2013年十大ニュース

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私は2007年に初めて本を出版しました 。当時勤務していたホスピスの仲間と一冊の本を仕上げることが出来たのです。当時の私は、それまで苦しんでいた患者との対話に一つの光明を見出したような気になっていました。癌を告知すること、予後が限られていることを話すこと、いわゆる「悪い知らせを伝える」ということに関して一つの体系を手に入れて、今から思うといい気になっていたようです。SPIKESというコミュニケーション技法がありますが、これは、場を設定し、患者の意向を尋ね、そして話を始めることを確認する。そして悪い知らせ、医療情報を伝え、患者の感情に呼応する。最後に今後の計画を伝える。そうか!まず患者に何を知りたいのか、どこまで知りたいかを尋ねることで、自分の話すことや話し方を決めれば良いんだ、「これでいける!」と悟ったような気になりました。「占い師も霊能者も聞かれたことに答えるのであって、見えていること全てを語ることはない。結婚運を聞かれているのに、寿命を答えることはない」とそんな風に思ったのです。さらにこの方法を研修医に教えることで、きっと彼らは自分が苦しんできた道に迷うことなく、医師として発展していけると思ってしまいました。
私は、ホスピスに1ヶ月研修に来る医師と一緒に、SPIKESの技法のDVDを見て、勉強し、何度かシミュレーションし、この技法を用いて患者と対話し、また討論する。そういうことを日数をかけて準備しました。
さて、その研修医は、癌を知らされていないが黄疸があり病状をとても不審に思っている、ある高齢の女性に相対することになりました。家族との話し合いの中で、本人には何があっても癌であることを伝えないで欲しいということになっていました。そこで、まだ入院して日が浅いので、これから医師と患者の関係を構築する中で対応を探っていこうと話し合っていました。
女性は、研修医に「先生、何か私の病気について聞いているか」と尋ねました。研修医は私が教えたように実直にしかも正確に「あなたは、この病気についてどう思っていますか」と尋ねました。そしてさらに、「あなたは、この病気についてどの位知りたいと思っていますか。悪い話も全て聞きたいと思っていますか」と尋ねたのです。SPIKESの技法に沿って考えれば全く問題のない対話です。しかし結果は最悪でした。
女性は、「私に何か隠しているんでしょ!どういうことなの!」と激怒し、研修医はその場にいられなくなり、看護師の導きで一旦退室しました。女性はと言うと、主治医である私の上司が時間をかけて対応することで、やっと気持ちを鎮めることが出来ました。結局その女性には、最後まで癌であるという事実は伝えませんでした。しかし、ホスピスの医師、看護師とはぎくしゃくとした状態が続くことになりました。
この出来事で感じたのは、SPIKESにしても他の何かにしても、コミュニケーションの技法を使う時は、その前提、基礎として医師、患者間の信頼関係が必要であるということでした。責任を持った対応が出来る医師にのみ、悪い知らせを伝えることができるということです。治療だけでなく患者の行く末を引き受けるという医師の覚悟を感じた時にだけ、患者は心の窓を開き信頼します。その心の窓が開かれていない状態で、コミュニケーションの技法だけをあてはめても、患者はかえって苦しむことになるのです。まさに、「生兵法は大怪我のもと」です。その出来事以降、どうやって若い研修医に患者とのコミュニケーション法を伝えたら良いのかと私も迷うようになりました。
しばらく時間が経って最近、一つの論文がJAMAに掲載 されました1)。この論文を読んで、この出来事を振り返りました。 この研究ではコミュニケーションのトレーニングを受けた卒後1年くらいの若い内科医、ナースプラクティショナーと、普通の教育を受けたグループとの比較試験が行われました。このトレーニングはじっくり時間が確保され、内容も多岐にわたるものでした。ちなみに彼らのレクチャーというのは、かなり本格的なものです。4時間のセッションがなんと8回! 総論、ロールプレイ、シミュレーション(患者・家族役)、フィードバックしディスカッションしかもそれぞれのシミュレーションにはテーマがありその内容でディスカッション。(ラポール形成、悪い知らせを伝える、アドバスドディレクティブ、看護師と患者の葛藤の解決、家族との面談の進め方、DNRの話し合い、死について語る)日本で行われている、緩和ケア研修の2時間程度のシミュレーション(悪い知らせを伝える、オピオイドの開始の仕方)とは比較になりません。
そして、実際にコミュニケーションの技法を学んだ看護師、医師と対話した、患者、家族の評価ですが、その結果は意外なものでした。終末期の患者、家族にとって、トレーニングを受けていた群も普通の教育の群も、心理的な影響は変わらず(2つの質問紙調査)、むしろ、トレーニングを受けていた群の方がうつのスコア(PHQ-8)が高くなるという結果でした。きっと、研究を実行した著者らも、コミュニケーションの技法は教育できると考えていたはずです。しかし、その結果は逆とも言えるものでした。それでも発表したことには大きな意義があると思いました。この論文を読んだとき、研修医と高齢の女性の一件を思い出したのです。
