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2012年11月 5日 (月)

終末期の鎮静 後編「本音」

さらに、前編の内容に沿って、本音を述べていく。

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さて、鎮静の分類を述べた。「持続的」「間欠的」そして、「深い」「浅い」である。しかし、鎮静を臨床で何度か実行してみると分かるが、状態の悪い患者の意識というのは電気のスイッチを入れたり切ったりするように、簡単に調節できるものではない。胃内視鏡の前に点滴で鎮静する事も増えてきているが、そんな風にうまく意識は調節できない。

大抵は、眠らせるという決定と同意を経て、睡眠薬、鎮静薬の投与をしても効き目が不十分であることが多かった。安全に投与しようと思えば、なかなか初日からうまく鎮静する事が難しい。さらには、薬の投与を中止しても目が覚めてこないことも多かった。もう既に弱った体は、薬と関係なく眠ってしまうことがほとんどであることは既に述べた。

なので、鎮静をどのくらいの時間、どのくらいの深さでやろうと決めてもその通りにできることは少ない。もし調節がうまくできるのであればまだ患者は状態がよく、本来なら経口薬でも十分治療できる段階にある。つまり終末期の鎮静という範疇から外れる。

しかし、「どういう意図で鎮静するか」を、複数の人達で構成される医療チームで共有するのはとても重要である。治療前に事前に目安を決めておいた方がよい。繰り返しになるが、大抵は計画通りにはうまくいかない。

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鎮静の要件として述べたことを、改めて実感から吟味してみたい。

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耐え難い苦痛を緩和する目的の時、終末期の鎮静は適応となる。しかし、その耐え難い苦痛を目撃した看護師や医師、家族はどういう心境になるのだろうか。患者と過ごした時間がそれまでにじゅうぶんあれば、苦しむ患者を冷静に観察し鎮静の適応を評価できるのであろうか。

私の実感から、苦しむ患者を目の前にすると「かわいそうだから楽にしてあげたい」とも考えてしまう。苦痛緩和の鎮静というよりも、楽にしてあげたいという慈悲殺の心理が皆無とは言えない。また家族も鎮静の同意に「こんなに苦しんでいるのを見ていられない。楽にしてあげたい」という気持ちが、「できるだけ長く生きて欲しい」という気持ちを上回ってしまう。慈悲殺の心理を自分の心に発見してしまうと、終末期の鎮静は安楽死とは違うという確信がもてなくなる。この迷いが鎮静に踏み切れなくなる可能性と、反対に過度に鎮静してしまう可能性の二つを内包してしまう。

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そういった心の迷い、医療者の苦痛の認識が、鎮静率と期間に反映する。簡単に言うと、「少しでも苦しんでいて先行きが短ければ、すぐに寝かせる」とか「混乱した状態で夜ベッドから落ちるようなことがありそうなら、すぐに寝かせる」といった、治療者(この場合は医師に限らず看護師も)の画一的な独断が鎮静の実施に反映しまう。

私の経験と、周辺のホスピス医の実感からもおそらく、対象となる人は15-20%、その日数は亡くなる前3-4日に収束していく。十分に教育された医師、看護師そして医療チームが、他施設と交流しながら日々の臨床で実践していけば、どの施設でも大抵これくらいの鎮静率と日数に収束していく。201210_029

鎮静の対象となる症状は、せん妄が最多である。では亡くなる直前のせん妄、終末期せん妄の特徴を熟知していないと、鎮静が必要な患者を見逃してしまう。通常亡くなる前のせん妄は、ベッドに寝たり起きたりを繰り返す、トイレに行く回数が異常に多い、何度も転落する、転倒する、話が通じない、体をさすっても落ち着かずなだめることができない、会話では全く解決することができない、たとえ会話ができたとしてもその理屈を周囲は全く了解できないといった特徴がある。

患者がせん妄になった時は既に自分の状態を自分で理解することができない。判断能力、認知機能は落ちる。言い換えれば、自分で鎮静の治療を受けるかどうかを判断すること、答えることはできない。せいぜい、医療者が自分の気持ちを鎮める(医療者の心の鎮静)ために、無理矢理「ね・む・り・た・い」と言わせているようなものだ。これが本当に患者が治療に対する希望を表明していると言えるのだろうか。鎮静の実施対象者が、半分以上せん妄であるのだとしたら、どのようにコミュニケーションすればよいのであろうか。家族と医療者で決めてしまえばよいことなのであろうか。鎮静を巡る医療者の迷いと不快感は、このコミュニケーションの不成立が背景にある。

