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2012年4月

2012年4月27日 (金)

症例の相談

どなたかお知恵をお貸し下さい。現在診療している方です。

本症例は複数の医療機関にコンサルトの後、「リウマチ性多発筋痛症」と診断しました。NSAIDsの投与のみで、状態が改善しております。色んなコメントいただきまして本当にありがとうございました。

89歳 女性
主訴 発熱、関節痛
既往歴 アルツハイマー型認知症(10年前より)、高血圧、2型糖尿病(20年前より)
<感染症>
HBS(-)、HCV(-)、Wa(-)


10年以上前から、認知機能の低下はあり。20年近くのDMあり。去年までは室内を杖歩行する程度で、病院の外来受診もできていた。

今年の1月に右足指が腫脹、発赤し皮膚科を受診した。その時は白癬といわれ、外用薬を処方された。2月に頚部の痛みがあり、整形外科で診察を受け、頸椎カラーの処置を受けたが、軽快せず、その後から発熱し、A病院へ入院した。

上下肢の疼痛も発熱とともに認めていたが、精査(含、整形外科診、心エコー)にて原因はわからず。抗生剤投与等にて病状は軽快し、上下肢痛も消失した。しかし3月にも同様の病態となり、入院にて抗生剤治療を実施。やがて軽快し、同月19日に退院となった。これらの入院によりADLは著明に低下し、もともと室内歩行可能であったが退院時にはほぼ寝たきりとなっている。その後の在宅療養に向け、当院紹介となった。

<訪問診療開始後の経過>
2012年3月26日に発熱、下肢痛あり、ご家族より当院に緊急往診の依頼あ
り。同日より抗生剤治療(クラビット×5日)を実施。その後発熱の頻度
は減少。しかし時折、発熱+関節痛の発作は見られる。仙骨部、右踵部
の褥創は創傷被覆材使用、マット変更等にて軽快傾向にあり。

身体所見
項部硬直、Kernig徴候あり。
連日微熱が続いている。
項部硬直、膝、手関節の他動運動で痛みが強い。

収縮期血圧     108 mmHg
拡張期血圧      60 mmHg
脈拍         58 回/分


<特記すべき検査所見>
2012年4月5日採血
ALB 2.8↓と低アルブミン血症あり
BUN 47.4↑、Cr 1.29↑と腎機能障害の疑いあり
K 5.0↑と軽度高カリウム血症あり
BS 261↑
WBC 10500↑、CRP 20.86↑と強い炎症所見あり
RBC 321↓、Hb 9.1↓より貧血あり

投与中の薬剤

RP01 【般】アムロジピン錠5mg(ノルバスク 錠5mg) 1 錠
  内服:分1 朝食後
RP02 ニューロタン錠25mg 2 錠
  内服:分1 朝食後
RP03 【般】ドネペジル塩酸塩口腔内崩壊錠5m
g(アリセプトD錠5mg) 1 錠
  内服:分1 朝食後
RP04 エンシュア・リキッド 750 mL
  内服:分3 14 日分


北海道、海外の渡航歴なし。
この冬に先行する感冒症状なし。
現在も、左足に刺し傷のような創がある。原因は不明。


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確定診断に至らず、対症療法のみで対応中です。どなたかお知恵をコメント欄にお願い致します。

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2012年4月22日 (日)

今どきの在宅診療3 若さ故の過ち?

今は、2つの診療所で開業までの修行をさせて頂いていて、そちらから往診に行かせて頂いています。そして、残りの1.5日を開業の準備や色んな施設の見学にあてています。先日、とある診療所の往診に立ち会い、感じたことを備忘録としてここに記しておこうと思います。

