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2012年9月

2012年9月25日 (火)

数学の演奏会

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昨日の「数学の演奏会」(森田真生さん+釈徹宗先生)のお話しを聞いて一番心に残ったのは、「数学も仏教も、神の仕業という所に着地しないところ」という事でした。僕は、臨床医学で「がん」ととっても身近なところで仕事をしていますが、すぐに「神の仕業」という物語に頼ってしまう。
良い物語は、時に本人や家族を慰めるかもしれない。「こうして今病気になったのも何か意味がある」「この病気になったのも何か意味があるはず。それは自分の今までの生き方を変えるためのメッセージなのだ」など。悪い物語は、人の人生の最後をグロテスクにする。特に営利目体の物質が介在するときにはひどい。「これを飲めば治る、アメリカの某教授が科学的にお墨付きを」など。自分も時には家族の心を慰めるために、物語を話すことだってあります。でもこの物語には細心の注意が必要です。そして、人智の及ばないところには、神の仕業か、人間が作り出した物語で、現実を受け止めるための架橋を人はどうしてもしてしまう。昨日の話では「ぎりぎりのところでそこへいかず踏みとどまる」という釈徹宗先生の言葉も深く心に残りました。

僕は医学という自然科学の世界に生きているので、「人が作った仕組み」と「自然が作った仕組み」との区別をいつも意識しています。本音を言うと「人が作った仕組み」には余り関心を持てません。でも、「人が作った仕組み」には答えが必ずあります。「人が作った仕組み」とは例えば医療政策や、医療保険点数といった人の仕組みです。ですから、「今日の治療行為がいくらになるか」は、複雑なルールの中でも必ず答えがあります。しかし本来の医学は自然相手であったり、不確定な人間の心や体が対象の学問なので、普遍的な法則が見いだしにくい。いつも核心に迫れず周囲をぐるぐる回っている気分になります。そして研究の進歩はその円の半径がわずかだけ中心に近づく。一方で数学は、(昨日聞いただけの聞きかじり)様々な理論と世界観で、その人工的な世界の純度を高めていく。全く違った思想体系に感激し刺激を受けました。ストイックな追求に、簡単なもの語りに飛びつく医学の世界の堕落に反省を感じました。医師が物語に飛びつくとき、己の限界を意識し、さらに限界を超えようというひたすらの努力の果てであれば、その行為は堕落しません。しかし、そこに必要以上のお金が介在するか、必要以上に自分の名誉を高める手段が仕込まれていると簡単に堕落していきます。患者さんや家族のように本当に困っている人にはその堕落は見えません。しかし、冷静に観察する人達には、堕落は案外簡単に感知されています。「何かがおかしい」と。堕落した主張の科学的な論理展開の、何がおかしいかは指摘できないこともあるのですが、とにかく「何かがおかしい」と気がつきます。

さて、「数学の演奏会」は、とても刺激的な講演会、セミナーなのですが、実は一つ気になることがありました。時に、セミナーを主催し、自分と自分の関心ごとを情熱をもって他人に主張する人達に感じることです。自分と同業の医師や友人でも、セミナーの内容よりも、特にプロモーションや関わる人間が多くなるとコストがかさみます。また、講演者がセミナーを通じて必要以上の資金を集めようとすると、そのセミナーは腐敗し、講演者の魅力の輝きは失っていきます。言い換えればセミナーが集金システムの一つになっていく危険性をもつのです。そうやって堕落していくタレントを何人か見てきました。僕も、講演を頼まれることがありますが、会費が高い講演は全て断ります。自分の存在が堕落していくからです。そして、講演では聴衆が「勉強になること」よりも、「自分が大好きなことを、どのくらい相手にわかってもらえるか」だけをひたすら考えて話しています。

しかし、昨日は魅力的で、ご自身の関心をきらきらした目で語る森田真生さんがこれからもよいセミナーをされることを予感しました。また内容に釣り合った会費と懇親会費でした。楽しい夜をありがとうございました。

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2012年9月22日 (土)