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鎮静で用いる投与薬剤については、ミダゾラム(ドルミカム注射液10mg)を第一選択とする。もしも、せん妄があるなら、ハロペリドール(セレネース注5mg)、呼吸困難、疼痛があるならモルヒネを併用する。ここで注意して欲しいのは、浅い鎮静に、ハロペリドール(セレネース)を単独投与することについてだ。種々のマニュアルには、軽い鎮静に用いるとされているが、実はセレネースを投与されている患者の一部には、「意識がはっきりしているにも関わらず、何も言うことができず、大変苦痛だった」というつらい体験がある。これは抗精神病薬や、ドロペリドールで有名なミネラリゼーションに似た体験と思われる。情動の表出ができなくなる状態で、セレネースを投与されることで、家族、医療者には一見穏やかになったように見えるが、実は患者はつらさを周りにつたえることができなくなっただけ、という悲劇的な気の毒な状態に陥る。これは苦痛緩和とは言えない。またモルヒネを単独投与し鎮静するといった実践もまだそこここで見られる。モルヒネが過量投与されることで呼吸の仕方は不自然と成り、時には興奮状態となる。本来モルヒネは鎮静薬ではない。セレネースもモルヒネも、単独投与で鎮静しようとするのは患者さんにとても気の毒だ。個人的には絶対にやめてほしい。

ドルミカムもサイレース・ロヒプノールもほぼ効果は同じと考えて良い。ただ、サイレースは皮膚刺激のため持続皮下注射にむかない。

鎮静を考慮する時点で投与中の薬剤で興奮、不穏つまり終末期せん妄の原因となるものは全て中止する。特にステロイドは中止する。私の経験では、漸減することなく中止していた。なぜなら、残された時間が3-4日では漸減する時間はなく、また腎機能の低下から、急に中止しても恐らくは体内に留まるであろうと予想していたからである。

具体的には、

ドルミカム注射液10mg 1-2Ap (持続皮下注射)を1日量として計画し初期投与する。ドルミカムを連用すると、徐々に耐性ができ眠り続けることができなくなることもある。私は、ハイスコを混合して投与することが多い。ドルミカム単独では鎮静が不十分になることが多く、私は死前喘鳴をできる限り最小限にする目的で、ハイスコ皮下注0.5mgを併用していた。例えば以下のような指示となる。

ドルミカム 3Ap + ハイスコ 3Ap 持続皮下注射 0.2  ml/時 で開始。

この量を基準に増量、減量する。

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終末期の鎮静には、患者と家族の意思が必須であることはいうまでもない。しかし、現場では鎮静が必要な状況となれば患者のほとんどは意識がはっきりしていないか、もしも答えられる状況であっても何らかの苦痛があるので、「何でもいいから早く助けて」というのが本当のところであろう。切羽詰まった状況で患者に「鎮静しますか」と問うても、意思を表明する前提となる判断力があてになるとはとても思えない。

それなら、患者自身がまだ調子がよいうちにしっかりと鎮静に関する意思を尋ねておけばよいと考える医療者もあろう。少し想像力があればすぐに分かると思うが、まだ死を意識していないような患者、もしくは病気の不安を感じながらも時に否認し「まだまだ大丈夫(・・・のはずだけど)」と考えている患者に、医療者が「将来苦しさが耐えられない程の状況の時は、眠ってすごしたいですか」などと聞いたらどうなるだろうか。冷静に「わかりました、しかるべき時期に、そのような状態になるのなら是非とも眠らせて下さい」(=鎮静の同意)などと返答できるだろうか。むしろ、「あなたはそろそろ死ぬ」、「あなたの将来には耐えられない程の苦しみが待っている(かもしれない)」などと患者をかえって心理的に苦しめる可能性が高い。こういう「倫理的に正しいかもしれないが、有害な振る舞い」が、最近は目につくようにもなった。自己決定、自己責任という原則を遵守する医療者はいつも患者に二者択一の答えを迫る。医療者は「鎮静するのか、しないのか自分でもはっきり分からない」という不快感を、「患者が自分で決めたことだから」ということにして解消しようとする所はないだろうか。

また患者が意思を表明できないときは、家族にその判断を委ねることとなる。しかし、家族は患者の命に関する大事な決断を、迷いなくできるのだろうか。「大事な家族を殺してしまった」とまで考えてしまう家族も実際にいた。