医師の心構え
医師は、何年目であっても知らず知らずのうちに自分が「完成品」であるという錯覚に陥ります。「また調べておきますね」「色んな人に聞いてみます」と素直に言えず、その場で明確な答えを出そうと、つい無理をしてしまいます。そう、物事を「保留する」といういわば中腰の体制を維持し続けることを、若いうちは嫌悪します。
その事を感じたのはこんな出来事からでした。
ある施設で、こんなことがありました。その方は、在宅酸素を導入した高齢の男性でした。恐らく長期間の喫煙を経て肺気腫になったと思われます。その方の診察に若い医師が対応しているのを側で見ていました。
男性は、「いつも息苦しい、よくならない」と話していました。案外けろっとした顔で話していて、連日そんな言葉を繰り返し、また診察の度に繰り返し聞いているうちに、物事の重大さは慣れと中和されて、(まあ、いつものことだから多分大丈夫だろう)と考えてしまうのです。僕も臨床経験が長いので分かります。あらゆる方法を駆使しても患者さんの笑顔が獲得できないときに医師としての無力を感じますが、自分も万能ではありません。また、薬は人間に新しい力を生み出すものではなく、その方の本来持っている力を引き出すための小道具です。しかし、ひとたび見ただけでは、その方の持っている本来の力を見抜くことはできません。時間をかけ試行錯誤をするうちに、徐々にその方の持てる力というものが何となく分かってくるのです。それは多くの人たちを診療した経験というものかもしれません。その方が持っている力を一番発揮できたらどういう毎日を過ごせるのだろう、その力の最大化を目指すのが、僕の経験から得た臨床の感覚です。

若いうちはわかりませんでした。薬の処方を組み合わせることで、立ち上がれなかった人が再び立ち上がる力を得るとか、この男性のように酸素を使えば息苦しさはなくなり行動範囲が広がる、と考えていました。いや、考えようとしていました。だって、自分の持っている全ての知識の限界を超えたところにある相手の苦痛に、対応する術がありませんでしたから。その若い医師も、かつての自分のように一生懸命対応していましたが、口にする言葉はこんなものでした。

「先生、いつも息が苦しいんです」そして、その医師は応えます。
(酸素飽和度が90%を超えているのを確認し)「いや、数値を見ると肺は大丈夫なんですよ」
そして、さらにその男性を説得し始めます。
「これくらいの状態なら普通、息苦しくないと思いますよ」

もちろん何も手を施していないわけではありません。薬物療法は適切に肺気腫にあったものを投与していました。そして、酸素を増量し、特に動いた後の酸素を増量することを検討していました。
しかし、僕自身の経験から分かることがあります。あの方の酸素の機械をどれだけ調節しても、薬の組み合わせ、量をどう調節しても、多分、息苦しいという言葉はこれからもずっと続くでしょう。

そして、帰り道にこういう話が始まります。
「たばこをずっと吸っていたんだから仕方がないですよね」

こうして、病態に閉じ込められた男性の苦痛を自分の心の中で隔離します。(だって仕方ないじゃないか、苦しいのも因果応報。僕がどれだけ手を尽くしても仕方ないものは仕方ない)かつての自分もそう感じていました。若い医師と苦しむ男性の二者の関係が深くなるにつれ、若い医師は、自分の知識を最大限利用し、自分の会得している技術を全て提供してもなお苦痛を取り除くには不十分であることを心の奥底で痛感し、苦しんでいるのです。

この現場を見て懐かしく感じると共に、2つのことを思いました。

まず、医師は今の自分を完成品だと思ってはならないということです。

あと1マイル先に進む方法を考え続けなければならない。もしかしたら自分の知らない方法で息苦しさを軽くする方法があるのかもしれないと常に考えることです。例えば、昔から「酸素飽和度」と「息苦しさ(呼吸困難感)」には関連があると言われていましたが、実は関連はないという知識。そして「息苦しさ(呼吸困難感)」を軽減するために、コデインやモルヒネといったいわゆるオピオイド(医療用麻薬)や抗不安薬を使うことがあるという知識です。知識がないことは仕方がないのです。「調べてきます」「他のドクターにも聞いてみます」と言う勇気がほしい。その場に僕がいたので聞いてくれればすぐに答えます。しかし往々にして若いドクターは聞こうとしません。それは、僕は見学者であって、指導医ではないからです。立場や自分の立ち位置によって「教えて下さい」と素直に言えない医者を多く見てきました。時には、看護師や薬剤師、介護職の人たちから何かしら助言をもらえることもあるのです。その若い医師はその時点ですでに「完成品」でした。ガンダムのシャアもかつて言ってました。「認めたくないものだな・・自分自身の、若さゆえの過ちというものを・・」僕もたくさん過ちを犯しました。この男性と若い医師が良い関係になると良いなと思います。