医師と患者の対話 第4話 自己決定の時代

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2010年(平成22年)自己決定の時代

ホスピスでの仕事も充実し、医師として自分だけが患者さんに対する重責を負うのではなく、チーム医療に加わる様々な職種の人達、看護師、薬剤師、リハビリのセラピストとそれぞれの職業的特性と、それぞれの個性を発揮した働きに魅了されていきました。そして、2012年に開業するまでの10年間を、終末期医療 (end of life care)と緩和ケアの実践に没頭しました。特に終末期医療に関しては関心を持ち、いくつかの論文を書く充実した日々でした。そこでは、「悪い知らせを伝える」ことの系統的な教育を受け、ただ癌告知という事だけではなく、次なるコミュニケーションの模索をもしました。
ある日、これからホスピスに来たいという患者さんと外来でお会いしました。膵臓癌の患者さんです。その方に聞くと、紹介元の総合病院ではまず最初の診察で検査の結果を見た担当医に、「あなたは癌です」と急に言われたということでした。心の準備もないまま宣告されて頭が真っ白になってしまいましたと。そして「今は癌でも最初からきちんと伝える時代です。あなたも事前の問診票に『もしも悪い病気でもきちんと真実が知りたい』という所に○をしていましたでしょ」と言われたそうです。そして次には「この位癌が進行すると、化学療法をしてもほとんど効き目はない。それでも化学療法しますか?それともやめますか?」と聞かれたと話していました。その後しばらく考えて次の診察日に「化学療法の効果がそれほどないのであれば、やめておきます」と答えると、次に担当医は、「それならホスピスに紹介状を書きますので行って下さい」と告げられ、その病院の外来通院は終了してしまったと話が続きました。

私も診察すると、その患者さんはやせて食欲もなくなり、化学療法ができる状態ではないと分かりました。その患者さんは、「これから私はどうなっていくと思いますか」と言葉を続けました。そこで私は、「私も、色んな方を診療していますので、色んな事をアドバイスすることができます。でも、本当に悪い話でも真実を知りたいですか?」と尋ねると、「いえ、今日はやめておきます」と答えられました。その日はここまでで話をやめました。

そして、いよいよ入院する状況となりホスピスにいらっしゃいました。入院してしばらく経ってからのこと、何気ない会話の後に「あの時に聞かなかったこと聞いていいですか」と話されました。「本当に私にこれから起こることをどうか教えて下さい」と私に尋ねられました。そこで、今後歩けなくなっていくこと、痛みは十分とれること、多くの方は苦しまずに最期を迎えることを話していきました。また患者さんに、「最期は静かに見守って、心臓マッサージや人工呼吸器といった蘇生行為をしなくてもよいですか?」と尋ねると、「以前から私は、延命治療を受けたくないと思っていました」とはっきり答えられました。また命の見通し(生命予後)がどのくらいかを聞かれましたので、「それは分からないけど、会いたい人がいるのならしっかりしている今が一番いいですよ」と話しました。
その後数週間経って、徐々に動けなくなっていかれました。このホスピスで最期を迎えたいと入院中に話していらっしゃったので、そのまま痛みと苦痛がないように治療をしながら、穏やかな最期になるよう見守っていきました。身近な家族に囲まれた静かな看取りとなりました。

癌告知は時代を経て、特に治療の選択は患者の自己決定が基礎となっていきました。以前のように医師から病名や治療に関して嘘をつかれることはなくなりましたが、どのような病気も、専門的な知識のない患者が治療を自己決定しなくてはならない時代となりました。自己決定を短い時間の中で強いられることから、医療者の十分な説明を受けられないまま、患者は自分の望みが本当は何であるのか分からないままに物事が進むことも見受けられるようになったのです。

緩和ケアの中では、患者の自己決定を援助するためのコミュニケーションが模索され、SPIKESといわれるコミュニケーションの技法が紹介されるようになりました[5]。患者がどこまで知っているかを理解し、患者がどこまで知りたいかを理解し、情報を共有し、さらには、患者の感情や心配事に応答し、今後の予定を検討する。患者の自己決定を援助するだけではなく、医師と患者の関係をこういうプロセスを経て良好なものにしようとするコミュニケーションの技法です。

