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2012年5月

2012年5月25日 (金)

今どきの在宅医療5 自分を助けてくれる特別な患者さん

先日、地元の勉強会に参加しました。そこでは、自分が以前働いていたホスピスで対応に苦労した患者さんが取り上げられ、元上司が時間経過と共に色んなエピソードを紹介していました。気難しく、言葉が鋭い患者さんとどうやって時間を過ごしてきたのかを説明し、その内容に会の参加者からは様々な意見が交わされました。僕は、退職後とはいえ元の職場の発表ですから、身内ということで意見ははさまず、発言を遠慮していましたが、ある思いつきが心に残りました。そして時間と共に、言葉となりましたので書いておこうと思います。

その思いつきとは「自分を助けてくれる特別な患者さん」の事です。
僕は10年働いたホスピスを辞めて今は、開業の準備をしながら二つの診療所で働かせてもらっています。今までのキャリアをいかせる仕事ですし以前から知った方々との仕事ですが、最初は緊張し、在宅医療という不慣れなフィールドで自分がぎくしゃくし、緊張していることを実感していました。それでも知らない間に2ヶ月が過ぎると、どちらの診療所のスタッフの方々とも息が合ってきて、徐々に緊張が解けてきました。そのきっかけになったのは、やはり患者さんなんです。患者さんの診療と対話は、自分のフィールドや職場が変わっても、何も変わっていない大切な何かを教えてくれます。周りの景色が変わっても医師は医師、患者は患者。言葉を交わして、その患者さんだけのことを考えてメッセージを贈ると、患者さんは応えてくれます。こうして、医師と患者を超えて、すこしずつ、僕とあなたの関係になっていくと、自分の緊張や気負いは徐々に消えて、自分のできることをひたすらに捧げることができる関係になれます。

初めての患者さん宅へ往診に行くときには、もらっている紹介状や、看護師さんからの情報があるとはいえ、緊張で身が固くなります。どんな状況なんだろうか、自分がうまく対応できるだろうかと、研修医の時に感じたあの緊張と同じ種類の緊張を今でも感じるのです。それでも実際に会って、言葉を交わし、その風景に自分もおさまると、知らないうちに体は動き、頭は考え、表情は和み、口はメッセージを贈ることができるようになります。こうして、結局自分のパフォーマンスが上がる時には、患者さんに助けられているということが分かるのです。「患者さんから力をもらう」と人はよく言いますが、力をもらうと言うよりも、特別な患者さんとの出会いは自分の気負った力を抜いてくれるそんな風に僕は思います。

先ほどの勉強会の話に戻ります。その気難しく、言葉が鋭い患者さんの応対をしていた一人の看護師さんは、毎日苦労しながら知恵を絞り、長い時間かけて熟成したケアの一つ一つを説明していました。結局患者さんのケアを通じて、その看護師さんと患者さんの心はつながっていき、大きな信頼を生み出したことを実感させる、説得力のある発表でした。でも僕は、自分の今を振り返りながら別のことを考えていました。それは、発表していた看護師さんが、この気難しい、言葉が鋭い患者さんに助けられて、ついにホスピスのチームのフルメンバーになったいうことです。この看護師さんは、まだホスピスにいらして時間が浅く、僕が一緒に働いていた頃は、どこかに緊張があり、自信に満ちあふれているというよりも、(本当はちゃんとできるのに、どうしてぎくしゃくしてしまうんだろう)と、今の自分が感じている気負った力を感じました。

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誰でも新しい職場に加わると、その職場のルールや連日のやりとりのリズムがつかめずに、毎日とても疲れます。自分は本当はもっとできていたはずなのにと自信をなくしたり、反対に「以前の職場ではこうでした!」とついムキになったり、とにかく毎日緊張が続きます。新しい職場は、すでにゲームが行われているスタジアムに突然ある日立たされるようなものです。突然、パスが飛んできたり、突然、大きな声で自分に合図が来ます。でも、そのスタジアムのゲームのルールが分からなければ、とりあえず緊張しながら、それまでに培った何かしらのパフォーマンスで、その場をしのぐしかありません。失敗したり、成功したりしながら、徐々にそこでのルールを理解していきます。あるチームのスター選手が、移籍である日から別のスタジアムで、新しいチームに加わった時、借りてきた猫のようにそれまでのよいパフォーマンスができなくなるはずです。

