話し合いの中で、本人には何があっても癌であることを伝えないで欲しいということになっていました。そこで、まだ入院して日が浅いので、これから医師と患者の関係を構築する中で対応を探っていこうと話し合っていました。

女性は、研修医に「先生、何か私の病気について聞いているか」と尋ねました。研修医は私が教えたように実直にしかも正確に「あなたは、この病気についてどう思っていますか」と尋ねました。そしてさらに、「あなたは、この病気についてどの位知りたいと思っていますか。悪い話も全て聞きたいと思っていますか」と尋ねたのです。SPIKESの技法に沿って考えれば全く問題のない対話です。しかし結果は最悪でした。

女性は、「私に何か隠しているんでしょ!どういうことなの!」と激怒し、研修医はその場にいられなくなり、看護師の導きで一旦退室しました。女性はと言うと、主治医である私の上司が時間をかけて対応することで、やっと気持ちを鎮めることが出来ました。結局その女性には、最後まで癌であるという事実は伝えませんでした。しかし、ホスピスの医師、看護師とはぎくしゃくとした状態が続くことになりました。

この出来事で感じたのは、SPIKESにしても他の何かにしても、コミュニケーションの技法を使う時は、その前提、基礎として医師、患者間の信頼関係が必要であるということでした。責任を持った対応が出来る医師にのみ、悪い知らせを伝えることができるということです。治療だけでなく患者の行く末を引き受けるという医師の覚悟を感じた時にだけ、患者は心の窓を開き信頼します。その心の窓が開かれていない状態で、コミュニケーションの技法だけをあてはめても、患者はかえって苦しむことになるのです。まさに、「生兵法は大怪我のもと」です。その出来事以降、どうやって若い研修医に患者とのコミュニケーション法を伝えたら良いのかと私も迷うようになりました。

しばらく時間が経って最近、一つの論文がJAMAに掲載 されました1)。この論文を読んで、この出来事を振り返りました。 この研究ではコミュニケーションのトレーニングを受けた卒後1年くらいの若い内科医、ナースプラクティショナーと、普通の教育を受けたグループとの比較試験が行われました。このトレーニングはじっくり時間が確保され、内容も多岐にわたるものでした。ちなみに彼らのレクチャーというのは、かなり本格的なものです。4時間のセッションがなんと8回! 総論、ロールプレイ、シミュレーション(患者・家族役)、フィードバックしディスカッションしかもそれぞれのシミュレーションにはテーマがありその内容でディスカッション。(ラポール形成、悪い知らせを伝える、アドバスドディレクティブ、看護師と患者の葛藤の解決、家族との面談の進め方、DNRの話し合い、死について語る)日本で行われている、緩和ケア研修の2時間程度のシミュレーション(悪い知らせを伝える、オピオイドの開始の仕方)とは比較になりません。

そして、実際にコミュニケーションの技法を学んだ看護師、医師と対話した、患者、家族の評価ですが、その結果は意外なものでした。終末期の患者、家族にとって、トレーニングを受けていた群も普通の教育の群も、心理的な影響は変わらず(2つの質問紙調査)、むしろ、トレーニングを受けていた群の方がうつのスコア(PHQ-8)が高くなるという結果でした。きっと、研究を実行した著者らも、コミュニケーションの技法は教育できると考えていたはずです。しかし、その結果は逆とも言えるものでした。それでも発表したことには大きな意義があると思いました。この論文を読んだとき、研修医と高齢の女性の一件を思い出したのです。

私はこれからも医師、患者の対話、コミュニケーションを考え続けなくてはなりません。「患者との対話」は教えられるのか、まだ模索せねばなりません。自分の背中を見せて若い世代に伝えるのか、ビジネスセミナーよろしく何らかの技法で分かった気にさせるのか、自然体で誠意を込めて対応せよと抽象的にして自分の問題として差し戻すか。この最終形のない問題に取り組まなくてはなりません。わかった!悟った!と思った次の瞬間から崩れてしまった、かつての自分の姿が恥ずかしくなります。しかし、その恥ずかしさが次のステップになるということを今では確信しています。いつまでも最終形はなくずっと追い求めていくのです。どの世界の修行でも同じ事です。