医療者は患者、家族の意志決定に全てを委ね、彼らのオーダーに従って自分が行動するという規範を前面に出せばだすほど、倫理的には良い振る舞いをすればするほど、かえって患者、家族を苦しめるという現実をよく考えた方がよい。

結局の所、経験のある医師が、周囲の医療者の意見をきちんと聞きながら、「これは眠ることでしか救えない苦痛だと思う」と迷いながらも確信を持った説明をしない限り、患者、家族は前に進めない。そう、経験からも医療者とりわけ医師に求められるのは、優柔不断に対応しないことである。そして、患者や家族との対話の中から答えを探していく能力が必要である。鎮静を「する」か「しない」か。その間をとって「区切られた時間だけする」のか。一見鎮静とは関係のない対話の中から、その度に探していく姿勢が必要である。

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鎮静するほか苦痛を緩和できないという確信を、医療者は持てるのであろうか。もしかしたら自分が知らないだけで他に良い方法があるのではないか、まだ試していない薬があるのではないか、もう一晩だけがんばればもしかしたら自ずから患者が穏やかになるのではないか、といった迷いが生じるに違いない。私の経験からも、本心はできれば鎮静をせずに対応していきたいとつくづく思っていた。いくら、安楽死とは違うとはいえ、鎮静をする医療者は「苦痛から患者を救い出す」使命感よりも、「快適に死を迎える手伝いをする」罪悪感の方が大きい。当然の心理状態であろう。

「目の前に苦しむこの患者の状況は、普通の緩和治療つまり薬の力では緩和できない」という確信を得るには経験を要する。しかも終末期のがん患者を数多く診療し、適切に専門家から教育と助言が得られる医療者にだけ、「耐え難い苦痛」「治療抵抗性」の判断ができる。しかも、日進月歩の医療の世界では、去年の「治療抵抗性の苦痛」は、もしかしたら、今年は「治療可能な苦痛」になることだってある。絶えず研鑽を必要とする。

また鎮静には、 医師の訓練と経験、また看護師をはじめとするその他の医療者の信念が反映しやすい。「鎮静なんて不自然だ」「鎮静なんてしなくてもやれる」という、根拠のない信念をもつと、とたんに鎮静を実施をしなくなる。結局自分の判断の迷いを「オレは基本的に鎮静しない方針なんだよね」という安易な信念で(これが本当に多い)治療を採択している現場が数多くある。

医師、看護師の訓練と経験は、実は人間関係と人脈に由来する。色んな分野の専門家と、人として交流がある医師や看護師は、自ずとその技術は向上していく。照明を落とした会場で、パワーポイントを眺め、几帳面にメモをとっていても、教育の効果はあがらない。人脈こそが自分の能力を高める最も重要な要素であると私は思う。なので、勉強会や研究会よりもその後の宴会の方が重要かもしれない。(?!)人脈の乏しい医師は、専門家の相談や、入院先のコーディネート、また何よりも懐の広い医療の展開ができない。

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鎮静はやはり、医師の独断で始めたりやめたりしてはならない。カンファレンスやコンサルテーションで他の医療者の意見も聞いてなお実施する慎重さが必要である。またカンファレンスやコンサルテーションは別の側面も持つ。多くの医療者は、鎮静に心理的な負担を感じていることが報告されている。なので、鎮静への意志決定過程を共有しつつ、鎮静を実施する自責感をチームのメンバーで共有することが大切である。

鎮静をきちんと実施しないと、苦しむ患者の姿を目の当たりにしながら、「人が亡くなるにはこれぐらい苦しくてあたりまえなのだ」と自分を慰めるしかない。そして、苦痛の中で亡くなっていく人を連続して看取っていけば、看取りの医療、緩和医療、終末期医療を続けることに疲れてしまう。そして仕事そのものにバーンアウトしてしまうかもしれない。しかし、鎮静が余りにも繰り返し実施されれば、「人を快適に死なせる」事に荷担しているような気になってくる。この気持ちもまたバーンアウトのリスクを高めるに十分である。

鎮静を巡る建前と本音について述べてきた。しかし、この鎮静という治療の光と闇をきちんと理解して実施しない限り、何かしら言葉にしにくいが心に溜まっていくいやな感触で、いつか自分が押しつぶされてしまう。これからもこの問題を考えていきたい。

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