そして、アドバンスドディレクティブ(advanced directive; AD) という概念も登場しました。これは自分が意志決定できなくなったときの医療行為と、代理意志決定者の選定が予め本人によって示されることです。またこのADを文書化したものをリビング・ウイルと呼びます。心肺蘇生行為をしない、延命をしないという事前意志を表明することであります。蘇生をするかしないかという意志決定を医療者は患者に求めるようになった。状態が悪くなってくると、担当医は患者、家族に予め医療情報と共に蘇生行為の有無を積極的に尋ねるようになりました。これは患者の意志を治療に反映したいという側面よりも、病院が蘇生行為をするのかしないのか決定する必要があるという意味において、医療者の対応を業務上規定するための記号になっています。こういった否定的な意見もあることから、さらにはアドバンスドケアプランニング(advanced care planning; ACP)という概念も登場しました[6]。ACPとは、ADと異なり「自分がこれから重篤な病気や状態になったときに、どこでどのようにどうやって過ごしたいかを話し合うプロセス」であって、特定の治療内容や行為を表明するものより広く表明するものです。看取りを目前にした蘇生行為の実施、不実施のみならず、どんな場所で(病院、自宅など)、どう過ごしていきたいのかを予め患者自身が決定していく。またその決定の援助には、医療者とのコミュニケーションが不可欠です。実際にACPを実施することで患者、家族のQOLは向上すると言われていますが[7]、ただ業務的に患者の意向を尋ねるだけなら何の意味もない対応でしょう。ACPの本質は、医療者と患者、家族が対話を通じてどうしていくのか探していくそのプロセスにこそ意義があるからです。すなわち、ACPが成立するには、患者と医療者との良好な対話が必要なのです。ここにACPの問題が伏流します。医療者が良好な対話、コミュニケーションができるかという問題です。結局ACPは、「最期は延命治療をするか」というADに加えて、「最期はどこで過ごすか」「食べられなくなったら胃瘻をつけるか」「呼吸ができなくなったら呼吸器をつけるか」というYes-Noで符号化される情報が増えただけの概念と誤解されている可能性があります。

さらに、このACPはADと同じく自己決定が基本となっているため、私が多く出会ってきた患者さんのように、「自分はどうしていきたいのかわからない」方々や、病状の進行によって考える力が低下した方々、ただ不安と恐怖におののく患者、家族とこれからどうしていきたいのかを考えるのには、ただコミュニケーションの時間が足りないだけではない問題の本質に、行き詰まる方もいらっしゃるのです。つまり、本当に人は自己決定をして人生を行き続けることができるのかという問題が提起されるのです。

加えて、自己決定はいつも自己責任がセットでつきまといます。医師は患者の治療を決定するというかつての重責、不快を、「患者の自己決定、自己責任」に転嫁することで軽減できるようになりました。「あなたが求めた治療を私は実施するに過ぎない」と、医師患者の人間関係は単なる契約関係に堕落していきます。そして、手術だけに興味がある医師、内視鏡だけに熱中する医師、心臓カテーテル検査だけに没頭したい医師といった、自身のアイデンティティを治療施術者としての技術の向上のみに執心する医師が増えたといっても過言ではない。こうして、「患者の自己決定」の追求の結果、医師は、患者、病人を含めた市民の聖職、そして人々の「師」であることを、自らやめてしまったのではないでしょうか。確かに患者が自分の人生に関わる決定を下す権利は大切で、患者が自己決定を達成する援助をすることは、医師にとってはとても重要な責務であります。医師は患者の人生の重大な決定にどう向き合うかいつも戸惑い続けている。現状は、私が医師になった頃も現在でも、医師と患者の非対称なまた交わることのない平行線は続いています。この平行線の間を結ぶ新たなチャンネル、つまりコミュニケーションや概念が開発されることを私を含む多くの医療者は心待ちにしているのです。

述べてきたように、医師が全能の振る舞いで患者の治療をしてきたパターナリズムの時代、医師が患者の人格の選別と家族の愛情を反映して治療してきたマターナリズムの時代を経て、患者自身が自分自身の治療を決定する権利を奪還した自己決定の時代を迎えてもなお、エンドオブライフケアのコミュニケーションを巡る問題は解決を見ません。10年単位で変化するコミュニケーションのあり方が今後どうなっていくのか、日常の臨床の現場の中で、自分がまだ気づいていない新たな次元と地平を汲み取ることができるのか、大きな好奇心を抱いています。そして隠れたコミュニケーションの秘密を少しでも解き明かしていきたいと決意を新たにしているのです。

