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2012年8月29日 (水)

僕が、尊厳死法案に反対する理由

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昨日、尊厳死の法制化を認めない市民の会 に参加しました。かねてよりこの法案には不備が多いと感じていました。僕が法案に反対するのは、医師が患者が終末期と判断することに科学的根拠が乏しいという理由からです。以下にそのことについて述べたいと思います。

医師は終末期を診断できるか?

(終末期に係る判定)
第六条 前条第一項の判定(以下「終末期に係る判定」という。)は、これを的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき行う判断の一致によって、行われるものとする。

昨日、尊厳死の法制化を認めない市民の会 に参加しました。この法案の原案を見ると分かりますが、医師が終末期であるという診断をします。本当に医師は終末期を診断できますか?死が不回避である診断はできるのでしょうか。数々のレビューでも、進行がん患者の30日程度しか予後予測ツールでは診断できないのに 1,2)、どうやって終末期を診断するのか、僕には分かりません。また予後30日が終末期と言うことで良いのでしょうか。余りにも短すぎる時間ではないでしょうか。現時点ではまだ、科学的根拠も対象となる患者が限定されており、根拠が乏しいことから結局は、医師自身の記憶に強く留まる特に最近の記憶に左右されるようなバイアスが強く影響します(availavility bias)。目の前の患者さんに似た別の患者さんの記憶から、予後を予測し助言するのです。「目の前の私」に対するメッセージではないことが明白です。

さらに、がん以外の疾患に関しては、経過も個人個人で差が大きく、また突然状態が悪化することもあります3)。反対に状態が回復することもあり、「死が不回避」という判定は非常に困難というのが実感です。「死が不回避」である確信がない故に、結果的かつ後方視的に延命治療、過剰治療という判定がされます。つまり、今行っている治療が、延命であるか過剰であるかという判定は現在という時間の中では判定できないのです。全ては事後判断されます。ですから、通常の臨床医は今行っている治療が延命治療で過剰治療であるという確信は得ることは、ほとんどありません。

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このような科学的根拠のない、観念的な死生観、人生観を語り、法案を作られるのは、医学の進歩に貢献し実践したいと考える、普通の臨床医としてはとても不快なことです。仮に法律成立後の、厚生労働省令で(例えば臓器の移植に関する脳死判定の細かな手順は、法律ではなく、省令に記述されます)再現性と反証可能な、終末期を診断する操作的な手順が明記されたとしても、そこに科学的根拠を見出すことは不可能でしょう。

死が不回避である終末期の診断は、2名の医師が集まっても新しい根拠が生まれてくることはありません。せいぜい、根拠のない終末期であるという判断を強いられる医師の心的負担を2名で共有することで、罪悪感が軽減する効果だけでしょう。

まだ現時点ではまだ、医師による終末期の判定、すなわち予後の予測は占いの域を出ないというのが自分の臨床経験からの実感です。もしも、目の前の患者に対して、「終末期である」という診断を臨床医が下せるとしたら、命の線引きもうこの人は死んだと同然だ、生きている価値はないだろうという、一方的で個人的な価値観から判断しているに過ぎません。生きている価値がないから、診療している患者の治療を不開始または中止するのであれば、その根底にあるのは、科学的根拠に基づく医学を実践する医師としての社会的に信託された崇高な働きとはいえません。本質的には、偏向なイデオロギーで患者いや人間を支配しようとする慈悲殺(mercy killing)とほとんど変わりはありません。つまり尊厳死法案は、患者個人がどのように生を終える、死に方を選ぶかという尊厳死という発想から、ほぼ同一直線上の、自分が死にたい時に死ねる安楽死とほとんど等しくなるだけでなく、もっと恐ろしい現実となる可能性があります。それは、たとえ死を間近に意識していない患者が尊厳死を表明していたとしても、診療した医師の個人的な独断により患者の命が選別されるという、医師による殺人に近い状況が生まれる可能性があります。

目の前の患者が終末期であるという、精度の高い、どこでも実施可能で、再現性のある診断技術が確立されないまま、この法案が適用されるのには、僕は反対です。反対するのは、僕自身の医師としての志向や誇りの問題ではなく、今までに関わった、自分の力で崇高な死を達成した2000人近い患者さんを、裏切るよう気になるからです。彼らの崇高な死に苦痛がないよう医師として努めてきました。決して、僕自身の「価値のある命、価値のない命」という選別で彼らの人生の時間が変わることがないようにと決心して臨んできました。まさに、彼らの生の尊厳が保たれその延長が死であったと確信しています。彼らの生の尊厳を保つことしか、同じくこの世界を生きている僕にはできない仕事でした。尊厳は死に宿るのではなく、生にこそ宿ることを強調したいと思います。

最後に、今議論されているこの尊厳死法案(終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案)は、個人的な死生観や感情論が議論の中心になるのではなく、様々な知見とデータを基にした科学的根拠を基礎とする医学的な議論として再検討される必要性を、一臨床医として主張します。

参考文献
1) Maltoni M J Clin Oncol 2005
2) Stone PC Ann Oncol 2007
3) Lynn J JAMA 2001

補足
昨日の会のUstream(録画)はこちら

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