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2012年6月

2012年6月23日 (土)

今どきの在宅医療 6 隣の芝はなぜ黒く見える。 「なぜ免疫クリニックは、嫌われるのか?」

緩和ケアのガイドラインを一緒に頑張って作った友人と、昨日とある会で偶然会いました。現在彼は、神戸の免疫クリニックで働いているということです。以前の勤務先で、診察していた患者さんが時々このクリニックに通っていたこともあり、どんなところなんだろうと思いながらも、なかなかクリニックの関係者に出会うことができず今まで来ました。1年ぶりに友人に会えて、神戸にいることが分かったのが嬉しくて、また自分の好奇心を抑えることができず、早速念願の免疫クリニック見学に行って来ました。

いつも別の医療機関に見学に行くと気がつくことがあります。それは、一つ一つの事に意味が込められているということです。特にこのクリニックでは、科学的な根拠、作業工程、同意の確認、診療の丁寧さ、全てに創意と思慮が満ちていることに感心させられました。自分の経験では、病院に勤めると、どこへ行ってもよその病院を悪く言います。「あそこはな、だいたいやりすぎやねん」、「あそこはな、やっぱり手を抜いているねん」、「あそこはな、怪しいねん」隣の芝は青く見えるどころか、黒く見えるというのが病院同士の流儀のようです。お互いがお互いを怪しんでいる。僕はどの病院でも、その閉じられた世界の中で、あり合わせの知恵と道具を駆使して最大のパフォーマンスを得ようとする人たちに多く出会ってきました。そしてその創意は過飽和し、その思慮は時に自制から自罰に変わります。つまり、病院各部門が最高のパフォーマンスを追求する余り、外来も入院も検査も手術も予定がきちきちで、「もうこれ以上工夫できない、もうこれ以上がんばれない」とみんなの息が上がって過飽和をおこしています。他から見ればまだまだ仕事に余裕があると思っても、どの現場もその現場で過飽和しており心の余裕はありません。そして、最高のパフォーマンスを維持するためには、手を抜きそうになる心と、怠けそうになる心、そして「もうこれぐらいで勘弁してよ」という疲労感を必死に自制し続けます。つまり、自罰的に自分を追い込んでいきます。

この過飽和と自罰の根底には何があるのだろうといつも考えていました。自分の今までを振り返ると、「患者さんに最善を為したい」という強い倫理観と、「自分が差し出せる最高のパフォーマンスを披露したい」というプロフェッショナリズムだろうと思います。研修医の1年目でも自分のパフォーマンスの飽和度を高める努力は、必ず周りの人達の信頼を得ます。ですから、この倫理観とプロフェッショナリズムがあれば、どんな場所でどんな医療を提供していても、必ず相手、患者さんや家族の心には大事なメッセージが届きます。

この免疫クリニックの友人は、初回の面談でじっくりと1時間はかけて説明するそうです。
現在の科学は、免疫療法の基礎となる各免疫細胞達の振る舞い全てを解明できていません。現時点では、まるで散逸した交響曲の未完成楽譜を修正加筆するように、そのエビデンスの間と間を結びつけていかなくてはなりません。そこには個性と、そして物語を作り出す隙と余地があります。つまり、「免疫を高めるには、○○をすればよい」とか「免疫を高めるには、××をしてはならない」とか「◎◎を食べると、免疫が高まる」とかそういう類の話で、エビデンスを補完すれば、医師も患者も家族も三方にっこり笑ってめでたし解決することの方が多いでしょう。でも、友人はその堕落を採択せず、誠実に理論を説明し、治療の過程を説明し、治療の限界を説明していました。それを見て、私が講演会で話をする時にいつも感じていることを思い出しました。それは、人は講演でも説明でも話の内容(コンテンツ)はほとんど覚えていないということです。しかし人は、(この話は、みんなにいつもしている話ではなく、あなたにとって大切な話なんですよ、そういう心構えで聞いて下さいよ)というメタメッセージや、(とにかくあなたのために、私は手を抜かず説明します)という大切なあなた宛のメッセージだけは聞き分け、そして深く心に記憶します。友人から患者さんへと語られる言葉には、この二つの大事なメッセージが必ず含まれていることに気がつきました。

僕がクリニックを後にするとき、友人はエレベーターホールまで見送ってくれました。そこで、診察を後にして、エレベーターを待っていた患者さんと出くわしました。その患者さんはこう言いました。
「信頼できる院長に出会えて本当に良かった。あんたに命預けるわ」

免疫療法を裏付ける確かな理論構築、臨床での成績のリサーチ、治療を提供する運営体制の監査、治療の費用の吟味、様々な問題はありますが、このクリニックでの創意と思慮、そして何よりも友人から発せられる大事なメッセージを見届けたとき、「あの病院は何をしているか分からん」と隣の芝は黒いと毒づく前に、自分たちの環境の過飽和を自覚しなくては、自分の心の芝まで黒くなるなとつくづく思いました。隣の芝は黒いと思いたくなるほど、現場の医師それぞれに切羽詰まった過飽和、つまり精神的疲労と、バーンアウトがあるのかもしれません。そして、もしかしたらこれが「免疫クリニックが嫌われる」理由なのかもしれません。「オレはこんなに今の現場で無理をして無理をしてがんばっているのに、あいつらは楽して儲けやがって」そんな風に毒づく理由は、「彼ら免疫クリニックが儲けているから」ではなく「自分自身が今の現場の矛盾に押しつぶされそうになっているところにある」のかもしれません。

自分の過飽和を自覚する一つの方法は、今の僕のように一旦その環境から離れて色んなところを旅する(見学して回る)ことだというのが、この数ヶ月の開業前のモラトリアムな時期に得た、人生の大きな収穫でした。この収穫は、以前の「とにかく免疫クリニックは怪しい、邪悪だ」と、話を聞く前から切り捨てていた自分自身の心理状態を冷静に振り返る機会をも与えてくれました。
今日友人と話していても、免疫療法が、良い治療なのか、有望な(promisingな)治療なのか、正直僕には分かりませんでした。ただ、自分が以前はホスピスの仕事に過飽和を感じ、隣の芝を黒く見たいという欲望があり、その根底には自分自身が善を為しているのか、最高のパフォーマンスができているのかという疑問があったのだということを深く実感した日でした。

これからもしばらくは、免疫クリニックは嫌われ続けることでしょう。しかし、必要以上に患者さんから治療費をとり儲けすぎるクリニック、陳腐な免疫物語で本質的な問題をそらす医師は、必ず淘汰されていきます。なぜなら、患者さん達は、さきほど書いたように、難しい理論や免責事項の内容(コンテンツ)を吟味することはできなくても、内容を超えた重要なメッセージを受け取る感度はとても高いからです。僕はエレベーターホールで言葉を交わす患者さんと友人を見て、とても大切なことを思い出し、ここに書き留めました。今日はありがとうございました。

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