発達障害かもしれない子供の親として 「本を選べない子供」
久しぶりに医学書院、ケアをひらくシリーズの、「発達障害当事者研究」を、子供への接し方、躾け方に応用したいと思い、再読している。実は、子供は昔から軽度の発達障害の可能性があると言われていた。何度か小学校に呼び出されたこともあるし、医師としてもやはりと感づくところもある。突然奇声を発して教室を走り回るようなことはなく、学校生活に支障が出る程ではない。でも、ただ年齢の割には無邪気というだけでは理解できない所もある。だからこの子の考え方の特性を知らなかったうちは、僕は子供を叱りすぎてしまった。「何でできないのか、何で忘れるのか、何で自分の事を自分でできないのか」って。
この夏にべてるの家に行って以来、何度も精神医学系の当事者研究を読んでいる。そして、いつも思うことだが、欠損した能力、そして欠損を補い社会に順応するためのモデルの開発に感心する。この当事者研究を深く読むと、いわゆる健常者(もしくは、健常者と自分を思える人)が、何かが欠損した人達の順応を通じて、自分たちの生き方を見直すことができるということに気付かされる。そして、健常の健常たる由縁を知ることができる。
当事者研究は、基礎研究で何らかの機能を持つ遺伝子と特異的に欠損させたマウス(ノックアウトマウス)を観察し健常を知ろうとする方法論に相似する。でも、当事者研究の発信は人間なので、マウスのように無表情ではない。(人間とマウスの尊厳は等価だと考えてしまったので、医学生の頃から、基礎研究はできないと断念した)
当事者研究は、マウスと違い自分の体験を人間が分かる言葉でまとめ上げることができる。その言葉に他者は共感することもできる。なので、当事者研究の当事者にとって一番大変なのは、自分の体験を、人が理解できる言葉にまとめ上げていくこと、その一点につきる。言葉のまとめ上げに失敗すれば、他人には理解不能な単なる独白になる。
一度言葉をまとめ上げることができれば、単なる個人の独白を超えて大きなつながりの力を持つ。そして、他人は独白の中に、自分と同じ体験を見つける。例えば僕にとってはこんな箇所だった。
「私がつながりたくてもつながれないと思うのは、楽しそうにだべって盛り上がっている同世代の集団のようなものである。・・・盛り上がっている内容が交渉であろうがくだらなかろうが、それは問わない。そこに入れない私にとっては、ただ『集団で楽しい気持ちを共有している』ように見える光景が、魅力的なのである」(p.123)
ここは自分も共感できる。小学生の頃からずっとずっと感じてきた思いと全く同じ。どれだけ努力しても憧れる雰囲気になじめなかった。これだけの共感を感じるのは、実は僕が今まで気づかないだけで発達障害の素因を持っていたのかもしれない。しかし、発達障害の当事者である彼らが、ひとたび言葉をまとめ上げることができれば、多くの人間にユニバーサルな(普遍的な)新しい概念を提示してくれる、と僕は考える。
そしてまた、僕が思うに、当事者研究の魅力と可能性は、当事者が欠損を意識しないと本当の価値が見えてこないところだ。さらに、周囲の人達が欠損を憐れんだり、忌避したり、表に出してはいけないと機制すれば、すぐに価値を失い、結局は彼らの言葉が貶められる。むしろ、彼らの欠損を「なにかおかしい」と本能的に理解しながらも、どういうチャンネルで彼らと交信するか、そのチャンネルの見つけ方と、交信する信号そのものを探さなくては、新しい関係は生まれない。さらには、彼らと交信しなくてはならないという、弱者に向ける善行の義務感ではなく、彼らと交信したい、彼らの感じている世界を知りたいという欲望がない限り、チャンネルは開かれない。
僕は自分の子供への愛情から、彼の感じている世界を知りたいと心から思う。そして、生きづらいと感じている(であろう)子供のしつけを通じて、彼がきちんと他人と交信するチャンネルを発見して欲しいと願っている。以前のような、「どうしてオマエは、自分から○○ができないんだ」から、「今から、○○しますと声に出して言ってみようか」というように、声のかけ方を変えられるか。どれだけ忘れ物をしても、「何で忘れるのか」と叱らず、「この右手の親指に印を付けるから。この印は傘を忘れないようにの印」と知恵をしぼれるか。子供と付き合う時間が少ない中でも、子供の散漫な集中力をどうやってまとめ上げるか、そして自分でまとめ上げるコツを教えられるか。そんな交信するチャンネルを、時にはがっくりしながら、そして時には楽しみながら考える毎日だ。以前は、発達障害(かもしれない)子供と接する上で、必要なのは忍耐力だと思っていた。例えば、たった今も、本屋で本を選べなかった子供を見て、一つの本を選べるまでずっと時間をかけて待ってやればよいと思っていた。でも今はそれはちがうと、いくつかのペアレントトレーニングの本や、発達障害の当事者研究を読んで気がついた。子供の体験を想像すると、本屋ではたくさんの魅力ある本が「ボクを買って」「ワタシを買って」と大騒ぎしている。その中から一つを選ぶのはとっても難しい。そんな時に、「決断力のない子供」というレッテルを親が心の中で貼ってしまうと、子供の事を誤解するばかりか、子供には、親の期待に応えられないという苦しみが増していくばかりだ。子供はちゃんとわかっている(パパは僕が本を選べないことを怒っている)って。子供の特性をきちんと理解して対応するなら、まずたくさんの本が並んでいる場所から一度子供を避難させて、たくさんの本達の「買って」「買って」の声が聞こえない所に連れて行く。それから、「どの本が一番『買って』って言ってた?」と時間をおいてから聞き、もう一度買いに行くか、アマゾンで購入する。(今もアマゾンで注文しました)
こうして日頃から色んな知恵を編み出しながら、子供に苛立たないように自分をコントロールする。「本屋で本が選べないときには、一度本屋から離れて、家から注文したら良いよ」と子供の欠損した能力を補い、順応する方法を教えていく。こうして、当事者を見守る「当事者の当事者研究」を僕も日夜実践しているようなものだ。
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