たとえ色んなエビデンス(医学的な知見)を駆使しても、うまく息苦しさがとれるとは限らないのです。僕がこの男性を診察すればすぐに良い方法が見つかる、ということではないのです。多分どの医師が診療してもなかなかうまくいかないでしょう。でも決して「息苦しさ」がなくならなくても、毎回医師が「調べ続けます」「他の先生にも聞いてきます」「考え続けます」と患者から逃げない姿勢を見せ続ければ、患者は分かってくれます。この医師は口先だけでなく本当に自分の事を考え続けていると。こういう関係の積み重ねが、医師と患者の新しい良好な関係を生み出します。一見退屈な施設の片隅の部屋に多くの物事が隠されています。そして、その多くは僕もまだ気がついていないことでしょう。

そして、もう一つは僕が考えていた目指す夢のことです。
この出来事を通じて、僕の夢が言葉になって立ち現れてきました。
患者を心の中で隔離するのは、本当は彼ら(病人)への恐怖があるから。彼らへの憐れみ、心の中での去勢、そして見切りは、偽りの優しさにすり替わり、出力される言葉はどこか滑稽なほど無邪気になる。「元気ですか?」「大丈夫ですか?」「花見に行きましたか?」

彼らを自分から隔離したいという邪気が心にあると、言葉は飾られた無邪気さを帯びる。敏感な人はこれに感付くので、一見医療者や介護者に従順なふりをしますが、彼らは援助を全くあてにしていないことが多いのです。

病人の病態を悪趣味に語る医療者は、人間理解がないのではなく、自分との差異を明確かつ鋭敏に隔離しているだけ。病人も病態もまるごと楽しむそんな医療と臨床を創造できないだろうか。これが僕の夢なのです。

(参考文献 Abemethy AP, Lancet 2010 , Currow DC, J Pain Symptom Manage 2011 Simon ST, Cochrane database 2010, Jennings AL, Cochrane database 2001)

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2012年4月18日 (水)

今どきの在宅医療2 地域って何?

最近、地域包括ケアとか地域医療とか言われますが、実際に長く病院で勤務医として働いていると、自分の職場の住所がどこかということ以上に、あまり地域を感じることなく仕事を続けてきたように思います。患者の住所に一番近い病院が地域の病院なのかと思うほどです。院長に「地域医療に貢献し」と言われても、地域という相手が見えない以上、何に貢献したらよいのか分からず、それならひとまず病院に近い住所の患者さんには少しだけ優しくする、というのが僕のプライベートな地域医療でした。

そして先週から、開業準備のため、訪問診療を中心に活動している2つのクリニックで働かせてもらうことになり、ついに「今どきの在宅医療」がスタートしました。そして、10年「がん」「緩和ケア」「終末期医療」に関わっていた自分には見えなかった視野が急に開けてたのです。

まず昼間の明るさ。休日は外に出て日の光を浴びているのですが、勤務医時代の仕事では、平日昼間の贅沢な日の光は、当直明けか学会出張中の短い時間にしか感じることができませんでした。どうして休日と平日では日の光の柔らかさがちがうのでしょう。まるで日の光のにおいまで違うように感じます。子供の頃に感じたその日の光のにおいが、訪問診療に回るだけで、鼻に届いてきます。実は、昔々医者になってからしばらくたばこを吸っていた頃、病院内でたばこが吸えなくなったため、よく自転車置き場の隅っこで、色んな職員と日の光を浴びながら一服していました。あの時に感じた日の光も丁度今感じているやわらかさと同じ。たばこは身体に悪いし何の役にも立たないけど、あの贅沢なひとときの副産物だけは魅力的です。