スポーツなら毎日チームで練習を積み重ねる間に徐々にお互いのリズムもつかめ、時間と共に解決されていくことでしょう。しかし、医療の現場では時間と共に解決されるというよりも、ある時自分を新しい職場(チーム)の一員(フルメンバー)に導いてくれる、「特別な患者さん」に出会うのです。徐々にルールを体得すると言うよりも、たった一人の特別な患者さんの登場で急にすっと視界が開けてそこでのルールと振る舞いが分かるようになるのです。この勉強会で、看護師さんの自信に満ちあふれた声を聞きながらそんなことを考えてました。そして自分にとっても、在宅医療の新しい同僚と自分を結びつけた、心に強烈な印象を残した患者さんが思い浮かびました。

そんな特別な患者さんは、気難しく、言葉が鋭い方かもしれません。また柔和で穏やかな方かもしれません。ある日急に出会うそんな特別な患者さんに、自分は何度助けられてきたんだろうと深い感謝の気持ちが心にわき上がってくると同時に、きっとあの勉強会に参加した一人一人にそんな特別な患者さんがいるんだろうと想像すると、大きな世界の広がりを感じて、一人で感激してしまいました。

どんな世界の方々にも、そんな特別な一人と出会うことがあるのではないでしょうか。
スポーツの世界なら、特別の試合。会社員なら、特別のクライアント、製造業なら、特別な共同作業、セールスマンなら、特別な顧客、そして医療職なら、特別な患者さん。そんな特別な一人との出会いは、予期せず準備せず出会いは突然です。そしていつも好印象の方とは限りません。意外なところから、急に自分の世界に登場します。そう考えると何だかわくわくしますね。

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2012年5月 2日 (水)

今どきの緩和医療4 においと文化について

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4月から久しぶりの往診を始めたのですが、先日の文章で、僕は昼間の明るさと日の光の心地よさを新しい仕事を始めた高揚感で、「心地の良い町のにおい」と書きました。しかし、真実はその心地の良いにおいは移動中のにおいなのです。往診をしていると移動中が我に返る時間、そして頭を整理し、休憩の時間です。いわば、舞台袖のような場所です。そこで感じる周囲の空気は、本当はプライベートなもので、自分の心の状態が反映されてどんなにおいも良い香りに格上げします。でも、本来仕事のにおいは、その移動の前後です。いや、移動は本来の仕事の時間ではなく保留された状態です。舞台の上で感じるにおいというものは決して心地よいものだけではありません。今回はそのことについて書いてみようと思います。

各家庭への往診をすると分かります。多くの患者さんは自分の家から出て行くことができないため、往診を受けることになるのです。ということは、自分の力がほとんどない。自分の力がほとんどない状況になるとまず部屋が散らかってきます。掃除や整理整頓にも力がいるのです。ある方は、真夏にこたつ布団もそのままで生活し、ある方は、何に使うのか分からないような道具や置物に埋もれ、ある方は、手に取るもの全てがベッドの周りに散乱し、またある方は台所に洗い物が山積みになり原形をとどめないほどです。もちろん、ヘルパーの方々もいらっしゃって、洗い物はしていることが多いので、作った料理が何ヶ月も鍋に入ったままで放置され異臭を放つなどということはありません。ただ、「ものを捨てる」ことは本人にも、そして身近な援助者であるヘルパーも、「片付けることができないなら、片付けてあげよう」「捨てられないのなら、捨ててあげよう」と、いくら相手のためとはいえ、各家庭の整理整頓は、自分の判断だけではできないのです。とにかく往診先でいつも感じるのは、どの家庭にもものが多い。「いつか使うかもしれない」と思うのか、「かたづける気力すらない」のかよく分かりませんが、何から手を着けたら良いのか分からないほど散らかっています。

