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2013年7月

2013年7月28日 (日)

僕が医師として考えてきたこと 6. 「安心と希望を処方せよ」

Medium_1600505101 緩和ケアに限らず、治療の結果はいつも事前には分かっていない。痛みに対して処方したその患者にとって初めての鎮痛薬が、きちんと痛みを緩和するのか、反対に副作用のために使用できない状態になるのかは全く事前には分からない。それでも、医師は必要があれば何かしら治療を行わなくてはならない。

益と害を全ての患者に時間をかけて説明しても、目の前の患者が次回の診察で得られるであろう治療の効果は、見通せないままである。こういった治療行為に対する免責を目的に説明する内容は、患者の心には届かない。 未来のことは今の状態をどれだけ正確に評価、分析してもなかなか分からない。 結局治療の決断はいつも自分の経験を礎とする直感に頼らざるを得ないのである。

見通せない未来であっても、未来の保証は患者に安心を与える。医師は、「自分の判断では、これが最良の治療だと考えている」こと、そして「もしもうまくいかなかったら、次にどうするのかを予め考えている」と患者に伝え、将来の対応を患者と約束することが大切である。「何かあれば必ずすぐに対応するよ」、「電話を掛けてくれれば、何時でも家(病院)まで行くよ」と患者と約束することが、患者の安心につながる。
実際に時間構わず、自分がオフの時にも職場に呼び出されたら、やっていけるだろうかと考えると、患者を安心させる一言を飲み込んでしまうこともあると思う。しかし、患者との約束は、今と将来の安心感を得る魔法の一言となる。そして、実際に気楽に電話出呼び出されて実働することは、今までにそれほど多くはなかった。もちろん、患者自身にもこんなことで電話していいんだろうかと、電話を手に取り迷うこともあると思う。それでも、その手にしている電話が確かに医師と繋がるということで、患者自身は自分の不安を鎮めていくことが出来る。こうして、患者は医師に依存していくのではなく、自分自身をケアする力を高めていくこともある。

患者に安心を処方することは、医師の大事な役割である。ただ単に、「大丈夫」「私が保証する」「必ず治ります」というのは、安心の処方ではない。その場の患者、家族との会話を早く切り上げるための終止符みたいなものである。

未来の混沌とした不確かさ、つまり、不可予言性にたいする救済策は、約束をし、約束を守る能力に含まれている。」(アーレント、人間の条件)患者、家族を安心させるのは、ずっと関わり続ける保証を、はっきりと示すことである。「もしも何かあったらどうしよう」「もしも将来苦しんだらどうしよう」と話す患者、家族に対して医学的な説明は必要ない。リスクの可能性を○○%と述べる必要もない。不確かな将来にきちんと自分が対応する約束以外に安心を処方する方法はない。「何かあったらその時一緒に考えましょう」「将来苦しんだら、その時から一番よい方法を考えましょう」そう答えることだ。


そして、安心と希望を処方するのは、患者に対する憐憫でも惻隠でもない。ましてや、自分自身に求められる社会的な正義感でもない。自分が医師として相手と向き合い続ける、覚悟のようなものだと自分には思う。

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2013年7月27日 (土)

僕が医師として考えてきたこと 5. 「過去の概念を超えろ」

20130727_114710 まず、緩和ケアではどのように患者の苦悩と向き合うかについて考察してきたかを述べる。1960年にイギリスでホスピスと終末期医療の先駆的な活動をしていた、シシリーソンダースが、全人的苦痛(total painの概念を述べた。人の苦痛を、身体、精神、社会そしてスピリチュアルの4つで構成されているとした。シシリーソンダースは、看護師、ソーシャル・ワーカーそして医師と様々な職種を経験した。亡くなりゆく様々な職種での経験の集約から、人の苦痛は単に、痛みや呼吸困難とった症状と言われる体の苦痛だけではなく、不眠やうつとった精神の苦痛、そして社会的な役割や仕事を失う社会的な苦痛、生きる意味や信仰などと関連したスピリチュアルな苦痛もあるという多面的な問題を提唱した。

