数学の演奏会
昨日の「数学の演奏会」(森田真生さん+釈徹宗先生)のお話しを聞いて一番心に残ったのは、「数学も仏教も、神の仕業という所に着地しないところ」という事でした。僕は、臨床医学で「がん」ととっても身近なところで仕事をしていますが、すぐに「神の仕業」という物語に頼ってしまう。
良い物語は、時に本人や家族を慰めるかもしれない。「こうして今病気になったのも何か意味がある」「この病気になったのも何か意味があるはず。それは自分の今までの生き方を変えるためのメッセージなのだ」など。悪い物語は、人の人生の最後をグロテスクにする。特に営利目体の物質が介在するときにはひどい。「これを飲めば治る、アメリカの某教授が科学的にお墨付きを」など。自分も時には家族の心を慰めるために、物語を話すことだってあります。でもこの物語には細心の注意が必要です。そして、人智の及ばないところには、神の仕業か、人間が作り出した物語で、現実を受け止めるための架橋を人はどうしてもしてしまう。昨日の話では「ぎりぎりのところでそこへいかず踏みとどまる」という釈徹宗先生の言葉も深く心に残りました。
僕は医学という自然科学の世界に生きているので、「人が作った仕組み」と「自然が作った仕組み」との区別をいつも意識しています。本音を言うと「人が作った仕組み」には余り関心を持てません。でも、「人が作った仕組み」には答えが必ずあります。「人が作った仕組み」とは例えば医療政策や、医療保険点数といった人の仕組みです。ですから、「今日の治療行為がいくらになるか」は、複雑なルールの中でも必ず答えがあります。しかし本来の医学は自然相手であったり、不確定な人間の心や体が対象の学問なので、普遍的な法則が見いだしにくい。いつも核心に迫れず周囲をぐるぐる回っている気分になります。そして研究の進歩はその円の半径がわずかだけ中心に近づく。一方で数学は、(昨日聞いただけの聞きかじり)様々な理論と世界観で、その人工的な世界の純度を高めていく。全く違った思想体系に感激し刺激を受けました。ストイックな追求に、簡単なもの語りに飛びつく医学の世界の堕落に反省を感じました。医師が物語に飛びつくとき、己の限界を意識し、さらに限界を超えようというひたすらの努力の果てであれば、その行為は堕落しません。しかし、そこに必要以上のお金が介在するか、必要以上に自分の名誉を高める手段が仕込まれていると簡単に堕落していきます。患者さんや家族のように本当に困っている人にはその堕落は見えません。しかし、冷静に観察する人達には、堕落は案外簡単に感知されています。「何かがおかしい」と。堕落した主張の科学的な論理展開の、何がおかしいかは指摘できないこともあるのですが、とにかく「何かがおかしい」と気がつきます。
さて、「数学の演奏会」は、とても刺激的な講演会、セミナーなのですが、実は一つ気になることがありました。時に、セミナーを主催し、自分と自分の関心ごとを情熱をもって他人に主張する人達に感じることです。自分と同業の医師や友人でも、セミナーの内容よりも、特にプロモーションや関わる人間が多くなるとコストがかさみます。また、講演者がセミナーを通じて必要以上の資金を集めようとすると、そのセミナーは腐敗し、講演者の魅力の輝きは失っていきます。言い換えればセミナーが集金システムの一つになっていく危険性をもつのです。そうやって堕落していくタレントを何人か見てきました。僕も、講演を頼まれることがありますが、会費が高い講演は全て断ります。自分の存在が堕落していくからです。そして、講演では聴衆が「勉強になること」よりも、「自分が大好きなことを、どのくらい相手にわかってもらえるか」だけをひたすら考えて話しています。
しかし、昨日は魅力的で、ご自身の関心をきらきらした目で語る森田真生さんがこれからもよいセミナーをされることを予感しました。また内容に釣り合った会費と懇親会費でした。楽しい夜をありがとうございました。
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