最後に一つだけ言えることは、模索している自分の背中だけは、若い医師に見せてあげられそうです。その背中を見せるためにこの文章を書いているのです。

1) Curtis, Back, AL, Ford, DW, Downey, L, Shannon, SE, Doorenbos, AZ, Kross, EK, Reinke, LF, Feemster, LC, Edlund, B, Arnold, RW, O'Connor, K, Engelberg, RA, Effect of communication skills training for residents and nurse practitioners on quality of communication with patients with serious illness: a randomized trial., JAMA, 310, 21, 2013

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2013年12月10日 (火)

僕が論文を書く理由

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自分の業績を調べる必要があり、自分の名前を検索し今までの学会発表、論文、医学的な原稿についてカウントしてみました。日本語で29件、英語論文で10件のヒットでした。気がつくと随分書いてきたものです。そして、現在も日本語で1つ、英語で1つの論文を投稿し、査読を待っています。本当に論文を書くのは大変なことで、今でも苦労しています。時には嫌になり逃げ出したくもなります。それでも書き続けています。

本来、論文は自分(自分たち)の研究の成果を世の中に発表し人類の進歩に寄与する目的のものです。しかし、医学の世界では、論文=業績とカウントされるようになりました。業績=ポストを得るための指標となり、一つ一つの論文は、掲載された雑誌がどの位インパクトがあるのかによりポイントが異なります。本来はその論文がどの位インパクトがあるのかを測定すれば良いのですが、そのような解析はインターネットとデータベースの進歩で最近になってやっとできるようになりました。現状では、掲載された雑誌が一年間に引用された回数を論文の数で割る、「インパクトファクター」という数値が発表され、業績のポイントに換算されます。論文を多く書く、正確には論文の著者になることで、インパクトファクターが自分のポイントとして貯まり、自分のキャリアが開かれていくということです。人柄や功績だけでは、医学部の大学の教授をはじめとした職員になることはできません。

「論文さえ書ければ教授なのか!」と批判する方もいらっしゃいますが、一つの論文を書くというのは大変な作業です。ただ作文をしているだけではなく、研究を初めて終わらせるという仕事には、予算の獲得、組織の運営、研究の遂行、まとめを含めて多くのノウハウと人脈を必要とします。論文が書けるということは、言語力だけではなく、人脈をもち、さらに組織をコンダクトするリーダーとしての資質が求められているのです。ですから僕は、論文が業績としてポイントに換算されその人の資質とするという通貨経済的な方法には、ある程度妥当性があると考えています。

さて、皆さんは論文を投稿するということに関してどんな思いを持っていらっしゃいますか。本当は書かなくてはならないけどじっくりと取り組む時間がない、書いてみたいけど書き方が分からない、自分の研究が書くに値するものなのかどうか自信が持てない、色んな思いがあることと思います。実は私もずっと同じような思いを持っています。それでも論文を書き続けています。それは何故なのか、自分でも深くは考えていませんでしたが、ふと思い立ち、診療の合間にじっくりと考えてみました。すると、二つの大切な理由が心に浮かびました。

まず一つ目の理由ですが、論文というのは研究のゴールです。例えば簡単なアンケートの研究でも、アンケートの作成に関わる医療者や専門家、アンケートを配布する事務職、そしてアンケートを実際に記入する患者さんやご家族。さらには、アンケートを集計する人もいます。そして集計した結果を計算し、結果からどんな事が分かるか検討します。その検討にも、同僚や専門家、もしかしたら自分とは職場の異なる専門家の助言も必要かもしれません。

このように、一つの研究は多くの人達の協力と労力の結晶と言えます。臨床でも最近は一人のカリスマのスーパードクターの存在よりも、チーム医療の重要性が強調されるようになりました。細分化し専門化していく医療の世界では、最早ブラックジャックが一人で奇跡を起こし続ける事は出来ないのです。臨床の現場だけではありません。研究の世界でもチームの力が重要だとつくづく思うようになりました。自分の関心のあるテーマをきちんと他人が理解できる状態にし、さらに外に向かって発信するには多くの人達の力を必要とします。こうして、臨床だけではなく、研究も自分一人の努力だけでは形にならない現状となりました。