患者の体験や考えを中心に、医療を提供するというホスピスケアの原則と、あらゆる苦痛に職種で対応するというのが、患者の苦悩との向き合い方であると提唱した。そして、モルヒネを定期的に使用することで、特にがん患者の身体的な苦痛の代表である痛みに対応することを治療の根幹と主張した。

全人的苦痛、職種連携、モルヒネに代表される医療用麻薬の適正使用現在も将来も緩和ケアの根幹とあり続けるであろう。全人的苦痛の概念はとてもうまくできており、シンプルかつ盤石であるからである。また、射程が広くソンダースの活躍したイギリスのみならず、この日本も含め全世界的に適応できる普遍性の高い概念である。

しかし、普遍的で盤石であるからこそ考えておかねばならない事がある。こういう盤石な概念というのは、世界に境界をつくり新たな構造を作る。クロード・レヴィ=ストロースが「野生の思考」で指摘したように、「分類はいかなるものでも、渾沌にまさる」のである。恣意的であれ、混乱した状態よりも人は秩序のある状態を好む。秩序を作り出さない限り、物事は伝達可能な事象にはならないし、次に何を行動したら良いのかもわからない。だから、人はあらゆる事を分類し境界線を引き続ける。全人的苦痛の4つの苦痛も例外ではなく、人間を洞察する上での恣意的な境界線に過ぎない。

盤石な概念に自分の心が支配されてしまうと、世界は狭くなる。目の前の患者をみても、4つの苦痛から物事を考えるようになる。短い時間で効率よく患者の状態を評価するには、全人的苦痛の概念は非常に便利である。しかし、この概念は道具の1つに過ぎないのに、概念に対して信仰にも近い感覚を持つようになると、概念は教義に昇格しさらに厄介な事が起きる。

さらに、人間は自分の世界を「自分のお気に入りのもの」で構成する。自分の関心の強さにより、患者も医療も意味づけしようとする。自分の関心が弱いものは、あたかも世界に存在しないかのように受け止め、関心が強いものは、大きな意味と価値があると考える癖がある。 患者に起こる問題、例えば胸痛を、循環器内科医は心臓から、消化器内科医は食道と医から、整形外科は骨から考えていくのは、それぞれの関心の違いからである。 さらには、各科を横断した救急、総合内科、家庭医は、関心により構成される世界観からの呪縛から逃れるための方法を探し続けている。そして関心で世界を構成するという、人間として逃れられない癖は、一つの深刻な問題を生み出す。

深刻な問題とは、教義となった概念は、どんなに盤石で普遍的であっても、他者との対立を生む可能性があるということである。緩和ケアに関心が強い医師にとっては、全人的苦痛を中心に考えない他の専門分野の医師を軽蔑する可能性がある。なぜ外科の医師は患者の苦痛が理解できないのか、化学療法に熱心な医師は患者の苦痛に関心がないのかと、他者と対立する機会を増やすようになるのである。あらゆる宗教を巡る争いもほぼ同じ問題を内包している。教義は信仰する人の心の中で絶対的な価値を獲得すると、排他的となる危険を帯び、時に他者を攻撃することとなる。全人的苦痛という博愛の概念が、皮肉にも他者を攻撃する可能性もあるのである。

盤石で普遍性の高い概念であっても、それは世界をみるメガネのような道具の一つに過ぎない。患者の訴えを4つの苦痛に分類し、まだ未知の苦痛を探索するのは、医師にとって大切な仕事である。しかし、全人的苦痛を含む緩和ケアの根幹に執心すれば、結局患者を狭い世界に閉じ込めて、協働するべき大切な同僚を失う。