私はこれからも医師、患者の対話、コミュニケーションを考え続けなくてはなりません。「患者との対話」は教えられるのか、まだ模索せねばなりません。自分の背中を見せて若い世代に伝えるのか、ビジネスセミナーよろしく何らかの技法で分かった気にさせるのか、自然体で誠意を込めて対応せよと抽象的にして自分の問題として差し戻すか。この最終形のない問題に取り組まなくてはなりません。わかった!悟った!と思った次の瞬間から崩れてしまった、かつての自分の姿が恥ずかしくなります。しかし、その恥ずかしさが次のステップになるということを今では確信しています。いつまでも最終形はなくずっと追い求めていくのです。どの世界の修行でも同じ事です。
最後に一つだけ言えることは、模索している自分の背中だけは、若い医師に見せてあげられそうです。その背中を見せるためにこの文章を書いているのです。
1) Curtis, Back, AL, Ford, DW, Downey, L, Shannon, SE, Doorenbos, AZ, Kross, EK, Reinke, LF, Feemster, LC, Edlund, B, Arnold, RW, O'Connor, K, Engelberg, RA, Effect of communication skills training for residents and nurse practitioners on quality of communication with patients with serious illness: a randomized trial., JAMA, 310, 21, 2013
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自分の業績を調べる必要があり、自分の名前を検索し今までの学会発表、論文、医学的な原稿についてカウントしてみました。日本語で29件、英語論文で10件のヒットでした。気がつくと随分書いてきたものです。そして、現在も日本語で1つ、英語で1つの論文を投稿し、査読を待っています。本当に論文を書くのは大変なことで、今でも苦労しています。時には嫌になり逃げ出したくもなります。それでも書き続けています。
本来、論文は自分(自分たち)の研究の成果を世の中に発表し人類の進歩に寄与する目的のものです。しかし、医学の世界では、論文=業績とカウントされるようになりました。業績=ポストを得るための指標となり、一つ一つの論文は、掲載された雑誌がどの位インパクトがあるのかによりポイントが異なります。本来はその論文がどの位インパクトがあるのかを測定すれば良いのですが、そのような解析はインターネットとデータベースの進歩で最近になってやっとできるようになりました。現状では、掲載された雑誌が一年間に引用された回数を論文の数で割る、「インパクトファクター」という数値が発表され、業績のポイントに換算されます。論文を多く書く、正確には論文の著者になることで、インパクトファクターが自分のポイントとして貯まり、自分のキャリアが開かれていくということです。人柄や功績だけでは、医学部の大学の教授をはじめとした職員になることはできません。
「論文さえ書ければ教授なのか!」と批判する方もいらっしゃいますが、一つの論文を書くというのは大変な作業です。ただ作文をしているだけではなく、研究を初めて終わらせるという仕事には、予算の獲得、組織の運営、研究の遂行、まとめを含めて多くのノウハウと人脈を必要とします。論文が書けるということは、言語力だけではなく、人脈をもち、さらに組織をコンダクトするリーダーとしての資質が求められているのです。ですから僕は、論文が業績としてポイントに換算されその人の資質とするという通貨経済的な方法には、ある程度妥当性があると考えています。
さて、皆さんは論文を投稿するということに関してどんな思いを持っていらっしゃいますか。本当は書かなくてはならないけどじっくりと取り組む時間がない、書いてみたいけど書き方が分からない、自分の研究が書くに値するものなのかどうか自信が持てない、色んな思いがあることと思います。実は私もずっと同じような思いを持っています。それでも論文を書き続けています。それは何故なのか、自分でも深くは考えていませんでしたが、ふと思い立ち、診療の合間にじっくりと考えてみました。すると、二つの大切な理由が心に浮かびました。
まず一つ目の理由ですが、論文というのは研究のゴールです。例えば簡単なアンケートの研究でも、アンケートの作成に関わる医療者や専門家、アンケートを配布する事務職、そしてアンケートを実際に記入する患者さんやご家族。さらには、アンケートを集計する人もいます。そして集計した結果を計算し、結果からどんな事が分かるか検討します。その検討にも、同僚や専門家、もしかしたら自分とは職場の異なる専門家の助言も必要かもしれません。