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医師と患者の対話 第3話 呪いの時代

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2005年(平成17年) 呪いの時代

充実した内科医時代でしたが、ターミナル・ケア、終末期医療という言葉も徐々に目にするようになりました。また、次々にお会いする末期癌患者さんとの付き合いを通じて、人の死、看取りがもっと誇りあるそして実りあるものにならないのかと奮闘し始めました。それでも30を過ぎたばかりの、まだ好奇心と向学心の塊だった自分は、地方の病院で本を片手に見よう見まねで緩和ケアの実践をするのに耐えられなくなり、家族を連れて神戸のホスピスに就職しました。

ホスピスでは、毎週外来で新しく紹介になった患者さんや家族の話しを30-60分聞き、その方々の思いに耳を傾けていました。患者さん自身がホスピスを探してきて外来に来ると言うことは、ほとんどなく紹介の多くは、市内の大きな総合病院から主治医や、地域連携室の看護師、ソーシャル・ワーカーから助言されて来る方がほとんどでした。

そして、ある日初老の女性の患者さんが外来にやってきました。「今日はそういういきさつで、この病院に紹介になりましたか?」といつものように尋ねました。すると患者さんは、「担当している主治医の先生が、『もうあなたは3ヶ月も余命がない』『突然、血を吐いて急変することもある』と説明を受け、その後にここのホスピスを紹介すると言われました」と。そして、まだ十分自分の足で歩ける、毎日の暮らしにそれほど困難のない患者さんは、こういう説明を主治医に受けてから、毎日恐ろしくて、不安になると。かえって気持ちはふさぎ込み、外出を控えていると話していました。そして、まだ十分身の回りのことが自分でできるにも関わらず、「できるだけ早くホスピスに入院したい。家で過ごしていても『何か悪いことが起きるのではないか』と不安で仕方がない」と話してました。

最近は、病気のリスク説明、起こりうる悪い状況を、特に手術や処置の前に話すことは、インフォームドコンセント(説明と同意)の観点から当然行われるべき医師の行為とされています。またリスクの説明なく患者の診療を行った場合、不幸にも急に状態が悪化し死亡に至った場合にも、事前にその説明がなければ、民事裁判では不利になることも知られています。こういう状況で、医師は患者が「聞きたいか、聞きたくないか」という観点ではなく、自分自身の免責のために強く警告をするようになりました。「この病気で突然死ぬこともあります」「血を吐いて急変すれば、処置が間に合わず死ぬこともあります」「あと数ヶ月しか生きられないでしょう」そして、いつも患者、家族が聞かれる最も記憶に残る医師からの警告は、「いつどうなってもおかしくない」です。具体的な説明なく、ただ警告だけ受ければ、患者や家族の心的負担は非常に高まります[Shinjo T, J Clin Oncol, 2010]。いつも私が外来で耳にした、この医師によるリスクの説明、警告は、正しい病気の説明であるのか疑問に感じてきました。リスクをもっと具体的に丁寧に話すのが大事なのか、時間をかけて分かりやすく医療用語避けて、図を書いて説明するのがよいのかとも考えましたが、どうやら患者、家族の理解を促す説明のスキルの問題ではないとぼんやり考えていました。この患者、家族の心に深く突き刺さる、医師の正しいリスク説明はかえって、患者、家族を生きづらくさせている。何かがおかしいと思ったときに、ある本に出会います[田口ランディ、キュア]。この本の中で主人公の外科医がある患者に、膵臓がんの末期であることを告げます。そのとき患者は医師が勧める手術を拒絶します。そして医師に、「私の余命はどのくらいですかね?」と尋ねると、医師は迷いながら、「知りたいのですか?」と問い直す。うなずく患者。「手術をしなかった場合は、・・・・・・悪くて半年です」と医師は話す。余命の告知です。すると患者はこう言います。「呪いですね」「先生は、たったいま私に死ぬという予言を与えた。半年後にオマエは死ぬぞ。それを昔の人は呪いと言いました」

この医師が考えている、正しい病状説明は、一般の人達には呪いとして作用するのです。呪われた患者さん達に日々お会いする中で、私の仕事はその呪いを解くことに専念していました。まだ十分に生きる力がある患者に、呪いを解きどう生きていく支えをするのか。コミュニケーションの基盤は呪いを解くことに専念していきました。悪意のない呪いは、これからも従順な医師達により続くことと暗澹たる気持ちになるのです。

