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2013年4月16日 (火)

今どきの在宅医療14 在宅療養の患者さんは長生き? 「経験の檻」

 言いたくなかったけど、在宅で末期のがん患者さんを多く診察してすっかり自信をなくしてしまった。ホスピスで2000人近くの方との関わりを持ちながら、大切な事を心に留めてなかったことに気付いた。この10年、自分は緩和ケアと終末期医療を勉強し、研究し、患者さんの状況に寄り添い、看取りを何人も経験しながらある種の確信を得ていたはずだった。

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 「奥さん、もうご主人は数日の命だと思います。身体にはそういう徴候(しるし)がでています。こんな風にのどがごろごろと鳴るとき、目が半分開いたようになっているとき、これは残った時間が数日の時が多いです。」

 ある日の晴れた午後、あるお宅でこんな事を話した。病院で働いているときも何度も何度も説明してきたこと。どんな検査をするよりも、患者さんの身体を診察すればおおよその残った時間は分かる。特に1週間以内になった患者さんの徴候は随分と確かなものと研究からも経験からも分かっている。

 奥さんに説明し、自宅での穏やかな看取りになるようにこれからも手伝うこと、何かあったらすぐに呼んで欲しいと伝え、また状況を訪問の看護師、薬剤師の在宅チームと話し合った。その日からしばらくは、夜にお酒を飲まず、夜中の呼び出しにも備えることにした。未明に呼ばれても大丈夫なように早寝をすることに心がけた。

 

 しかし、あの日から1週間、何の連絡もないままだった。訪問看護師からは、状態が落ち着いていること、また診察に行くと患者さんに話しかけると、声は出ないが、表情を変えてほほえんで返事をしている。この状況を奥さんはとても喜んでいらっしゃったが、僕は正直困惑した。一度見切った命が再び力を盛り返すことは、少なくともがんの患者さんでは、今までほとんどなかったからだ。

 

 次の日別のお宅にお邪魔すると、同じように身体の徴候から残り時間が1週間以内と考えて対応していた患者さんが、ソファーに座りぼんやりとした意識の中でも握手を求めてくれた。こんな毎日が続くと自分の今までの経験と、知識、そして、臨床医としての自分の勘を刷新する必要に迫られていると実感している。

 

 予後の予測はとても緩和ケアにとっては重要で、ケアの対応、今後起こりうることの想定も含めて、計画の目標の基礎になる。しかし、最近はこの予後の予測を繰り返すことで違和感も感じている。それは予言者の様に患者さんの今後を占うことができるという、不遜のようなものが心に宿ることだと思う。それでも、毎日患者さんの状況を診ながら、これ位でこんな事がおこるな、あとどの位の余命だなとある種の見切りをして、周りの家族や医療チームに伝える。それは、周囲の人達にとってはとても大事な情報で、気持ちの緊張、毎日のスケジュールを考える基礎になるからだ。みんな、毎日の日常と共に看病、仕事をしているからだ。

 

 こういう命の見切りがはずれることは、きっとどんな医者でも体験しているだろう。そして、「在宅の患者さんは穏やかだ、彼らは在宅での毎日に満足してる」と語りたくなる気持ちもよく分かる。さらには、在宅のがん患者さんの痛みは軽い、鎮静はいらない、注射なんてしなくていいとか言う医者を見る度に、それは、経験の量が苦痛への配慮と関係するという根拠のない自信からの発言で、彼らは何か大事な事を見過ごしているのではないかと思っているし、在宅医療がイデオロギーになるのを嫌っている。だから、在宅礼賛の話しには荷担したくないといつも考えている。もっと目の前にいる患者さんに何が起こっているのかフェアに判断しなくては、大事なことを見誤る。この事は今でも強く自分の心に言い聞かせている。

 

いつも、在宅礼賛の医者の発言に触れる度に在宅でがん患者さんを診察する医師は自分の経験を過信しないで、もっと緩和ケアのよいコーチについてちゃんと研修を受けて欲しいと心から思う。座学ではなく、同じ空間で同じ時間を緩和ケアのコーチと共有しながら、同じ患者を診察した後にお互いが感じた印象を話し合ってそのギャップを埋めてほしい。講義や、座学、研修会や宴会では緩和ケアの技術は伝授できないと僕は思う。

 

話を元に戻す。実は、僕が在宅を始めて8ヶ月で発見した大きな見落としとは、言葉にすると小さな事に思えるけど、相手の力を信じることだ。

 

 自分が今までの経験から見切った余命が全く当たらない。もうこれ以上は時間はないだろうと、苦痛なく穏やかに亡くなる様に治療を組み立てても、そこからなお力をその身体に宿し、立ち上がり、笑顔で話しかけてくる患者さんを何人もみてしまった。こんな体験が続くと自分の今までの活動そのものを見直さなくてはならないと確信してしまった。そう、僕は在宅礼賛の医者と同じ「経験の檻」に入っていた医者だったという確信に至った。きっと誰もがこんな風に壁にぶつかり、また新しい自分のあり様を探さなくてはならないのだろう。

 

 これからも「経験の檻」に入り続けるのはきっと簡単だ。そう、自分が感心しない医者のように明日から、「在宅の患者さんは穏やかだ、彼らは在宅での毎日に満足してる。だから在宅の患者さんは長生きだ」と言ってしまえばよいのだから。そして、「病院で過ごせば、そこがホスピスであっても患者さんは居心地の悪さを感じている。また、規格化された部屋での治療やケアはどれだけ洗練していても、それは盆栽の技術のようだ。本質的に命を阻害している」と、今まで自分を捧げてきた時間と仲間を蔑めばよい。

 

でも僕は、この「経験の檻」の中に居続けられる程、檻の鍵を檻の外に放り投げて、二度とここを出ないと決心を付けるほど、檻の中に守るものもない。一番は周りの世界への好奇心が止められないから、この檻からは出て行こうと思う。在宅のがん患者さんは穏やかで長生きだ、病院のがん患者さんは苦痛が強く短命だ、そんなつまらない檻から出なくてはならない。まだ幾分若く力のある自分が、弱った患者さんの力を信じる事を礎に、どんな活動をして行くのかその事と向き合わなくてはならなくなった。

 今までの着心地のよい服を捨てて、また裸になって新しい服を作らなくてはならない。しばらくは寒いけど、きっと大丈夫。今までのように檻の中で古びた服を着ているよりずっといい。夜は冷えるけど、昼間はもう五月晴れが近づいている。そして、最初はその服はパッチワークのように最初はおかしな生地のつなぎ合わせになるかもしれない。でも、そのパッチワークの一つ一つは、これから出会う患者さんとの時間で、時間と共に徐々に身体に馴染んでくる、そんな気がしている。その服は、「在宅医療」という服ではなく、もっと人間の力を命を根底から信じるような、そんなものなんだろうなと思う。

 

さて、最初の問いに戻る。「 在宅療養の患者さんは長生き? 」今の自分が着ている服、持っている自分のものさしが古びてしまった以上、長いのか短いのかを測るものさしすらなくなってしまった。控えめに言うなら、今の僕には、患者さんの余命は分からない。医者には余命を的確に指摘することは出来ない、それが僕の経験からの真理である。

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