自分が人生を捧げる分野を決意したときから、過去の偉人とその概念を絶えず超えていくことが求められる。超えていくときには、必ず自分の心に合図のメッセージが来る。「緩和ケアってそもそも何なのか」という自分の概念アップデートを促すメッセージが。メッセージを受け取ってしまったら今まで居心地の良かった過去の概念を一新する苦しい時が来る。今まで自分が目を向けなかったあらゆる知的な体験から次の概念を探さなくてはならない。

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2013年7月21日 (日)

僕が医師として考えてきたこと 4. 「特別な一日を見逃すな」

「特別な一日を見逃すな」

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直感に関して思う別の話をする。経験的に、患者と医師の間、家族と医師の間には「特別な一日」が訪れることがあると以前から感じている。この日は何かいつもと違うことが起こる。例えば、それまで落ち着いていた患者の痛みが急に強くなったり、全く別の用件で対応している間に、患者が人生におけるとても大事な話を語り始めたり、たまたま廊下で出くわした家族から、患者の重大な問題点を告白されたりと不思議なタイミングで急に「特別な一日」は訪れる。

もしかしたら、全く別の用事で看護師から電話で呼び出されることがきっかけになるかもしれない。「特別な一日」は医師と患者、家族に心と心のつながりが生まれる大切な日になることが多い。その日を境に患者や家族は医師に心を開き、治療関係を超えた新たな人間関係が生まれることが多い。医師と患者が短い時間の付き合いであっても、「特別な一日」を共有すれば、時間が熟成するだけではできない別の信頼関係が生まれる。この信頼関係が、この先患者の人生を支えていく上で、大切な基礎となる。

医師が緩和ケアを患者、家族に対して提供している時期は、しばらくの間治療の成果が得られて、信頼関係を築けたとしても、以降は何かを喪失し続ける体験を共有しなくてはならない。治療を通じての信頼関係だけでは、この喪失体験を共に過ごしていくことはできない。喪失体験の中にも患者、家族を支え続ける何かを創造するには、この「特別な一日」の訪れを医師は見逃さないようにしなくてはならない。

「特別な一日」の訪れを見失わないようにするには、結局医師の直感しか頼りにならない。「何かいつもと違う感じ」、「今日はちゃんと対応しないといけない」、「いつもと違う対応が必要な予感」という小さなシグナルを感じ取り、行動に移さなくてはならない。今日は疲れているから明日にしよう、今日は午前中の回診で十分な時間対応したら、もし何かあればきっとまた連絡があるだろう、さっきの処置でしばらくは大丈夫だろうと「特別な一日」の訪れを見過ごす誘惑は多い。とはいえ、自分に対する全てのコールが、「特別な一日」とは限らない。
それでも、自分の直感が十全に働くような自分になれるよう、毎日自分のメンテナンスを行うことが医師には求められる。

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2013年7月14日 (日)

僕が医師として考えてきたこと 3.「三位一体の苦痛に対処せよ」

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緩和ケアは、患者とその家族に提供されるものである。苦痛に苛まれた患者を側で見続けている家族にも、その苦痛は伝播する。痛みに苦しむ患者の身体を、為す術もなくたださすり続ける家族は、第2の患者とも言えるほどの苦痛を抱えることとなる。

例えば、がんの進行と共に、患者のほとんどは食欲不振に陥る。普通に食事を食べるという毎日の営みを喪失することで、患者は健康の喪失のみならず、死への恐怖を日常的に感じるようになる。「食べられるようになれば元気になる」という信念の元、患者は必死に食事を食べようとする。そこには、味覚を楽しみ、季節を感じる余裕はない。「生きていたい」という生への本能的な欲望が、食行動の根幹となる。

そんな恐怖と向き合う患者を、家族は必死に支えようとする。料理の仕方を工夫し、栄養を考え、少しでも食べられるように、そして毎日患者の苦痛を軽減しようと、家族も苦悩に包まれていく。以前のように食べられないと悩む患者の恐怖と、自分の料理を食べてもらえない家族の落胆は、同じ時間の同じ状況下での出来事でありながら、それぞれ全く種類の異なる苦痛となる。何とか今の状況から脱したいと患者も家族も苦悩しながらも、時には衝突するようになり、患者は「家族から食事を食べろと強要される苦痛」を訴え、家族は「自分が作ったものを患者が食べようとしない思いの届かない苦痛」を訴え、葛藤が強くなる。

