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2012年9月22日 (土)

医師と患者の対話 第1話 パターナリズムの時代

ある雑誌から原稿を頼まれました。医師患者コミュニケーションは、私の関心分野ですし、色々と思い出していたらすっかり字数をオーバーしていました。短縮版を投稿しオリジナル版は、4つのストーリーに分けて、ここに残そうと思います。

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私は、医師になって今年で16年目です。そのうちの10年間を緩和ケアが専門の医師として働いていました。医師になってから、色んな病院と現場で働いてきました。医師と患者そして家族とのコミュニケーションのあり方は、めまぐるしく変化し、今も変化し続けています。私が今までに体験してきた色んな現場の状況を紹介し、私がその時に何を考えていたのか振り返りながら、終末期医療のコミュニケーションについて考えてみようと思います。

1996年(平成8年)パターナリズムの時代

時は、1996年。バブルも終わり90年代も終わりつつある頃でした。まだ日本も不況ではなく、全ての物事は今から少しずつでも上向きになると皆が信じていた頃でした。そんな時に私は、大学を無事卒業し医師として最初の一歩を踏み出しました。当時は脳神経外科医を志し、まずその修行を始めました。大学病院で数ヶ月の初期の研修医修行をした後に、医師が足りずに困っていた海辺の病院へと私は赴任しました。
仕事にも慣れつつあったある日、一人の脳腫瘍の患者さんが入院してきました。検査を済まし無事手術も終わりました。無事退院しそして外来に通院するようになりました。半身が不自由になる麻痺はありましたが、どうにか工夫をしながら過ごしていらっしゃいました。手術からしばらくして、肺炎で入院されました。脳の病気とは全く関係がないため、脳外科のチームでは内科の医師に相談しながらも、今までの医師ー患者関係を重視して、脳外科に入院しました。ところで、当時の私の母校の教育は、「一人の患者には一人の主治医。できる限り対応していく」という、筋の通った指導でした。手術、外来を担当している患者さんの不調は、どのような状況であっても、まずその方を一番知っている主治医が対応するというのが常でした。他の医師が当直中、夜間に自分の担当している患者さんが来れば、主治医に必ず連絡があるという、労働としては過酷な状況でした。

さて、肺炎で入院した患者さんの病状は残念ながら悪化してきました。よろけながらも歩けていた状況から、寝たきりとなりました。現在のようにベッドのマットがまだ不十分な頃でした。褥瘡(床ずれ)もでき、そしてその呼吸は徐々に弱ってきました。息の状態がさらに悪くなった時、患者さん、家族に「挿管して、人工呼吸をします」とだけ告げて処置を始めました。人工呼吸器で規則的に息をする患者さんは、肺炎の回復がないまま鎮静剤でずっと眠っている状態でした。そして数日後、「ずっと管を入れたままでは対応できないので、気管を切開します」と家族に伝え、その日喉を手術しました。その後もしばらく意識のないまま人工呼吸器につながれ、そして褥瘡の処置を定期的に実施しながら1週間も経たないころ、心臓が止まろうとしていることがその身体に装着した電極からモニタに映し出されました。呼び出された指導医と私は、救急用のワゴンを看護師と共に部屋に持ち込み、ありとあらゆる薬剤を投与し、そしてその心臓が止まると、かわるがわる心臓マッサージを始めました。既に身体は命の気配を失いましたが、それでも指導医の「もういい」と絞り出すような声を聞くまでは、「死んだ身体に心肺蘇生」を続けました。そして、部屋の外で待っている家族を部屋の中に呼び寄せて、処置の興奮の残る表情で、指導医は「○時□分 ご臨終です」と家族に目も合わせず告げました。

90年代までは、特に外科系の医師は、自分の手術した患者に対する責任感は強く、例え手術した疾患と関連のない状況であっても、責任感の表現から「死なせるわけにはいかない」という心理機制が働く。患者の状態が悪くなることに強い自責感を感じる結果、今振り返ってもこの方のように過剰な対応が常でありました。山崎章郎がかつて「病院で死ぬということ」で書いた[1]、過剰な心肺蘇生が家族や本人の同意なく開始されることが常でした。「死を忌避し、医学の腕力を100%信じる」時代ともいえました。まだ病院にも、終末期医療とか緩和ケアという言葉は全く知られていませんでした。

研鑽の毎日、考えるより動けという医師としての訓練の最中、本来終末期の患者にどう接するのがよいかを熟考するよりも、目の前の患者の状態を瞬時に把握し、次に何を為すかを徹底的に訓練していたのです。どんな道具を使い、どんな薬を使い、どんな処置をするのか。医師の発揮できる全ての手段が尽きたときに、やっと患者は死が許される。そこにはコミュニケーションという対話はなく、医師から患者、家族への一方向の通知しか存在しませんでした。治療が終了し、様々な薬の空き瓶や点滴の山、乱れた衣服と布団を我に返って眺めたときに(本当に人の最期はこんな雑然とした状態でよいのだろうか)と気になりました。しかし医師としての未熟な自分は、自分の微かな違和感をどう処理したらよいのか分からず、ただこういう雑然とした終末期の現場に自分が居合わせないように、患者を救う方法の研鑽を続けようと決意するのみだったのです。医師から患者へのパターナリズムが、迷う医師の心を支える柱だったと今も思います。

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