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2013年8月 4日 (日)

僕が医師として考えてきたこと 8.「自分を割れ」

「自分を割れ」

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医師であっても看護師であっても、またどんな職種にあっても、外側の自分つまり社会的な自分と、内側の自我つまり私的な自分がいつも葛藤をしている。社会的な自分は、いつも職業人として自分の役割を演じることで、社会を生きていく。患者と接するときも職業人としての役割を果たすことが、まずは患者から、そして社会から求められる。社会的な自分は、どんな患者でもどんな家族でも対応できる広い守備範囲をカバーできる長所をもつ。そして相手に自分の職業的な能力を、均一に高いレベルで提供することを可能とする。

しかし、自分の能力を十分に発揮できなくなることが日々おこりうる。外来の診療中でも、入院患者の回診でも、往診先の家でも。社会的な自分を演じている合間にも、私的な自分は、瑣末な要求を自分に向かってささやき続ける。「早めに仕事を終わらせて早く帰らなきゃ」「この患者と話すと長くなるからうまく話しを切り上げるにはどうしたらよいのか」「お腹が空いたなあ」「手術の始まる時間まであと15分しかない」など枚挙に暇がない。しかし、そのような心に浮かんだ言葉を口に出しながら仕事にあたるわけにはいかない。そして、私的な自分のささやきを聞かないふりをして、社会的な自分を演じていく。「まず今目の前の患者に向き合わないと」「今集中するべき事は何か?患者の治療以外ないはずだ」と心に言い聞かせて、医師としての職務を全うする。

また、大抵は私的な自分は社会的な自分の活動を妨げる。「本当にこの職場でいいのか」「他にもっと条件の良い病院があるのではないか」「キャリアアップを図るにはどういう職場が理想なのか」といった、私的な自分と社会的な自分の境目が分からなくなるようなささやきもまた、自分の毎日の活動を妨げる。

  自分を演じて仕事をするなんて、医師という役割を演じて病院にいるなんてとつい反発を感じてしまうのであれば、それは自意識に対する考え方が誤っている

自意識に対する考え方だが、本当の自分探しという物語を信じすぎている。自分の中には色んな自分があっても、その中でも一番大切な自分とは何かを追求する物語を信仰すると今の自分を認められなくなる。「すべての間違いの元は、唯一無二の「本当の自分」という神話である」(私とは何か「個人」から「分人」へ、平野啓一郎)との指摘通りである。医師であっても父親であったり、夫であったり、息子であったり、ある活動のリーダー的存在であったり、部下であったり、上司であったりあらゆる役割を同時にこなさなくてはならない。自分が本当に好きな自分は、「ある活動のリーダー的存在」なので、仕事はもう辞めて、趣味の世界で生きていきたいとか、本当に自分のしたいことが自分には分からない、本当の自分は何?と言いながら、急に自分探しの旅と称してどこかへ出かけていくとか、そういう「本当の自分」神話を信仰することで、今の自分を肯定できなくなる。(一神教的限界)

「たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」となる」(私とは何か「個人」から「分人」へ、平野啓一郎)と言うのが真理であろう。自分というのは置かれた立場、相手によって変化する。私的な自分も社会的な自分も全て自分である。どの自分が好きか嫌いかはもちろんあっても、「本当の自分」なんてどこにもないのである。あらゆる自分を同時に発揮しながら生きていくことが、元々の生き方なだと思う。求められるのは、あらゆる自分の複数の顔を切り替えるスピードだろうと思う。言い換えれば、今に集中する切り替えである。仕事を離れたら、別の顔になる。病院にったら、医師の顔になる。患者も様々である。どのくらい自分を割ることが出来るか、分人と呼ぶ複数の人格をどのくらい持ち合わせることが出来るかが、医師として求められる力量となるだろう。

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