このような状況の時、医師を含む医療者は、患者と家族の苦痛にそれぞれ別の観点から、それぞれに対応する必要がある。このような、それぞれ別種の苦痛を抱く患者と家族を同時に診察室で対応しても、かえって葛藤は深くなるばかりである。まず患者の苦痛を対応し、次に別の場所、機会に家族の苦痛に対応しなくてはならない。患者と家族、それぞれに同じ時間と労力を注ぎ対応することで、初めて良質な緩和ケアの実現が可能となる。それぞれの苦痛に対して、時間をかけて丁寧に対応することで、必ず患者と家族の苦痛を同時に緩和するよい方法が自ずと見つかってくる。

加えて、第3の患者とも言うべく、患者の主治医や看護師の苦痛にも対応する必要がある。特に、 緩和ケアチームのように、他科のコンサルテーションを中心に活動する際には第3の患者への迅速な対応が求められる。患者と家族の苦痛に直接対処している医療者もまた、同時に苦痛を体験していると考えておく必要がある。

例えば、患者の痛みが十分に緩和されていない状況では、患者を担当する看護師も「どうやったら、自分の受け持っている患者の痛みが緩和されるのか」と悩んでいる。繰り返し「痛い痛い」と訴える患者の苦痛を受け止めて、まず主治医に相談する。緩和ケアに十分習熟していない、別の専門家である主治医は、「がんの治療が功を奏せば、痛みもなくなる。今はがまんの時だ」とか「麻薬を使えばかえって患者の体力はなくなり、結果として予後も悪くなる」と言う信念で患者の痛みに対応しようとしない。

こんな状況で、もし緩和ケアの専門である医師が相談を受けたらどのように対応するのがよいか。主治医に医療用麻薬の使用を勧めて、時には処方箋を自ら発行し、患者の苦痛を少しでも早く緩和するのが一番よい対応であろうか。それとも、患者そして看護師の苦痛を軽減するために、主治医に対して「治療と同時に緩和ケアは行うべきです。同時に治療するのが今どきの対応です。麻薬は患者の寿命を短縮するエビデンスはありません」と主張するのが一番よい対応であろうか。

どちらのやり方も、結局は緩和ケアの専門家と主治医との間に、信念の対立を生む可能性が高い。患者の苦痛の緩和を第一に考えて行動し、主治医の信念はそれを妨げるものと考えていると、高いレベルの緩和ケアの提供はできないばかりか、コンサルテーションを受けるという専門家としての対応が習熟できなくなる。主治医を通り越して患者の処方に対応し、患者の苦痛が速やかに緩和されたとき、患者は治療に対応する主治医に対して、これからも信頼を維持できるであろうか。主治医に緩和ケアの重要性とエビデンスを突きつけて説得し、もし信念対立が生じてしまったら、主治医は、次に苦痛に悩む患者のコンサルテーションをするであろうか。

患者の苦痛にうまく対応できない主治医に対して、第3の患者として接することで新しい関係を構築する事が、まず緩和ケアのコンサルテーションを受けたときの第一歩である。そして、緩和ケアの始まりはいつも対話である。まず主治医が患者に対してどう考えて治療に対応してきたのかを聞き、患者の苦痛を主治医がどう体験してきたのかを聞けば、主治医の苦痛は自ずと伝わってくる。すると、必ず緩和ケアに強い信念を感じている医師にも、相手に対する寛容さが生まれてくるはずである。相手が対話に応じない医師であっても、真正面から対話を求めるだけではなく、剛柔様々な方法で相手にアプローチし続けるのである。