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医師と患者の対話 第2話 マターナリズムの時代

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2000年 (平成12年)マターナリズムの時代

1年半ほど奮闘した脳外科医生活を、自分自身の心身の疲労のため断念した私は、当時働いていた病院で大変お世話になった看護師(婦長さん)の助言もあり、内科に移る事となりました。そして、農村部の病院で、内科医として新たな気持ちで働き始めました。ここでは自分の専門を定めて仕事をするような働き方はできず、あらゆる疾患の方々を診療しました。ある日、外来に検診の結果胸部のレントゲンで異常がある患者さんがやってきました。レントゲンを一目見るとがんであろうことは容易に予測できました。患者さんには、「もう少し検査をしましょう。そして来週また検査の結果をお伝えします」と伝えました。CTの検査は即日完了しやはり進行した肺癌であることが分かりました。

当時は、まだがんを「告知しない」、特にがんの病名をはっきり告げることに躊躇のある時代でした。もちろん、病名をきちんと伝えてこそ、医師と患者の信頼関係は構築されます。つらいことでもきちんと向き合って話し、そしてつらい治療に臨むという医師もいました。しかし、農村部の病院では指導医も含め、まず家族を病院に呼び出して結果の説明をすることがほとんどでした。私もそれに倣って、まず診療の終わる時間日暮れ時に家族だけを呼び出しました。呼び出すときは、内科外来のベテランの看護師が心得ており「どうかご本人には内緒でいらしてください」とやや暗い声で、まるで悪い企みをするような声で電話してくれました。
そしてこの家族と対面し、検査の結果、肺癌であること、進行していること、治療の方法がかなり限定されることを話しました。そして、いつものように言葉を続けます。「本人に病気のことを告知しますか?癌だと伝えますか?」すると、どの家族もたった今聞いたばかりのことです。受け止めきれない事実にたじろぐのは当然です。落ち着く時間もない状況では「いえ、決して本人には言わないで下さい。落ち込んで生きていくこともできなくなりますから」と答える方がほとんどでした。
この患者さんは、ある日抗がん剤の治療のため入院しました。「肺にできたばい菌の塊を注射の薬で治す」と、予めどういう嘘をつくか家族と打ち合わせたとおりに、私も説明しました。「薬で病気を治しましょう」と話しました。家族も、そして入院した病棟の看護師達にも打ち合わせ通りの嘘を共有しました。まだ本人は肺癌の症状もほとんどないため疑うことなく、病気の治療が始まりました。しかし、ばい菌を殺すための注射ではなく、抗がん剤の注射です。当然副作用で身体がだるくなり、吐き気もありました。「おかしい、この注射はおかしい。どんどん調子が悪くなる」と不審がる患者さんに、「薬が強いので最初は身体がつらくなるのです」とさらに嘘を上塗りしていきます。こうして、抗がん剤の治療が続きました。残念ながら全く治療の効果もなく、病状は悪化する一方でした。退院できることもなく衰弱し、もう残った時間も少ないであろうと感じる頃、「本当は私は癌じゃないのか」と尋ねる患者さんに、家族も私も「肺のばい菌は思ったよりも強い」と嘘を続けました。家族とは無用な延命をしないことを話し合い、そのまま息を引き取る日がやってきました。延命をしないことの一番の理由は、家族も私も「もう十分病気で苦しんだ。楽にしてあげたい」という考えからでした。

日本では、2000年頃から、インフォームドコンセント、患者の権利が議論されるようになりました。しかし、患者の権利に先駆的であったアメリカでは、1950年代には「告知すべきかすべきでないか」、1960年代には「どのように告げるべきか」、1970年になると「告げた後にどう支えていくか」が議論されていました[2]。当時の日本では「ムンテラ」という隠語で患者説明がなされ、ドイツ語で"癌"を意味するKrebs(クレブス)の頭文字の"K"とカルテに書いたり、英語で"癌"を意味するcarcinomaを略して"カルチ"と患者の前では話したりしていました。不誠実であることは分かっていながらも、事前に家族と会って、本人への病名の告知を反対されれば、以後どう話してもなかなか覆らないことがほとんどでした。何故なら告知をしないということは嘘を重ねていく必要があるということで、どんどん真実を伝えることができなくなるからなのです。