軽自動車に乗り、町を走り、クルマを停め、患者さんの家まで歩く間に、町のにおいを感じます。そうですよね、地域って人なんですよね。人の気配、幼稚園の音と園児の声、訪問したマンションで通り過ぎる住民の人たちとあいさつをする、桜並木を見上げながら太陽のにおいを感じること。こういう通り過ぎていく風景の中にも確かに人の気配があり、その風景が気候と混ざりあい、気温と湿度が心地よく自分の身体に届く。神戸に来て10年、やっと地名を見ただけで頭の中でにおいが広がっていく感覚を感じました。自分が生まれ育った名古屋なら、地名を見ただけでにおいが広がったのに、どうしてこちらに来て長く暮らしているのに、無味無臭なのかやっと分かりました。地名とそこの人々、そして気候。さらに自分の新しい気持ち。それらが混ざり合ってやっと僕にとっての地域が身体の中に染み込んできたのです。

この、新しい仕事を始めて得た快感は、在宅医療の魅力と言うよりも、ただ昼間の生きた町のにおいを感じている幸福感なのでしょうか。新しい職場で感じている新鮮な緊張感と町のにおいとの融合が、これからの活動の基礎となります。でも、町のにおいは心地よいものばかりではありません。この話についてはまた後日。

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2012年4月14日 (土)

今どきの在宅医療 1 訪問診療はじまり

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今日から、10年ぶりの訪問診療。10年前三重県の病院に勤務していたときは、農村部の病院だったので、自分の外来に来ることができなくなった方には、自分が往診をしていました。当時は介護保険が丁度始まった頃でした。
新しく病院の駐車場の中に開設されたプレハブ造りの訪問看護ステーションのベテラン看護師さんとの共同作業はとても楽しく、色んな制約がある中でもどうしたら一番その状況で良い方法が達成できるか、知恵を絞って考えていました。まさにブリコラージュな医療です。当時僕は20代で、まだ体力もあり、緩和医療を知ってその魅力に興奮していました。食べられなくなったら、大容量の点滴が必要になる。だから、家に帰ってその点滴ができないとなると、何か十分ではない、できることを怠っているとそんな罪悪感にさいなまれる、そんな状況でした。緩和医療の本を読むと、腹水や浮腫があれば点滴はやめた方が良い、点滴は少なくした方が症状が少ない、そんな内容でした。十分なことが家ではできないのではないかという疑念を根底からひっくり返す知見で、「こうしなくてはならない」という自分の考えを柔軟な方向に導いてくれました。

しかし、こういったものには科学的な吟味はなくて、あくまで経験的な実感に基づいたものが多く、どちらかというと現在まで行われている医療に対して反対の立場をとる教義的な内容になることもありました。つまり「末期の患者に点滴するのはおかしい」「亡くなる間際まで化学療法するのは、患者を苦しめることだ」そして、「亡くなった瞬間から蘇生行為を始めるなんて、非人道的な事だ」
こんな教義的なフレーズは、行われている医療に疑問を感じていた医師や看護師、薬剤師の間に共感を生んで徐々に広がり、当初は「現代医療に対するアンチ」であることが緩和医療やホスピス・ケアである証のような状況でした。このような中、僕もだんだんホスピスへのあこがれが強くなり、神戸のホスピス(緩和ケア病棟)で働き始めることになりました。