例えば対話を通じて、「痛みのある患者の話を聞くことは、自分にとってつらいことだ」という苦痛を体験していれば、まず緩和ケアの医師が患者の苦痛を主治医に代わって十分に聞く時間を確保することを約束するのが、主治医に対する緩和ケアの提供である。

主治医が外科医で、外来、手術、そして管理的な仕事に追われ、「本当は患者の話を十分に聞かなくてはならないことは分かっている。でも自分にはその時間がない」とさらに心の内を話してくれれば、「先生の忙しい時間には、まず私が患者の苦痛に対応し、後で状況を報告します」と返答すれば、主治医の苦痛はさらに緩和されるかもしれない。

このように主治医の苦痛を緩和すると、患者、家族の苦痛も不思議と緩和されていく。そして、主治医は再び自分自身の力を発揮し、患者と家族に自信に満ちた表情で接することができ、結果として良好な関係に復帰していく。緩和ケアの医師がただ単に、痛みに対する薬物治療の提案をカルテに書き残し、たまたまその場に居合わせた看護師に自分の考えを述べるだけでは、緩和ケアの提供ができているとは言えない。患者、家族、そして一番身近で苦痛に対処している医療者の三位一体の苦痛を同時に評価し対処することが、自分の関わる臨床現場で緩和ケアを提供し続けることができることにつながる。誰の苦痛が一番早く緩和できるか、成果が出せるか、そんな観点で状況を眺めることで緩和ケアの新たな展開が見えてくることと思う。

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2013年7月13日 (土)

僕が医師として考えてきたこと 2.「自分の直感を高めよ」

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直感というのはなにも特別な能力のことではない。直感とは患者、家族を目の前にした時に、一瞬自分の心の中に湧き上がるまだ言葉にならない考えであったり、自分自身の行動を規範する職業的な能力のことである。職業的な能力としての直感とは、例えば古美術商が一見で本物と贋作を見分けることである。こうした直感が礎となった特殊な能力は、医師自身が培った経験を土壌として、公平な心境になったときに最も発揮される。とりわけ直感が発揮されるのは、救急の現場で非常に短時間で、患者の生死を分かつ可能性のある重大な決断を迫られたときである。


例えばこんな経験はないだろうか。呼吸器症状と発熱のために初めて受診したある患者に対して、診察をし終わったとき、何かいつもと違ういやな感じが心に浮かぶことがある。その理由というのはうまく説明できないが、何かがいつもと違うとしか自分も認識できない。毎日同じルートで散歩していると、道ばたに咲いた小さな花が目の端に入っても、何かがいつもと違うと瞬時に分かるそんな感じである。


いやな感じを確かめるために、普段はしないような詳しい検査をしても、はっきりと特定の疾患が診断できるような所見はなく、やっぱりその正体は分からない。この時に自分の直感を棄却して「検査でも異常はなかったし、自分の直感はたまたまだった」と思い、この患者を帰すか、「自分の直感は、何か危険を察知している。念のためこの患者は入院し経過を見守ろう」と思うかという決断はどう下すか。夜中の救急外来で、少しでも早く仕事を終えたい、次の患者が待っている、入院のベッドがほとんどなくなっているといった、直感の公平さを乱す様々な要素が立ちはだかる。それでもなお、自分の直感に従うことができるかには、とても冷静な心理状態が求められる。


そして、不思議な直感に私自身も何度も助けられてきた。なぜ入院させようと思ったのか結局はうまく説明できないが、そうした方がいいと心のどこかから聞こえてくる。看護師は「何の病名で?」「個室ですが?」など本質的ではない確認事を尋ねてくる。その度に、直感の弱い声は聞こえにくくなってくるが、頑固に自分の直感を信じて最初の方針を変えずに、患者を入院させる。次の日、状態を診察すると全く昨夜とは異なり、重大な病気のサインを呈し、専門的な治療が必要な状態と分かる。こういう事例は、後から検証すれば何が自分の直感を刺激したのかは必ず分かる。必ず分かるが事後的にしか分からない。臨床とはいつも不確定な未来を見通さなくてはならない。自分の直感だけが頼りになることは緩和ケアに関わらずとても多い。