そして、私自身も臨床でも研究でもチームの力を感じています。自分で全部やれれば、自分で全部やることができれば一番大きな成果が出せると思い込む、傲慢な若さはもうありません。チームで仕事をする喜びを心底から実感できる、そのような謙虚さを持つことが出来ました。そして、今私は、自分の関心にチームとして研究に関わった同僚の労力と時間、そして何と言っても自分の研究に協力してくださった、患者さん、ご家族のためにも必ず自分の研究を形にする使命感を感じています。どんなに小さな研究でも、形にしなければ、同僚と患者さん、ご家族に不義理をしてしまう、そんな風に私は考えています。形にしない研究は宙に浮き、いつまでも世の中に着地できない状態になります。これを「成仏できない状態」と私は密かに呼んでいます。成仏でも昇天でもよいのですが、必ず研究は終わらせなくてはなりません。成仏できない研究は、他の誰でもない、自分の心の中で小さなとげのように残ってしまうことでしょう。

ですから、是非とも論文を投稿してあなたの研究を終わらせてください。「私の研究なんてたいしたことない」などと思わず、多くの人達の関わった結晶は、どうか同じ時代を生きた証として成仏させて下さい。

二つ目の理由は、論文というのは後世への贈り物だということです。今、あなたが疑問に思って研究をしたこと、あなたが診療でうまくいったと思って報告したことは、いつか、どこかの誰かに必ず役立ちます。いや、役立つと信じて下さい。研究のゴールを学会発表にする方も多いと思いますが、学会発表は学会が終われば、内容(コンテンツ)は消えてしまいます。例えプログラムが残っていても、情報量が足りないため詳細が分からないか、プログラム自体を持っていない人達には、検索不可能です。学会発表は多くの人達の意見、批判を同時に討論するには優れていますが、時間を超えて研究の結果を残すという点では、論文発表と比べて明らかに劣っています。言い換えれば、学会発表とは揮発性の高い方法だということです。その点、論文は形になって内容が残りますので、後世への記録という点で優れていることは言うまでもありません。しかし、私が強調したいのは、論文とは「贈り物 (gift)」だということなのです。

例えば、私も診療でうまくいかないときには、色んな人に意見を求めますし、自分のMacからPubMedを検索し疑問の解消をしようと試みます。時には的外れな意見、論文を沢山読まされることもあります。しかし、真剣に自分が疑問の解消を求めているときには必ず良い論文に出会えます。まるで宝物を見つけ出した気分です。「ああ、世界のどこかに自分と同じような事で悩み、そして研究しある程度の答えを論文として世間に発表している人がいる」と、顔見知りでもない著者に感謝すら感じます。そして良い論文は、自分の知らない臨床観、世界観を提示しています。今まで自分が臨床でうまく行かなかったのはただ単に知識や技術が欠損しているからだけではなく、物事の考え方や問題解決の根本となる理路、言い換えればOS (Operating System) の未熟さにあるのだと気付かされることだってあります。私が、緩和ケアの臨床観、世界観や、症状緩和の基礎、そして人間を見つめる視点を学んだのも優れた研究の論文でした。皆さんにも、自分の仕事の取り組みが変わるほどの影響を受けた論文がもしかしたらあるのではないでしょうか。

つまり、論文を書くということは、後世への贈り物になるということです。宛先のないボトルレターのようなものです。そのボトルがいつ、誰に回収されるかわからなくても、今の自分の知性と努力を駆使して「どうか自分の研究をわかってほしい」という切迫感をもって書かれた論文には、必ず誰かの贈り物になる崇高なオーラが漂っています。

  自分の研究が誰かに届く、自分と同じ悩みを感じている人は、世界のどこかであなたの論文を待っている。これが業績とインパクトファクターというポイントはさして必要のない僕が、論文を書く大事な理由なのです。

そして、研究は誰でも検索可能で、閲覧可能な状態でなければ贈り物にはなりません。折角ボトルレターを手に入れても、そのボトルを開ける特別な鍵(ID、パスワード) や多くの人達にとって解読不可能な暗号(日本語)で書かれていれば、手中に贈り物が届いているのにその価値に気付かないという残念なことが起こります。ですから最近は、できるだけ英語で論文を書き多くの人達に届くようにと必死に背伸びをしています。どうか、あなたの研究を成仏させ、そして後世への贈り物としてください。きっとあなたの悩みは世界に通じています。