それでは、当時告知をしない決定は何をもってしていたのでしょうか。今から思えば、医師の裁量と家族の愛情であったと思うのです。つまり、「この患者は告知に耐えられる人格であるのか」という医師の尊大な裁量と、「悪いことは少しでも先送りにしてあげたい」という家族の現状否認をはらんだ愛情です。医師は、初対面の相手の人格を瞬時にスキャンできるほど高い人間的能力はないため、正直に告白すると、自分の存在を神格化するような尊大な振る舞いで患者に臨む必要があった。そして、一緒に嘘をつく家族とは不思議な連帯感を感じていました。このいびつな状況を一番不快に感じていたのは、患者の側で看護する看護師達です。看護師は、患者の「本当はがんじゃないのかしら」「本当は私は治らないんじゃないのかしら」という本音を聞き届けることがあっても、家族、特に主治医から告知しない、さらには嘘の付き方まで打ち合わせている状況では、とても親身になって患者に応えることもできず、とても苦しんでいたはずです。こうした欺瞞に満ちたコミュニケーションではありましたが、患者の事を思うからこそ告知しないというマターナリズムに満ちた対応であったことは間違いありません。

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医師と患者の対話 第1話 パターナリズムの時代

ある雑誌から原稿を頼まれました。医師患者コミュニケーションは、私の関心分野ですし、色々と思い出していたらすっかり字数をオーバーしていました。短縮版を投稿しオリジナル版は、4つのストーリーに分けて、ここに残そうと思います。

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私は、医師になって今年で16年目です。そのうちの10年間を緩和ケアが専門の医師として働いていました。医師になってから、色んな病院と現場で働いてきました。医師と患者そして家族とのコミュニケーションのあり方は、めまぐるしく変化し、今も変化し続けています。私が今までに体験してきた色んな現場の状況を紹介し、私がその時に何を考えていたのか振り返りながら、終末期医療のコミュニケーションについて考えてみようと思います。

1996年(平成8年)パターナリズムの時代

時は、1996年。バブルも終わり90年代も終わりつつある頃でした。まだ日本も不況ではなく、全ての物事は今から少しずつでも上向きになると皆が信じていた頃でした。そんな時に私は、大学を無事卒業し医師として最初の一歩を踏み出しました。当時は脳神経外科医を志し、まずその修行を始めました。大学病院で数ヶ月の初期の研修医修行をした後に、医師が足りずに困っていた海辺の病院へと私は赴任しました。
仕事にも慣れつつあったある日、一人の脳腫瘍の患者さんが入院してきました。検査を済まし無事手術も終わりました。無事退院しそして外来に通院するようになりました。半身が不自由になる麻痺はありましたが、どうにか工夫をしながら過ごしていらっしゃいました。手術からしばらくして、肺炎で入院されました。脳の病気とは全く関係がないため、脳外科のチームでは内科の医師に相談しながらも、今までの医師ー患者関係を重視して、脳外科に入院しました。ところで、当時の私の母校の教育は、「一人の患者には一人の主治医。できる限り対応していく」という、筋の通った指導でした。手術、外来を担当している患者さんの不調は、どのような状況であっても、まずその方を一番知っている主治医が対応するというのが常でした。他の医師が当直中、夜間に自分の担当している患者さんが来れば、主治医に必ず連絡があるという、労働としては過酷な状況でした。

さて、肺炎で入院した患者さんの病状は残念ながら悪化してきました。よろけながらも歩けていた状況から、寝たきりとなりました。現在のようにベッドのマットがまだ不十分な頃でした。褥瘡(床ずれ)もでき、そしてその呼吸は徐々に弱ってきました。息の状態がさらに悪くなった時、患者さん、家族に「挿管して、人工呼吸をします」とだけ告げて処置を始めました。人工呼吸器で規則的に息をする患者さんは、肺炎の回復がないまま鎮静剤でずっと眠っている状態でした。そして数日後、「ずっと管を入れたままでは対応できないので、気管を切開します」と家族に伝え、その日喉を手術しました。その後もしばらく意識のないまま人工呼吸器につながれ、そして褥瘡の処置を定期的に実施しながら1週間も経たないころ、心臓が止まろうとしていることがその身体に装着した電極からモニタに映し出されました。呼び出された指導医と私は、救急用のワゴンを看護師と共に部屋に持ち込み、ありとあらゆる薬剤を投与し、そしてその心臓が止まると、かわるがわる心臓マッサージを始めました。既に身体は命の気配を失いましたが、それでも指導医の「もういい」と絞り出すような声を聞くまでは、「死んだ身体に心肺蘇生」を続けました。そして、部屋の外で待っている家族を部屋の中に呼び寄せて、処置の興奮の残る表情で、指導医は「○時□分 ご臨終です」と家族に目も合わせず告げました。