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2013年7月 6日 (土)

僕が医師として考えてきたこと 1.「薬物では新しい力は生まれない」

「薬物では新しい力は生まれない」

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診察中の患者が、「痛みがなくなった」と喜ぶを姿を見た時、「先生ありがとうございました」と言われた時、自分自身の仕事に誇りと大きなやりがいを感じた経験もあると思う。 痛みに対する医療用麻薬の実力は、患者のみならず緩和ケアに関わる医師にとっては、とても信頼できる大きなものである。自分の治療が患者の生活を改善することに感動した経験のある医師は、緩和ケアの魅力に心を惹きつけられる。治療の成功体験は、患者の医師に対する信頼感に、医師の患者に対する情愛に結びつく。しかし、医師として忘れてはならないのは、自分が処方する医療用麻薬を含むあらゆる薬物は、患者に新しい力を生むのではなく、病気に妨げられてしまった、患者自身が元々持っている力を、ただ引き出す助けをする物質だという事である。

治療の成功を体験した医師は、自分の力で苦しむ患者に魔法をかけたかのような錯覚を感じてしまうこともある。こういう体験は、患者の生殺与奪権利を得たような錯覚を医師に抱かせてしまうこともある。「自分が患者を救った。自分の治療で患者は生きていけるようになった。自分は患者を救った」と錯覚すれば、医師は患者の生活と心を支配してしまう。患者の人生の指針を共に考えるという立場ではなく、この患者にとって最良な生き方はこうであるという、暴力的なパターナリズムに陥っていく。そして医師はそういう自分に無自覚になりやすい。

医師は、自分の処方した薬物、自分の施した処置、自分の立案した治療が、患者のQOLを高めると考えてはならない。自分の為したことは、もともと患者が自分の持っている力を十分に発揮できるよう、病気の力を抑制したに過ぎない。病気という患者の毎日を妨げる負の力を弱めただけで、患者が生きていく基になる正の力は、医師の手が及ぶものではない。医師は、薬物を含むあらゆる治療で、患者の生きていく上での障害物を取り除くだけであり、患者自身がQOLを高める準備を手伝うことしかできないということである。

したがって、患者自身に生きる力がなければ、緩和ケアを適切に施しても、患者のQOLは高まらない。例えば、ほぼ寝たきりの状態で痛みのため、日中も夜間も顔をしかめて呻いている患者を診察したとする。患者にはもう既に生きる力が残っていないとしたら、鎮痛薬で適切に痛みの治療を実施したとき、この患者は穏やかな表情で眠る時間が長くなるはずである。すでに生きる力を失った患者は、再び立ち上がり、歩行や外出ができるようにはならない。医師は、患者が本来苦痛がなければどのような状況で毎日を送るのかという観点から診察をしなくては、治療のゴールを見失ってしまう。 医師は、患者に残っている力をそれまでの経過や、経験、検査の結果から推測し、治療の結果どのような状態になりうるのかを適切に患者や家族に伝え、話しあう必要がある。治療によって患者が再び立ち上がることを期待していれば、現実に苦痛なく眠っている患者を見た家族にとっては、苦痛がなくなったという治療の成果ではなく、治療により患者は寝かされた、鎮痛薬で眠らされたと誤解が大きくなる。また医師も患者に残っている力を見誤ると、自分の治療がうまくいっていないと思い込み、連日治療を調整し続けたり、薬物をめまぐるしく変更したりと無意味な対応をいつまでも繰り返してしまう。そして、患者の状態を楽観的に誤解した医師は、結果として治療の成果が得られないため、患者、家族と相対することが苦痛になってしまう。

このように、治療を担当する医師も、治療の恩恵を受ける患者も、治療の成果を期待する家族も、薬物では新しい力は生まれないことを十分に理解する必要がある。

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