そして10年のホスピスの勤務医時代は、「現代医療に対するアンチ」のやり方で働いていましたが、徐々にそれではうまくいかないことに気がついてきました。ホスピス、緩和ケアが通常のがん治療の対局(アンチ)であるということでは、何かをあきらめた人だけがホスピス、緩和ケアを受ける選択権を持つようで、そこに限界を感じたのです。ホスピス病棟から離れて他の病棟へ行っても、痛い、食べられない、息苦しいと多くの人たちは苦しんでいました。彼らに必要な医療が届くようにするには、ホスピス・緩和ケアが「現代医療のオルタナティブ」に脱皮する必要があると感じました。「早期からの緩和ケア」とか「がんになったら緩和ケア」とか言われる価値観の流布を始めたのです。でも、実際病気をした患者さんの側から見れば、自分に必要な治療を受けたい、苦しい思いを軽減したいという思いに対応して欲しいと言うだけで、「早期」とか「診断時から」とか、「緩和ケアチーム」とかそういう医療者の操作的、業務的概念は特に関係ない事なんだとつくづく思います。「私の痛みをとるのには、『緩和ケア』の人たちにお願いしないといけないの?」これが切実な本音だと思いました。

そして次第に、ホスピス・緩和ケアの人たちは、がんを扱う全ての人たちにレクチャーを始め、徐々にその広がりを見せています。僕は、ホスピス・緩和ケアの発展とアンチからオルタナティブへの変化を見守りながらも、一度「ただの医者」に戻ってみたいと思うようになりました。10年前に感じた在宅医療の良さと言うよりも、新しいことを始めてみたい、今まで培ったことはひとまず横に置いておいて、もう一度医療の原点を見直してみたいと思うようになりました。今どきの在宅医療が10年前と何が違うのか、今どきの緩和ケアが一体どうなっていくのか、また考えていきたいと思います。


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2012年4月 3日 (火)

医師としてどう育てられてきたか

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2010年に作った、「秘伝 臨床が変わる 緩和ケアのちょっとしたコツ」(青海社)という本があります。毎年小ネタを論文投稿したり、学会発表してきた僕には一番のお気に入りの本です。聖隷三方原病院の森田先生から誘われて、一緒に編集しました。
丁度昨日、関東のとある診療所に1日研修へ行ったのですが、その机にこの本が置いてありました。そこで働く先生から「面白かったですよ」と感想を頂き喜んでいました。
その時に書いた、あとがきですが、その時の本心が書いてあり、備忘録としてここに載せておきます。

あとがきに変えて自分自身が医者としてどう育てられたのかふり返ってみたい。
自分が医者になるためにどんな教えを、周りの先輩達から受けていたか、研修医を多く指導するようになり、今になって良く思い出す。医者になって最初の1年半、 脳外科医として地方の海辺にある総合病院に赴任した。そこでは、手術前から患者の体位をどう保持するのか、そしてメスから小さな道具の一つまで、どんな使い方をするのか、糸はどう結ぶのか基本を厳しく先輩達から教えてもらった。そして、そんな基本的な教えと共にいつも先輩達は、「自分なりのこだわり」を熱心に教えてくれた。そして、一つ一つの「コツ」には、先輩達の経験と思い出、そして成功と失敗の体験が、新しい「コツ」を生み出している事に気がついた。「コツ」と先輩達の「体験」が、脳外科医をやめた今でも自分の中に染み込んでいることに時々気がつく。次の4年半は内科医に転身し、農村の総合病院に赴任した。そこではあらゆる薬物の使い方、レントゲン、心電図の読み方、様々なカテーテルの手技、そして中でも夢中になった内視鏡の技能を学んだ。また同じように多くの先輩達の、「コツ」と「体験」を教えてもらった。
今、緩和医療を専門として思う。自分は後輩にそんな緩和医療の「コツ」と「体験」を伝えているかと。また、大学の医局に所属し、先輩、同僚、後輩が多くいた脳外科医、内科医の時代と違い、緩和医療に従事するようになってから、身近にはほとんど同僚がいないことに気がつく。蛇口をひねれば水が出てくるように当たり前に思っていた先輩達の「コツ」と「体験」が、今はその蛇口すら見つからない。だから、この本に書かれた日本中の先輩達、そして同僚、後輩達の「コツ」と「体験」が、多くの読者にとっての蛇口となり水となり、そして困っている患者、家族に注がれることを心から望む。

2010年5月
新緑のまぶしい六甲山の麓
社会保険神戸中央病院にて

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