 1) 内田 樹 内田樹の研究室 2006年1月17  [http://blog.tatsuru.com/archives/001501.php 2013年12月10日アクセス]

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2013年12月 5日 (木)

一度に3つのことをこなす方法。マルチタスクのライフハック

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「お忙しそうで」、「お忙しいのに」他人からよくそう言われます。仕事、家庭、趣味そして、このブログ。色んなことを毎日同時にこなしていることは確かです。今日も、仕事の書類を山ほど家に持ち帰り、家で残業をしていました。午後6時半まで仕事をして、7時半前に家に帰り、家族と夕食を食べ、夕食の片付けをしながら妻と子供たちのことを話し、長男の試験勉強の暗記に付き合い、次男の塾の宿題をチェックしました。その合間に持って帰った残業をこなします。
確かに端から見ると忙しいのかもしれません。でも僕自身はずっとこんな生活だったので、全く自分の忙しさを理解していませんでした。子供の頃からよく遊びよく学べをモットーにしてきました。人並みにやんちゃしながらも、苦しい受験を繰り返して医者になり、分かった事があります。それは、人間のマルチタスクの仕組みです。
時に人間の創り出したものは、人間の仕組みに潜在的に相似します。例えば、このマルチタスクですが、コンピューターのCPUの処理の仕方が、人間の脳の処理の仕方にとても似ていると思うのです。優れた仕組みは、どこか人間の仕組みに似ています。もしかしたら一昔前のテクノロジーかもしれませんが、CPUのマルチタスクは、同時並行に作業をするのではなく、一つの作業に集中しながらも、少しでも空き時間ができると他の作業にスイッチを切り替えて作業をすると読んだことがあります。(多分MacOSの仕組みです)そして、空きメモリを有効に共有しながら、CPUは各作業のスイッチを、ものすごい速さで行うことで、コンピューターを使う人間には、まるで同時に複数の作業をしているかのように体験させることができるという仕組みです。
人間の作業も同じです。有限な24時間で出来るだけのことをしようと思えば、全く別の3つ位のことを同時にこなす必要があります。その3つのうちでも、人間はまず一つの事しかできません。ですから、その切り替え、スイッチの速度を上げるしかないのです。よく遊びよく学ぶといいますが、遊びと学びを同時進行させることはできません。眠りながら本を読むことも、遊びながら執筆することもできません。遊びと学びの間のロスタイムをどの位まで短く出来るかがポイントなのです。僕は欲張りで色んなこと全てをこなしたい。仕事も家事も育児も研究も遊びも趣味も全部楽しみながらちゃんとしたい。一度の生で多くの体験と交流をしたい。ならばロスタイムを減らす他ありません。どこまで手を広げるか、どこまでスイッチの回数を増やすか。自分の時間と生の有限を最近はとても意識するようになりました。
この時間を割る、スイッチの切り替えを早くするというのは、訓練ではなかなか難しい芸当だろうとも実は感じています。先天的に好奇心が強く、そして精神学的には多動の傾向を持つと、スイッチの切り替えが早くなります。そういう目で医師集団、医学部集団を見渡すと多動傾向は目につきます。自分にも幼少時から多動な要素があることは実感していました。なので、良く先生に叱られていました。「落ちつきがない」と通知票に書かれることが常でした。
受験勉強は、教育的効果には多くの問題を抱えていて、人間の備えるべき教養が豊かになるかどうか大いに疑問がある所です。しかし、子どもたちの受験勉強に付き合いながら、親として教えたいこと思っていることは、遊び、自分のしたいことをしながらも、受験勉強をすることです。それには、このスイッチの切り替えを素早くする訓練が必要です。そのライフハックの訓練を試み続けています。マルチタスクとスイッチの切り替え効率は、訓練で身につけられるものなのかどうか。その成果をみるにはまだ時間がかかりそうだと、息子の宿題のプリントの裏にびっしり書かれた落書きとイラストを見ながらため息をついているところです。

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