このように、一つの研究は多くの人達の協力と労力の結晶と言えます。臨床でも最近は一人のカリスマのスーパードクターの存在よりも、チーム医療の重要性が強調されるようになりました。細分化し専門化していく医療の世界では、最早ブラックジャックが一人で奇跡を起こし続ける事は出来ないのです。臨床の現場だけではありません。研究の世界でもチームの力が重要だとつくづく思うようになりました。自分の関心のあるテーマをきちんと他人が理解できる状態にし、さらに外に向かって発信するには多くの人達の力を必要とします。こうして、臨床だけではなく、研究も自分一人の努力だけでは形にならない現状となりました。
そして、私自身も臨床でも研究でもチームの力を感じています。自分で全部やれれば、自分で全部やることができれば一番大きな成果が出せると思い込む、傲慢な若さはもうありません。チームで仕事をする喜びを心底から実感できる、そのような謙虚さを持つことが出来ました。そして、今私は、自分の関心にチームとして研究に関わった同僚の労力と時間、そして何と言っても自分の研究に協力してくださった、患者さん、ご家族のためにも必ず自分の研究を形にする使命感を感じています。どんなに小さな研究でも、形にしなければ、同僚と患者さん、ご家族に不義理をしてしまう、そんな風に私は考えています。形にしない研究は宙に浮き、いつまでも世の中に着地できない状態になります。これを「成仏できない状態」と私は密かに呼んでいます。成仏でも昇天でもよいのですが、必ず研究は終わらせなくてはなりません。成仏できない研究は、他の誰でもない、自分の心の中で小さなとげのように残ってしまうことでしょう。
ですから、是非とも論文を投稿してあなたの研究を終わらせてください。「私の研究なんてたいしたことない」などと思わず、多くの人達の関わった結晶は、どうか同じ時代を生きた証として成仏させて下さい。
二つ目の理由は、論文というのは後世への贈り物だということです。今、あなたが疑問に思って研究をしたこと、あなたが診療でうまくいったと思って報告したことは、いつか、どこかの誰かに必ず役立ちます。いや、役立つと信じて下さい。研究のゴールを学会発表にする方も多いと思いますが、学会発表は学会が終われば、内容(コンテンツ)は消えてしまいます。例えプログラムが残っていても、情報量が足りないため詳細が分からないか、プログラム自体を持っていない人達には、検索不可能です。学会発表は多くの人達の意見、批判を同時に討論するには優れていますが、時間を超えて研究の結果を残すという点では、論文発表と比べて明らかに劣っています。言い換えれば、学会発表とは揮発性の高い方法だということです。その点、論文は形になって内容が残りますので、後世への記録という点で優れていることは言うまでもありません。しかし、私が強調したいのは、論文とは「贈り物 (gift)」だということなのです。
例えば、私も診療でうまくいかないときには、色んな人に意見を求めますし、自分のMacからPubMedを検索し疑問の解消をしようと試みます。時には的外れな意見、論文を沢山読まされることもあります。しかし、真剣に自分が疑問の解消を求めているときには必ず良い論文に出会えます。まるで宝物を見つけ出した気分です。「ああ、世界のどこかに自分と同じような事で悩み、そして研究しある程度の答えを論文として世間に発表している人がいる」と、顔見知りでもない著者に感謝すら感じます。そして良い論文は、自分の知らない臨床観、世界観を提示しています。今まで自分が臨床でうまく行かなかったのはただ単に知識や技術が欠損しているからだけではなく、物事の考え方や問題解決の根本となる理路、言い換えればOS (Operating System) の未熟さにあるのだと気付かされることだってあります。私が、緩和ケアの臨床観、世界観や、症状緩和の基礎、そして人間を見つめる視点を学んだのも優れた研究の論文でした。皆さんにも、自分の仕事の取り組みが変わるほどの影響を受けた論文がもしかしたらあるのではないでしょうか。
つまり、論文を書くということは、後世への贈り物になるということです。宛先のないボトルレターのようなものです。そのボトルがいつ、誰に回収されるかわからなくても、今の自分の知性と努力を駆使して「どうか自分の研究をわかってほしい」という切迫感をもって書かれた論文には、必ず誰かの贈り物になる崇高なオーラが漂っています。
自分の研究が誰かに届く、自分と同じ悩みを感じている人は、世界のどこかであなたの論文を待っている。これが業績とインパクトファクターというポイントはさして必要のない僕が、論文を書く大事な理由なのです。
そして、研究は誰でも検索可能で、閲覧可能な状態でなければ贈り物にはなりません。折角ボトルレターを手に入れても、そのボトルを開ける特別な鍵(ID、パスワード) や多くの人達にとって解読不可能な暗号(日本語)で書かれていれば、手中に贈り物が届いているのにその価値に気付かないという残念なことが起こります。ですから最近は、できるだけ英語で論文を書き多くの人達に届くようにと必死に背伸びをしています。どうか、あなたの研究を成仏させ、そして後世への贈り物としてください。きっとあなたの悩みは世界に通じています。
1) 内田 樹 内田樹の研究室 2006年1月17 [http://blog.tatsuru.com/archives/001501.php 2013年12月10日アクセス]
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