90年代までは、特に外科系の医師は、自分の手術した患者に対する責任感は強く、例え手術した疾患と関連のない状況であっても、責任感の表現から「死なせるわけにはいかない」という心理機制が働く。患者の状態が悪くなることに強い自責感を感じる結果、今振り返ってもこの方のように過剰な対応が常でありました。山崎章郎がかつて「病院で死ぬということ」で書いた[1]、過剰な心肺蘇生が家族や本人の同意なく開始されることが常でした。「死を忌避し、医学の腕力を100%信じる」時代ともいえました。まだ病院にも、終末期医療とか緩和ケアという言葉は全く知られていませんでした。

研鑽の毎日、考えるより動けという医師としての訓練の最中、本来終末期の患者にどう接するのがよいかを熟考するよりも、目の前の患者の状態を瞬時に把握し、次に何を為すかを徹底的に訓練していたのです。どんな道具を使い、どんな薬を使い、どんな処置をするのか。医師の発揮できる全ての手段が尽きたときに、やっと患者は死が許される。そこにはコミュニケーションという対話はなく、医師から患者、家族への一方向の通知しか存在しませんでした。治療が終了し、様々な薬の空き瓶や点滴の山、乱れた衣服と布団を我に返って眺めたときに(本当に人の最期はこんな雑然とした状態でよいのだろうか)と気になりました。しかし医師としての未熟な自分は、自分の微かな違和感をどう処理したらよいのか分からず、ただこういう雑然とした終末期の現場に自分が居合わせないように、患者を救う方法の研鑽を続けようと決意するのみだったのです。医師から患者へのパターナリズムが、迷う医師の心を支える柱だったと今も思います。

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2012年9月 1日 (土)

今どきの在宅医療9 友達からの救済メール ~祝福の微笑みと握手

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先日患者さんのお宅で相談を受けました。「私が癌になってから、新興宗教の友達から相当メールが来る。どうしたらよい?あなたを助けることが私にはできるとメッセージが来るの」と。「でも、何だか返事をしたくないのよね」と続きます。他人をコントロールしたいという欲望が強い方は、特に病者に近づいてきます。本人も善行をなしているという実感があるので、自分の行為に全くの疑いをもちません。洗脳というのは、他人をコントロールするための術ですが、さらに恐ろしいのは、他人を洗脳するための方法を洗脳者は伝授することです。

こうして他人をコントロールする洗脳はネズミ講のように伝播していきます。でも、内田樹先生の話す『「善」と「悪」を隔てるおそらく唯一の指標は「善は固有名に宛ててられる」が「邪悪なもの」からのメッセージは「不特定多数にばらまかれる」ということです。』ことを多くの人達は本能的に悟ります。案外人は(病者は)瞬間的に善と悪を見抜く力があります。僕は、彼らがマインドコントロールされないように善行をなすように絶えず努力しなくてはなりません。それには一つの場所に留まり続けない事、簡単な二極化される世界観に回収されないこと、このことをあらためて誓いました。

今、緩和ケアで培った様々な事から一度離れるのも、今流布されている様々な言説を疑い続けるのも、そういう意味があるとしっかり自覚しました。ツイッターっていいですね。一つの言葉を引き受けると色んな事が自分の中で拡張されていきます。

ところで、最初に相談を受けた患者さんには、「この方はあなたを支配しようとしている。だから近づいてはいけません」と話しました。そして、昨日の話「ご家族や周りの本当に大切な友人がどうしてこんなに親切なのかと負担に思うこともあるかもしれません。でも彼らには神様仏様が入ってしまったんです」という話に続くのでした。この患者さんに祝福あれ。そして僕のメッセージが祝福になりますように。診療の最後は祝福で終わる必要があります。ですから「また会いましょうね。大丈夫です、うまく暮らしていますよ」といつも患者さんとは微笑みながら握手します。

祝福の方法は、とんちの利いた言葉ではありません。微笑みと握手の中に宿ると信じています。

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