この散乱した室内についての考察は、ケアをひらくシリーズで精神医の春日武彦先生が面白い考察をいくつかしていらっしゃいます。春日先生が指摘したように、この散乱した室内と病んだ家族は両軸です。しかし、どの家庭もそれぞれは小宇宙で、その家庭にしか通用しないルールとバランスが存在します。一見散らかった居間、ものにあふれて寝る場所もないほどのベッドにも、彼らの侵しがたいルールがあるのです。もちろん、皆さんの職場にも片付かないデスクの上司や、家庭に帰れば、片付けられない妻と生活している方もあるでしょう、またあなた自身が片付けられない人かもしれません。その混沌とした状況にもルールがあり、「ああ、あれはここよ」なんて話しながら、名人芸のように、書類の山からお目当ての紙切れを探し出す、超人的な検索能力に舌を巻くこともあると思います。

そして、この散らかった部屋にはそれぞれ固有のにおいがあり、各家庭のまた患者さんのにおいと混ざり合っています。しかし、そのにおいは、患者さん限らず皆さんが小さいときから誰かの家に遊びに行ったとき、玄関をくぐった瞬間にかぐあの「自分の家とここはちがう」というにおいと同じものです。そのにおいは時に自分にフィットし心地よく、また多くは、散らかった部屋と共にやや不快なものとして感じられます。このにおいは純粋に嗅覚だけに由来するものではなく、散らかった部屋の視覚にも影響を受けたにおいなんだと思います。

自分の職場を振り返って考えてみると、同じ病室が並んだホスピス病棟にはなかったにおいです。ホスピスの病棟では、やはり無臭の空間です。各部屋は患者さんが退院すれば、(亡くなれば)次の人のために明け渡されます。誰も決して口にしませんが、一つの部屋一人の患者さん、家族に独占されず、時と共に多くの人たちに使われるのです。最近もある方と話して気がつきましたが、無臭な空間に文化は生まれないのです。そこは医療の部屋であって、暮らしていたにおいに満ちあふれた家ではないのです。

僕は、自分の全てをかけて働いた、ホスピスや病院での生活や看取りを否定する訳ではありません。ただ、無臭な部屋と病棟には文化は生まれないと言うことです。どれだけボランティアや、レクリエーションを工夫しても、それはどこか恣意的なにおいを漂わせ、活動が終わるとすぐに消えていくにおいです。いつまでも、そのにおいを閉じ込めようと写真を撮ってベッドサイドに飾ってもすぐににおいという文化の化身は消えていきます。

僕の往診先には、集合住宅、マンションも多く、昭和の公団住宅にもよく行きます。その公団住宅は、すでに外壁も朽ち果て、エレベーターからは異臭とも言うべく鼻をつくにおいが発せられています。汗のすえたようなにおい、恐らく野良猫のし尿のにおい、食べ物が腐ったようなにおい。また独居の高齢者マンションには、尿が床に水たまりを作り、異臭を放っています。余りのにおいに息をこらえて、往診することもありますが、不思議とその風景に自分がおさまり5分も経てば何にも感じなくなってきます。においほど順応しやすい刺激はないのではないかと思うほどです。この、病院には決してなかったにおいはそのままその家庭の文化です。また、日本が高度成長を経て、物質的に豊かになっていく過程の中で、あふれていくモノの数々が、各家庭の風景とにおいを形成しています。このにおいとは患者さんの体臭というだけではなく、それぞれの家庭を小宇宙を識別するコードのようなものではないかと思うほどです。


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病院に勤務しているときには、患者さんをにおいでコードし、記憶することはありませんでしたが、今は往診の移動中に次の家のにおいを自分の鼻に予感しながら移動しているのです。町のにおいとは、決して心地よいものだけではなく、時にはかなり不快なものです。しかし、このにおいこそが実は文化の源であり、自分のにおいとの差異を自覚することが、相手の家庭と生活を尊重し、相手の生活の質(QOL)を感じる第一歩なのではないかと、今の僕は考えているのです。

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